50 止め処ない被害者
今日は土曜日だ。よだかさんは明日、杏落市に帰ってくる。あっという間に感じていた一週間がなんだか随分と長い。
「いち、に……さん、し」
いつものように起きてすぐ部屋の中で足形を踏み、紐を避ける訓練をしながら今日の予定を考える。何かをしようという気が全くと言っていいほど起きない。この部屋にこもってひたすら訓練ばかりする一日も悪くないだろう。今のところ提出する課題は全て終わっていて、期末試験の発表は月末だ。百太郎くんが死んでしまったのだから、また一人で試験勉強をしなければいけない。昨日琴太郎先輩に連絡を取ろうとメッセージを送ってみたが、まだ読んでもいないようだったから諦める。もうぼくに会う気はないのかもしれない。
「しち、はち、きゅう……」
また学校で一人になった。友達はいない。
中学のときに戻っただけのことだ。気にすることはない。
そもそも友達が、クラスメイトが、死んだからってどうしたと言うんだ。何があっても死んでほしくないと思えるような人達だったかと問われば、きっと否だ。馴れ馴れしくて、鬱陶しくて、苦手だったんだから。ぼくは善人じゃない。彼らが殺された責任はぼくにないが、それでも善人じゃないことは確かだ。百日草の花を手向けたのは、クラスメイトとして最低限の弔意。これくらいしなければもっと白眼視されるだろうと思ったから。
「ぼくは、悲しくなんかない」
休日のため平日よりも長く訓練に時間をかけ、身支度を整えて朝食を取る。食後に飛び魚の煮干しを齧ろうとして、いつの間にかもう袋が空に近いことに気づいた。これからランニングに出て、しばらくすれば店の開く時間になるだろう。他の食材も今のうちに買っておいた方がいいかもしれない。服をランニング用のインナーウェア、杏落高校の体操服、ウインドブレーカーに替え、財布と携帯端末だけを持ち、ランニングシューズを履いて外に出る。どんよりと重たい灰色の空が広がっていた。冷たい外気が肌を刺し、吐息が白くはっきりと見える。
「…………あれ」
外に出て、扉の鍵をかけたところで異変が目についた。すぐ隣――土竜さんの部屋の扉が、わずかに五センチほど開いている。こんな光景、今までに見たことがない。恨まれることも少なくない職業故に土竜さんは戸締りをしっかりとしている。そもそも犯罪都市の杏落市で、室内にいようがいまいが扉の鍵をかけないなんてありえないことだ。施錠されていないどころじゃない。扉が開いたまま、放置されているのだ。
胸騒ぎがする。
「土竜さん」
思わず声をかけてみた。発した後で、ぼくは自分の声が妙に震えていることに気づいた。震える。震えるってことは、怯えているのか。何に。今ぼくは何に怯え、震えている。
「土竜さんっ!」
インターホンを三回連続で押し、声を張り上げてみたが返事はない。ぼくは扉を開けて靴も脱がず中に入った。外と変わらないくらい冷たい空気。それに煙草の匂いが混ざった廊下を土足で進み、あの束ねられたケーブルだらけの部屋を目指す。
「え……?」
土竜さんは右脚を切断されていた。
ケーブルだけじゃなく、無数のファイル、新聞、雑誌、その他何かの資料と思われる紙が散乱した床に四肢を投げ出している。しかし右脚だけは太腿の辺りから完全に切り離され、転がっていた。文字通り投げ出している。近くには穴掘りにも護身にも使えるシャベルがあった。明るい茶色のフローリングが、白いケーブルの束が、酸化して黒に近い赤色の血で汚れている。土竜さんは血の気が失せたように青褪めた表情で、それでも胸が上下に動いていた。暖房も効いていないこんな寒い部屋で汗をかきながら、浅い呼吸をしている。生きている。土竜さん。お隣さん。探索屋。
「愛織か……?」
「あ……」
土竜さんが硬く閉じていた目と口を薄らと開けた。苦痛を感じている声だ。ぼくは慌てて携帯端末を取り出して、彼の傍らに膝をつく。
「ま、待っててください。すぐ救急車を」
「やめえ」
「えっ」
「救急車は駄目じゃ。警察も呼ばんでええ。八雲の連絡先はわかるか?」
「はい」
「あいつを呼べ。あと、俺が言う通りに止血してくれるか。肩が完全に外されとるけえ、自分じゃどうにもできんのんじゃ」
八雲さんと携帯端末の連絡先を交換しておいて、これほどよかったと思ったことはない。二コールで出てきた八雲さんが声を発するよりも先にぼくは捲し立てた。
「八雲さん。急いで《クルーエル》まで来てください。お願いします。土竜さんが部屋で、右脚を切られてるんです。切断されてるんです。肩も外されていて、自分で止血できてなかったみたいで、今からぼくが止血しますから……っ」
『落ち着きなさい、愛織』
そう言った八雲さんの声は穏やかで、少しだけぼくの焦燥感が和らいだ。
『今からそちらへ向かうから、お前は自分にできることをしなさい。土竜が指示する通りに止血すれば死にはしないよ。切断以外に外傷はない?』
「擦り傷や打撲が顔にあるくらいです」
『わかった。切るよ』
通話を終えてぼくは土竜さんの指示に従った。タオルを使って傷口を縛り、シャベルの柄に巻きつけてきつく止血する。外れた肩は痛そうだったが、そのままにしておくしかできない。ぼくはシャベルの柄を両手で掴んだまま訊ねた。
「何があったんですか」
「六人の男女が集団で押しかけて、会話することもなく交戦して、この有様。あれは堅気の人間じゃない。どう考えても日頃から訓練を受けとる傭兵か軍人じゃろうな。集団の奇襲には慣れとるつもりじゃったけど、見縊っとったのう……。右脚切断して、肩外して、ほとんど身動き取れんようにしてそのまま衰弱させるつもりだったかもしれん」
「でも、ぼくのクラスメイトみたいに声帯を切られてはいなかったでしょう。大声で助けを求めることはできましたよ。それに扉は開いていて、明らかに不自然でした。まるで誰かに気づかせようとしているみたいで……」
土竜さんを襲った集団は、本気で彼を殺すつもりはなかったのかもしれない。片脚を切り落とすなんて残忍な手口で痛めつけようとしただけ。犯人候補はきっと土竜さんに自分の情報を売られた人達だろう。しかしパソコンやワークステーションなど部屋にあるものは、ケーブル一本すら傷ついていないことが気になった。もしもぼくが犯人――土竜さんに自分の情報を売られて不利益を被ったという前提で――なら彼を傷つけるだけでなく、パソコンもワークステーションも壊すだろう。壊さなかったとしても、自分に有益な情報がそこにあるのなら入手しようとするかもしれない。
「その人達ってパソコンとワークステーションには何かしましたか?」
「いいや。触りもせんかった」
「じゃあ、探索屋の仕事以外で他人から恨みを買うようなことは?」
「さあな。俺を殺したいくらい嫌っとる人間がいるとしたら八雲くらいじゃろ」
「………………」
一体何の目的があって土竜さんを襲ったのか、ますますわからない。仮に通り魔のような犯行だったとしても、六人の集団でわざわざこの階まで上がってきて、土竜さんだけを選ぶものだろうか。
その後八雲さんが到着するなり土竜さんの外れた両肩を十秒もかけず整復した。他に異常がないことを確認すると土竜さんに肩を貸し、立ち上がらせる。二人の身長差はおよそ三十センチ。しかし危なげには見えない。きっとこんなときにしか見られない光景だ。
「あの、八雲さん。土竜さんの脚は」
「もう駄目だね。くっつけることはできない」
「そう……ですか」
一緒に切り取られたカーゴパンツの裾から脱がされ、タオルの上に置かれた土竜さんの右脚。冬はもちろん夏でも丈が長いカーゴパンツばかりを履いているから日に焼けず、色はかなり白い。よだかさんよりも長く、脂肪を限界まで引き絞ったスポーツ選手のように筋肉がついた脚。こうして見ると作り物なのではないかとすら思ってしまう。
「それは後でちゃんと火葬するけど、今は土竜の治療が先だ。しばらくはそこに放置しておくしかないよ。愛織、こいつの衣類をうちまで持ってきてくれるかい。なるべく多くね。あとこの部屋、ちゃんと鍵をかけてから出ること」
「あ、はい。わかりました」
「おい愛織。煙草とライターも」
「さすがにそれは駄目でしょう」
土竜さんが舌打ちをして、八雲さんが愉快そうに口元を歪め「いい子」と言ってくれた。
二人が出ていった後で、ぼくは土竜さんの部屋を物色して回った。今まで入ったことのない私室に入り、箪笥やクローゼットから衣服を取り出す。大きなドラムバッグを見つけ、その中に十着ほど衣服を詰め込んだ。鍵のある場所を聞き忘れていたことに気づいたが、すぐ私室の机に置かれていたのを見つける。机の上には瀟洒な縁がついた写真立てがあった。十歳にも満たないだろう幼い少年が、母親らしい女性に抱かれて笑い合っている。子供の頃の土竜さんと、その母親だろうか。女性は土竜さんと同じ色の髪を肩まで伸ばしている。化粧や服装が派手なせいか、どことなく水商売をしていそうな雰囲気が感じられた。少々きつい目元が今の土竜さんと似ている。
何故だか見てはいけないものを見てしまった気分だ。ぼくはすぐ部屋を出ようとしたが、玄関で気づいた違和感に足が止まる。傘立てに濃紺の雨傘が一本、すぐ近くに室内にあったものと同じシャベル、これはいつも通り。違和感は、靴箱の上にぽつんと置かれていた。
「こんなもの、前は置いてなかったよね……」
片手で握りしめると隠れそうなくらい小さな細身の電子機器、ICレコーダーだ。電源は切られている。もしも盗聴目的で置かれているのなら電源が入っているはずだろう。そもそもこんな目立つところに隠さず置いているのはおかしい。土竜さんの私物だと言えばそれで納得するのだが、なんだか気になった。いっそこのICレコーダーも持って行ってみようかと手に取ったとき、小さく折り畳んだ紙が下から出てきた。開いてみると無地の白いメモ用紙にボールペン――いや、恐らく万年筆で書かれた丁寧な文字。
「《猫の事務所》より……?」




