49 去っていく者
棺桶町の外れ。大きな門扉を中心に左右を見渡すと高い塀が長く続いている。大理石でできた縦書きの門標には柩木組という厳めしい字体と代紋らしきものが彫られていた。中にはきっと広い庭があって、錦鯉が優雅に泳ぐ大きな池や綺麗な音を響かせる水琴窟などがあるに違いない。そんな数寄屋造りの屋敷――柩木組の拠点は本当に燃えていた。
黒い煙が朦々と上がり、その中から橙色の炎が見える。屋敷を囲む門扉や塀には弾痕があるだけで燃えてはいないものの、中にある屋敷そのものはかなり燃えているのだとわかった。消防車と救急車が集まり、必死で消火と救助活動している様子を大勢の野次馬が撮影している。死者は出たのか。楪くんは無事なのか。そのことを確認したいが、一般人のぼくは当然近寄ることも許されない。人混みに揉まれながら炎が夕焼け空と同化しそうな光景を見上げていると、いきなり腕を掴まれ強く引っ張られた。
「哀逆さん」
男の声にまた報道関係者かと思ったが、どこかで見たことのある顔と目が合う。オールバックが崩れたように乱れている黒髪、ワイシャツとダークグレーのスラックス姿。左腕は袖を捲り、肘の下辺りから指先まで包帯で真っ白になっている。若干煤けた顔面にはガーゼや絆創膏があちこちに貼られていて痛々しい。
「あ、あなたは柩木組の……」
思い出した。六月に出会ったあのインテリさんだ。銀縁眼鏡がなくなってオールバックも崩れていて、すぐには気づくことができなかった。
「その腕、この火事で火傷したものですか? 顔の傷も――」
「私のことは結構です。こちらに来てください」
インテリさんが野次馬に向き直り「どけ」と低い声で言うと、さっと道が開けた。救急車が停まっている方向とは逆方向に連れて行かれ、野次馬もいない開けた場所で足を止める。夏休みによだかさんが運転していたような黒い外国車が鎮座していた。消防隊も救急隊も文句を言わない理由はすぐにわかった。その外国車の傍らにずらりと黒服の男が立ち並び、柩木組の跡継ぎである楪くんが見知らぬ老人と向き合っていたからだ。
「楪くん」
思わず声をかけると、熱のせいか赤らんだ顔がこちらを向いた。髪に少し寝癖がつき、額には解熱シートが貼られ、普段の服装とは印象が全く異なる和装だった。瑠璃紺の作務衣に墨色の半纏、足は屋敷から出たときのままなのか裸足。もしかしたらこれが彼にとっての部屋着なのかもしれない。
「ああ、きみが哀逆愛織さんか」
穏やかな声色と滑らかな口調で言って、身体ごとぼくの方を向いた老人。初めて見る顔だ。鶯色の着流しに黒い羽織を着て、白い足袋に草履を履いている。総白髪に近い頭髪は、だからと言って量が少ないことはなくふさふさとしていた。さすがに瑞々しさは失われているものの、皺のある肌も健康的な色でまだまだ活力の漲りを感じられる。右手で杖を突いている割に足腰はしゃんと伸びていた。朗らかな笑顔で近所の小学生に好かれ、囲碁や将棋の愛好会に入っている好々爺。そんな印象がある。しかし、彼の周りにいる黒服の男達を見る限り一般人ではない。
「初めまして。柩木組七代目組長、柩木榊です」
「…………」
やっぱり、そうだった。
よだかさんが以前言っていた通りの好々爺で、とてもやくざの組長には見えない。楪くんの住む屋敷が襲撃にあったという報告が入って、大急ぎでこちらに来たのだろうか。それにしては到着が早い。もしかするとたまたま孫に会うため杏落市を訪れ、到着した頃にはもう襲撃された後だったのかもしれない。
「孫の初めて惚れた相手じゃって、話は聞いとりました。一度この目で確認しておきたいと思っとったんですよ」
「え、と……」
「そんな身構えんでください。もちろん無理矢理交際を迫るようなことはしませんけえ。堅気のお嬢さんはわしらのような輩なんぞ苦手でしょう。……しかし」
からからと笑った後で言葉を区切り、榊さんは楪くんに向き直った。
「えらいことになったのう」
楪くんは何の反応も見せない。ただ無表情を保ったまま、自分の祖父を真っ直ぐ見上げているだけだ。彼の足は寒さのせいか赤くなっている。誰か一人くらい靴か、靴下や足袋だけでも用意してあげればいいのに。
「もう火は消えるじゃろうし、元々ここに住んどった構成員は残らせる。何人かは死んだかもしれんがすぐに立て直せるはずじゃ。楪、お前はうちに戻りんさい」
「え……」
ぱっ、と楪くんは目を大きく見開いた。何故だと言いたげな表情で固まる彼に、榊さんは不意に顔の笑みを消して真剣な眼差しを向ける。
「聞こえんかったんか? この後すぐわしらと一緒に実家へ帰るんじゃ。高校卒業か最短でも中学卒業まではここで生活させるつもりじゃったけど、今は一旦こっちに戻りんさい。年明けまでは杏落市に足を踏み入れることも許さんよ」
「なんで、ですか」
「今回の襲撃を仕掛けたんはどこの組の鉄砲玉でもないって、賢いお前ならわかっとろうが。こんなん異常じゃ。わしも今までに経験したことがない」
「で、でも」
ほんの少しだけ楪くんはどこか焦ったような顔でぼくを見た。すぐにまた榊さんに向き直り、今までに聞いたことのない悲痛な声で訴える。
「僕はまだここに、杏落市にいたいです。お姉さんが、危ないから」
「ぼく……?」
「お姉さんを守りたいです。好き、だから……僕にできることならお姉さんを守るためになんだってしたいです。お姉さん、このままだと、近いうちに死んでしまうかもしれない。だからここに――」
その続きは聞けなかった。榊さんが持っていた杖で楪くんを打ちつけたからだ。あまりに早い動きで避けられず、頭部へとその一撃を受けた彼は崩れるように倒れてしまう。気絶はしていないようだが悲鳴も泣き声も上げなかった。ただでさえ張りつめていた空気が緊張感を増し、少し離れた消防車の水を放出する音や野次馬の話し声がやけに大きく聞こえた。
「楪。今の攻撃を受け流すことも、避けることもできん小童にそこのお嬢さんを助けられる力があると思うんか? 身の丈に合わない無茶をすることが、果敢だと勘違いをしたらいけん。私情で行動したばかりに組全体を、あるいは跡継ぎのお前自身が危険な目に遭うかもしれんということをよう考えんさい」
榊さんが黒服の男達に目配せすると、一人の男が楪くんを優しく立ち上がらせた。彼は泣き出しそうな目でぼくを見つめた後、大人しく外国車に乗り込んだ。
「お姉さんは、悪くないです」
「えっ……」
まただ。
百太郎くんと同じことを、楪くんも口にした。どういう意味かぼくが訊ねるよりも早く車の扉が閉められる。それを見てから榊さんはぼくに向き合った。
「すみませんね、哀逆さん」
「何が……ですか」
「孫の言いたいことはようわかっとります。惚れた女のために無茶してまで行動する男を頭ごなしに否定する気はありません。じゃが、わしは楪を大切にしたいんです。あの子は柩木組の跡継ぎ以前にたった一人残ったわしの肉親ですから」
何か気の利いたことを返そうと言葉を模索したが、結局ぼくは「ええ」と呟くように言うことしかできなかった。それ以上榊さんはぼくに何かを言うことなく、彼が乗った車は棺桶町を走り去っていった。残ったのはぼくと、元々杏落市に拠点を持っていた柩木組のやくざ数人。そのやくざも屋敷の方へ引き返し、ぼく一人だけになった。一呼吸ごとに冷たく乾いた空気で肺が満ちていく。
「ああ…………また、減った」
翌朝《クルーエル》の前に赤いセダンは来なかった。久しぶりに徒歩で通学する。報道陣は減ったままだったが、中には昨日の柩木組襲撃について知っていることはないかと質問してくる人がいた。もちろん黙殺して正門を通った。
昼休みに五人の女子生徒が一年四組の教室を訪れた。名前も顔も知らない。ぼくが弁当箱を片付けようとしているところにずかずか近づいてきたかと思うと、一人がいきなりぼくの弁当箱を素早く払った。間一髪で床に落ちる前に掴む。すると今度は別の女子が苛立たしそうに机の脚を蹴ってきた。五人分の視線がぴりぴりとした悪意を伴い、ぼくに集まっている。溜め息をつきたくなったが堪えて訊ねた。
「何をするんですか」
同じ一年生の可能性もあるが、先輩かもしれないため自然と敬語になる。
「……クラスメイトが全員死んだってのにちっとも悲しそうじゃないんだね」
最初に弁当箱を落とそうとしてきた女子が言った。
「あんた、百くんとは随分仲良さそうだったじゃない。昼休みもよく構ってもらえて、移動教室も一緒だったでしょ。好きだったんじゃないの?」
「ええ、好きでしたよ」
「だったら!」
突然彼女は声を荒げ、周囲の四人も少しだけ驚いたようだった。
「どうしてそんなに平然としていられるんだよ! ……あの事件が起きた日、うちの担任も学校来てたんだけど、あんたは職員室にクラスメイトが殺されてること知らせに来たとき全然悲しそうな顔見せてなかったって言ってた。今年から杏落市に来たばかりのくせに、どうしてそこまで冷徹になれるんだよ。ねえ、本当にあんたが犯人なんじゃないの?」
「色んな人に疑われてるんですけど、ぼくは犯人じゃないですよ」
「ならもっと悲しんだらどう? 弟の百くんが死んで、琴くんがどれだけ悲しんだかわかってないでしょ。東京での葬儀が終わって、もう忌引きも明けたはずなのに、まだ学校に来てないんだよ」
確かにあの日から琴太郎先輩からの連絡は一切来ていない。葬儀のため東京に帰っていたことも知らなかった。
「あと昨日の柩木組が襲撃されて火事になった事件、あれもあんたが絡んでるんじゃない? 最近は登下校のとき送迎までされてたじゃん。文化祭のときも一年四組のお化け屋敷にやくざみたいな人が来てたって聞いたし、知り合いだったんでしょ」
やっぱりだ。
言われるだろうなと思っていたことが的中した。それでもぼくが口を開けばまた新たな火種になってしまうかもしれない。黙っていると別の女子が言い出した。
「きみがおらんかったらよかったんよ」
その勢いに乗ってまた別の女子が口を開く。彼女達を黙らせることは簡単だ。全員喧嘩慣れしているようには見えないうえ、こうやって集団にならないと行動できない人の強さなんてたかが知れている。一発殴るか蹴るなりすれば自分達の教室に戻ってくれるだろう。だが、ぼくはまだ直接手を出されたわけじゃない。先に暴力を振るえばたちまちぼくが悪者になってしまう。
「おいクソガキども、何してやがるんだ」
教室の扉が荒々しく開き、串山先生が入ってきた。途端に短い悲鳴を上げて五人は後ろの扉に向かって駆け出したが、そのときにはもう串山先生が鞭を振るっていた。
「相変わらず、女子相手でも容赦しませんね……」
「ふん。最近は一日に鞭を振るう回数が増えてやがる」
「そうなんですか?」
女子五人が去った一年四組の教室で、串山先生とぼくは二人きりになっていた。もう少ししたら五限目の数学Aが始まる。
「教師としてはあんまり認めたくないんだが――昔ヶ原百太郎が死んで、兄の琴太郎が学校に来なくなったせいだろうな。学年別で一番強いと言われた不良二人がいなくなったせいで、不良どもの統率が取れなくなってるんだ。あいつらは別に番長みたいに他の不良生徒を舎弟として仕切っていたわけじゃねえ。それでも一番強い奴が学校にいれば、それだけで他の奴らがある程度大人しくなる。三年の災藤は頻繁にさぼるか早退するせいで使えねえし、俺達教師の仕事が増えるだけだ」
「………………」
「そう言えば、棺桶町には近づくなよ。あそこも柩木組が襲撃にあった影響で今治安がさらに悪くなってるらしい」
舌打ちをする串山先生に、ぼくは思わずスカートの裾をぎゅっと握りしめた。一年四組の生徒がぼく以外皆殺しにされた事件は、こんなことにまで影響を与えている。
ただ生き残っただけのぼくは何も悪くないはずだ。
そう何度も自分に言い聞かせる。一年四組の生徒はたとえあの日殺されていなかったとしても、いずれは全員死ぬ人間だったのだから。ぼくだっていつかは死ぬ。一年四組の生徒は、きっと誰も悪くなかった。そしてぼくも悪くない。




