48 物々しい敵
ぼくの登下校は柩木組が送迎してくれるようになった。だからと言って、ぼくに無遠慮な質問を浴びせてくる人がいなくなったわけではない。それどころか、報道陣に囲まれるよりもさらに面倒で危険な出来事が起きるようになってしまった。
「お前のせいで娘は死んだんだ!」
ぼくに叫んだのは、見知らぬ大人達だ。しかし一年四組の生徒を息子や娘に持っていたことはわかる。大事な子供を無残に殺され、その犯人はまだ見つからない。その怒りは理不尽なことにぼくへと向けられた。唯一傷もなく平然と生き残った子供がいることが悔しいのか、本気でぼくが犯人だと疑っているのか、とにかく誰かに怒りと悲しみの矛先を向けずにはいられないのか。
事件の日から三日が経ったこの日、ぼくは買い物帰りに襲われた。
右手にエコバッグ、左手に商店街の福引で当てた六等の小麦粉二キロを持ち、夕日に照らされた道を歩いているときだった。突然コートを纏った三人の男女がぼくに近寄ってきて道を塞いだ。全員四十代から五十代くらいの大人で、明らかな敵意を目に宿している。通行の邪魔をしている三人に、周囲を行き交う人々は迷惑そうな顔をした。二人いるうち一人の女が赤く彩った唇を開く。
「哀逆愛織、よね」
ここ数日の間に何度も同じように名前を呼ばれていたぼくは、溜め息交じりに「そうですけど」と投げ遣りに返した。直後に唯一の男が肩にかけていただけの分厚い灰色のコートを落とし、周囲の人間がざわめいた。男がコートの中で握っていたものは散弾銃だった。何人かが悲鳴を上げて逃げ出し、何人かが地面に伏せ、それ以外の人は立ち止まってこちらを凝視している。クレー射撃でもやっていたのか、男は慣れた手つきで散弾銃を構えた。しかし人間に向けるのは初めてなのだろうか。ぼくに向けられた銃口は少し震えている。
「逃げようとすればすぐに撃ってやる。大人しく言うことを聞け」
「……はい」
「そこの路地に入るんだ」
男がそこの路地と言ったのは、もう閉店している小さな時計屋と喪中で休業する旨を貼り紙で知らせている個人経営の喫茶店に挟まれた道だった。大人が二人並んでぎりぎり通れるくらいの広さで、中は薄暗い。上を見るとちょうど左右から伸びた屋根が重なり、空の色も見えない。ぼくは行き止まりのところまで歩いて、振り返った。散弾銃を構える男以外に、二人の女がナイフを両手に握りしめている。
「何の用ですか」
ぼくが訊ねた瞬間、三人は爆ぜたように大声で喚き出した。要約すると三人とも殺された一年四組の生徒を子に持つ親で、自分達の息子や娘が死んだのはぼくのせいだと思っているらしい。これからの将来が楽しみだった子供の命をいきなり奪われて、報道陣は悲しみに暮れる時間すら与えず話を聞かせてほしいと押しかけてくる。警察はまだ犯人を捕まえてくれない。どうして自分達の子供が殺されたのか。
「私達はこんなにも苦しんでいるのに、何故お前一人だけが生き残ったんだ!」
「知りません。犯人が捕まってから訊いてみればいいじゃないですか」
「そんなこと言って、実はあなたが犯人なんじゃないの!?」
「三途川町に住む女性があの朝ぼくに飼い猫を届けられたことを証言してくれましたし、ちゃんとしたアリバイはとうに成立していますよ。大体ぼく一人で三十一人を皆殺しにできるわけないでしょう」
「うちの子と友達だったんじゃないの!? どうしてそんな平然としてられるのよ!」
「友達……だったかもしれません。でも死んだ人間は友達だろうと他人だろうと、つまり死んだだけのことです」
それまで目に涙を浮かばせ、怒り心頭といった様子で喚いていた大人達の顔色が蒼白になった。これはもう精神が怒りの段階を通り越している。この際だから言いたいことを全部言ってしまおう。
「人間は遅かれ早かれ誰もがいつか死にます。この例外は人を殺して人から殺されるのが宿命じみた不死身の殺人鬼くらいでしょう。でも、あなた方の子供は全員等しく人間でした。必ず死ぬ存在です。だから――たまたま自分の子供が早く死んだだけで、いずれそのうち死ぬぼくに文句を言わないでいただきたい」
一拍の間を置いて女が叫びながらぼくに突っ込んできた。ナイフが腹を狙って突き出されたと同時に、ぼくは小麦粉の入った袋を高く持ち上げた。どすっ、と刃物が袋を通る音と手応え。女はすぐナイフを引き抜き、白い小麦粉が飛散した。ナイフの刃が引き抜かれるときに袋の穴を広げてしまったらしい。女は立て続けにぼくを刺そうとしたが、動きは全然慣れていない雑なものだった。ぼくは小麦粉の袋を盾に彼女を突き飛ばし、別方向から迫ってきた女の腹部を蹴った。男は散弾銃でぼくに狙いを定めていたが、仲間二人がぼくのすぐ近くにいるためすぐに撃つことはできず焦っている。ぼくは息を止め、男に向かって小麦粉の袋を投げつけた。三人が咳き込んでいる隙に横を全力で駆け抜ける。決して広くない路地一面に二キロ分の小麦粉が舞い、辺りは濃霧に包まれたかのように真っ白。目眩ましだけでなく、これなら銃も撃つことができない。我ながらいい判断だと路地から飛び出した直後「くそっ! 待ちやがれ!」と男の罵声が聞こえ、散弾銃の大きな銃声が響く。しかし狙いが適当だったのか、複数の銃弾が壁に当たる音がしたその瞬間。
轟、と。
夕日によく似た色の爆発が起こった。
「ば、馬鹿じゃないのか……あの人」
被害の及ばないところまで来ていたことに安堵し、ぼくはほうと息を吐いた。狭い路地に可燃性の細かい粒子――小麦粉があれだけ舞っている状態で火花が散るようなことをすれば、粉塵爆発が起こる。原理は単純だが威力は侮れない。それに今は冬だ。今朝見た気象予報では乾燥注意報の文字があった。空気が乾燥していると火事も起こりやすい。そんな知識も持っていなかったのか、頭に血が上って冷静な思考を失っていたのか。
「何、今の」
「爆発か?」
「爆弾?」
「すごい炎見えたよな」
「なんだなんだ」
「どうした。何かあったん?」
「おい。あんた、大丈夫か」
爆発を目撃した通行人が野次馬として集まってくる。ぼくは髪や服についた小麦粉を叩き落としながら、無事なエコバッグを抱えて走り出した。これでまた警察に呼び出しを受けるのかもしれないが、今はもうさっさと《クルーエル》に帰りたかった。
「今後は報道陣だけじゃなく、遺族にも気をつけないと」
最近、憂鬱なことばかりだ。
よだかさんは今頃《天つ乙女島》で楽しく暮らせているだろうか。あの殺人鬼が杏落市に戻ってくるのは三日後だ。もしもその間にぼくが死んだらどうなるのだろう。
殺人鬼は一度殺さないと決めた人間は絶対に殺さない。よだかさんはぼくと初めて会った日、言っていた。ただ殺さないだけじゃなくて、なるべく相手が天寿を全うできるように尽くすんだ――と。
「………………」
想像してみる。もしもよだかさんがここに戻ってきたとき、ぼくの死体を見つけたら、一体どうするのだろう。笑うかもしれない。怒るかもしれない。しかし涙を流して悲しむよだかさんの姿はどうしても想像できなかった。
翌日の放課後、校舎を出ると正門の報道陣が随分減っていた。まだ赤いセダンは来ていない。朝はいつも通りにやってきたが、後部座席に楪くんがいなかったことを思い出す。運転手に訊ねてみると「若は風邪をひいてしまいまして、療養中です」とのことだった。もう冬だから風邪もひきやすくなるだろう。だが、インフルエンザやノロウイルスに罹るよりはよほどいい。帰りは寄り道をさせてほしいと頼んでみようか。見舞いの品として果物を買って、許可が下りるなら柩木組の屋敷にお邪魔させてもらいたい。夏休みに楪くんはぼくの見舞いに来て林檎を切ってくれた。そのお返しができるかもしれない。
「…………遅いな」
すっかり冷えて赤くなった手を擦り合わせ、携帯端末で時刻を確認すると四時十分。普段なら必ず四時までには来るのに、どうしたのだろう。グラウンドで練習する野球部の声を聞きながら、滅多に使われることのない鉄棒で懸垂するのにも飽きてきた。こうなったら一人で歩いて帰ってしまおうか。今日はもう報道陣の数も少ないから、上手く躱せられる。正門に向かって歩き始めたとき、ぼくは報道陣の中に以前《クルーエル》の前で声をかけてきた二人組の男がいることに気づいた。二十代前半の方がぼくに駆け寄ってくる。
「哀逆さん。柩木組のこと、聞きました?」
話しかけられても無視しようと思っていたぼくだったが、思わず足を止めてしまう。
「柩木組がどうかしたんですか」
「棺桶町の屋敷が襲撃されたんだとよ。ほんの少し前に」
四十代半ばの方がぼそりと呟くように言った。
「しゅう、げき……」
柩木組が襲撃された。やくざなんだから抗争をすることだってあるだろう。それなら襲撃されることだって決しておかしくない。普通とまでは言えないが、決して不思議なことじゃない。それなのに不快な胸騒ぎがする。胸の中で無数の羽虫が飛び回っているかのよう。風邪をひいて学校を休んだ楪くんも屋敷にいるはずだが、彼は無事なのだろうか。
「なんでも男数人が屋敷に侵入して、いきなり銃撃戦になったって話ですよ」
「火炎瓶を持った奴もいて火の手が上がったそうだ。通報したのは巡回中だったトリガーハッピーポリスで――」
ぼくの身体は考えるよりも先に駆け出していた。
十五歳のぼくはまだ身体が完成し切っていない。それでもわかっているつもりだ。自分の肉体のポテンシャルを最大限に発揮する方法を。どういうふうに動けば最も効率がいいのか、どういうふうに力を込めれば最も作用するのか。専門的にはスポーツ医学なんて言うのかもしれないが、難しいことはよくわからない。難しいことを頭で理解するのが苦手なぼくに、兄さんはこれらを身体で覚えさせてくれた。だから同年代の女子には体力テストで負けない自信がある。男子にも、一般的な成人にもだ。それでも今、ぼくはこれ以上ないほどの無力感に襲われている。
火の手が上がった。つまり火炎瓶で放火されたということだ。柩木組の屋敷が襲撃され、放火された。いくら犯罪都市の杏落市でも、やくざでも、やり過ぎじゃないのか。誰かが言っていた。憎い相手にするべきは単なる暴行や殺人よりも放火だと。怪我をしたり命を落としたりするだけじゃなく、火災で財産を失ってしまうからだ。
「ど……っ、して……!」
走りながらぼくの頭は我ながら理不尽なことを考える。
どうしてだよ、柩木組。
どうしてこんなときに襲撃なんかされたんだ。




