40 辛味苦味甘味
オツベルさんと訪れた料理店は、商店街の中に存在する中華料理店だった。席に座った途端、オツベルさんはすぐに注文を始めた。麻婆豆腐、担々麺、回鍋肉、青椒肉絲、宮保鶏丁、酸菜魚、炒飯、八宝菜、杏仁豆腐、胡麻団子と次々メニューに書かれた漢字だらけの料理をウェイターに告げる。こんなに頼んで食べ切れるのかわからないが、ぼくは注文を全てオツベルさんに任せた。赤色を基調とした店内を見回していると、注文を終えたオツベルさんが話しかけてくる。
「この店、初めてか?」
「はい。中華料理店はあんまり行ったことなくて」
「俺様は自分が辛い物好きだから、四川料理目当てでよく行くんだ。三日前にここ見つけて食事してみたら大当たりだと思ったんだよ。あ、でも杏仁豆腐と胡麻団子は黒猫ちゃんが全部食べてくれよ。俺様は食べられないから」
「ああ……甘い物が苦手だって言ってましたよね」
「オツベルさん、かなりの辛党だからな。甘ったるいものを食べると身体が拒絶反応起こすんだよ。今まで食べたことのある菓子類はスナックを除けば薄荷味のドロップだけだ」
そう言ってオツベルさんはレインコートのポケットからピルケースのようなものを取り出す。蓋を開けると、真っ白なドロップが入っていた。薄荷味のドロップだろう。
「四川料理以外だったらピーマンやゴーヤを使った料理とか、あとは珈琲かな。そういう苦い物も結構好きだぜ」
「大人っぽいですね」
率直な感想を言うと、ドロップの入ったピルケースをポケットに戻してオツベルさんは笑った。食べ物の嗜好に反して、子供っぽい笑い方だ。
「珈琲にはミルクも入れないんですよね。マクドナルドで食事したときもそうでしたし」
「ああ。黒猫ちゃんはどうなんだ」
「ぼくは砂糖もミルクも入れますよ。ブラックも飲めないことはないですけど、あれが美味しいとは思えませんから」
やがて料理が運ばれてきて、二人で使うには少々大きいと思っていた赤いテーブルが瞬く間に覆い尽くされた。あと一つでも品数が多ければ、補助のテーブルが追加されることになっていただろう。
「オツベルさんって普段からこんなに食べるんですか?」
「いいや、違うよ。大好きな中華料理を前にしたときだけ、俺様の胃袋は拡張される」
こういうところも似ているのか。よだかさんも普通の料理はぼくと同じくらいの量しか食べないが、甘い物に限っては和洋中問わずとんでもない大食漢になる。
「いただきます」
まずは麻婆豆腐を皿に取り分けて食べてみたが、なかなかに辛い。しかしすぐに水が欲しくなるほど激辛というほどでもなく、ちゃんと美味しい。豆腐さえ用意すればすぐに作れるレトルトの味とは全然違う。オツベルさんの舌は確かなようだ。
「どうだ、黒猫ちゃん」
「美味しいです」
「だろ。次はこっち食べてみろよ」
ぼくはオツベルさんに勧められるがまま、中華料理を小皿に取り分けて少しずつ味わう。オツベルさんが食べられない杏仁豆腐と胡麻団子も、辛くなった口を休めるにはちょうどいいくらいの甘さで美味しかった。
中華料理店を出て、ぼくはオツベルさんに頭を下げた。
「ご馳走様でした。オツベルさん」
「無事黒猫ちゃんに恩返しができてよかったぜ。これでお相子だな」
「はい。あ、オツベルさんってまだ杏落市にいるんですか? 今月の三十一日にぼくの高校で文化祭が開かれるんです。都合がよければ、暇潰しにでも来てください」
「三十一日か……」
オツベルさんは眉間に皺を寄せた。小さく唸っていたかと思うと、ぼくと正面から目を合わせて言う。
「悪い。俺様、明日帰る予定だからその文化祭には行けないんだ」
「なら、仕方ないですね」
「そうだ。黒猫ちゃん、明日の午前中って暇か?」
ぱっと顔色を変えてオツベルさんが訊ねた。ぼくが頷くと、彼の顔は嬉しそうに綻ぶ。
「じゃあ、よかったらここに来てくれよ。午前中ならいつでもいるから」
手渡されたのは折り畳まれている一枚の紙だった。開いてみると、揺籠町にある立体駐車場の名前と住所が黒いボールペンで書かれてあった。地下二階、白くて大きなキャンピングカー、という添え書きも。これは何なのか問おうと顔を上げたとき、もうオツベルさんの姿はなくなっていた。
翌日、ぼくは雑貨屋でオツベルさんへの餞別――と言うのが正しいかよくわからないが――として渡すための品を探した。あの人を喜ばせるには猫の雑貨がいいだろうと思い、一時間近く悩んだ結果白猫が描かれている花紺青のブランケットを買った。まだ少し早いかもしれないが、寒い季節になれば使ってくれるだろう。
「プレゼント用に包んでいただけますか?」
レジの店員に品物を出してお願いしてみると、笑顔で「はい。プレゼント用ですね」と頷いてくれた。ブランケットはチョコレート色の袋に入れられ、その上から赤いリボンで綺麗にラッピングされる。ぼくは雑貨屋を後にして、オツベルさんが指定した立体駐車場に徒歩で向かった。地上は五階、地下は二階まである駐車場だ。無数の車でいっぱいな地上一階から中に入り、階段を下りて地下二階に行くと車の数もまばらになっている。靴音がよく反響する広い駐車場を歩いていると、一際大きな車が見つかった。白いキャンピングカーだ。
「オツベルさん」
名前を呼ぶと予想以上に声が響いた。直後、後部座席の扉が開いていつものレインコートを着たオツベルさんが出てくる。
「黒猫ちゃん。来てくれたのか」
「はい。このキャンピングカーって……」
「俺様の車兼ホテル。ほら、入って入って」
「あ、お邪魔します」
初めて乗ったキャンピングカーの内装は、随分と小奇麗で快適そうな印象だった。扉から入ってすぐ右手には椅子と机が置かれ、その向こうがキチネットのようになっている。扉の左側、車体の奥に相当する場所にはテーブルとベッドの代わりにもなりそうなソファーがあり、白いカーテンが後ろの窓に取りつけられていた。運転席と助手席は半回転できるらしく、こちら側を向いている。全体的に白を基調とした空間で、ところどころに可愛らしい猫のストラップやぬいぐるみが飾られていた。
「あの。これ、どうぞ」
「ん?」
ぼくが差し出した袋をオツベルさんは不思議そうな顔で受け取った。そしてすぐにリボンを解き、袋を開けて中身を手に取る。
「今日でお別れですから、何か餞別の品というかお土産になるものを渡したいと思って。寒いときに使ってください」
「黒猫ちゃん……!」
畳まれていたブランケットを広げ、オツベルさんは大きく見開いた目を輝かせた。
「ありがとう。大事に使わせてもらうからな」
「はい」
よかった。猫の雑貨なら基本的に外さないだろうと思っていたが、それでもこうして喜んでもらえると嬉しい。
「ちょっと待ってろ。珈琲淹れるから」
「お構いなく。帰る時間は大丈夫なんですか?」
「構うよ、客なんだからな。それにまだ十時にもなってない」
オツベルさんは理科の実験器具じみたサイフォンを使い、珈琲を淹れてくれた。やっぱり珈琲好きの人は淹れ方にもこだわるのだろうか。それにしても車の中で火や水道を使えること自体、初めて見るぼくにとっては驚きだ。
白い無地のカップに注がれたいい香りの珈琲が二つ、シュガーポットとミルクピッチャーが一つずつテーブルの上に置かれた。オツベルさんは当然のように何も入れず、真っ黒なままの珈琲を飲む。ぼくは砂糖とミルクを入れてよくかき混ぜた。珈琲の良し悪しは全然わからないが、いい味だと思った。
「最近は恐喝に遭ってないですか?」
「もうあのときのことは忘れてくれ」
苦笑するように言って、オツベルさんは続ける。
「あれ以来はなるべく人気のない道や場所は避けるようにしてるし、誰かにぶつからないよう気をつけて歩いてる。恐喝されたのはあの初日だけだぜ。人間は考える葦であるって誰かが言ってただろ。オツベルさんは人間なんだからな」
「そうですね」
「ところで黒猫ちゃん。文化祭では何をやる予定なんだ?」
「お化け屋敷です。ちょうどハロウィンの日なので」
「へえ。クレープとかフランクフルトとかを売るんじゃないのか」
「そういうのは二年生からじゃないとやらせてもらえないんです。食べ物は下手すると人を殺せますからね。中学生や高校一年生なのに文化祭で食べ物を扱えるなんてきっと相当緩い学校か、フィクションの中だけでしょう」
「ああ、なるほどな」
そんな雑談を続けているうちに、何故か瞼が重たくなってきた。この、下に落ちていきそうになる感覚は紛れもない睡魔だ。眠い。しかし昨夜は特に遅くまで起きていたわけでも、今朝早起きし過ぎたわけでもない。それなのに、この急な眠気は一体なんだ。
「どうかしたのか、黒猫ちゃん」
オツベルさんがぼくの異変に気づいた様子で小首を傾げる。まさか、彼が何かを盛ったのか。しかしそれは考えにくい。今ここで飲んだ珈琲は同じ一つのサイフォンで淹れられたもので、ぼくが先にカップを選んだ。そしてオツベルさんが飲んだのを見てから、ぼくも砂糖とミルクを――。
「…………え?」
おかしい。
オツベルさんは昨日、苦い珈琲が好きで砂糖もミルクも入れないと言っていた。甘い物は苦手だと、映画を見に行ったときも言っていた。実際に今彼が飲んでいる珈琲はブラックだ。それなら、何故。
「オ、オツベルさん」
「なんだ」
「どうして、あなたのキャンピングカーなのに、シュガーポットとミルクピッチャーなんてものが、あるんですか……?」
するとオツベルさんは突然真顔になって、次の瞬間には笑みを浮かべていた。今まで見てきた無邪気そうな子供の笑顔じゃない。どこかあくどい、大人の含み笑いだ。
「気づくのが少し遅かったな。いくら杏落市で半年近く過ごしてきたと言っても、やっぱり一般人か」
彼が言い終わるよりも先にぼくはソファーから腰を浮かし、扉へ手を伸ばした。しかし寸でのところで襟首を勢いよく引っ張られ、仰向けに倒される。頭を打ちつけた痛みで一瞬だけ眠気が飛んだが、一瞬だった。すぐにまた強烈な眠気が瞼を鉛のように重くさせる。身体が、上手く動いてくれない。
「甘いよ、黒猫ちゃん」
そんな嘲笑う声が頭上から聞こえたとき、ぼくの視界は完全に閉じた。




