39 出し物提案と刀とビー玉
しんとした教室に鋭い鞭の音が鳴り響いた。鞭の先が音速を超えることにより、衝撃波が生じた音だ。ずっと黙っていた串山先生の苛立ちを隠そうとしない声が続く。
「クソガキども。いい加減挙手して発言しろ」
教壇の上に立つ学級委員長二人の表情は焦りを見せていた。もう四限目が開始して三十分以上経っているが、残念なことに出し物の案は三つしか出ていない。
写真展示。
動画上映会。
モザイクアート。
これは全て学級委員長の二人が提案したもので、他のクラスメイトはまだ誰一人として発言をしていなかった。そのことに串山先生は苛立っているらしく、教室の扉付近で先ほどから頻繁に鞭を鳴らしている。
「えっと……じゃあ今から指名していくので、なんでもいいので提案してください」
秋ちゃんがそう言って、ただでさえ張りつめていた空気がさらに緊張感を増した。もう三つも出ているんだからいいだろ、これ以上増やす必要があるのか。きっと皆そんなことを考えているのだろう。ぼくも同じだ。ほとんどの生徒が軽く俯く中、秋ちゃんは視線を巡らせて――ぼくと目が合った。
「哀逆さん。何かありませんか?」
「え……っと」
指名されたからには何かを言わなくてはならない。ぼくは席から立ち、必死で頭を働かせる。結局ぼくは昨日のうちに何も考えつかず、人任せにしようと思っていた。その結果がこれだ。黒板に書かれているのは三つの案と文化祭の開催日。杏落高校では一般公開をせず体育館で行われるステージ発表のみの一日目、体育館だけでなく教室やグラウンドも使って一般公開をする二日目に分かれている。十月三十日と三十一日。確か、十月三十一日はハロウィンだったはずだ。ハロウィン。ハロウィンと言ったら仮装、お菓子、ジャック・オ・ランタン、そして。
「お化け、屋敷……」
「えっ。お化け屋敷?」
ぼくが呟くように言ったものを秋ちゃんが聞き返す。ぼくは頷いてとっさに思いついた内容を喋った。ちょうど一般公開の日は十月三十一日でハロウィンだから、それに合わせて異国情緒のあるお化け屋敷にしてみたらどうか。すると意外にも他の生徒から反響があり、お化け屋敷と並行してダック・アップルもやってみたらいいのではないかという意見が出てきた。水を入れたバケツやたらいに林檎を浮かべ、手を使わずに口で銜えて取るハロウィンのゲームらしい。しかし食べ物を扱うことに学級委員長二人が悩んでいると、それまで黙っていた串山先生が口を開いた。
「その林檎って、調理せずに生でいいんだろ。それもその場で料理として客に食わせるんじゃなく、景品として持ち帰らせるならぎりぎり許されるだろうよ」
多数決を取った結果、ぼくの提案したお化け屋敷が一年四組の出し物として決まった。今後は準備のため道具か衣装を作る二手に分かれることとなったが、裁縫がそれほど得意じゃないぼくは道具制作のグループに入った。今日から放課後か昼休み、とにかく空いた時間に美術室で作業をすることになる。
「めーちゃん、昔ヶ原くんがさぼらんようにしてくれる? うちらからはよう言えんけえ」
四限目が終わった後で、同じグループの女子からそう頼まれてしまった。道具制作のグループには彼以外にも不良生徒が入っているのに、何故百太郎くんだけなのか。ぼくがそれを訊ねると彼女は「昔ヶ原くんがさぼらんかったら、なんとなく他の人もさぼらんと思うんよ」と苦笑した。なるほど。確かに一年生の中で最強と名高い百太郎くんが作業に参加していれば、他の不良も言うことを聞くかもしれない。
「わかった。首根っこ掴んででも連れていくよ」
「ありがとう」
この日の放課後、さっさと帰ろうとした百太郎くんとぼくは中庭で軽く一戦交える羽目になった。そして本当に彼の首根っこを掴んで美術室へ連行してきたぼくに、すでに集まっていたメンバーは絶句していた。最初は女と遊ぶ時間が減ると不満げだった百太郎くんだが、時間が経つにつれ制作を楽しむようになってきたのは幸いだろう。彼以外の不良生徒も渋々ながらも作業をやってくれた。
黒喰請負事務所に訪れたとき、時刻はいつもより一時間遅れていた。しばらくは文化祭の準備で遅れて来ることを伝えても、よだかさんは「ああ、別にいいぞ」と言っただけで、たいして気にした様子はない。それよりもよだかさんは、ぼくが事務所に来たときから手にしていた物騒なものに夢中のようだ。
「よだかさん。なんですか、それは」
「見てわからねえのか。日本刀だ。言っとくが、よくできた模擬刀じゃねえぞ」
「どうしてここに日本刀があるんです」
「昼間に来た依頼者が置いていったんだよ」
すらっ、と黒塗りの鞘から銀色に輝く刀身が抜き出される。喪服姿のよだかさんが持つ姿はなかなか様になっていた。和装でもすればもっと似合うだろう。音もなく刀を鞘に納め、よだかさんはそれをテーブルの上に置く。その横には唐草模様の風呂敷包みがあった。
「これを秘密裏に預かっていてほしいって依頼だったんだ」
「そんな依頼が来るんですね」
「依頼者が理由を話さなかったから、詳しいことは不明だ。期間は一ヶ月。その間の手入れは怠らずに、用意した道具を使ってやってくれと言われた」
よだかさんは風呂敷包みを解き、中に入っていた箱の蓋を開ける。ぼくには見慣れない、日本刀の手入れに使うのだろう道具が出てきた。
「目釘抜き、打粉、拭い紙、油、油塗紙だ。この日本刀は比較的研いで日が浅いらしいから、十日に一度は手入れが必要になる。とりあえず俺の部屋に保管しておくか」
今回の依頼、さすがにぼくは手伝えない。こういう刀の手入れは素人がやると手入れする前より悪くなってしまうと聞いたことがある。よだかさんは日本刀と手入れ道具を持って、私室に消えた。ほどなくして戻ってきた彼の手には、透き通るような水色のラムネ壜が二本。夏休みの間もよだかさんがよく飲んでいたものだ。
「またラムネですか」
「飲むだろ」
まるで有無を言わせない言い方で一本のラムネ壜を差し出される。すでに栓は抜かれていた。もう何度目かわからないが、ラムネは嫌いじゃないから素直に礼を言って受け取る。
「最近は平和だな、チェリーガール」
殺人鬼のくせによく言う、とは口に出さない。
「杏落市においての平和って、どんな状況なのか未だにわかりません。ここへ来るまでに車とバイクが激突した光景と、銀行が強盗に遭ってる現場を見かけましたよ。多分銃撃戦になって、トリガーハッピーポリスが嬉々として活躍すると思います」
「けど、少なくとも今ここに来る依頼は平和なものばかりだろ。暴走族を撃退することも、強姦魔に落とし前をつけることも、悪趣味な倶楽部に潜入することもない」
「……そうですね」
確かに今は比較的落ち着いている。ぼくの身近で起きていることも、旅行者のオツベルさんと知り合ったり、学校の文化祭が近づいていたり、そういう平和な日常だ。
だからこそ、少しだけ不安になる。
平和であることを喜びたいが、これが嵐の前の静けさじゃないのかと思う自分もいる。杞憂で済めばいいのだが、残念ながらぼくは未来を予知する力などない。精々これまでと変わらず、身体を鍛えて気を緩めないようにしなければ。
「愛織。飲み終えたらその壜寄越せ」
「わかってますよ。もうちょっと待ってください」
ばきり、とガラスの砕ける音がした。たった今よだかさんが飲み終えた、ラムネ壜。その飲み口のすぐ下辺りをよだかさんが強く握ったからだ。砕けたガラスの破片が刺さり、男であるにも関わらず白魚のような美しい手から赤い血がラムネ壜の側面を伝う。しかしよだかさんは中から取り出したビー玉を手の上で転がし、無邪気な笑みを浮かべている。ラムネ壜の栓になっていたビー玉は、壜の色と同じ綺麗な水色だ。
「飲み終わりましたよ」
「ああ」
ぼくが空になったラムネ壜を渡すと、また同様に素手でそれを割った。早くも塞がっていた傷口がまた開く。よだかさんは血塗れになった手と二つのビー玉を洗いに私室へ行き、砕いたラムネ壜二本を片付けた。そして私室からフルート型のシャンパングラスを持ってきて、これまで彼がラムネ壜から取り出したビー玉を全て入れる。その数、十個。最後の一つはぎりぎりグラスの中に収まった。
「ビー玉っていいよな」
ほう、と溜め息をついてよだかさんは言う。
「店でいくつかまとめられて売ってあるビー玉より、ラムネ壜に入ってるビー玉の方がよっぽど魅力的に見えるんだよな。多分、一個だけ壜の中に閉じ込められてるってのがいいんだろ。それだけで特別な感じがするから宝物みたいに思える」
たかだかラムネ壜に入っていたビー玉を、そんなふうに愛でるなんて本当に純朴な少年のようだ。依頼者が来る気配はなく、よだかさんはビー玉に見入っている。手持ち無沙汰になったぼくは携帯端末の電源を入れてみた。オツベルさんからのメッセージを受信している。見ると、いい店が見つかったから金曜日の午後六時半に会えないかという内容だった。場所は映画を見に行った斬崎町で、ここでの仕事を終えた足でそのまま行けば間に合う距離だ。いいですよ、と返信して電源を切る。よだかさんはビー玉入りのシャンパングラスを飾り戸棚の中、空いていたところに置いて満足そうにしていた。
とりあえず今は、この平和な時間ができるだけ長く続いてくれればいい。




