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03 杏落高校

 闇の中を彷徨っていると悪魔と遭遇し、ぐつぐつと煮え立つ青いスープの大鍋に放り込まれる――そんな怪奇的な悪夢を見た。頭に生えた山羊のような角や背中から広がる蝙蝠じみた羽根を持つ悪魔の容貌にはぞっとしたが、所詮は夢だ。醜い悪魔が登場する悪夢よりも、美しい殺人鬼が登場する現実の方がよほど恐ろしい。

 目を開くと、白い光の筋がカーテンの隙間から零れているのが見えた。上体を起こしたぼくはフローリングの床に足を伸ばし、そっと静かに踏んだ。

「いち……に……」

 床に赤いカラーテープで作られた簡単な足の形。踏むと見えなくなるくらいに小さなそれは、家具を避けて歪な円を歩くように部屋の床一面にある。この部屋に来た初日、家具の配置を決めた後でぼくが貼ったものだ。

「さん……し……ご……」

 カラーテープの足形を踏みながら、静かにゆっくり動く。歩く。身体を、動かす。寝起きの状態でぼくは足を進め、天井から垂れ下がっている様々な長さの白い紐――これもカラーテープを貼った後で、ぼくが一人で取りつけたものだ――を避ける。そして決められた呼吸をする。足形をしっかり踏むように歩き、なおかつ紐に触れたり紐を揺らしたりしてはいけない。それがこの訓練だった。

「最初はとにかく紐に触れないように。次は触れず、なるべく揺らさずに歩く。そして慣れてきたら足の進みを速めろ。最終的にはいかに紐を揺らさず避けて速く部屋を一周できるかが大切だ。これを続けろよ、愛織」

 頭は自然と兄さんの声を思い出していた。確か三、四年くらい前に言われたことだ。吐息だけで揺れてしまいそうな紐を抜け、慎重に、しかし徐々に進む足を速める。

「ろく……しち……」

 この訓練をしていると、兄さんがぼくに教えた動きが身体に刷り込まれるように感じる。そうしているうちに歩き始めのときよりもはっきりと目が覚めてきた。時計を見ると、六時半。紐を身体に当てながら着替えを済ませ、カーテンを開け放つと太陽光が全身に染み込んでくるようだった。自室を出て、脱衣所と洗面所を兼ねた部屋に入る。鏡に映ったぼくの髪は今日も今日とて見事に波打っていた。これでは寝癖なのか元々の癖なのかわからない。適当に櫛を通して左右に振り分け、黒いヘアゴムで両耳の後ろから腰までの三つ編みに結ぶ。こうしてしまえば癖の強い髪もなんとかなるというだけの、飾り気も何もない髪型だ。

 朝食を終えた後はカフェ・オ・レを飲みながら、テレビのニュースを適当に眺める。アナウンサーは窃盗、誘拐、詐欺、殺人事件についてのニュースを淡々と読み上げていた。それらの事件は半数以上が杏落市内で起きたものだ。

「あ、今日って体力テストがあるんだっけ」

 ニュースが終わってスポーツ選手の特集に切り替わったとき、突然そのことを思い出した。念のため、鞄の中に体操服を入れ忘れていないことを確認しておく。

「行ってきます」

 帽子をかぶって部屋から出ると、ちょうど廊下から見える中庭で日本人離れした長身が穴を掘っていた。六○五号室、つまりぼくの隣室に住む男性だ。かなり痩せているが、脂肪の代わりに限界まで引き絞った筋肉がついているようで貧弱な印象はない。深緑色のTシャツや茶色のカーゴパンツはすでに土で汚れていた。黒いハーフフィンガーグローブをつけた両手に持ったシャベルで穴を掘っている。ただひたすらに黙々と、一心不乱とも言える様子で、何かに取り憑かれているのではないかと思ってしまうほどに。

「おはようございます」

 一階まで下りたところで、ぼくは中庭に向かって声をかけた。

「ああ」

 振り返ることもなく、彼はたったそれだけを返した。あの人はぼくがこの《クルーエル》に来た三月末から観察している限り、毎日暇さえあれば穴を掘っている。最初の頃はもしや死体を埋めるための穴でも掘っているのではないかと本気で考えたが、掘った穴はすぐ元通りに埋めるから違うかもしれない。やはり犯罪都市ともなると、マンションで同じ階に住む人も変わり種が多いのだろう。ぼくの部屋がある六階には彼の他にも、結婚が趣味な帰化した外国人の美女、品行方正ながら自殺未遂を繰り返す大学生、主に死体処理を担うベテラン掃除屋の老夫婦など、妙に癖のある人ばかりだ――が。

「よだかさんよりは、まともかな」

 ぼくは《クルーエル》の敷地内を一歩出たところで、殺人鬼注意の警戒標識を見上げた。黒い縁が入った黄色い菱形の中で、包丁らしきものを振り上げた人がいる。



 市立杏落高校は小高い丘の上に建っている。年季が入った校舎はL字型をした四階建てで、渡り廊下を挟んで体育館がある。校舎に向かうための緩やかな坂道――その脇にはまだ満開の染井吉野が並んでいた。たまにその枝で首を吊る人がいなければ、とてもいい景色と言えるだろう。今日はゼロ人。

「おはよう哀逆さん」

「あ、うん。おはよう」

 追い越しざまに挨拶をしてくれた女子がいた。とっさに挨拶を返したが、誰だかわからなかった。ぼくの名前を知っているということはクラスメイトの可能性が高い。

 一年四組の教室に足を踏み入れると、途端に楽しげなさざめきに呑み込まれる。すでに登校していたクラスメイトはホームルームの時間が始まるまでの時間を親しい友達と雑談したり、読書か勉強をしたりと思い思いに過ごしている。ここではすでにほとんどのクラスメイトがいくつかのグループにまとまっているが、友達作りの波に乗り遅れたぼくは必然的に一人だ。

 三十個の机と椅子が出席番号順に並ぶ教室を横切り、窓際の最前列にある席に着く。もうこのポジションにもすっかり慣れた。哀の字から始まる名字のぼくは小学校から今まで、出席番号が二番より後ろになったことがない。

「もうすぐで遠足だな。確か五月一日だっけ?」

「ゴールデンウィークの直前に遠足か」

「船で厳島に行くんやろ? めっちゃ楽しみやなぁ」

「船……やんだな。こったばぎ吐ぐがもすんね」

「ねえねえ。今日学校来る途中で、コンクリート塀に弾痕がたくさんあるの見ちゃった。昨日までは何もなかったところにだよ。何かあったのかな」

「どうせあの警官じゃろ。昨夜、あの辺りで傷害事件あったけえ」

「トリガーハッピーポリスだっけ。二組の女子が見かけたって、さっき言っとったよ」

「誰か昨日の数学、板書したの見せてくれない?」

「いいよ。……あっ、そのマニキュア可愛い! よく見せて!」

「おいお前。放課後、体育館裏に来いよ」

 はてさて最後の男子は決闘か告白か、どちらの誘いをしているのだろうか。そう考えた直後に「おう」という低い男子の声が聞こえたから、多分決闘だ。

「………………」

 さすがに一人でぽつんと何もせずに着席しているのは居た堪れない。ぼくは机の中に入れておいた文庫本を読むことにした。短編集だが、読み切り作品一篇ごとに書いている作者が違う。一作目、私立探偵の男が助手にしている男子高校生のドジで、淹れ立ての紅茶がティーポットごと床に落ちてしまう冒頭を読んでいるときだった。

「てめえ、ふざけんじゃねえぞ! 昔ヶ原(せきがはら)!」

 突如扉の方から聞こえてきた怒号に思わず顔を上げると、ざわめいていたクラスメイトも会話を止めてそちらに目を向けていた。二人の派手な男子生徒が向き合っている。一人は真紅に近い色の短髪で、こちらが先ほど叫んだらしく怒りの表情だ。もう一人は肩に届きそうなほどの金髪を桃色、水色、紫色、緑色と様々な色――何で染めているんだか――が彩っていて、鬱陶しそうな表情。どちらも露出した耳にはいくつもピアスを開け、黒い詰襟の制服も盛大に着崩している。わかりやすいほどに不良だ。そう思って観察してみると、昔ヶ原と呼ばれた方には見覚えがあった。

 昔ヶ原百太郎(ももたろう)。彼はこの一年四組の生徒じゃないか。憤怒の形相を浮かべる赤い髪の方は全く知らないが、多分同じ一年生だろう。

「俺の女に手出ししてんじゃねえよ、おい」

「はぁん? 怒るなら恋人以外の男にも簡単に足開くあの売女にしとけよ」

 嘲笑うように言った百太郎くんに相手は目を見開き、一度歯を食い縛った。

「っ……このクソ野郎! 一週間前にあいつと会う約束したとき、てめえはちゃんと待ち合わせ場所に行ったのか!?」

「確かあのときは――ああ、そうだ。なんか気分が乗らなくなったから、知り合い二人に待ち合わせ場所向かわせたんだっけ。代理としてしっかり相手させてやったはずだぜ」

 うわあ、という声がどこからともなく上がる。それと同時に、百太郎くんを殴ろうとした男子の拳が寸前で受け止められた。百太郎くんは相手の右拳を左手で掴み込んだまま、一歩近づいて右膝を突き上げた。内臓がひしゃげそうな蹴りを入れられ、男子の身体がくの字になる。さらに百太郎くんが折り曲げていた膝を素早くぴんと伸ばした結果、相手は廊下へ蹴り飛ばされた。ちょうど廊下を通行中だった生徒に被害が出たようだが、百太郎くんは何事もなかったかのように自分の席に向かう。

「さすがは一年生のトップだな」

 誰かがぽつりと呟き、それに同調するような空気が教室に満ちた。ここで言うトップとは、もちろん学業の成績に関してではない。この杏落高校の不良生徒として、喧嘩の強さを意味する。つまり百太郎くんは今年入学してきた不良の中で、一番喧嘩が強い人物だということが早くも認定されているらしい。よく見るとクラスメイトの数人が、机にうつ伏せて眠る彼にやたらと熱い視線を向けていた。確かに喧嘩が強く、さらに容姿が整っているとなれば男子は尊敬したり羨望したりするかもしれないし、女子は好意を抱くかもしれない。しかし百太郎くんにはただの不良よりも問題がある。

「性格、下衆過ぎるだろ」

 ぼくは誰にも聞こえないよう、文庫本で口元を覆って吐き捨てた。

「おいお前ら、とっとと席に着け。おはようございますだこの野郎」

 ほどなくして担任の数学教師、串山(くしやま)先生(髪は自然な黒でオールバック、服装はチャコールグレーのストライプスーツ、腰には牛追い鞭、よく眉間に皺を寄せている二十八歳独身)が教室に入ってきた。まだ席に着いていない生徒を見つけ、鞭を鳴らす。最初に見たときはとんでもない体罰教師としか思えなかったが、そもそもここは犯罪都市の中にある高校なのだから、これくらいの教師でなければ生徒が従わないのだろう。

「まず連絡事項。ついさっきまで廊下で二組の男子が気絶してた。それで仕方なく俺が保健室まで運んだんだが、誰か心当たりのある奴は手を挙げろ。そして歯を食い縛れ」

 表情も声も不機嫌を露わにして鞭を鳴らす串山先生。しかし当然誰も手を挙げない。犯人である百太郎くんは眠っている。起きていたところで素直に挙手するとは思えない。

「……………………」

 お通夜のように静まった教室をぐるりと見渡し、串山先生は盛大に舌打ちすると次の連絡事項を伝えた。元々本気で犯人捜しをしようと思ってはいなかったのだろう。ぼくを含め、クラスメイトのほとんどがほっと安堵の息を吐いた。

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