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37 旅行者との出会い

 夏休みが明けて新学期に入っても、ぼくが昔ヶ原兄弟と昼食を共にする日は減らなかった。暑い季節になってからは琴太郎先輩が一年四組の教室に来て、冷房の効いた涼しい室内で食事をすることが多い。今日もぼくの机を中心に、百太郎くんと琴太郎先輩は空いていた机をくっつけて調理パンを食べている。教室内ではクラスメイトが半数ほどいて、潮騒のようなざわめきが近くからも遠くからも聞こえていた。

「めーちゃん。おーい、聞いてる?」

 目の前で百太郎くんの手が振られ、はっとしてぼくは二人の顔を見た。彼らはどこか怪訝そうに眉を寄せた表情になっている。

「今の話聞いてた?」

「ええ、聞いてましたよ。仰向けにして身動きを取れないよう固定した相手の額にひたすら等間隔で水滴を落としていたら、やがて気が狂う拷問の話ですよね」

「俺とモモがそんな話、食事中にすると思う?」

「いいえ」

 ぼくが首を横に振ると昔ヶ原兄弟は苦笑を浮かべ、溜め息をついた。

「なんか最近のめーちゃん、妙にぼんやりしてること多いよな」

「ああ。何か考え事してるみたいだけど、夏休み中に何かあったのか?」

 さすがにあのドッグ倶楽部でのことは話せない。ぼくは何も言わず弁当の残りを完食した。もう脇腹の傷が痛むことはなく、まだかすかに痕は残っているがそれも直に消えるだろうと八雲さんは言っていた。あれ以来黒喰請負事務所に舞い込む依頼はペットの捜索や一時的な預かり、私有地の草抜き、海浜の清掃、浮気調査など比較的平和なものが多い。

「もしかしてめーちゃん。好きな男ができたとか」

「は」

 鞄の中に片付けようとした弁当箱の包みが落下した。慌ててそれを拾い上げたとき、百太郎くんも琴太郎先輩も大きく目を見開いていた。次第にその口元が緩く弧を描く。がたん、と同時に席を立った二人はぼくの両腕をそれぞれ掴み「ちょっと外で話そうか」と笑顔で歩き出す。突然の展開にぼくは抵抗するのを忘れ、引きずられるような形で非常階段の踊り場まで連れ出された。何故か壁側に追いやられるように。

「めーちゃん。詳しく話してくれるよな」

 にかぁっと笑い、百太郎くんがぼくの左右に両手を突いた。少女漫画のヒロインならば胸をときめかせる場面かもしれない。だが、生憎ぼくは少女漫画のヒロインじゃないんだ。

「これでぼくを捉えたつもりか、百太郎くん」

 甘い。

 ぼくは身体の力を抜いて、すとんっと下に落ちた。尻餅をつく直前に両手で床を突き、落ちた勢いで百太郎くんの両足を思い切り払う。バランスを崩した彼はぎょっとした顔でぼくの上に倒れ込んできた。すかさずぼくは百太郎くんの左肩と右腕を掴み、くるっと反転し、相手の身体を床に押しつける。

「はい形成逆転」

「……やっぱりめーちゃんって面白いよな」

 まだ驚いた表情で百太郎くんがぽつりと呟いた。階段側に立っていた琴太郎先輩はくつくつと笑っている。

「それはどうも。じゃあ、さよなら」

「待て」

「待て待て」

 直ちに立ち去ろうとしたぼくを百太郎くんと琴太郎先輩が引き止める。右足首と左肩を強く掴まれ、逃げられない。誰かが通りかかってはくれないものか。

「このまま話を誤魔化せると思ったのかよ」

「めーちゃんの恋バナ、すっげえ気になる」

「恋……ね。本当に恋なのかどうかすら微妙なのに、聞きたいんですか?」

 ぼくが言いながら振り返ると二人は手を離してくれた。

「何。もしかしてめーちゃん、高校一年生にしてようやく初恋とか?」

「それはそれで面白そうだな。でも別に俺達、めーちゃんのこと揶揄う気はないよ」

「ああ。めーちゃんに好きな男ができたって言うなら、友達として応援する」

「もしかしたら、ちょっとした手助けくらいできるかもしれないし」

「わかった。わかりましたよ」

 楽しそうに声を弾ませる昔ヶ原兄弟を一旦静かにさせ、ぼくは溜め息を吐き出した。遠くの方で生徒の喧騒が聞こえているが、それが近づいてくる気配はない。

「でも、多分純粋な恋愛感情じゃないと思うんです」

 なんで、と怪訝そうな二人の声が重なる。

「相手があまりにも綺麗過ぎる容姿をしてるから、ぼくは単純にその顔だけを好きになってるような気がします。それに……こう見えてぼく、結構惚れっぽいんですよ。優しくしてくれた異性には大概惚れますから。人としての好感が、異性になったらあっさりと恋愛感情に変わるみたいで。ただ、すぐに熱は冷めてしまいます」

「へえ、意外」

「それは初耳だな」

 目を瞬かせる彼らの姿が妙に幼く見えた。ぼくは結構周囲に淡白な人間だと思われやすいから、惚れっぽいことを明かしてこんな反応が返ってくるのは不思議じゃない。

「でも、相手が綺麗過ぎるからってそれが本当の恋愛じゃないとも限らないだろ」

「そうだぜ。むしろ人間、結局中身より外見を選ぶことの方が多いんだからな」

「そいつの中身はどんな感じなんだ?」

 百太郎くんに訊ねられ、ぼくは黒喰よだかと聞いて思い浮かべるあれこれを口に出してみた。自由奔放。傍若無人。面白いことや楽しいことが大好き。自分が楽しめれば全てよしという考え方。他人を振り回しては翻弄させる。自信家。乱暴。常に余裕の態度を取り、焦ることは滅多にない。しかしプライベートではところどころ子供っぽく、変なところで抜けている面も見られる。頭のいいガキ大将がそのまま成長したかのよう。孤高の存在に見える一方で、自然と周囲を惹きつける。行動力が尋常じゃない。強いカリスマ性を感じさせる。協調性はほとんどないが統率力はある。自称「人肌恋しい寂しがり屋」。よく人を馬鹿にしたり罵ったりしているかと思いきや、誰にでもなんでも過大評価することもある。とにかく周囲を困惑させることが多い。そして何より、憎めない人。

「なあ……もしかして、そのめーちゃんが好きな男って以前暴走族を跳ね飛ばした人?」

「ええ」

 琴太郎先輩の言葉にぼくは頷き、百太郎くんがぼく達の顔を交互に見る。

「キン、会ってたのか?」

「ああ。確かにとんでもない美形だった」

「俺が先にめーちゃんと友達になったのに……」

 そう呟く百太郎くんは兄がよだかさんと出会っていたことに不満げだ。何故かはわからない。琴太郎先輩はそんな弟に若干苦笑しながら話しかける。

「百太郎」

「なんだよ」

「あのペアチケット一組、めーちゃんにあげないか?」

 その言葉に百太郎くんは一瞬真顔になり、やがて緩やかな笑みを浮かべた。兄弟そろって何かを企んでいるような表情になる。

「いいな、それ。じゃあ後で俺が持ってる方を渡す」

「決まりだな。そろそろ俺は早退するよ。この前知り合った未亡人とデートなんだ」

 琴太郎先輩はぼくに一切の説明をすることなく退場していった。教室に戻り、机を元に戻した後で百太郎くんがぼくを呼んだ。彼は鞄の中から映画のペアチケットを取り出す。

「これ、誘ってみろよ」

「え……」

「元々は女を誘うため持ってたんだけど、めーちゃんにやる」

「いいの?」

「琴太郎も同じペアチケットを持ってるからな。たまには女誘うのやめて、兄弟で仲良く映画鑑賞するのもいいだろ。これはめーちゃんが使えよ」

 ぼくの手にペアチケットを握らせ、百太郎くんは得意げに笑う。映画館で映画を鑑賞するなんていつ以来だろうか。チケットには綺麗な夜の星空を背景に、茶髪の少女と黒髪の目つきが悪い男性二人組が背中合わせで立つ姿が描かれていた。年の差が十歳くらいありそうなこの二人、兄妹には見えない。恋人だろうか。

「ありがとう。これ、どんな映画?」

「殺し屋の話。オンライン小説が原作らしいけど、結構前に書籍化して最近映画化したんだ。主人公は女子高生で、そいつが殺し屋になって成長するんだよ。俺もキンも原作の小説を少し読んでみたけど、殺し屋同士の師弟愛とか恋愛とかも目立つから、アクションだけじゃないヒューマンドラマな映画でもあるみたいだな。相手、暴力的な映画は大丈夫?」

「うん。むしろ笑って鑑賞しそうな人だから」

 何しろ不死身の殺人鬼だ。

 ぼくは百太郎くんにもう一度礼を言って、自分の席に戻った。



「誰が見るかそんな映画」

 百太郎くん、ごめん。

 見事なほどに一蹴されたよ。

 いつも通り放課後に訪れた黒喰請負事務所で、よだかさんは今までに数回ほどしか見せたことのない顔になった。つり上がった柳眉を寄せた下で眼光が鋭くなっている。不機嫌と言うには生温い、嫌悪感で満たされた顔だ。ぼくにとってはすっかり慣れた事務所の空気が、一瞬にしてぴりぴりとしたものになる。

「それって殺し屋の映画だろ。今日立ち寄った書店で宣伝してるのを見た」

「あ……はい、そうです」

「愛織にはまだ言ってなかったな。俺は殺し屋が大嫌いなんだ」 

「…………」

「俺個人がと言うより、殺人鬼は皆嫌いなんだよ。殺し屋の存在が」

 よだかさんは抽斗の中から透明な袋を取り出し、その中身をざらざらと手に落とした。パチンコ玉を小さくしたような銀色の丸い粒だ。それを口に放り込み、音を立てて噛み砕く。袋にはアラザンと書かれていた。アラザンって、あれか。ケーキのトッピングに使われる糖衣菓子か。いくら甘党だからってそんなものまで直接食べなくても。

「今まで言ったことなかったけど、俺達殺人鬼には定義があるんだぜ」

「定義?」

「いつそんなものが生まれたのかは知らねえけど、これに全て該当するならそいつは間違いなく殺人鬼だ。一つ、殺人に罪悪感を抱かない。二つ、一度殺さないと決めた人間は絶対に殺さない。三つ、一度殺すと決めた人間の殺害を諦めない。四つ、無宗教である。そして五つ、私利私欲で人を殺さない。俺がここで殺人の依頼を引き受けないのはそれが理由だ。殺人鬼にとって、私利私欲のために行う殺人なんてのは殺人を冒涜してるとしか思えねえ。だから俺達がこの世で最も嫌悪してる存在は殺し屋なんだ。たとえ映画に登場する架空の人物だとしても、見る気にはなれない」

 言い切ってよだかさんはまた一掴みのアラザンを口に入れた。がりがりという音が彼の苛立ちを表現しているかのように聞こえて仕方がない。

「そう、ですか」

 軽くショックだった。同時に、よだかさんはぼくのような一般人とは違う殺人鬼だということを改めて知らしめられた。殺人鬼の定義なんて初めて聞いたが、この杏落市には警戒標識が作られるくらいその定義に該当する人物が多くいるのだろう。

「杏落市には殺し屋、いないんですか?」

 東京にいる頃はフィクションの世界にしか存在しないと思っていた殺し屋だが、よだかさんの口振りからするとこの日本に実在していてもおかしくない。ぼくの質問によだかさんは一瞬苦虫を噛み潰したように顔を歪め、天を仰いだ。

「いるにはいるだろ。あいつらも俺達殺人鬼を嫌悪してるだろうから、上手く隠れて仕事をしてるだけだ。もう時間だから、帰っていいぞ」

 気づけばもう六時が迫っていた。今日は客が全く来なかったが、こんな日も珍しくない。ぼくは鞄を肩にかけて事務所から出る、その寸前でよだかさんから「おい」と呼び止められた。振り返った先でよだかさんは空になったアラザンの袋を弄びながら、どこか気まずそうな顔になっている。

「悪かった」

「え」

「殺し屋の話題になると、きつい言い方をしてしまう。殺人鬼の性なんだ。もっと早くに言っておけばよかったな」

「あ……ああ、大丈夫ですよ」

「誘ってくれたこと自体は嬉しかったぜ。その映画は友達と見に行けよ」

「ええ。それじゃあ、失礼します」

 事務所から出て、階段を下りながら思考する。このペアチケットは誰と使うべきだろうか。百太郎くんに返すのは駄目だ。一度受け取ったものを返すなんて失礼なうえ、事情を話したら彼が責任を感じてしまいかねない。八雲さんや土竜さんはそもそも映画に興味があるかどうかが微妙で誘いにくい。楪くんはどうかと思ったが、この映画のレイティングシステムは十五歳未満の鑑賞を禁止している。そうなるとクラスメイトの中で親しい人か。しかし一人だけ選ぶとなると難しい。

「有効期限は、来月までか」

 せっかく百太郎くんが譲ってくれたのだから、使わなければもったいない。とにかく来月までに相手を探すことにしよう。

 バスから降りて《クルーエル》に向かっている最中、通りがかった路地で何やら不穏な声が聞こえてきた。思わず足を止めて様子を窺うと、三人の男がこちらに背を向けて立っている。どうやら奥にいる相手に因縁をつけて金銭をせびっているところらしい。杏落市では珍しくない光景だ。ふと、奥の行き止まりに追いやられている人と目が合った。まるで神様でも見つけたかのような、目。

 とっさにぼくは携帯端末を取り出し、大音量で銃声を流した。路地の中にいる男達がざわめくと同時に、恥を捨てて思い切り声を張り上げる。

「トリガーハッピーポリスだああああああっ!」

 ぼくの肺活量が尽きるよりも先に三人の男が慌てて路地から飛び出してきた。彼らは辺りをきょろきょろ見回しながら情けない声を上げ、互いにぶつかり合いながら走り去っていく。ぼくが薄暗い路地の奥を覗くと、恐喝されていた人は地面にへたり込んでいた。このまま帰るつもりだったが、怪我を負って動けないのなら助けるべきかもしれない。

「あの、大丈夫ですか?」

「ん……ありがと。女の子に助けてもらうなんて情けないな」

 近寄って話しかけてみると少年のような声が聞こえ、ゆっくりと顔が上がった。真っ白な短髪と南国育ちかと思うほど褐色に近い肌が特徴的だが、その他のパーツは特別目立つものではない。強いて言うなら八雲さんのような童顔でない――十代後半から二十歳前後の青年らしい――にも関わらず、不思議と子供っぽい雰囲気が感じられる。黒いタンクトップと灰色の短パン姿に、何故かやたらと大きな白いレインコートを羽織っていた。靴は白いスニーカーだ。

「もしかして杏落市に最近来たばかりとか」

「その通り。治安が悪いのは知ってたけど、まさか一日のうちに二回も恐喝されるなんて」

「二回?」

「俺様、三十分くらい前にも同じような奴らから因縁つけられて財布取られたんだぜ。だから金は持ってないって言ったのに信じてもらえなくて……。この髪色が目立つのかな」

「それは災難でしたね。動けますか?」

 ぼくがそう訊ねたとほぼ同時に、腹の鳴る大きな音が路地に響いた。切なそうな表情で溜め息をついた彼は、たった今空腹を訴えた自分の腹を撫でる。年上の男性に対して失礼かもしれないが、なんだかとても哀れだ。

「よかったら、ついてきてください」

 たまには自炊せずにファーストフードで軽く済ませたくなる日も、ぼくにはある。

 白鳴しろなきオツベルと名乗った彼を最寄りのマクドナルドに案内し、ぼくは希望のメニューを聞いてから先に空いていた席へと座らせておいた。てりやきマックバーガーにマックフライポテトとプレミアムローストコーヒーのセット、フィレオフィッシュにサイドサラダとマックシェイク(バニラ)のセットを注文する。しばらくして出てきたトレイを受け取り、オツベルさんの向かいに座った。

「どうぞ」

 トレイをテーブルの真ん中に――彼が希望したてりやきマックバーガーのセットを向けて――置いた直後、オツベルさんに両手をがしりと掴まれた。

「ありがとう黒猫ちゃん。財布奪われて銀行も閉まってる時間に飢えていたオツベルさんを助けてくれたこと、俺様一生忘れない……っ!」

 そう言っている間にもオツベルさんの空きっ腹は獣の唸り声じみた音を立てていた。周囲の客もちらちらと視線を寄越している。

「早く食べた方がお腹のためですよ」

 ぼくが言うとオツベルさんは「いただきます」と猫騙しのような合掌をして、ハンバーガーの包みを手に取った。本当に空腹だったのだろう。食べ始めてからすっかり平らげるまで彼は一言も喋らなかった。

「オツベルさんはどうして杏落市に来たんですか?」

「広島旅行のつもりだよ。厳島にも広島城にも平和記念公園にも行って、あと戦艦大和と古墳も見て回ったか。犯罪都市って言われてるここにも興味があったから来たんだけど、まさか一日目にしてこんな目に遭うなんてな」

「後悔したでしょう」

「でも、黒猫ちゃんみたいないい奴もいるから皆生きてるんだろ」

「…………さっきからずっと気になってたんですけど、その黒猫ちゃんって」

「お嬢ちゃんのことだけど?」

「…………」

「だってその目つき、帽子、セーラー服、全部ひっくるめて黒猫っぽいだろ」

 確かよだかさんと初めて出会った日にも一度だけそう呼ばれたことがあった。無邪気に笑う顔を見ていると、なんだかオツベルさんがよだかさんと似ている気がしてきた。髪と肌の色や、珈琲に砂糖もミルクも入れないところはまるで正反対だが。

「俺様は犬より猫派なんだ」

「そうですか」

「なあ。あのとき叫んだトリガーハッピーポリスって何のことなんだ?」

「杏落市の名物ですよ。正確には杏落市警察署の巡査」

「えっ、何それ。詳しく知りたい」

 オツベルさんは興味津々といった様子で身を乗り出す。ぼくはしばらくトリガーハッピーポリスのことを説明し、間違っても彼の前で法律を破ることはしないようにと注意しておいた。先週、この揺籃町で駐停車禁止の道路脇にバイクを停めた運転手がいたらしい。そこに居合わせたトリガーハッピーポリスは容赦なく射撃したと聞いている。

「あの人、よく免職されずに警察を続けていられるなって思いますよ」

「へえ。面白いな」

 食事を終えた後も杏落市のことを話しているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。そろそろ帰るかとお互い立ち上がったところでオツベルさんが言い出す。

「ご馳走様、黒猫ちゃん。この恩は絶対に返すぜ。連絡先聞いてもいいか?」

 ぼくはすぐに答えられなかった。ついさっき出会ったばかりの初対面相手に連絡先を教える。この杏落市では自殺行為とまではいかないにしろ、危ないことだ。それにぼくはお礼をしてもらいたくて彼を助けたわけじゃない。どうしたものか。

「あ……」

「ん?」

「オツベルさんってまだしばらくここに滞在するんですか?」

「一応そのつもり」

「じゃあ次の土曜か日曜が空いていたら、ぼくとこの映画を一緒に見てください。そのときに連絡先に教えますから」

 ぼくが鞄の中から取り出した映画のペアチケットに、きょとんとしたオツベルさんの目がぱちぱちと瞬く。しばらくぼく達の間に沈黙が流れ、近くの席に座る中学生数人の会話がはっきりと聞こえた。今さらだが、もしかするとぼくはとても恥ずかしいことを言ってしまったのではないだろうか。

「あ、あの。今のは、その、ナンパとかじゃないんです。ただ――」

「くはっ」

 出し抜けにオツベルさんは笑い出した。まるで腹痛が起きたかのように身体をくの字に折り、痙攣するように身体を震わせる。

「はははは……ナ、ナンパって、あはははははっ」

 一頻り笑った後で、オツベルさんは目頭に浮いた涙を指先で拭う。

「面白いこと言うんだな、黒猫ちゃん。そう言うのは普通男の方だろ。しかしそんな映画を初対面に誘うだなんて、よほど慈善活動が好きみたいだな」

「いえ、単純に友達から譲ってもらったんです。でも一緒に行く人が決まらなくて」

「いいぜ」

「え」

「俺様もその映画、気になってたんだよ」

 

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