36 治療と養生
ドッグ倶楽部で起きた出来事に、ぼくやよだかさんは全く関係していないことになっている。その代わり柩木組のやくざ達があの悪趣味極まりない愛好会の存在を暴き、潜入調査をした結果壊滅に追い込んだということになった。しかしドッグ倶楽部の会員は上流階級の人間がほとんどで、この事実が公になれば日本の経済を支える大企業がいくつも倒産してしまいかねない。だから真実はある程度隠蔽され、誤魔化され、当事者以外はごく一部にしか知られないことになるだろう。
いかにも病院の個室という態のやや狭い部屋。ベッドの上で目が覚めたぼくに、八雲さんはそう教えてくれた。擦過射創の具合を説明するついでとばかりに。
「比較的至近距離だったんだろう。なのにその程度で済んでよかったよ。出血は派手だったけど、内臓は無事。通り魔に襲われたと言ってここに初めて来たときもそうだったけど、愛織は結構悪運が強いのかもしれないね。市外から来たばかりの一般人なら弾が掠っただけでも心因性のショックで死ぬこともあるけど」
黒い手袋を着けた手が、ぼくの解かれた癖の強い髪を撫でる。セットするときに使われた整髪料と汗でひどいことになっていると思いきや、八雲さんは気絶したぼくを治療後に洗髪しておいてくれたらしい。ご丁寧に化粧まで綺麗に落とされている。淡い緑色の服を捲ると、腹部に白い包帯が巻かれていた。
「愛織は強いね。泣かなかったそうじゃないか」
「女は痛みに強いですから。これでも一応生物学上は女です」
「ああ、確かにそうだ。だけどお前みたいな少女がこんな傷を負ってまであいつの仕事に付き合うのは、賢いことではないよ。聞けば以前は囮役になって、貞操を危機に晒したこともあったそうじゃないか。理解できないな。生活に困窮してるわけでも、とにかく金を手に入れたいわけでもないだろうに」
「ぼくは……賢くないですから」
「それがお前の選択か」
「はい」
ぼくが頷くと八雲さんは深い溜め息をついて、ベッドから離れた。
「今日一日はここで安静にしてなさい。明日診断して大丈夫そうだったら退院できる」
「はい。あ、でもお金は……」
「よだかが払っていったよ。労災保険のつもりだろうね」
「そのよだかさんは今どちらに?」
「多分、依頼者に会ってる頃だと思うよ。首を胴体に繋げて、私と一緒にエンバーミングを施した少女の死体と一緒に」
それだけ言って、八雲さんは部屋から出ていった。部屋の時計を見ると午後一時。ここに来たのが何時だったかはわからないが、治療を受けた後とは言え寝過ぎだ。ベッド脇のテーブルに八雲さんが持ってきてくれた料理が置かれている。玄米、鯛の潮汁、小松菜と油揚げの御浸し、そんな和風尽くしの献立の隅に市販のアロエヨーグルトがある。そして魔法瓶に入れられていた飲み物はハーブティーらしいお茶だった。
「揺るぎないな、あの人」
一口飲んでみたが、さすがに何のハーブが使われているかまではわからない。すうっとした清涼感があったから、ミントが使われているかもしれない。入院している患者には、一人しかいない闇医者の八雲さんが料理を作ってあげているのだろうか。白衣姿で厨房に立つ八雲さんを想像しながら、身体によさそうな薄味の料理を口に運ぶ。しかし元々食欲がなかったせいか、半分近く残してしまった。昨夜の惨劇が何度も脳裏に浮かぶ。
貝塚夫妻は遺体となった娘を見て、何を思うのだろう。愛していた娘が突然誘拐され、変な倶楽部で狗として調教されて、挙句の果てには自殺した。よだかさんがどこまで話すのかわからないが、それでも五月雨さんが死んだことには変わりない。ぼくはまだ親になった経験がないから、娘を失ったあの両親の気持ちなんてわからない。そして、自ら死を選んだ五月雨さんの気持ちも。
「…………わかりたくもない」
やがて部屋を訪れた八雲さんが食器を回収し、鎮痛剤らしい薬をぼくに飲ませて時計の短針が二周した。窓の外から八雲さんの声がかすかに聞こえたような気がして、ぼくはベッドから下りた。窓を開けてみるとむっとした夏の熱気が顔に当たり、この一軒家の玄関先が見える。扉の前で、八雲さんと一人の少年が向き合っていた。
「ここは付き添いの人間以外、見舞いもお断りしてるんだよ。わかったなら早く帰りなさい。聞き分けのないガキは嫌いなんだ」
八雲さんと向き合っている少年は、楪くんだった。ぼくは思わず窓の外から顔を出して二人の名前を呼ぶ。楪くんがぱっと顔を上げ、右手の携帯端末で連写してきた。左手には白い袋が握られている。ぼくは八雲さんにお願いした。
「あの、八雲さん。楪くんを通してください。話したいことがあるんです」
「……わかった。一時間だけなら許可するよ」
二人の姿が中に消え、ほどなくすると個室の扉がノックされた。ぼくが鍵を開けて招き入れると、楪くんはぺこりと頭を下げてからスツールに座った。濃紺のタンクトップの上に薄いレモンイエローのシースルー、白い短パン、焦げ茶のグラディエーターサンダルという涼しそうな格好をしている。白い袋の中から取り出したのは真っ赤な林檎と果物ナイフだった。
「楪くん、林檎の皮剥けるんだ」
こくりと頷き、楪くんは果物ナイフの刃を林檎に当てた。しかしそこで何かを思い出したかのように手を止め、一旦テーブルの上に置く。白い袋から一枚の大きな広告紙を取り出したかと思うと、それで折った紙箱を膝の上に置いてから林檎の皮を剥き始めた。林檎の皮を受け止めるものとして折り紙の箱を用意するとは予想外だ。ただ、林檎の皮は栄養価が高いということを知らない辺り年相応と言える。
「きみは昨夜のこと、どれくらい聞いた?」
気になっていたことを訊ねると、楪くんは視線を一瞬だけぼくに向けて口を開いた。
「全部だと思います」
「全部って」
「棺桶町にあるナイトクラブ《ライカンスロープ》の実態は、調教した人間を狗と呼んで人身売買して、性的奴隷や剣闘士のようにさせていたドッグ倶楽部。合っているですか?」
「ああ……うん」
まさか十歳の口からそんな単語が飛び出てくるとは思わず、罪悪感に近い不快感が胸に広がった。いくら柩木組の跡継ぎだからって、彼にはもう少し子供でいてほしい。
「昨夜は、祖父も来たそうです。僕は会えなかったですが」
「祖父って今の組長?」
「はいです」
ぼくはまだ見たことのない柩木榊を想像してみた。よだかさんは以前彼のことを好々爺に見せかけた狐みたいなどと言っていた。見た目はそれほど怖くないのだろうか。しかし組長が出向くとは、やっぱりドッグ倶楽部の存在はそれほど強大なものだったに違いない。
「あとお姉さんと、請負人のお兄さんがどうしてあそこに潜入していたのかも教えてもらったですよ。……お姉さんのドレス姿、見たかったです」
「確かあの夜、事務所で土竜さんが何枚か写真撮ってたな。いくらか出せば情報として売ってくれると思うよ」
「買うです」
「買うのか」
冗談のつもりで言ったのに、相変わらず無表情な楪くんは目だけを輝かせていた。やがて綺麗に皮が剥けた林檎を食べやすい大きさに切り分け、ぼくに差し出してくれた。
「どうぞです」
「ありがとう。いただきます」
しゃくしゃくという瑞々しい歯触りで、あっさりとした甘さが口に広がる。楪くんに手渡されるまま林檎を食べ終えると、彼はスツールから立ち上がった。林檎の皮を紙箱ごと部屋のごみ箱に捨てようと思ったのだろう。すかさずぼくは「待って」と呼び止めた。
「その皮も食べるよ」
「皮、ですか?」
「こっちにも実の方にはない栄養が詰まってるからね。食べないのはもったいない」
ぼくが紙袋の中から取り上げた赤い皮を食べ始めると、楪くんはまじまじと凝視する。まるで珍獣の食事光景を観察しているかのようだ。
「よかったらきみも少し食べてみたら?」
「え……」
「実ほど甘くはないけど、栄養価は高いよ」
一本の蔓のようになっていた皮を途中で十センチくらいに千切り、楪くんに差し出してみる。彼は少し悩んでいたようだが手に取った。先端を口に入れてゆっくりと咀嚼する。特別美味しいと感じているようには見えないが、それでも最後まで食べ切った。
「不思議な感じがするです」
「今まで皮を捨ててきたんだったら、そう感じても無理はないね」
その後はぼくが楪くんに夏休みをどう過ごしているかなどを訊ね、八雲さんに許可されている時刻まで雑談を続けた。時間を計っていたらしい八雲さんが部屋に来て、楪くんは首根っこを掴まれ引きずり出されていく。
「お姉さん。お大事にしてくださいです」
「ああ、ありがとう。きみも息災でね」
部屋の扉が閉まり、また一人になった。時計の短針がさらに二周する。少し眠っていようかと頭を枕につけて瞼を下ろしたとき、突然窓の開く音がしてぼくは飛び起きた。
「元気そうじゃねえか、処女」
鍵をかけていなかった窓が全開になり、そこからよだかさんがさながらピーター・パンのように侵入していた。しかしピーター・パンにしては不吉な黒い喪服姿だ。そしてアイスキャンディーを舐めている。
「よだかさん……どこから入ってきてるんですか」
「窓」
ここは二階なんですけど、と言いかけて口を噤む。
「貝塚夫妻に娘の遺体を引き渡した。その帰りだ」
言いながらよだかさんは窓を閉めてスツールに座った。さっきまで大切に舐めていたアイスキャンディーをあっという間に噛み砕いたかと思うと、棒をごみ箱に放り投げる。
「どうでした?」
「どうって」
「あの人達の反応は」
「お前、それ本気で聞きたいのか」
ずいっと顔を近づけてきたよだかさんに少しだけ悩んでから、ぼくは頷いた。
「《どんな形であれ娘と再会できたこと、心から感謝します》だとよ」
「……へえ」
「でも内心《どうして私達の娘が殺されなくてはいけないんだ》って怒りと悲しみで荒れてたぜ。表向きに理性的な人間を装うあの技術はなかなかだ。俺の前では涙すら流さずに、毅然としていた」
「やっぱり、それが普通ですよね」
親は子供を愛している。
親は子供が殺されたら、怒って悲しむ。
それが世間一般的な常識だ。
「愛織」
「なんですか」
「今回の依頼でお前は感情的になってることが多かった。普段は肝が据わっていて、比較的ドライで飄々としてるくせにな。今なら話せるか?」
「たいしたことじゃないですよ」
「ふうん」
「ぼくの両親は、五月雨さんの両親とかなり違うんだって……そう思ってただけです」
口に出した瞬間、ぎゅうと喉を絞めつけられたような心地がした。心拍数が上がった気がする。両親のことを他人に話すなんて、悪いことではないはずなのに。
「五月雨さんが羨ましいって本気で思ったんです。色んなところにお金を出して、不死身の殺人鬼にまで頼って、頭を深く下げて、いなくなった娘の捜索に必死になる親がいることに。だから彼女が帰ることを拒んだとき、かっとなりました」
おもむろによだかさんが立ち上がり、ベッドに座るぼくのすぐ傍に立った。そして両腕を伸ばし、ぼくを優しく抱きしめてきた。視界が喪服の黒で占領される。
「は……あ、え?」
「続けろよ」
「な、にを……」
「今の話。もう終わりなのか」
ぐっ、と自分の喉が鳴った。
まだだ。まだ言葉にしていない思いがある。
「ぼくは、あのドッグ倶楽部で狗にされていた人達を可哀想だと思いました」
「ああ」
「それだけです。可哀想だな、自分はこんな目に遭いたくないな、ってだけ。地球の裏側で飢えた子供が死んでも、外国で地震が起きて大勢の人が死んでも、すぐ目の前でよだかさんがぼくと同い年の女子高生を殺しても、そう思うだけです。どうにかして自分が助けてあげたいとまでは思いません。よだかさんの言う通り、ぼくは特別同情心や正義感が強い善人じゃない。でも……それでも、例外はあるんですよ」
「五月雨と、その両親のことか」
「あの人には生きて両親と再会してほしかった」
何故かそうすれば、自分の気が楽になりそうだと思った。ただの自己満足、独善なのかもしれない。きっと数日も経てばこの落ち着かない気持ちは楽になるだろう。それでも今ぼくが感じている、ざらつくような胸の不快感は本物だ。
よだかさんの背中に右腕を回し、そっと服を掴んだ。焼けつくような太陽の光を吸収した黒い喪服はまだ暖かい。不意にくしゃくしゃと髪を撫で回され、指先で引っかかりながらも梳かれ、軽く耳にかけられる。ぼくが顔を上げた先で、よだかさんの綺麗な顔はいつものシニカルな笑みを湛えていた。
「つまり今の愛織は、かなり落ち込んでるんだな」
「……ええ。そうなりますね」
「そういうときには甘味で腹一杯にするのがいいって知ってるか?」
「え、え? あ、ちょっと……!」
よだかさんはいきなりぼくを横抱きにして、ベッドから持ち上げた。ずきっ、と脇腹の傷が少しだけ痛んだ。しかしよだかさんはぼくを抱えたまま窓際の壁に近づいたかと思うと、曇りなく磨かれたガラスの窓に手をかける。比較的大きくて、大人も簡単に出入りできるくらいの窓を全開にした。
「あの、よだかさん」
「どうした」
「ぼくは今、八雲さんに安静にしてろと言われてて」
「知ってる」
「こんないかにも入院してる患者みたいな服を着てて」
「知ってる」
「裸足で」
「知ってる」
「まさかとは思いますが」
よだかさんの笑みが深まり、鋭い牙が見えた。そのまさかだと言わんばかりの、とびきり素敵な笑顔だ。ぼくがそれに見惚れていると、彼は片足を窓の桟にかける。しかし扉の開く音が聞こえた。首を捻った先には、扉を開けたままの体勢で固まった八雲さん。その左手は夕食の料理を乗せた盆を持っている。
「よだか……っ、お前――」
「いくぞ愛織」
「あっ」
八雲さんが声を張り上げて駆け寄ってくる前に、よだかさんは窓の外に飛び出していた。ふわり、と重力から解放されたような感覚。そのまま地面に落ちてしまうかと思いきや、よだかさんは一旦カーポートの柱部分に片足をつけ、さらに跳躍する。八雲さんの怒った大声が響くが、すぐに遠ざかった。
「あはははははははっ!」
よだかさんは無邪気な子供のように笑いながら塀や屋根の上を飛び移る。ジェットコースターに乗っているかのような速さで、着地する際の衝撃はそれほど強くない。一体どこに向かうのだろう。もしかしたらスイパラかもしれない。ぼくが声も出せずによだかさんの顔を見つめていると、いきなり彼が視線を合わせてきた。
「楽しいなあ、愛織」
すごく綺麗だ。
そう声には出さず、ぼくは呟いた。
よだかさんを色で例えるならば、間違いなく黒だ。肌は白く、瞳は真紅だが髪や喪服の黒が一番強い。全てを内包するような夜の色。ぞっとするほど冷酷さを持つ一方で、見ていてそのまま吸い込まれてしまいたくなるほどに美しい黒。
「ええ、楽しいです。よだかさん」
どうか、今だけはこの殺人鬼がぼくの心を読んでいないことを祈る。
よだかさん。
ぼくはあなたが好きだ。




