34 ドッグ倶楽部
扉を開けた途端、音楽の波に飲まれた。天井から吊り下げられたミラーボールが回転し、そこそこ広い部屋中に小さな青い光が反射している。しかし、想像していたナイトクラブの光景――派手な格好をした大勢の客が狂ったように踊る様子――とは違い、ムードミュージックに合わせて十人前後の客がゆらゆらと揺れるように踊っていた。ぼくがぼんやりしているとよだかさんは車椅子を駆使し、人々の間を縫って店の奥に向かっていた。慌てて追いかけるとそこにはやけに重厚な扉があった。その前で門番よろしく仁王立ちしているのは、がっしりとした佇まいの白いスーツを着た男だ。スキンヘッドが時折ミラーボールの光を浴びて水玉模様になる。視線だけで人を殺せそうな強面がぼく達を見下ろした。男がよだかさんの美貌に岩のような拳を握りしめ、ぐっと喉を鳴らす。
「な、何かご用でしょうか?」
男が訊ねるとよだかさんはくすっと笑い、バッグから銀色のカードを取り出した。それを受け取った男は顔色を変えて「失礼致しました」と深く頭を下げる。
「ようこそいらっしゃいました、雲林院様」
「こんばんは」
「あの、そちらのお嬢さんは見覚えがないのですが……」
「愛花。あの遊び人の従兄が戯れに庶民との間に作った隠し子なんだけど、彼ったら養育費を送るだけでね。まともに面倒を見ないから私が引き取ったの。ここの仲間入りをさせたくて連れてきた飼い主希望者よ。構わないかしら?」
「もちろんです。どうぞ、愛花様」
男は驚くほどあっさりとよだかさんの嘘を信じ、扉を開けた。きっとドッグ倶楽部の会員はとにかく信用があるのだろう。その会員が連れてきた人間なら初対面だろうと庶民だろうと仲間入りを許されるのだ。
短い廊下を進んだ先にはエレベーターホールのような空間があった。下に向かうボタンしかない。つまり、ドッグ倶楽部は地下にあるということか。確かに地下の方が後ろめたいものを隠すことに都合がいいのだろう。窓がなく、音は地上より漏れにくい。そして狗にとっては脱走が困難だ。そうなるとドッグ倶楽部で狗にされた人々は、まともに太陽の光を浴びることができていないのかもしれない。よだかさんはエレベーターに乗り込むと地下一階のボタンを押した。ボタンは地下八階まである。
「さっきいた人達はなんだったんですか?」
「サクラが七割、何も知らない一般客が三割ってところね。あくまで普通のナイトクラブとしても経営してるのよ。サクラは倶楽部の人間だったり会員だったりするわ」
「へえ……」
扉が開いた先はいきなり大きなホールとなっていた。テニスコート二面、いや三面くらいあるだろうか。こんなにも広い部屋が地下にあっただなんて、一体どれほどの金が動いているのか想像もつかない。大きなシャンデリアが天井から下がり、壁は白く、床にはふかふかとした淡いオレンジ色の絨毯が敷いてある。奥には体育館のステージみたいなものがあったが、今は何もやっていない。辺りには立食ができるように、料理や飲み物を載せた白いクロス掛けの円卓がいくつも用意されていた。これだけならどこかのパーティー会場だと言って差し支えないが、あまりにも異質なところがある。
「ああ、ああ……! 今日もお前が一番可愛いよ、私の赤ちゃん」
酒にひどく酔っ払っている様子で、四十代くらいの男性が歌うように言う。その傍らには一台のベビーカー。乗せられているのはパリスピンクのベビードールを着た、化粧の濃い成人女性だった。彼女の四肢は切り落とされたように途中から存在せず、先端はドアノブカバーのようなもので覆われていた。死んだ魚のような目が虚空を見つめている。
「まあ、その話本当なの? 素敵ねえ」
「そんなことないわよ。たまたまの幸運なんだから」
いかにもマダムという呼称が似合いそうな年配の女性が二人、向き合って上品に談笑している。しかし彼女達が座っているのは椅子でもソファーでもなく、四つん這いになった若い男の背中だった。どちらも鍛え抜かれた筋骨が目立つ半裸姿で微動だにしない。
「このスープ、すっごく美味しいよ。飲ませてあげるね」
ぼくと同い年くらいの女子がスープを皿に注いでいた。その足元には赤い縄で後ろ手に縛られた白いキトン姿の少年。両膝を床につけている。まだ六歳くらいにしか見えない彼はスープの皿が目の前に置かれると、舌だけを使ってぴちゃぴちゃと飲み始めた。
首輪から伸びた鎖を握られた男、ほぼ全身に刺青を入れた裸体を晒して歩く女、人形のように抱きかかえられている幼女、顔中に殴打の痕が目立つ少年――すでに大勢の人間が、狗を連れている。あまりにもおぞましい光景だ。
「あら、あなた達。全員が集まるなんて久しぶりじゃない」
よだかさんはカラードレス姿の女性が数人集まっているところに話しかけていた。彼女達は振り返るなり超常現象でも目の当たりにしたかのような表情になる。雲林院霧華の知り合いなのだろうが、全員よだかさんがそうだとは気づいていないようだ。
「私、霧華よ。どうかしらこの顔」
その途端大きなざわめきが生まれた。女性達は車椅子を取り囲むようにして口々に言う。本当に霧華なの、びっくしりした、信じられない、今度はどこの美容外科医に頼んだの、今までで一番いいからそれを最後にしなさい。蚊帳の外になったぼくは棒立ちしているのもどうかと思い、適当に歩き回ってみることにした。下手に話を振られるよりはいい。
白いスーツを着た男女があちらこちらの壁際に立っている。きっと彼らは倶楽部側の人間なのだろう。最初に会ったスキンヘッドの男と違うのは、全員白いドミノマスクのような仮面を着け、素顔を隠していることくらいだ。あまりじろじろ凝視しないように意識して、ぼくは料理のある円卓――その中でも人がいないところに近づいた。ビュッフェのように大皿や大鍋に入った料理と取り分けるための食器が置かれている。飲み物はアルコール飲料もソフトドリンクもあった。とりあえずジンジャーエールをグラスに注いで一口飲む。しかしグラスについた口紅が気になり、そのまま残してしまった。よだかさんはまだ雑談をしている。
「ねえねえ、あなた」
「えっ」
果物の盛り合わせから葡萄をつまんでいると突然話しかけられ、動揺が思い切り表に出てしまった。話しかけてきたのは、ぼくより少し年上の十代らしい女性だった。燃えるような真紅のマーメイドドレスに身を包み、黒髪を夜会巻にしている。人懐っこそうな笑みを浮かべているが、彼女の背後には二十歳くらいの痩せた短髪の男性が黒いラバーパンツだけの格好で立っていた。その首には棘のような鋲つき黒革のチョーカーが巻いてあった。彼も狗なのだろう。
「もしかして飼い主希望者?」
「あ……はい、そうです」
「今日が初めて?」
「です」
「やっぱりね。そんな感じしてたから、つい声かけちゃった。付き添いの人は誰?」
「霧華さんです。あそこで知り合いの方とお話しているので、邪魔しちゃいけないと思って離れていました」
「あの雲林院生命の人ね。私、ブロンズ会員の火野赫子。よろしく」
「雲林院愛花です。こちらこそ」
当然のように差し出された右手と握手を交わした後、赫子さんはぼくの視線が自分の背後に向かっているのに気づいたらしい。
「こっちは私の飼い狗、虎鉄。つい最近買ったばかりなんだ。全然見た目に相応しくない名前だと思うでしょ。でも私は自分が考えたトレーニングメニューで、貧弱そうな雄の狗を闘技で勝てるくらい強い狗に育て上げるのが好きなの。今夜は連れてきてないけど実はもう一匹いて、彼は立派な闘技用の狗になったんだ。あなたは愛玩用と闘技用、どっちを買うつもり?」
「え……いや、まだ決めてなくて」
「そっか――あ、ごめんね。私ばかり喋っちゃって」
「い、いえ」
こんな場所で出会っていなければ、普通に人付き合いのいい女性として好感を持てただろう。しかし目の前の赫子さんが楽しそうに喋っている内容は、人を人として見ていないこの倶楽部の会員としてのものだ。
「お友達ができたの? 愛花」
気づけばよだかさんがすぐ後ろにいた。もう雲林院霧華の知り合いらしき女性達との雑談は終わったらしい。よだかさんは赫子さんに挨拶をすると「そろそろよ」と何やら促すようなことを言って車椅子を動かす。ぼくは赫子さんに目礼して、よだかさんが向かっているステージの方に足を進めた。他の飼い主も何人かがステージ付近に集まってきている。
「何が始まるんですか?」
ぼくが屈んで訊ねると、よだかさんは上品に笑った。
「決まってるじゃない。新しく仕入れた狗の紹介よ」
「あ……」
ステージを見ると、趣味の悪い蛇柄スーツを着た小太りな男がマイクを手に現れた。口元はにこにこと笑っているが、見張りをしている人同様に白い仮面をつけていて、目まで笑っているかどうかはわからない。司会らしき彼は手短に口上を終わらせ、狗の紹介を始めた。最初に出てきた狗は、まだ中学生くらいの少女だった。白いシーツのような布を纏った状態でステージに立つ。年齢、身長、体重、スリーサイズ、略歴などが淡々と読み上げられると布を落とし、全裸を晒した。最後に値段が提示され、彼女がステージから出ていくと二番手の狗が紹介されていく。
ぼくはてっきりイングリッシュ・オークションみたいに、その場で飼い主が価格を釣り上げながら落札するものだと思っていた。どうやらここでは、狗自体の価格は倶楽部側が設定したものになっているらしい。きっと調教や手術をさせるたびに金がかかるのだろう。
「――――以上で新入荷の狗は全てでございます。彼らはこの後地下五階と地下六階に収容されますので、興味ある方はぜひ近くでご覧になってください」
司会の姿がステージから消えると飼い主達はまた散り散りになった。ぼくはよだかさんと一緒にエレベーターに乗り込み、地下二階に向かった。扉が開いた途端、眩い光がぼくの目に直撃し、甘く囁くような洋楽が耳に流れ込む。
「すごいでしょう」
「ええ……なんだか、ファッションショーみたいですね」
部屋の真ん中、その少し高い位置に白い道が作られている。照明の光はそこにしか注がれず、床や壁は黒い。そして道の左右にはいくつもの席が設けられ、何人もの飼い主がうっとりとした表情で座っていた。人々の視線は白い道を優雅に歩く、妙齢の女性達に集まっている。清楚な白いワンピースを着ている者、上品なピーコックグリーンのドレスを着ている者、扇情的な黒いマイクロビキニを着ている者、全裸で刺青を見せている者――ファッションショーではないだろう。
「実際は何をやってるんですか?」
「ドッグ倶楽部のショー、その一つのコンテストよ。あそこを歩いてるのは全員狗。これに自分の狗を出場させる飼い主は、狗に様々なエステティックサロンに通わせたり、美容トレーニングをさせたり、オーダーメイドの服を注文する。愛花も自分の狗を飼ったら、いつかここに出場させてみればいいわ」
それだけ説明すると、よだかさんはすぐにまたエレベーターに戻った。どうやら上の階から順番に案内するつもりらしく、次に降りたのは地下三階。扉が開くなり、音楽の代わりに野太い歓声が聞こえてきた。
「今日はレースじゃなくて、闘技ね」
「え……」
テニスコート一面分くらいの空間を黒くて頑丈そうな柵で囲んである。床は全体が赤い合成ゴムだった。陸上競技のトラックに使われるものと同じだろう。柵の周りにいる人達――男性がほとんどだが女性もいる――が大声を上げていた。柵の中にいるのは二人の筋肉質な男で、ノースリーブのぴったりとした黒い服に迷彩柄のズボン姿というどこか自衛隊っぽい雰囲気が感じられた。彼らは刀剣を一本ずつ持って戦っていた。金属音が鳴り響き、それを打ち消すような歓声が上がる。
「ここは闘技とドッグレースのための会場。今やってる闘技は一対一で狗を戦わせて、どちらかが死ぬか飼い主が負けを認めるかすれば勝敗がつく。闘技でもレースでもお金を賭けられるから、次の闘技でやってみましょう」
「はい」
よだかさんとぼくはそれぞれバッグから財布を取り出した。事務所から出る前に渡されていた財布の中には、現金で五十万円が入っていた。最低でもこれくらいは持っていないと飼い主や飼い主希望者としてはおかしいのだと言う。
十分後、勝負がついて切り傷だらけの狗は退場していった。次に戦うのは女性同士だったが、服装や武器は先ほどの男性二人と変わらない。彼女達が柵の内側に入ると、仮面をつけた人のもとに大勢の飼い主が群がる。あそこで金を賭けているようだ。
「私は茶髪の狗に賭けるわ」
よだかさんは金髪の狗よりも小柄で痩せている、茶髪の狗に賭けるようだ。しかし周囲は金髪の狗に賭けている方が多かった。なんでも金髪の狗は闘技でほとんど負けたことがないうえに、茶髪の狗は今回が初出場らしい。だからなのか妙におどおどとしている。ぼくはよだかさんと同じようにした。
結果、ぼく達のもとに金が倍以上になって返ってきた。まさか茶髪の狗が、試合開始と同時に剣を捨てて素手で相手を倒してしまうとは予想外だった。剣を手放してはいけないというルールはないため反則にはならなかったが、今後はどうなるだろうか。ぼくとよだかさんは財布をさっさとバッグに収め、またエレベーターに乗り込んだ。
「今度は少し気を引き締めてね」
「どういうことですか、それって」
「一見の人間にとって、精神的にきついと思うから」
地下四階はまるで劇場のようになっていた。地下一階にあったところよりも大きなステージがあり、ほぼ垂直に立てられた白い壁が据えつけられている。その壁に固定された手枷と足枷が裸の狗を拘束していた。肩まで黒髪を伸ばし、特別綺麗な顔立ちではないが決して醜くもない。そんな平凡な顔立ちで、二十代後半から三十代前半くらいに見える。鞭の痕のようなものが白い肌に点在していた。表情は恐怖に歪み、すすり泣いている。
ステージの前にはずらりと椅子が並んでいて、前半分ほどが人で埋め尽くされていた。身なりは当然、上流階級の人らしく立派なものだ。しかし全員、異常な目をしていた。瞳孔が開き切っていて、変な薬でもやっているのではないかと疑いたくなる。彼らの傍らにいる狗らしき人々はその反対で、どこか妙に怯えているようで顔色が悪い。
「えー、大変長らくお待たせ致しました」
アナウンスがかかってステージに現れたのは、まるで清掃員のようなくすんだ青い制服を着る四人の男達だった。全員白いマスクとゴム手袋を着用している。やはり仮面をつけているため、表情は全くわからない。がらがらと音を立てて、車輪つきの台が運ばれてきた。台の上には金槌、鋸、アイスピック、鋏と様々な道具が並んでいる。
「皆様お待ちかねの処刑ショーです!」
わっ、と人々の歓声が沸き上がった。それでぼくは全てを察した。ここは、狗を殺処分するための会場だ。それも処刑ショーとして、見世物にする。コンテスト、闘技、ドッグレースでも満足できない金持ち達が残虐性を満たすための最悪な娯楽が、これなのか。
「今回は飼い主様のご希望で、じっくり時間をかけて痛めつける処刑となっております。どうぞごゆるりとお楽しみください」
「待って!」
アナウンスが終わった途端、悲痛な声で叫んだのは磔にされている狗だった。
「お願い助けて! まだ私死にたくない! 死にたくないんです! お願いだから殺さないでください! もう逃げません! やだ、やだ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」
必死で身体を動かしているものの、枷はしっかりと彼女を拘束している。逃げ出せるとは到底思えない、虚しいくらいの無駄な足掻きだった。それに同情する者は誰もいない。むしろ観客はますます色めき立っているようだ。ぼくがドレスの裾を握りしめていると、仮面をつけた白スーツの女性が近づいてきた。
「こんばんは。どうぞ、お好きな席にお掛けください」
「あ、えっと……」
「私達はここで結構よ」
ぼくが返事に迷っているとよだかさんが先に答えてくれた。ステージの上では男の一人がアイスピックを手に取り、別の一人が狗の右手を開かせていた。
「いやっ、やだ、やめ――あああああああああああああああっ!」
アイスピックの先端が右手の人差し指に突き刺さり、悲鳴が上がる。しっかりと貫通していることがわかった。その途端観客はどよめき、笑い、拍手をした。赤い血を垂らしながら引き抜かれたアイスピックは、続けて親指に向けられた。ぼくは思わず自分の右手を撫でる。
「痛い! 痛い痛い痛い痛いっ! もうやめて! やめてください!」
やがて右手の指全てを突き刺したアイスピックは台の上に戻される。そして四人の男達が手に取ったものは、人数分用意されていた金槌だった。それぞれ狗の右手首、左手首、右足首、左足首に思い切り振り下ろした。肉が叩かれ骨が砕ける異様な音と、その直後に上がった絶叫と歓声。胸の奥が毛羽立つような心地になる。
「霧華さん」
「何? 愛花」
「もう、移動しましょう」
「そうね。やっぱりあなたはこういうの向いてないみたい」
向いているなんてことがあって堪るか。
内心よだかさんに悪態をつきながら、ぼくはエレベーターのボタンを押した。後ろからはまだ助けを求める狗の声と観客の笑い声が響いている。助けて、殺さないで。今はそう言っている彼女が、もう殺して、と泣き叫ぶのも時間の問題だ。
「精神的に疲れました。いい加減、お目当ての狗を探しましょうよ」
「じゃあ地下七階に行くわよ。あそこは売約済みの狗が集められている階だから」




