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31 真夏日と頭痛

 一人で課題を進め、図書館で読書をし、昔ヶ原兄弟とゲームセンターやボウリング場で遊び、秋ちゃん達と電車で杏落市の外へ買い物に行き――気づけば八月になっていた。からりと晴れた真夏日が続き、暑さのせいで食欲が先月より明らかに落ちている。珍しく暑気中りをしたらしい。昨夜から頭痛が治まらないが、今日は黒喰請負事務所に行く日だ。

「あ、土竜さん。おはようございます」

「ん」

 遅めの朝食を済ませて部屋から出たところで、ちょうど廊下に立っていた土竜さんと目が合った。今から穴を掘るつもりらしく、煙草を吸いながらシャベルを右肩にかけている。何故かぼくの顔を見るなり仏頂面が眉を寄せ、いつもより険しい表情になった。

「愛織……お前、顔色悪くないか?」

「ちょっと暑気中りしたのかもしれません」

「よだかのところに行くんじゃろ。無理せん方がええんじゃないんか」

「大丈夫です。これでも身体は結構丈夫なんですよ」

 すると土竜さんはそれ以上何も言わなかった。煙草の吸殻を携帯灰皿に入れ、ぼくと一緒にエレベーターに乗り込んだ。途中で誰かに止められることなく一気に一階まで着いたが、土竜さんは外に出ても中庭に向わずそのままぼくの横を歩き出す。今日は中庭以外で穴を掘るのだろうか。真横ではなく斜め前と言えばいいのか、ちょうどぼくに陰が当たるような位置を歩いている。

「…………あ」

「どうした」

「い、いえ。なんでもないです」

 間違っていたらとんでもない自意識過剰ということで相当恥ずかしいが、もしかすると土竜さんはぼくに陰を作ってくれているのだろうか。まさか、そんな、無愛想な土竜さんが、でも、本当にそうだとしたら。

「紳士かよ……」

 思わず唇を割って出てきたぼくの呟きは、幸い土竜さんには聞かれなかったようだ。バス停を目指してしばらく歩いていると、不意に土竜さんが足を止めた。つられてぼくも足を止め、いつの間にか俯いていた顔を上げた――と同時に土竜さんが地面を蹴った。金属音が響き、その音のせいか頭痛がひどくなった気がする。土竜さんが振りかぶったシャベルを受け止めたのは、一本のメスだった。メスの持ち主は白衣姿の闇医者、八雲さん。基本的に無表情の童顔はいつも以上に冷たい目つきとなり、突然自分に襲いかかってきた土竜さんを侮蔑するように睨みつけている。

 杏落市の街中で偶然出会っただけで殺し合いになるんだぜ、あいつら。

 よだかさんが以前そう言っていたことを思い出す。思い出している間にも、土竜さんと八雲さんはシャベルとメスという本来武器ではない道具をとんでもない速さで交えていた。午前中の街路で戦闘を始めた男二人に、周囲の人々は当然のように距離を取る。

「ああ、臭い。ヤニ臭い。ひどい悪臭だ。どうしてお前が愛織の傍にいるの? ヘビースモーカーのお前が近くにいると、それだけで汚らわしい副流煙が彼女の健康に害を及ぼすというのに。そんなことも理解できないようなら今すぐ息の根を止めなさい。特別に私も無償で手伝ってあげるから」

「はん、黙れや飲兵衛が。お前こそ相変わらず酒臭いのう。前見たときよりも背がこまくなったんじゃないんか? 俺はこいつのお隣さんなんじゃけえ、傍におってもおかしくないわ。お前こそなんで闇医者のくせに堅気の愛織を知っとるんじゃ。十五歳の少女に執着するなんてロリコンかよ」

 嘲笑するように言って、土竜さんは至近距離に迫っていた八雲さんの腹部を長い脚で蹴った。三メートルほど飛ばされた八雲さんは着地と同時にスクラブの内側に左手を入れ、すぐに引き抜く。鋭利なメスが四本握られていた。八雲さんの左手が翻り、土竜さんにメスが襲いかかる。しかし土竜さんはシャベルで全て叩き落とした。

「ちょ、ちょっと二人とも落ち着いてください!」

 鈍痛が続く頭でぼーっとしていたぼくは、四本のメスがアスファルトに落ちた音で我に返った。猛然と戦闘を続ける二人に声を張ると、ようやく彼らは動きを止めた。だが、まだ目がぎらぎらとしている。二人は殺意の込められた目で互いを睨みつけながら、無言でこちらに近づいてきた。ああ、しまった。これは二人を無視してさっさと逃げていた方がよかったのかもしれない。そう後悔していると、二人はぼくの三歩ほど前で足を止めた。土竜さんが額の汗を拭って口を開く。

「俺らの喧嘩に口出してきたんはお前が初めてじゃのう」

 それって、あまりにも恐ろしくて周囲の人が口を挟めなかったからではないだろうか。ぼくだってこの二人と知り合いじゃなかったら絶対に関わろうとしなかった。

「お二人はどうしてそんなに仲が悪いんですか?」

「生理的に気に食わん」

「遺伝子レベルで無理」

 二人は見事なほど全く同じタイミングできっぱり言い切った。ぼくが二人に何も返せないでいると、八雲さんが険のある目つきを少しだけ和らげた。

「愛織。お前、顔色が悪いよ」

「暑気中りしたらしい」

「土竜には聞いてない。お前は自分が掘った穴の中で生涯を閉じていなさい。なんなら私がその穴にセメントを流し込んであげようか」

「あの、ぼくは大丈夫ですから……失礼しましたっ」

 再びシャベルとメスを構えた二人に回れ右をして、ぼくは脇目も振らずバス停を目指して駆け出した。ちょうどやってきたバスに乗り込み、座席で一息つく。心なしか先ほどよりも頭痛がひどくなっているような気がする。飲み物を持ってきていればよかった。

 黒喰請負事務所の扉を開けると、ひんやりとした心地よい空気が肌に触れた。よだかさんがテーブルの上で手動タイプのかき氷機をごりごり動かしていた。ガラスの器に削られた氷が白い山を作っていく。部屋の中には彼以外に二人の女性がいた。茶髪のボブで眼鏡をかけた四十代くらいの大人と、彼女をぼくと同い年くらいに若くした印象の女子。こちらは頬に雀斑が目立ち、眼鏡をかけていない。それでも顔立ちがよく似ているから親子で間違いないだろう。母親はややヒステリック気味によだかさんに何やら訴えているようだ。一方で娘の方はむっすりとした顔でその横に突っ立っている。

「よだかさん。お客様ですか?」

「あ、愛織」

「確か八日まで事務所はお休みにするって言ってましたよね」

「そのつもりだったんだけどな。どうしてもって押しかけてきやがった」

 今のよだかさんは完全にオフだ。普段仕事中に見せる営業スマイルも慇懃な佇まいも全く感じられない。かき氷機を動かす腕だけは活発だが、表情も声色も気怠そうだ。それでもこの親子は殺されなかったのだから運がいい。

「そこの娘が援助交際をしてるからやめさせてくれってよ。お前と同い年だ。今が休みじゃなかったとしても、そんなつまらねえ依頼誰が引き受けるかよ」

 あけすけに言ったよだかさんに母親は顔を赤くした。怒りか羞恥か、その両方か。娘はちらっとぼくを見ただけで、不機嫌そうな表情のまま何も言わない。

「ここはお金さえ用意すればどんな仕事でも請け負ってくれるんでしょう? だったらなんとかして娘の売春を早くやめさせてちょうだい! もしもこんなことが知り合いにばれたら、この子の将来に影響が出るのよ!」

「うるせえな、お前。そういうことはスクールカウンセラーにでも相談しろよ。ああいう奴らには守秘義務があるんだから話してもいいだろ」

「もしそこで話した内容が漏洩でもしたらどうするんですか! 私は内密に事を済ませたいんです! だからわざわざここに来て、お金を払うって言ってるんですよ!」

「ああもういい加減にして!」

 それまで黙っていた娘が爆ぜたように叫んだ。親も子も似たような甲高い声で頭に響く。

「知り合いにはばれないように変装してやってるんだから母さんは口出ししないでって言ってるでしょ! ……やっぱりあんたはそういう人だよね。父さんと離婚して、仕事する以外母親らしいことなんてしてくれなくなって、それなのにあたしが援交やってるとわかった途端母親面? 正直鬱陶しいし、母さんはあたしのことどうでもいいんでしょ。あたしの将来がって言ってるけど、気にしてるのは自分の立場だけ。それくらいわかる」

「あ、あなた――」

「わかってるよ馬鹿なことしてるって!」

 母親の言葉を遮り、彼女は茶髪を両手でぐしゃぐしゃとかき乱して続ける。

「でも、あの人達はいつだって金額分あたしのことを愛してくれた! こんなあたしを……っ、あたしなんかを可愛いって言ってくれた! その場限りでも好きだよってくれた! あたしはお金よりもそれが嬉しかったの!」

 きんきんと尖った声と氷を削る音が混ざり合って、ぼくの頭は錐で何度も突き刺されているかのように痛む。なんだか眩暈がしてきた。冷房のせいか寒気もする。声が、音が、うるさい。

 あ、駄目だ。

 ぼくの手はいつの間にか、喚いていた娘の胸倉を掴んでいる。

「きみ、いい加減目を覚ましなよ。一体これまで何人の男と寝てきたのかは知らないけど、その様子からして一人や二人じゃないんだろう。それなのに、どうして春を売ることにまだそんな夢を見ていられるの? 金額分の愛情なんて馬鹿じゃないのか。ダッチワイフと同じだよ」

 親子が同時に息を呑んだが、ぼくの口は止まらない。自分で自分が何を言っているのかが曖昧だ。頭で考えをまとめるよりも先に、勝手に口が喋っているかのよう。

「喋って愛想を振り撒いて反応を見せてくれる分、ダッチワイフと違って面倒な心があるから大抵の人は優しくご機嫌取りをしてくれる。可愛いって言ったのも、好きだよって言ったのもそれが理由。下手に傷つけて面倒なことにならないようにね。きみはお金じゃなくて愛情が欲しかったんだろう。原因は両親が離婚して以来、お母さんが自分に構ってくれないから? ともかく金額分の愛情を得ることで、それだけの価値が自分にあるって実感したかった。でも残念だったね。きみと寝た男達が金を払ったのはきみとの行為に対してだよ。きみという人間に対しては一円払ったかどうかすら怪しい」

「ち、ちが……っ!」

 否定しようとした声はどこか潤んでいる。わなわなと口を震わせる彼女の大きく見開いた目から涙が零れ落ちた。泣いている。泣かせてしまった。それでもぼくは喋り続ける。

「今後ぼくの人生にきみが関わる可能性がどれほど低いか考える気もないけど、それでも同い年の同性として言わせてもらう。買い手の中に病気や性的倒錯を持つ人間がいないって保証はどこにあるんだ。これから本当に好きな人を見つけて、もしその人と付き合ったとしても、初めてじゃないことに傷つくのはきみだよ。自分の身体を金で売ってたことに改めて後悔して傷つくのもきみ自身。それなのに、まだ続けるつも……り――」

 最後まで言い切る前に、ぼくの視界はフェードアウトするように暗くなった。気持ち悪い。ぎゅっと目を閉じた直後、冷たい床の感触が頬に広がった。


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