02 殺人鬼と甘味
目が覚めたら今までの出来事は全部夢で、ぼくはこれから身支度を整えて杏落高校の入学式に向かうのではないか。そんな淡い期待は視界いっぱいに映った、呼吸を忘れるほどの美貌で打ち砕かれた。それはもう、粉々に。
「ようやく起きたな、チェリー」
「っ……!」
閉月羞花。いつだったか本で覚えた四字熟語を思い出す。確かあまりの美しさに花も恥じらい、月も隠れるという意味だったはず。しかし彼の前では、花は恥じるよりも絶望して色褪せ、月は隠れるだけでは飽き足らず自ら割れてしまうのではないか。
「おい。なんで息、止めてるんだ」
そう言われてぼくは本当に呼吸を忘れていることに気づき、大きく深呼吸した。仰向けになっているぼくを妙な距離から覗き込むよだかさんの体勢からして、どうやら膝枕をされている。ぼくみたいな女相手に膝枕をする男は、彼で二人目だ。すぐに起き上がろうとしたが、途端に全身が痺れるような鈍痛に軋んだ。ぐあ、と呻く。
「捻挫も骨折もしてないから安心しろ。ほぼ全身打ち身、頭に目立たない瘤が二ヶ所ある程度だ。もしかすると背中に痣くらいできてるかもしれないが、どうせどれもすぐに治るだろ。お前、華奢に見えて案外頑丈だな」
ぼくは溜め息をつき、そのままの体勢で訊ねた。
「今何時ですか? あの後、どうなったんです」
「午後一時を過ぎたところだ。拳銃も売上金も全部回収して、依頼者に渡しておいた。死体も生き残りも、もうここにはいないぜ」
よく視線を巡らせてみると、ここはぼくが気を失った部屋だった。つまりよだかさんは仕事を終えた後にわざわざ戻ってきた、ということだろうか。あれだけ血で汚れていた顔はとうに洗ったのか綺麗になっている。服も着替えたらしく、穴がない。
「それで、ぼくが投げ飛ばされた理由は一体なんだったんでしょうね」
「俺がつまらなかったからだ。それ以外に理由なんてねえよ」
白い真珠を削って作られたような牙を見せて、よだかさんはシニカルな笑みを浮かべる。
「楽しかっただろ? 人間ボウリング」
「…………あなたが楽しそうでしたね」
いいえ全然、楽しいわけないだろこの化け物め――などと正直に言ったら何をされるかわからない。とりあえずそう返しておくと、よだかさんはさらに笑みを深めた。魂を抉り取られる。そんな錯覚を感じてしまうほどの威力を持った美しさだ。それに見惚れていると、いきなり顎を掴まれた。軽く持ち上げられ、よだかさんの顔が近づく。
「俺は楽しかったよ」
口が近い。唇が、牙が、舌が、全て近い。ぼくは言葉を発することができずに口を噤む。なんだかもう一度気を失ってしまいそうだ。何か適当な会話でもして気を紛らわせるべきか。しかしこんな殺人鬼相手に一体どんな話題を持ち出せばいいと言うのだ。
「そう言えば、お前って」
「え?」
よだかさんは妙なところで言葉を区切り、ぼくをじっと見下ろしたまま目を瞬く。上下ともに長い彼の睫毛がぱちぱちと触れ合うたび星屑が零れ落ちてきそうな気がしたが、さすがにそんな幻想的な現象は起きなかった。やがてぼくの顎から手が離れる。
「なんか猫みたいだな」
「……その言葉、十五年間生きてるうちに何度も言われましたよ」
よく指摘されるのは、猫みたいな目をしている、ということ。ぼくの目はわかりやすいほどに眦が上がったアーモンド型で、どうやらこれが猫っぽい印象を抱かせるらしい。さらに言えば、二年前に兄さんから受け取った誕生日プレゼントの帽子も原因だろう。頭頂部の二辺が尖るように縫われ、猫の頭をモチーフにした黒い帽子。どこで見つけてきたのか「絶対似合うと思って」と渡されたその帽子は今もぼくの頭にある。幸い杏落高校は服装に関する校則が厳しくないため、特に何も言われなかった。
「なあ、黒猫――じゃなくて、処女。いや、チェリーだったか?」
「ちゃんと名乗ったはずですよ」
ぼくの呼び名を無駄に増やすつもりか、この殺人鬼。
「知ってる。愛織、昼食がまだなら一緒に食おうぜ」
「は?」
「奢ってやる。今日は気分がいいからな」
今の発言を聞いて、素直に喜ぶのは大きく分けて二種類の人間だろう。まず一人は彼のような美しい人と食事をできることに喜び、もう一人は単純に奢ってもらえるということで食費が浮くことに喜ぶ。ぼくも一応は健全な女子高生で、家族からの仕送りだけで生活している身分だ。こんな美青年に昼食を奢ってもらえるという人生初の誘いを素直に喜びたい。しかしよだかさんは殺人鬼だ。そのうえ恐らく、不死身。
「すみません。せっかくですが、遠慮します」
ぼくはよだかさんの膝枕から頭を浮かせ、慎重に立ち上がった。卸し立ての制服には若干の汚れがあったが、手で払うとすぐに落ちる。身体の調子はまだ万全ではないが、目を覚ましたばかりのときよりは楽になっていた。近くにあった鞄を拾い上げ、肩にかける。
「それでは、失礼します」
「待てよ」
背後から低い声が聞こえ、急ぎ足で部屋を出ようとしたぼくの左腕が強く掴まれる。
「知らない人について行っては駄目だと、母から言われたので」
「ふん。逃げようとしてるってことか」
「……ええ、そうですよ。逃げるんですよ」
いっそのこと開き直ってみたが、振り返った先にあるよだかさんの顔は愉快そうに笑っていた。獲物を甚振る獣に表情があるなら、きっとこんな顔だ。
「でも、お前。今この状況で逃げられると本気で思ってるのか?」
その後、ぼくはよだかさんに引っ立てられる形で建物を出た。このときになってようやく自分が攫われていた場所を外から見ることができた。大きな倉庫にも見える、二階建ての白いプレハブ住宅みたいな建物。街中ではなく、人気のない山の麓に建っている。
「ここって、杏落市のどこなんですか? 揺籃町じゃないですよね」
「病瀬町だ。それほど揺籃町とは離れていない」
「へえ」
もしも危険地帯と言われる棺桶町や墓化町、はたまた空亡町だったらどうしようかと思っていたが病瀬町ならまだいい。《クルーエル》まで徒歩でも十分帰れるとわかり、一旦は安堵する。これから始まるよだかさんとの昼食が無事に終わればの話ではあるが。
山が遠ざかるにつれて出歩く人々の姿が目につくようになった。やがて大通りを歩き始めると、すれ違う人のほとんどが振り向くようになった。立ち止まる人々の視線は全てこちらに注がれている。そして皆、呆気にとられたように口を開けていた。
「痛っ」
「きゃあ!」
「あ、すみません」
「ああ、いえ。こちらこそ」
「うわっ、わっ」
「おい危ねえだろ!」
やけに周囲が騒がしいと思えば、振り返ったまま歩く人が他の通行人や器物にぶつかっている。ぼく達のすぐ横を通った出前の自転車がガードレールに衝突して岡持の蕎麦を道にぶちまけた。次の瞬間、そのガードレールの反対側に乗用車が衝突した。かと思えば近くの未完成らしき建物の傍にあった脚立が倒れ、左官が落下する。何かの撮影をしている様子は、ない。つまりこれらの元凶は全て、間違いなくよだかさんだ。しかし彼は自分が引き起こしている波紋に気づいているのかいないのか、涼しげな顔をして歩いている。
「よだかさん」
「あ?」
「あなたが外を出歩いてるときって、いつもこうなんですか?」
ぼくが訊ねると、何故かよだかさんは身を屈めて足元に右手を伸ばした。彼の右手がそこにあったマンホールの蓋を指先だけで簡単に取り外す。嫌な予感しかしない。
「慣れてる場所だったらここまでじゃない。今日は派手な方だな」
そう言い終えるか言い終えないかのうちに、よだかさんは自分をうっとりとした表情で見つめる外勤中らしき女性に向かってマンホールの蓋を水平に振るった。女性の頭部は刹那のうちに下顎以外が消失し、身体は膝から崩れ落ちた。その女性の胴体が地面と抱擁を交わすよりも早く、よだかさんは血と色々なもので汚れたマンホールの蓋を再び振るう。自動販売機の前にいた祖父と孫らしき老人と幼い男の子二人組がそろって首を折られた。それまでよだかさんに見惚れていた人々が悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。彼らに向かってマンホールの蓋が襲いかかった。よだかさんが円盤投げのように投擲したそれは、恐ろしい勢いで何人かの首を立て続けに飛ばした。あっという間に大通りは静かになったが、まだ十人くらいはよだかさんをちらちらと気にしながらも残っている。マンホールの蓋を手放したよだかさんは満足したのか、彼らを殺しはしなかった。
「昼食を誘った相手に、それも食事前に見せるものとは思えません」
「お前はそれほど軟弱じゃないだろ。悲鳴も上げないくせに」
それにしてもこの殺人鬼、なかなかぼくを殺そうとしない。他の人は出会って間もないうちに殺しているにも関わらず、ぼくとよだかさんは出会ってもう一時間以上が経過している。今のところは機嫌がいいから、だろうか。それなら今の人達が殺されたのは何故だ。
「安心しろよ。愛織は殺さない」
はっきりと言い切ったよだかさんの言葉に、ぼくは思わず足を止めかけた。読心術を使ったのか、ぼくの考えを見透かした言葉。一瞬その意味を理解できなかった。今確かに彼は「殺さない」と言った。ぼくは殺さない。それっていつまでの話だろう。もしかしたらそんなことを言って、油断したぼくをある日あっさり殺すのかもしれない。
「一生、愛織が死ぬまで殺さない」
内心混乱してきたぼくによだかさんが付け足すように言った。
「なんで、ですか? 殺さないでくれるのはありがたいですけど……」
「お前って殺人鬼のこと、誰彼構わず人を殺しまくるだけだと思ってるだろ。そんなことするわけねえよ。殺人鬼という殺人鬼が皆そんなことしやがったら、冗談抜きで殺人鬼以外の人類が滅びかねない。そうなると殺人鬼が殺す相手までいなくなるからな」
「そう、です……ね」
一般人のぼくには理解しがたい話だが、適当に相槌を打っておく。
「俺達は殺さない人間を決めるんだ。ランダムでも、好みでも、気まぐれでもいい。殺人鬼は一度殺さないと決めたそのときから、相手の容姿も声も名前も何もかも忘れられなくなる。だから、うっかり間違えることもない。それにただ殺さないだけじゃなくて、なるべく相手が天寿を全うできるように尽くすんだ。健気だろ」
「じゃあ、あなたにとってはぼくがその一人ってことになるんですか?」
「ああ」
何でもないように頷いた後で、よだかさんは笑みを浮かべた。網膜に焼きついて、脳髄に植えつけられたように、この先決して忘れられないと思うほどの綺麗な笑顔。思わずぼくは足を止めて蹲る。耽美とはまさに彼のためにある言葉なのではないだろうか。
「お前、いきなり何やってんだ」
よだかさんが怪訝そうに訊ねる。こういうときには読心術を使わないでいてくれるらしい。ぼくは「気にしないでください」と言って深呼吸を三回繰り返し、立ち上がった。
「あの、訊いてもいいですか?」
「なんだよ」
「もしも殺人鬼が、一度でも殺さないと決めた人間を殺したら、どうなるんです」
「決まってるだろ。そいつはもう殺人鬼じゃなくなる。…………ああ、ここだ」
そう言ったところでよだかさんは立ち止まり、すぐ近くにある店の看板を見上げた。有名なデザートバイキングチェーン店のスイーツパラダイス――スイパラだ。東京でも見かけることは当然あったが、ぼくはまだ入ったことがない。
「ここで昼食ですか」
「何かおかしなことでもあるのか?」
この殺人鬼、どうやら甘党らしい。意外に思っていると彼はさっさと店内に入り、ぼくを呼んだ。老若男女を問わない多くの客で賑わっていたが、広々とした店内はまだ満席ではない。よだかさんは席に案内された直後にデザートのコーナーへ向かう。
「この店、制限時間は七十分だからな。忘れるなよ」
奢ってもらうぼくは七十分間かけて食べ続ける必要はないと思うのだが、それを言う前によだかさんは遠ざかっていった。とりあえずぼくは昼食としてカルボナーラ、サラダ、ポタージュスープを選んだ。初めて訪れた店で冒険してみようと言う気はあまり起きない。
ほどなくしてよだかさんが席に着き、様々なデザートがてんこ盛りの皿でテーブルは埋め尽くされた。ケーキ、パイ、プリン、ムース、シュークリーム、パンナコッタ、他にも名前がわからないものもたくさんだ。彼はぼくが唯一持ってきたデザートの皿を信じられないと言わんばかりの表情で指差す。
「まさかお前、デザートはそれだけか?」
「そうですけど」
「レアチーズケーキとストロベリームースを一つずつって、正気じゃないな」
それはこっちの台詞だ。
「あなたこそどれだけ食べる気なんですか。皿がテーブルから落ちそうになってますよ」
「食べ放題なら、とりあえずデザートを制覇するのが当然だろ」
平然と言ってよだかさんは一番手前にあったチョコレートケーキをピザでも食べるかのように右手で掴み、左手に持ったスプーンでカスタードプリンをすくう。ケーキを一口食べ、飲み込んだ直後にプリンを口に運んだ。とんでもない食べ方をしている。それでも彼の美しさは損なわれないどころか、逆にその子供っぽい行儀悪さが魅力的に見えてしまうから不思議だ。三千世界のどこを探しても他にいない。そんな謳い文句をつけられそうな美青年が甘味を大量に食べる姿は圧倒的で、周囲の客は写真を撮り始めていた。
「ご馳走様でした。それじゃあ、ぼくは帰りますので」
デザートの皿を空にしたぼくは席を立とうした――が、鼻先を掠めてフォークが後ろの壁に突き刺さったことで停止してしまう。四つ又になっている先端が半分近く壁の中に隠れ、煙が立ち昇っていた。ゆっくり首だけを動かしてよだかさんを見ると、ついさっき新しく皿に追加した期間限定のデザートを食べていた彼は、有無を言わせない微笑を浮かべる。気が変になりそうなほど綺麗なそれに、ぼくは撃墜されてしまった。通りがかった中学生くらいの少女三人組が皿を床に落とし、一拍の間を置いて黄色い声を上げて走り去る。
「わ……わかり、ました……。時間まで、同席します……」
「お前なんで息苦しそうなんだよ。持病でもあるのか?」
あなたのせいですよ――とは、とてもではないが言えない。ぼくまだ大きく脈打っている心臓を落ち着かせるため、飲み物を選ぶことにした。この店舗ではダージリンやアールグレイといった定番な紅茶からエスプレッソやカプチーノといった珈琲も種類多く用意されている。それらのいくつかを小さなカップケーキのお供にして、なんとか落ち着いてきたとき突然よだかさんが話しかけてきた。
「お前、揺籃町に住んでるのか」
「はい」
「家族と? それとも学生同士でルームシェア?」
「中学を卒業してすぐにマンションで一人暮らしを始めました」
1LDKメゾネットの十四階建てマンションなんて高校生にはかなり贅沢かもしれない。それでも元々杏落市は物価が安く、加えて四割ほどの部屋が曰くつき物件の《クルーエル》は町内でも破格の家賃を誇っている。ぼくが借りることになった六○六号室も過去に殺人や心中があったらしく、特に怪奇現象が起きていないにも関わらず家賃は月三万円だ。
「犯罪都市に興味でもあったのか? 最近はそういう若年層の移住が増えてるらしいな」
「興味……ですね。ええ、そんな感じです」
ぼくはなるべく感情を出さないようにして頷いた。よだかさんは素手で掴んだモンブランに齧りつく。まるで林檎を丸齧りするような食べ方だ。
「その制服って杏落高校だろ。いいよな、高校生って。響きからして青春を感じる。部活とかアルバイトとかする気はあるのか?」
「部活は特に考えてません。アルバイトも向かないと思いますから――」
そこでよだかさんが栗のクリームで汚れた手を舐めつつ、ぼくを不満そうな表情で見つめていることに気づいた。ぼくは思わず区切ってしまった言葉を続ける。
「……高校生のうちは、特にやらないと思います」
「面白くない」
「え」
おもむろによだかさんの汚れていない左手がスプーンから離れ、こちらに伸びてきた――かと思えば頭を捕まれ、ぼくの顔面は生クリームとスポンジ生地に埋もれた。どこからか男性の「お客様!」と焦った声が聞こえ、慌ただしい足音が近づいてくる。どうやらぼくはよだかさんの手によって、食べかけだったカップケーキの皿に顔を叩き込まれたらしい。何という仕打ちだ。カップケーキは見事に潰れ、生クリームが口に入る。
「お客様、大丈夫ですか? どうぞこちらを」
顔を上げると、男性店員が白いタオルを手に立っていた。準備がいいということは、この店ではこういうことがよく起こるのだろうか。
「あ、ありがとうございます」
一旦お手洗いに向かったぼくは生クリームやチョコレートソースを一通り拭い、顔を洗った。幸いなことに帽子は店内に入ったときから外していたおかげで被害がなく、制服もスカーフにちょっとだけ生クリームがついたくらいで済んだ。店員にタオルを返し、再び席に着いたぼくによだかさんは言った。
「超弩級に面白くない。処女、お前そのうち面白くない人間日本代表になるぞ」
「………………」
つまりぼくは日本一面白くない人間予備軍ということになるのか。
「じゃあ、どうすればいいんです」
ぼくが投げ遣りに言うと、よだかさんは胸倉を掴んできた。あちらはリーチが長いから座ったままでも平気らしいが、自然とぼくは身を乗り出す体勢になる。
そして彼は、言った。
「お前がここに来て何をしようが好きにしろ。それが本当にやりたいことならな。もしお前を動かしているものが誰かの指示や受け売りなら今すぐ捨ててしまえ。自分の好き勝手に、滅茶苦茶に、暴れて乱れてやればいい。ここはそういう場所だ」