28 逃走とアイドル
「兄さん。敵がたくさんいるのに、味方が一人もいないときはどう戦えばいい?」
膝の上に座るぼくがそう訊ねたとき、兄さんはぼくの頭を撫でながら教えてくれた。確かあれは今から二年か、三年くらい前のことだ。
「多勢に無勢か。そうなると逃げ切るか、敵の数が多くても一人一人を相手に力で捻じ伏せなければならない。インパクトの大きい先制攻撃でも仕掛ければ、相手が怯んで戦意を喪失することもある。隙ができれば、そこにつけ入る。まずは気持ちで勝つことが重要だ。怖気づいて逃げ腰になった相手を捻じ伏せるのは難しくない。わかるか?」
「うん。でも、相手が何人もいたら誰に先制攻撃すればいいのかわからないよ」
「集団で一人を襲うような奴らは、誰を選んでもたいして変わらない。手加減なしに一人を徹底的に攻撃すれば、大抵の人間は腰が引ける。痛みを知ってる経験豊富な者であればあるほど、他人が痛い目に遭っているのを見るだけで痛みの記憶が蘇る。自分が痛い目に遭ってる気になって、身が竦むんだ。ただ、痛みで頭に血が上って凶暴になる者もいる。だから情けも容赦もなく、最初から本気でやることだな」
「相手が自分から出た血を見て興奮することってない?」
「そんな奴はよほどの異常者だ。大抵は自分の血を見ればそれだけで不安になって、怖気づく。もし一発入れてもまだ向かってくるようなら、一発目と同じ場所を狙うといい」
あの話を聞いたときからぼくは多勢に無勢の状況になった場合、どうにか一人一人引き離してから捻じ伏せる戦い方を選んだ。囲まれてどうしようもなくなったときは、狂ったように一人だけを集中攻撃していると相手が怯んだ。しかし残念なことに今は、状況がこれまでと違うから困っている。
「ママ、あのお姉ちゃんは忍者なの?」
「こらっ。人を指差すんじゃありません」
そんな会話が地上の方から聞こえてきたが、今のぼくはそちらを見る余裕はない。何しろ、なかなか歩幅が狭い高さ四メートルほどの壁の上を走っている最中なのだから。
五分ほど前からぼくは不良を撒くため、なるべく障害物が多い道を選んで走っている。塀に突き当たれば走ってきた勢いのままに塀を蹴ることで乗り越え、さほど大きくないが邪魔になる障害物があればことごとく跳び越えた。全く知らない人の家の屋根や塀にも上っていく。しかし出会ってすぐはぼくを格下として見ていただろう常善の不良が、今では猛然となってぼくを追いかけている。なかなか撒けず、一人一人引き離すこともできない。思わず逃げ出してしまったから、今さら一人だけ集中攻撃するわけにもいかなくなった。
今ぼくを追いかけているのは、いつかの褌に出刃包丁を装備していた男よりも若くて体力がある男子高校生――しかも六人だ。そんな彼らを撒くために仕方なく、こんな昼間からパルクールをする羽目になっていた。今までの経験では大抵の人間をこれで撒けたのだが、今回は相手が悪いのだろう。ぼくがいくらショートカットのために高いところから低いところへ飛び降り、低いところから高いところへ跳躍したところで、彼らも全く同じ動きはできずとも脚力で追いかけてくるのだから恐ろしい。
やがてぼくは重大なことを思い知らされた。三月の末から杏落市に来たばかりのぼくよりも、相手の方がここの地理を理解している。まだ揺籃町の全体すら把握していないぼくはただ適当に逃げ回っていたが、あちらはよく考えていたのだろう。気づけばぼくは閑静な往来でまた六人に囲まれてしまった。まだ全員約二メートルずつ離れているが、逃げ道はない。さすがに六人とも呼吸は乱れていたが、ぼくに対する敵意は薄れていなかった。
「随分とすばしっこいんだな、お前」
「正直一年の女ってだけで舐めてたけど、もう逃がさねえ」
「…………見逃してもらえませんか。これから友人と約束が」
あるんですよ、と言い切る前に突然地響きともつかない騒がしさを感じた。どこか遠くから濁流か何かが押し寄せてくる予兆じみたものを察知したのは、ぼくだけでなく不良の六人も同じらしい。地響きの正体を気にして、視線を左右に振っていた。
やってきたのは濁流ではなく、人の群れだった。ぱっと見た限りで中高生から中年まで、男女合わせて五十人近く。細い道から先を争うように駆けてきた。どういうわけか彼らは呼吸を整えながらぼく達を囲むように立ち止まり、ぼくと不良との間に空いていた二メートルの幅は瞬く間に埋め尽くされる。そして一人の眼鏡をかけた男性が声を張り上げた。
「むくろちゃんはどこだ!?」
それを皮切りに、他の人達も口を開く。
「ねえ、どこにいるの」
「絶対こっちに来たと思うんだけど」
「あなた達も見たんじゃないの?」
「むくろちゃん、むくろちゃん」
「可愛い可愛い僕のむくろはどこなんだよ」
「おいふざけんな。誰がてめえのだよ」
「お願い。早く教えて」
なんだ、これは。
常善の不良達も、ぼく同様このよくわからない騒動に泡を食っているようだった。無関係の人には暴力を振るえないのだろう。好都合だ。この機会を生かして逃げるほかない。ぼくはまだ騒いでいる人と人の間を泳ぐようにかき分け、すり抜け、走り出した。ふと見つけた隘路に飛び込むようにして入る。そのとき不良のものらしい怒声が聞こえたが、足音はなかなか追ってこなかった。
しばらく走り続けて薄暗い路地裏を進んでいると、突然目の前の曲がり角から誰かが飛び出してきた。寸でのところでかわす。
「きゃあっ!」
「は……」
甲高い声が響いて、ぼくは呆けた声を出してしまった。目の前に現れたのはそれくらい綺麗な顔をした美少女だった。プラチナブロンドがレースつきの黒いリボンでツインテールに結ばれ、露出した両耳には髑髏のピアスが不気味に輝いている。精巧に作られたビスクドールのような美貌を見る限り、やや年上っぽいがぼくと同年代の高校生くらい。ティアードスリーブの白いシフォンワンピースは、暴行された後かと思うほど裾がびりびりになっていた。多分、そういうデザインなのだろう。そこから伸びた細い脚は球体関節ストッキングを履いていて、可憐な彼女をますます人形のように見せていた。この美少女、ぼくはどこかで見たことがあるような気がする。
荒い呼吸をしながら、彼女はぱっちりと見開いた目でぼくを見つめる。ぼくも思わず立ち止まったまま、彼女を見つめ返していた。すると相手は意を決したような表情で突然ぼくの両肩を掴んできた。指の爪には真っ黒なマニキュアが塗られている。
「その服ちょうだい!」
「お、追剥ぎ」
「違う!」
力いっぱい否定した直後、彼女は慌てて自分の口を塞いだ。視線が左右にきょろきょろと動いたかと思うと、手を離す。そして脱力したように嘆息し、小さな声で言った。
「ごめんね。うちもいきなり初対面にこんなこと言うんはどうかと思ったんじゃけど、やっぱり逃げるなら服装変えんといけんけえ……」
「もしかして――あなたがむくろちゃん、ですか?」
可憐な美少女は一瞬きょとんとした後で苦笑するように頷いた。高級そうで汚れやすそうな白い服だというのにお構いなしで、近くの壁に凭れる。
「もしかして、最近ここに来たばかりの人?」
「はい。出身は東京です。春から進学でこちらに来ました」
「なら標準語にしようか。東京の人からすれば、広島弁ってだいぶきついでしょ」
「平気ですよ。クラスメイトも六割が広島弁喋ってますから、もう慣れました」
他の三割はぼく同様に東京の方から来た生徒が喋る標準語。最後の一割は関西弁、東北弁、沖縄弁などほぼ一人ずつしかいない少数派だ。
「じゃあ、たわんって言葉の意味わかる?」
「手が届かないって意味でしょう」
「すいばりは?」
「確か棘のことを言ってるんですよね。あの、木がささくれ立った」
「あおじは?」
「青痣のことでしょう」
杏落市に来て間もない頃のぼくにとってはさっぱりわからない言葉ばかりだったが、さすがにもう三ヶ月経っているのだから自然と方言も覚える。彼女は「ほいじゃ、大丈夫か」と言った。どうやら広島弁で喋っても平気な相手だということを確認したらしい。
「四ツ墓むくろ。十七歳。一応杏落市のローカルアイドルやっとるんよ。よろしく、えっと……名前聞いてもいい?」
「哀逆愛織、十五歳。杏落高校の一年生です」
「そんな敬語使わんでもええよ」
「あ、うん」
思い出した。
どこかで見たことがあるような気がしたのは、クラスメイトに熱心なファンがいて彼女のCDやグッズを片手に生き生きと語っている姿を見かけたからだろう。確か元々は動画サイトで両声類や多声類などと呼ばれる歌い手兼踊り手の躯だったが、現在はアイドル活動に専念しているのだとか。今聞いている限りでも地声は鈴を転がすような声だが、幼女のような甘い声から地を這うようなデスボイスまで様々な声を発し、そのまま長時間歌いながら踊ることも得意らしい。服装は大抵が白色を基調としたロリータファッション。
「ねえ愛織ちゃん。お願い」
ぱんっ、と両手を合わせてむくろちゃんは頭を下げた。
「うちと服交換してくれん?」
「え……」
ぼくは自分が着ている服を改めて確認した。数日前にホテル《ウンディーネ》の売店で買った象牙色のカットソー、インディゴブルーのスキニーパンツだ。むくろちゃんが着ている服と比べれば、どう安く見積もっても総額はゼロ二つ分くらい違うだろう。
「でも、ぼくが着てるのってこんな――」
「なんでもええけえ!」
「あ、はい。じゃあ……着替えができるところに移動しようか」
二人そろって慎重に道を進み、運よく路地裏を出た先で見つけた公衆トイレに入った。芳香剤らしい桃の香りがかなり強いが中は清潔だ。それぞれ隣り合わせの個室に入って服を脱ぎ、上の隙間から服を投げ入れては着替えていく。靴と下着以外の全てを交換されそうになったが、さすがにストッキングと靴下は交換しなくてもいいだろうとぼくが言い張った。ストッキング――それも球体関節ストッキングだ――なんて今まで履いたことのないもの、挑戦してみる気はまず起きない。
「着替えた? 愛織ちゃん」
「うん」
二人同時に個室を出たところ、地味な服装でも美少女が着ればよく似合って見えることを思い知らされた。しかし交換する前の格好とは印象が随分違うため、比較的追っかけの人から逃げやすくはなっただろう。ふと、むくろちゃんの視線がぼくの脚に向かっていることに気づいた。ここに来るまでの間、カットソーの袖から露出する腕にも視線を感じていた。きっと縫合痕が気になるのだろう。
「それ格好ええね」
「え、そう?」
「うちはこういう傷痕みたいなの、好きなんよ。格好ええなって思う」
目を輝かせているところから、どうやらお世辞ではなさそうだ。変わった嗜好を持っているのかもしれない。むくろちゃんは鏡の前に立ち、ツインテールを結んでいたリボンを解くと今度はポニーテールに髪型を変えた。
「これで少しは誤魔化せるかな……あ」
「どうかした」
「愛織ちゃん。よかったら、その帽子も借りて」
振り返ったむくろちゃんが言い終えるよりも早く、ぼくは自分の帽子に両手を当てて一歩下がった。直後、あまりにも露骨な態度を取ってしまったことに内心申し訳なくなる。案の定むくろちゃんは苦笑するような表情になり、肩を竦めた。
「帽子代は出そうと思ったんじゃけど、それでもいけんみたいじゃね」
「ごめん。これだけは、どうしても譲れなくて」
「謝らんといて。我が儘に付き合ってもらっとるんはこっちなんじゃけえ。その帽子、大切な人に買ってもらったん?」
「兄さんからの誕生日プレゼントなんだ」
「ええね。うち、一人っ子じゃけえお兄さんとか憧れる」
その後むくろちゃんは外の様子を確認して「服、ありがとね。大事にする」と言うなり走り去っていった。ぼくも常善の不良が近くにいないことを確認し、杏落高校へ急いだ。




