24 出張
目が覚めると、そこはふかふかとしたベッドの上だった。それも天蓋つきのキングサイズで、中世の王族映画から引っ張り出してきたような趣向を凝らしてある。確かぼくは車の中で寝てしまったはずだが、ここは一体どこだ。目を擦りながら上体を起こし、辺りをぐるりと見回してみる。直後、夢の中にでもいるのかと一瞬本気で考えた。
黒喰請負事務所より二回りほど広い空間だ。クリーム色の壁紙と鳶色の絨毯、四時過ぎを示す時計が掛けられた壁側には艶やかな文机、赤い天鵞絨張りの丸椅子、向かいの壁側にはドレッサーがある。ふと、アンティークのランプを置いた丸いサイドテーブルが目に入った。ランプの傍にあったパンフレットを手に取ってみる。
「ホテル《ウンディーネ》……って、ここホテルなのか」
それもただのホテルじゃない。名前だけならぼくも知っている有名なマリンリゾート地に建つ高級ホテルらしい。パンフレットに紹介されているスイートルームの写真は、ぼくがいるこの部屋と全く同じだ。ベッドから下り、濃紺のカーテンを開け放った窓から外を見ると海辺がすぐ下に広がっていた。白い砂浜には色鮮やかなパラソルが開いていて、多くの人が海水浴をしている。文句なしのいい景色だ。
「よだかさん。どこに行ったんだ」
ぼくをここまで運んだのは間違いなく彼のはずだが、その姿が見当たらない。寝室を出て、居間のような部屋に入ってもよだかさんはいなかった。耳を澄ませてみると、ある扉の向こう側から小さな水音が聞こえてきた。突然その水音がぴたりと止んだかと思うと、ばたん、と扉が閉まるような音。一応ノックを二回してから、ぼくは扉を開けた。
「目、覚めたか」
「な……っ」
腰から太腿までにタオルを巻いただけのよだかさんと目が合った。風呂上がりだったらしく、全身は濡れて黒髪も額や首に張りつき、湯気が上がっている。
「す、すみませんっ!」
頭を下げて勢いよく扉を閉める。戸惑ったように「え、おい」と言う声が聞こえたような気がしたが、ぼくは大急ぎで寝室へ駆け戻った。
「ああもう、馬鹿かぼくは」
何故水音からあの部屋が浴室だと察することができなかったんだ。ぼくはベッドに飛び乗り、顔面を柔らかい枕に押しつけた。すぐ窒息しそうになって顔を上げ、溜め息を吐き出すような深呼吸をする。やがて、寝室の扉が開く音がした。よだかさんはついさっきの出来事や背を向けたまま動けないぼくのことなどお構いなしに、軋みの音すら立てず静かにベッドに腰掛けた。
「まさかタオル一枚の姿見ただけで、あんなに慌てるなんてな。俺正直処女を舐めてたぜ」
「すみません。わざとじゃないんです……」
「謝るなよ。俺は全然気にしてねえんだから」
まだ顔が熱いぼくはそこでようやく振り返り、よだかさんと向き合うことができた。真っ白なバスローブ姿だったが、全裸よりはずっとましだ。
「あの、ぼくはなんでこんなところに連れ込まれたんですか?」
「仕事に決まってるだろ。と言っても、依頼はこれから聞くんだけどな。一週間前、このホテルの支配人から事務所に電話がかかったんだよ。仕事の都合で杏落市に行くことはできないが、ここのスイートルームを二泊提供するから来てくれって」
「二泊って……最初に言ってくださいよ。着替えも何も持ってきてないのに」
「寝間着はこの部屋に用意されてる。それ以外は俺が金を貸すから、好きに買ってこいよ。服も下着も水着もすぐ近くに売ってるはずだ」
「水着?」
どう考えても余分だろう単語にぼくは訊ね返したが、よだかさんは「何かおかしなこと言ったか?」とでも言いたげな表情だ。溜め息をついて、話を戻す。
「その人、どうして電話で依頼の内容を話さなかったんでしょうね」
「電話で話すにはやたら長くなる内容か、あるいは万が一にでも傍受されるのを恐れるような内容か……そのどちらかだろうな。それに今までも、危険な杏落市には行きたくないが俺に依頼したいって言う奴らのために出張することがあった」
「よだかさんだけでもよかったんじゃないですか? わざわざぼくに学校を早退させてまで同行させる必要、なかったと思います」
「おいおい愛織。高校生のくせに仕事のことしか頭に入ってないなんて、これからの人生損するぞ。リゾート地のホテルでスイートルームを無料で借りて、夏の海を満喫できるのに一人だとちっとも面白くねえだろ。こういうのは二人以上で来るのがいいんだ。今日は夜の九時にここで支配人から話を聞くことになってるんだが、まだ時間は十分ある。さっそく水着買って海水浴に行こうぜ。この夏初めての海、楽しみだ」
無邪気な子供みたいな顔でそんなことを言われ、ぼくは拒否できなかった。
「ところでよだかさん。今から海に行くつもりだったのに、どうして入浴してたんですか?」
「ああ。お前が寝てる間、五人くらいこのホテルの宿泊客殺して返り血浴びたからな」
「依頼者の経営するホテルでなんてことを」
ぼくはワイシャツと黒のクラップドパンツに着替えたよだかさんと部屋を出て、エレベーターで一気に一階まで下りた。そこで服を取り扱う売店を見つけ、直行する。なるべく安いものを吟味した結果、象牙色のレーシーカットソーとチュニック、茶色をベースにしたボヘミアン朝のマキシスカート、インディゴブルーのスキニーパンツ、下着を購入した。
「あ? 水着はどうした」
水着を購入せず売店を出たぼくに、よだかさんが眉を寄せる。彼は水着も着替えも持ってきていたらしく、トリコロールカラーのビーチボール以外は何も買っていない。
「ぼくはいいです。泳ぐよりも浜で遊ぶ方が好きですから」
「身体の縫合痕見られることでも気にしてるのか」
「………………」
一度は、派手じゃないセパレートタイプの水着を試着した。それでも試着室の鏡に映ったぼくの姿は、ぼく自身から見ても不気味だった。やっぱり駄目だ、と思った。今着ているセーラー服の半袖やスカートから露出した手足の縫合痕も、すれ違う宿泊客の視線を集めている。水着なんて露出の多い服を着れば、ますます好奇の目に晒されるはずだ。小学校を卒業して以来水着を着なくなっていた分、今さらになって思い知らされた。
「ちょっと待ってろ」
黙っているぼくに嘆息し、よだかさんは売店に引き返してしまった。すぐに戻ってきた彼の手には店のロゴが入った袋。
「着ろよ。上司命令だ」
「水着の強要……完全にセクハラですよね」
「お前は視野が狭い。露出を抑えたいなら店員に相談すればいいだろ」
押しつけられた袋の中を見ると、女性用の水着とは別に白地にピンクのラインがある上着と黒いトレンカのようなものが入っている。
「ラッシュガードも知らないのか? とりあえず、それである程度は隠せるだろ」
「よだかさん」
「さっさと行くぞ」
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
やっぱり、この人には敵わない。
ぼくはよだかさんに掴まれた腕を振り解くこともできず、ホテルの正面玄関に向かう。年季が入っている風貌のドアマンが笑顔で「いってらっしゃいませ」と送り出してくれた。
よだかさんが選んだ水着は薄らとピンクがかった白色で、上がふんわりとしたフリルで飾ったチューブトップ、下がホットパンツだった。一体どういう基準で選んだのか多少気になるところだが、訊かないでおこう。もしかしたら彼の趣味なのかもしれない。そのまま着るとかなりの露出度だが、ラッシュガードのパーカーとトレンカを合わせると見事に肌の露出が激減した。ビーチサイドの更衣室から出てよだかさんを探すと、浜辺の方で黒山の人だかりが見つかった。黒山を成しているのは、ビキニ姿が眩しいくらい似合っている女ばかり。きっと、あの中だろう。
「……よだかさーん」
近寄って遠慮がちに声をかけてみると、すぐに人混みをかき分けてよだかさんが出てきた。膝頭より少し高い位置まで丈がある黒いサーフパンツの水着。風呂上がりのときは気が動転していてよく見ていなかったが、胸板はそれほど厚くないものの細マッチョと言ってよさそうな体格をしている。手にはまだ膨らませていないビーチボール。
「遅かったな」
「男と女は着替え時間にかなり差がありますから。特に水着は」
「なかなか似合ってるぜ。色気はほとんどねえけど」
「それはどうも」
一言余計だ。
「あちらの色気がある素敵な方々、よだかさんと遊びたがってるみたいですけど」
「放っておけ。それよりビーチバレーだ」
十人以上いた女達の存在をばっさりと切り捨て、よだかさんは比較的空いている場所へとぼくを引っ張った。彼が息を吹き込むと、ボールは一気に膨らんだ。それからぼくとの間に足で線を引くと、よだかさんはボールを高く放り上げた。
「いくぜ愛織!」
声を張り上げ、いきなりアタックサーブを決めてくるよだかさん。世界大会に出場する選手としてスカウトされてもおかしくないような、美しい打ち方だった。しかし風を切る音にぼくは命の危機を感じて避けてしまった。着地した先で砂埃を巻き上げながら白い砂を抉り、しばらく進んでようやくボールは停止する。
「おい愛織、何やってんだ」
「あんなサーブ拾えませんよ……」
「今日のクラスマッチで優勝したんだろ?」
高校のクラスマッチでやるバレーボールと不死身の殺人鬼を相手にするビーチバレーを一緒にしないでほしい。ぼくは砂に軽く埋もれていたボールを拾い、自分の陣地に戻った。
「じゃあ、いきますよ」
「おう」
ボールを空中に投げ、とりあえず軽めに叩く。すると、よだかさんは肉食獣のように唇を官能的に舐め、高々と跳躍してスパイクを打った。ぼくはなんとか受けようと思ったが、本能が危険を察知したのか身体はまたしてもボールを避けてしまう。再びよだかさんからブーイングが飛んできたが、命の方が大事だ。
「俺とのビーチバレーがそんなに嫌か? 愛織のくせに上司虐めかこのチェリーガール」
「そうじゃなくて、よだかさんの攻撃が強過ぎるんです! 見てくださいよ、ビーチボールで砂浜が抉れてるじゃないですか。あんなのまともに受けたら絶対意識が飛びます」
砂に埋もれているボールを指差しながらぼくは必死に抗議した。その後なんとか手加減をしてくれるようになったよだかさんとトスやレシーブでボールを繋ぐ。それに飽きると海に入った。海で泳ぐなんて何年振りだろう。海水は冷たかったが、じりじりと照りつける日差しと相まってちょうどいいくらいだ。よだかさんは子供のようにはしゃぎ、とんでもない速さで沖まで泳いでいってしまい、あっという間に見えなくなった。
「ねえねえ。そこの三つ編みちゃん」
「はい?」
一人で泳いでいると、突然見知らぬ男から声をかけられた。大学生くらいだろうか。金髪と日に焼けた筋肉質の身体、そして彫りの深い顔立ち。どことなくサーファーっぽい。
「一人で泳いでるの寂しいでしょ。向こうに俺の友達いるんだけど、一緒に遊ばない?」
「すみません。一応連れがいるので――」
「え、彼氏?」
「違います」
さりげなくぼくが距離を取ると、同じくらいの距離を詰めてくる。一体何故ぼくみたいな色気のない女子高生に構うのだろうか。あの岩場の方にもっとプロポーションのいい女子大生くらいの人達が集まっているというのに。
「連れってどこにいるの?」
「ものすごい勢いで沖の方に泳いでいきました。もしかしたら水平線の彼方まで行ったかもしれません」
するとぼくの話を冗談だと受け取ったのか、男はからからと笑った。
「意外とあんた面白いんだね。彼氏いないならさ、俺と連絡先交換しない?」
「え……」
「ちょうどあんたみたいな長い黒髪で胸小さい子が好みなんだよ」
さらに近づいてきた男が、馴れ馴れしく右側の三つ編みに触れる。穏便に済ませたいと思っていたが、この際掌底打ちをしてしまおうか。そう思ったときどこからか飛んできた透明のゼラチンみたいなものが、びちゃり、と男の顔面に当たり悲鳴が上がった。海月だ。まさかのこの海には飛び魚のように自力で水面上に出てくる海月が生息しているのか――と思ったが、当然そんなことはなかった。
「おーい愛織!」
声が聞こえてきた沖の方に目をやると、よだかさんが上機嫌な様子でこちらに向かってきている。次の瞬間彼の右手が何かを投擲し、みっともなく喚きながらも海月を剥がした男の顔面にまたしても命中した。
よだかさんが海月を投げている。
それを理解するのに時間はかからなかった。次第に海月の数も投げる速度も増していき、瞬く間に男は首から上を大量の海月で覆われてパニックになった。ぼくが急いで陸に逃げたとき、異変に気づいたらしい筋骨隆々な監視員が入れ替わるように海へと走っていった。ほどなくしてよだかさんも浜辺に戻ってきたが、彼の手や胸板には紅色の蚯蚓腫れが点在している。きっと海月の毒が原因だ。
「それ、大丈夫なんですか」
「もう治ってる。よく見ろよ」
そう言われて顔を近づけたところ、確かに紅色の腫れが徐々に消えて元の白い肌に戻っている。監視員も応急処置も必要ないようだ。
「なんであんなことをしたんです」
「沖まで泳いでたら海月を大量に見つけて、お前にも見せてやろうと思って投げたんだ」
「あの人の顔面に全部命中させてましたよね」
「泳ぎながら海月を投げるなんて初体験だったからな。陸地で野球ボールを投げるのとは全然違うって思い知らされたぜ」
「つまりコントロールが狂った、と?」
「それで愛織が納得するならそういうことにしておけ」
シニカルに笑うよだかさんの視線を追うと、監視員があの男を担ぐようにして戻ってきていた。男の首から上は見事に海月の毒で赤く腫れ上がり、目も開けられないらしい。周囲の海水浴客はざわついていたが、それよりも大勢の客は無関心な態度で遊び続けている。
「日が沈み始めたな。腹も減ったし、ホテルに戻るか」
「そうですね」




