23 一学期の終わり
四日間の勉強会が功を奏し、心配だった期末試験も無事赤点を取らずに済んだ。むしろ数学Ⅰは中間試験のときより点数が上がっている。百太郎くんも国語全体の成績が上がったことを喜び、ぼく達は試験期間限定の勉強会を今後も続けることを約束した。もちろん場所は《ルナティック》ではなく《クルーエル》で。
期末試験が終わると一学期最後の行事としてクラスマッチが開かれた。杏落高校では年に二回行われ、一学期にバレーボール、三学期にバスケットボールの試合をする。クラス内では本気で勝負をするAチームとそうじゃないBチームの二手に分かれるのが通例らしい。ぼくはBチームに入りたかったのだが、串山先生の指示には逆らえずAチームに入れられてしまった。ぼく以外のチームメイトは全員バレーボール部をはじめとする運動部員で正直気が重かったが、女子Aブロックではぼく達一年四組の女子Aチームが優勝した。
「優勝だよ! やったね、めーちゃん!」
「あそこでめーちゃんが上手くスパイク決めてくれて助かったよ!」
「本当にバレー経験ないの? フェイントもすっごく上手かったじゃない」
「帰宅部にしとくのもったいないわ。今からでも遅くないけえ、バレー部入ってくれん?」
「そうそう。めーちゃんにはウイングスパイカーがぴったりだと思うよ」
クラスマッチ終了後、ぼくを取り囲むようにしてチームメイトは口々に言ってきた。ぼくは彼女達に「部活には、入らない」ときっぱり言い切り、更衣室に駆け込んだ。スポーツタオルでしっかりと汗を拭い、体操服から制服に着替える。夏服にも関わらず、薄い生地の半袖にしただけで冬服と変わらない黒いセーラー服。色を白にすればもう少し涼しく感じられたかもしれないのに、と思わざるを得ない。
「ん?」
校舎に戻り、教室の前に辿り着くと奇妙な光景があった。クラスメイト数人が、まるで教室の中を覗き込むような怪しい姿勢で扉に張りついている。心なしか顔が赤く、何かに耐え忍ぶかのように苦しそうで切なげな表情をしている生徒が多いのは気のせいだろうか。
「どうかしたの、これ」
「あ、哀逆さん」
秋ちゃんが振り返り、ぼくを手招きした。
「教室になんだかすごい人がいるの。それで皆、中に入りづらくて……」
「すごい人? 生徒でも先生でもなくて?」
ぼくが言うと、周囲のクラスメイトが騒ぎ始めた。
「あんな生徒や先生がいたならすぐ話題になってるって!」
「ほんますごいで! なんて言うたらええんやろ……芸能人顔負け?」
「いぎなり美形」
「さっき女子が二人気絶して保健室に運ばれたくらいじゃけえ」
「モデルさんみたいに背が高くてね。脚もすらっと長くて」
「髪も綺麗なんよ。烏の濡れ羽色ってあれのことじゃろ」
「じっと見てたら気が変になりそう」
「天使みたい」
「いやいや天使より大天使」
「あんな色っぽ過ぎる天使いてたまるか。どっちかって言うなら悪魔だろ」
「男の人なのにピンヒールの靴履いとったよ」
「ちょっと待って」
ぼくは片手を軽く上げ、輪唱するように喋っていた一同を止める。
「今の話を聞く限り、その中にいるすごい人っていうのは――背が高くて脚も長くて烏の濡れ羽色をした髪でピンヒールを履いてる悪魔みたいに綺麗な男の人、なんだよね」
全員が頷き、ぼくの口からは思わず溜め息が出てきた。
「心当たりがあるから、通してくれる?」
するとその場にいたクラスメイト達の目が大きく見開かれ、モーセが開いた海のように彼らは左右にぱかりと分かれた。誰かが「勇者だ」と言ったのを皮切りに勇者コールが始まる。ぼくが勇者ならば駆け出しの新米勇者で、今教室に待ち構えているのは悪魔どころかラスボスの魔王だ。格が違う。いや、核から違う。ぼくはクラスメイトの声を背に浴びながら、深呼吸してから教室の扉を開けた。
「よお、チェリーガール」
ぼくの椅子に座り、黒いピンヒール――夏に入ってから露出が多いクロスベルトのものになっている――がよく似合う美脚をぼくの机に引っかけている殺人鬼がいた。たったそれだけで、一つの芸術品足り得る凄烈な絵画のようだ。見る者の魂を奪う、世界の時間が止まったような光景。いつ見ても、悪夢のような美貌だ。どこか恐ろしいのに甘美で、ただ清らかな美しさよりもずっと心の奥深くに刻み込まれる。そして全身の血が凍りつきそうになる微笑を、よだかさんは浮かべていた。ぼくの後方で誰かが倒れたような音が聞こえたが、気にしないでおこう。
「いい汗流してきたみたいだな」
「昨日からクラスマッチだったんですよ。女子Aブロックで優勝しました」
「それはよかったな」
そう言って、よだかさんは座ったままの体勢で椅子から跳躍した。決して短くなかった距離をものともせず、ぼくの前に着地する。それも何故かぼくの通学鞄を片手に持って。今日の服装はあの上下真っ黒な喪服ではない。上から二つボタンを開けた七分袖のワイシャツと、無骨なベルトを巻いたローライズジーンズというラフな組み合わせだ。
「何の用でわざわざ学校にまで来たんですか」
「決まってるだろ」
ぼくの肩に手を回し、よだかさんの顔が異様に接近する。どんな宝石よりも価値があるだろう真紅の瞳は子供のように輝いていた。
「お前に会いに来たんだよ」
「……そう、ですか」
なんだか嫌な予感しかしない。ぼくは差し出された通学鞄を手に取り、よだかさんは目を皿のようにしてこちらを窺っているクラスメイト達に向き合った。
「お前らの友人にはしばらく俺の都合に付き合ってもらう。この黒猫、強奪していくぜ」
「どうぞどうぞ!」
クラスメイトの声は見事にびしっとそろっていた。今日はあと終業式だけで終わる予定なのに、哀れな黒猫ことぼくはよだかさんにずるずると引きずられるように校舎を後にしてしまった。途中で教師や事務員に見つからなかったのは奇跡と言えるだろう。
「いい加減離してください。密着してると暑いですから」
「素直に照れるって言えばいいのに、相変わらず処女だな」
くつくつと笑いながら、よだかさんはぼくの肩から手を離す。ぼくはそれ以上何も言わず、鞄から水筒を取り出して氷の融けきった麦茶で喉を潤した。小高い丘を下った先で見たことのない黒塗りの車が停まっている。ぼくは車に詳しくないが、恐らく高級外国車なのだろう。そんな雰囲気が感じられた。一介の庶民がハンドルを握れば、不釣り合いで浮いてしまいそうだ。しかしこの高級車もよだかさんが乗り手なら本望だろう。
「これ、よだかさんの車なんですか?」
「四台目だけどな。おい、逃げるな」
即座に駆け出そうとしたぼくは襟首を掴まれ、絶息しかけた。四台目ってなんだ。そんな言葉を聞いてしまえば、逃げたくもなるだろう。これが四台目って、つまり今までに三台の車が壊れたという意味だ。バイクでさえも一ヶ月しかもたない運転をするような殺人鬼の車に乗るなんて自殺行為だ。ぼくは自殺したくない。
「喧嘩売ってるのか、お前」
「滅相もない」
ぼくは助手席に乗り込み、シートベルトを装着する。後部座席から取り出したスニーカーに履き替え、運転席に座ったよだかさんは思い切りアクセルを踏み込んだ。シートベルトには触れもしなかった。安全確認をする間もなく急発進した車は、高速道路を越えるスピードで普通の一般道路を駆けていく。最初は人を撥ねてしまうのではないかと内心冷や冷やしていたが、よだかさんのテクニックは予想以上だった。ボールを追って車道に飛び出してきた幼児も、赤信号の横断歩道を突っ切ってきた自転車も、交差点で横転してきたタンクローリーも、急ブレーキを使うことなく見事にかわしたくらいだ。そのジェットコースターじみた運転にも一時間が過ぎる頃には慣れ、ぼくは睡魔に襲われ始めていた。首が自然と前のめりになり、瞼が重い。
「クラスマッチが終わって疲れてるんだろ。まだ着かねえから、寝てろよ」
「ん……でも、よだかさんが」
「お前を乗せた車で俺が事故を起こすとでも? もし起こしたとしても愛織は死なせないから、安心して寝てろ」
得意気に笑うよだかさんにぼくは「大丈夫ですから」と首を横に振りつつも、勢いを増した睡魔の波に抵抗することができずに、ふっと意識を手放してしまった。




