22 勉強会
教室の窓は開いている。だが涼しい風が吹き込むことはほとんどなく、空気がまるで湯気のような感触で肌に触れていた。
「…………暑い」
六月下旬の現在、空が晴れている限り毎日が完全な夏日だ。無駄なほどに力強い太陽の光は、この杏落高校にも分け隔てなく燦々と降り注いでいる。教室の温度計が示す数値は冷房の使用許可が下りる温度にあと少し足りない。これではいくら冷暖房完備であっても意味ないじゃないかと生徒達が殺気立っているのがわかる。それでも皆決まりを守っているのは、以前一人の男子生徒が串山先生から受けた厳しい処罰を忘れられないからだろう。冷房を勝手に使用してあんな目に遭うくらいなら、暑さに耐えている方がいい。
湿気を含んだ暑さのせいか、大学ノートを捲るぼくの手は妙にべたついている。そこに書かれている公式や数字をどうにか頭に叩き込もうとしても、すぐに首筋や額に汗が溜まってきて集中できない。あと四日後に迫っている期末試験、どうなるだろうか。
「めーちゃん」
背後から声をかけてきたのは百太郎くんだった。夏用の白い半袖カッターシャツはボタンを一つも留めていなくて、中に着た紫と黒のボーダー柄のTシャツが見えている。
「何、百太郎くん」
「放課後、暇? 予定ないならうちで一緒に試験勉強やろうぜ」
「試験勉強」
「そう」
「驚いたよ。百太郎くんもやるんだね」
「俺だってちゃんと提出物は期限までに出すし、試験は受ける。留年したいとは思わねえからな。確かめーちゃん、中間は国語の結果よかっただろ」
国語以外は赤点をぎりぎり回避しているという素晴らしい出来栄えだったけどね。そう声には出さずに呟き、ぼくは頷く。
「俺は数学以外駄目。特に国語がさっぱりだから、めーちゃんに教えてほしいんだよ」
「え……百太郎くん、数学得意なの?」
「精々七十点から八十点の間までしか取れねえけどな」
それを聞いたぼくは、思わず百太郎くんに右手を差し出していた。机の大学ノートを見た彼もすぐに察したらしく、にかぁっと笑って右手を出す。国語が得意で数学が苦手なぼく。数学が得意で国語が苦手な百太郎くん。暑さで熱を含んだ手を握り合う。ぼくはこれからの四日間、彼と一緒に試験勉強をすることを決めた。
2LDKマンション《ルナティック》は病瀬町の住宅街に建っている。その最上階の角部屋が百太郎くんの住居だった。正確に言えば、百太郎くんと琴太郎先輩が兄弟で二人暮らしをしている。移動中に聞いた話が本当ならば、二人とも中学生になった頃にぼくと同様東京からこちらに移り住んで今のような暮らしを始めたらしい。なんでも厳格な母親と子煩悩な父親に挟まれて実家にいるのが息苦しかったから、という理由でそんな行動を起こしたのだと言う。当然昔ヶ原兄弟が今暮らしている部屋の家賃は、スリで稼いだ金と女に貢がせた金から支払われている。彼らがこのまま大人になったら一体どうなってしまうのだろう。想像しかけて、やめた。
「どうぞ、めーちゃん」
「お邪魔します」
扉を開けて、百太郎くんは先にぼくから入らせた。ほとんど何も置かれていない簡素な玄関から綺麗な廊下を見て、すぐに思ったことが「掃除もここに来る女性達にやらせているんだろうか」というものだった。我ながらひどい感想だ。
通された百太郎くんの部屋は随分と殺風景だった。てっきりスリやジゴロとして稼いだ金で派手な暮らしをしているのかと思っていたが、その予想は裏切られた。掛布団がぐしゃぐしゃになっているシングルサイズのベッド、学習机としても食卓としても使えそうなローテーブル、教科書や雑誌が押し込んである本棚、それ以外は空色のカーテンを閉めた窓とクローゼットの扉があるだけ。ぼくの部屋もそれほど多くのものを置いていないが、ここまでじゃない。
「好きに寛いで。使用済みのゴムとか女の下着とか出てくるかもしれないけど」
そんな空間でのんびり寛げる人間がいるのなら、ぼくはその人の神経を疑う。
百太郎くんはすぐさま冷房を入れ、ここに来るまでの間に寄った店の買い物袋をローテーブルの脇に置いた。彼が言うには勉強するときはお菓子と飲み物が必要不可欠らしい。一度に大勢で食べられるスナック菓子、対象は小学生以下だろう食玩、小さなキャンディやチョコレートの詰め合わせ、そんなにいるのかと言いたくなるほど種類豊富だ。飲み物はミルクティー、サイダー、オレンジジュースの三種類でいずれも五百ミリリットルのペットボトル。百太郎くんがコップを出す様子はない。回し飲みをすることになりそうだ。
「好きなの開けていいぜ、めーちゃん」
言いながら百太郎くんはさっそくポテトチップスの袋を開けている。ぼくは店で彼が選んだときから気になっていた食玩の箱を手に取った。チョコレートを挟んだウエハースのおまけとして、本物そっくりに作られたゴム製の虫がシークレットを含めて七種類入っている。箱の裏側に紹介されているのはアゲハチョウ、カマキリ、カブトムシ、クワガタ、バッタ、ミツバチ、そしてシークレットの黒いシルエット。あの害虫にしか見えない。試しに開けてみると、紹介されていない虫が出てきた。案の定、シークレットはゴキブリだった。玩具とわかっていても、サイズが実物と大して変わらないことや生理的に受けつけない見た目からぞっとする。残りの箱三つを開けてみるとアゲハチョウ、バッタ、ゴキブリが出てきた。まさかのシークレットが二つ。
「なんでこんなもの買ったの?」
「ウエハースが食べたい気分だったんだけど、あの店ってそれ以外ウエハースないんだよ」
「じゃあ、この玩具の虫はどうするつもり」
「特に考えてなかったんだけど、悪戯で女の部屋に仕掛けてみるのもいいかもな」
ぼくはウエハースを一つだけ口に入れ、筆記用具、国語の教科書、大学ノートをローテーブルの上に取り出した。嫌そうな表情をしながらも百太郎くんは油だらけの指をウェットティッシュで拭い、ぼくのものより使い古された教科書を開き始める。きっと彼の教科書は琴太郎先輩のお下がりなのだろう。
「じゃあ、まずはぼくが教えるから」
「はーい。よろしく、めーちゃん先生」
かなり涼しくなってきた部屋でぼく達はローテーブルを挟んで向き合い、互いに教え合う形式の試験勉強を開始した。百太郎くんの質問に答えているうちに、こうしてクラスメイトと試験勉強をすることが初めてであることに気づいた。
インターホンの音が鳴り響いたのは、一時間が過ぎた頃だった。百太郎くんは素早く部屋を出ていったが、玄関とは反対方向へと足音が消えていく。きっとモニターを見に行ったのだろう。しばらく何かを話している声が聞こえたが、慌てた様子の百太郎くんが部屋に戻ってきた。何故かその手にはぼくの靴が握られている。
「まずいことになった」
「え、何。どうしてぼくの靴を」
「面倒な女が来たんだよ」
「…………あ」
大体の事情はわかった。百太郎くんとただならぬ関係にある人が押しかけ、仕方なく部屋に入れることになったが、今ここにぼくがいるところを見られては面倒事になる。そういうことだろう。ぼくは自分の靴、教科書やノートを突っ込んだ鞄、お菓子と飲み物が入っている買い物袋を抱えた。一人で飲み食いしていたと言ってもおかしくない程度の量だけがそのままローテーブルに残される。
「悪いけど、クローゼットの中に隠れててくれ」
「クローゼットって」
「早く」
別の部屋に移動する時間もないってことか。仕方なくぼくは百太郎くんに言われた通り、クローゼットの中に入った。幸い広いスペースだったため、楽な体勢で座っていられる。百太郎くんの手によってクローゼットの扉が閉められると、ほんのわずかな光が隙間から漏れてくるだけの暗闇になった。足音が遠ざかった――かと思うとすぐに二人分の足音が部屋に入ってきた。寂しかっただの、会いたかっただの、砂糖菓子を噛み砕いたような甘ったるい女の声に百太郎くんが受け答えている。ぼくはじっと息をひそめて、買い物袋が音を立てないようにと気をつけていた。暑くはないはずなのに、嫌な汗が出てくる。
「おい……!」
不意に、百太郎くんの焦ったような声が聞こえた。続けて衣擦れするような物音が聞こえてきて、ぼくは頭を抱えたくなった。これって長引きそうな展開じゃないのか。
「可愛いでしょ、このランジェリー。百ちゃんに見せようと思って買ったの」
「ああ、確かに可愛いな。九十点ってところか」
「ちょっと、残りの十点は何が足りないのよ」
きゃらきゃらと高い笑い声が響く。ああ、駄目だこの展開は。勘弁してほしい。
「結構ご無沙汰だったから好きなだけ抱いてもいいわ。私、明日は仕事ないから」
「一回だけで十分だ」
「えーっ。何それぇ」
「俺、試験勉強やってたんだよ。一回だけ相手するから、終わったらシャワー浴びてすぐに帰ってくれ。試験が終わったらデートしよう」
「わかったから、はーやーくぅ」
ぼすっ、とベッドに倒れ込む音。それに続いて、キスをしているのか水っぽい音と二人分の息遣いがかすかに聞こえてきた。やがて女が鼻にかかるような嬌声を上げ始める。なんだか、聞いているだけなのに堪らなく恥ずかしい。そもそも他人の情事を盗み聞きするような趣味、ぼくにはないのだから。どうか早く終わってくれ――と、叫びそうになったとき。またしてもインターホンの音が、鳴り響いた。
「悪い。ちょっと待っててくれ」
「……もうっ、早くしてよね」
不満そうに言いながらも、女は文句を言わない。もしかしたら百太郎くん、性行為の最中であってもインターホンが鳴ったら必ず応対しているのだろうか。いつ命を落とす危険が降りかかってもおかしくない杏落市では普通なのかもしれない。ならば賢明な行動と言える。だが、事態は思わぬ方向に動いた。
「ちょっと誰よあんた!」
「はぁ? それこっちの台詞。早く帰ってくれない?」
現在ぼくの耳には、板一枚の向こうで繰り広げられている修羅場の声が届いている。どうやら二回目のインターホンも百太郎くんと爛れた関係にある人だったらしく、一回目の人と同様押しかけてきたようだ。そして鉢合わせた女二人が、言い争いを始めた。
「あんたが帰りなさいよ、ブスのくせに!」
「先に来てたのは私よ。つか何その服。どこで拾ったの? 泥ついてるし」
「泥じゃなくて柄なんですけど! 眼科行けよ」
「うっわ、ありえない。そんなの百ちゃんの趣味じゃないし」
「あんたに彼の何がわかるって言うのよ。百太郎は可愛いって言ってくれたもん」
「そんなの単なるお世辞に決まってるじゃん。あーあ、真に受けちゃって。本当こういう馬鹿って可哀想だよね」
「ふざけんな。浮気相手はあんたの方でしょうが」
「勘違いしないでよ。ブスが調子乗んな」
二人の女が百太郎くんを巡って罵り合っている。何故だ。どうして何股もかけている百太郎くんに対してその怒りをぶちまけないんだ。その場にいるはずの張本人はさっきから黙っていて、何も口を出していない。宥めるとか言い訳するとかした方がいいのではないかと言いたいが、ここでぼくが姿を現してしまえばますますややこしいことになるだろう。だからぼくは吊るされている服に埋もれながら、じっと体操座りをしていた。
ヒートアップしていく女の言い争いは声がきんきんと尖っていて、耳が痛くなりそうだ。ぼくはすぐ近くにあったあの玩具のゴキブリを弄って気分を紛らわす。しかしこの行動は失敗だった。細い足を持った人差し指と親指をくるくる動かしていると、玩具のゴキブリがぼくの指から滑り落ちて買い物袋に触れ、かさっ、と音を立ててしまった。
「今、なんか音聞こえなかった?」
後から入ってきた方の女が怪訝そうに言う。思わずぼくは拾い上げた玩具のゴキブリをぎゅうっと握りしめた。これはまずい。いくらクローゼットの中が広く、たくさんの服が吊るされていて、ぼくが奥に引っ込んでいようと結局すぐに見つかるはずだ。こんなところに隠れているぼくが見つかれば、今よりもっと恐ろしい修羅場に巻き込まれてしまう。百太郎くんも誤魔化し切れないと思ったのか、何も言ってくれない。女達も「まさか誰か隠れてるんじゃないでしょうね!」と言い出す始末。こうなったら、一か八か―――。
きい、と扉が開きかけた瞬間ぼくは手に持っていたものを投げた。二匹の、ゴキブリを。扉が全開になるより先に二重の金切り声が上がる。慌ただしい足音が部屋から出ていき、それを追いかける百太郎くんの足音も遠のいた。しばらくヒステリックに騒ぐ女の声が聞こえていたが、やがて静かになる。一人分の足音が部屋に戻ってきて、そのままにされていた扉が勢いよく開いた。
「やっぱりめーちゃんってすごいよな」
ぼくと目が合った百太郎くんは愉快そうに笑っていた。もし彼が上半身裸ではなく、ちゃんと服を着ていた場合ぼくは躊躇いなく胸倉を掴んでいただろう。しかし今の百太郎くんは性行為に及ぼうとしていたため、半裸だ。ほどよく割れた腹筋、銀のシンプルな臍ピアスが堂々とこちらを向いている。
「百太郎くん。明日からはぼくのマンションで勉強するよ」
どっと疲れた気分だったせいか、自分が一体どんな表情と声色だったのかわからない。ただ、それまで笑っていた百太郎くんの顔がぎしりと音を立てそうなほどに引き攣って頷いた。