表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/69

21 少年の恋心

 初めて揺籃町の公園に訪れたぼくは、寄ってきた野良猫としばらく戯れた後、喉が渇いたからと園内にある自動販売機に向かった。時刻は午後の三時過ぎ。公園にはぼく以外に小学生くらいの少年達が五、六人ほど元気に遊び回っているだけで大人の姿は見えない。

 東京では見たことのない地域限定の飲み物も取り扱っていたが、散々迷った末にぼくはポカリスエットのボタンを押した。それとほぼ同時に後ろから「あーっ!」という幼い声が聞こえ、思わず振り返るとバレーボール用と思しき白いボールがこちらに迫っている。とっさに受け止めると、一人の少年が駆け寄ってきた。襟にラペルピンを挿した白いシャツにサスペンダーつきの黒い半ズボンで、真っ直ぐ伸びた脚が履いた靴下はソックスガーターで留められていた。いいところ育ちのお坊ちゃん、という印象がある。

「ごめんなさいでした」

 そう言って深く頭を下げる少年。見た目に相応しい礼儀を教育されているようだ。

「ああ、大丈夫だよ。気をつけてね」

 ぼくはそう言ってポカリスエットのペットボトルを手に取り、その場を去ろうとした。しかし「待ってください」と少年に呼び止められる。何かと思って振り返ると少年はボールを友達のところへ投げた後で、自動販売機を指差した。

「当たっているですよ」

「え?」

 見ると、自動販売機のボタンはまだ押せる状態を知らせるかのように光っていた。どうやら当たり機能がついているらしい。もう一本、飲み物を買える。音声でも流してくれればいいのに、わかりにくい当たり機能だ。しかし今はポカリスエットを買った直後で、特にこれと言って飲みたいものがあるわけじゃない。

「あ、ねえ。きみのおすすめって何か教えてくれる?」

 まだぼくの傍に立っていた少年に訊ねてみると、彼はきょとんとした後で自動販売機をじっくり眺めた。そして一番上の棚、一番左にあったペットボトルをおずおずと指差す。

「……瀬戸内レモン、レモネード?」

 ラベルを見る限り地元限定の飲み物らしい。

「僕が一番好きなジュースです」

「そうか」

 ぼくはそのレモネードのボタンを押し、落ちてきたペットボトルを少年に差し出した。

「はい」

「え」

「教えてくれて、ありがとう」

「…………どういたしまして、です」

 もごもごと言いながらペットボトルを受け取った少年に頷き、ぼくは「それじゃあ」とポカリスエットの蓋を開けながら公園を後にした。三月から四月へと暦が変わる頃の、もう暖かい午後だった。



「――――楪くん、だったね。あのときボールを受け取った子」

「はい」

 正直に言うと、ぼくはすっかり忘れていた。何しろあの数日後によだかさんと衝撃的な出会いを果たしたのだから、小学生と会話した記憶なんて薄れてしまっても無理はないだろう。何を言うべきかとぼくが考えているうちに、楪くんはぽつりと呟いた。

「好きです」

「何が?」

「お姉さんのこと」

 あまりに意外な言葉だったため、思わず息が詰まりかけた。しかしぼくは余裕を見せるように全然動じていない仕草で前髪を弄り、息を吐いてゆっくり瞬きをする。楪くんは小学四年生だ。第二次成長期に入りかけている頃だろう。どちらかというと早熟な女子の方が先に恋愛を経験する年頃だと思うが、だからと言って楪くんがぼくに好意を抱くこと自体はおかしなことじゃない。人間として、普通のことだ。

「それは、随分と……」

 趣味が悪い。

 そう言いそうになって口を噤んだ。

 ぼくはただレモネードを奢っただけじゃないか。それも、当たりの一本だ。まさかたったあれだけの出来事でぼくを好きになったのだろうか。年下の、それも男の心理なんて女子高生のぼくには理解しがたい。

「好きです、お姉さん」

「う、ん」

「お姉さんはとても優しくて、素敵な女性です。少なくとも、僕は公園で初めて会ったときからそう思っているですよ。初恋、です」

 彼なりのいい言葉を選んでいるのか、一言一言がゆっくりだ。柔らかくて滑らかそうな頬も、耳も、首も、街灯の下で赤く染まっていた。年不相応に据わっていた目が今では熱を出しているように潤み、それでも視線は真っ直ぐぼくに向かっている。

「だから楪くんはぼくをストーカーしてたのか」

「…………はいです。どうしても、気になって」

 どうやら楪くんにとって意中の相手を至近距離で尾行したり撮影したり、住居に侵入することは告白よりも簡単にできるらしい。

 もしかしたら、彼はぼくに自分の存在を知ってほしくてストーカーしていたのだろうか。ふとそんな考えが浮かんだ。ストーカーの心理はわからないが、ぼくは楪くんのことを忘れていた。それを知ったとき彼は少なからず傷ついたかもしれない。

「付き合ってほしいなんて言いません。お姉さんにとって僕はただのストーカーで、年下の子供だってわかってるです。でも……ちゃんと言葉にして、知ってもらいたかった。僕が、どうしようもなくお姉さんを好きだってことを」

「そう……ありがとう、楪くん」

 ぼくは楪くんの形がいい真ん丸な頭を撫でた。人の頭なんて碌に撫でた経験がないから、手つきは我ながらぎこちない。

「きみはそのうち、ぼくなんかより本当に素敵な女性と出会うよ」

「…………お姉さん。一つだけ、お願いしてもいいですか?」

「ぼくにできることならね」

「どこにでもいいから、キスしてほしいです」

 楪くんの頭を撫でていた右手をそのまま額に移動させ、軽く前髪をかき上げた。彼が両目を閉じ、ぼくは少し屈んで額の中心辺りに唇を触れさせる。

「ありがとうございました」

 ぼくが唇を離すと、楪くんは深く頭を下げた。

「《クルーエル》まで送りましょうか」

「気持ちだけ受け取っておくよ。今は歩いて帰りたい気分だ」

「じゃあ、気をつけて。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 楪くんの姿が見えなくなり、ようやく緊張感が解けたぼくは溜め息をつく。やがて楪くんと入れ替わるようによだかさんが現れた。ピンヒールの音を響かせて街灯の下に出てくるその姿は、まるで悪魔のようだ。ただ夜道で出会っただけにも関わらず、官能の淵に沈んでいくような感覚で相手を夢見心地にさせる。

「面白い奴じゃねえか。小学生相手とは言え、あれほど愚直なくらいの好意を向けられたんだ。処女としては満更でもない気分なんじゃないのか」

「盗み聞きでもしてたんですか?」

「勝手に聞こえてきただけだ。お前、自分の首にぶら下がってるものが何か忘れたのかよ」

 そう言ってよだかさんはマイクで拾った音声を聞く受信機を目の高さまで持ち上げる。ああ、なんてことだ。失念していた。このペンダントに入っているマイクから、ぼくと楪くんの会話は全て筒抜けになっていたことになる。恥ずかしいと思うより、楪くんに申し訳なくなった。恐らく、彼もぼくがマイクを身に着けていることを忘れていたのだろう。

「聞こえてきたなら音声を切ってくださいよ」

「そんな内緒にするような内容でもなかっただろ」

 ぼくが歩き出すとよだかさんも隣を歩き出した。やくざが一般人の住宅を襲撃する出来事が起きた後にも関わらず、辺りは静かだ。もう柩木組の人達は全員いなくなったのだろうか。

「今回の依頼って、どうなるんですか?」

「何が」

「珊瑚さんは強姦魔に落とし前をつけさせるという依頼をしました。殺さず、痛い目を遭わせるようにって。でも男達は全員柩木組が連れていったじゃないですか」

「そのことに関してはさっき交渉しておいた。柩木組はあの男達を処分してるところを動画に撮って、俺に寄越すと約束した。俺は依頼者にマイクから拾った音声とその動画で確認させた後、すぐに動画を消すと約束した。問題ねえよ」

「それってちゃんとした話し合いの交渉だったんですか? よだかさんのことだから脅迫や武力行使で――」

 ばちぃん、と突然額を何かに貫かれたような衝撃が走った。一瞬引っ繰り返ると思ったが、ぼくの身体はぎりぎり持ち堪える。何が起きたのかわからなかった。涙でぼやけた視界の中、よだかさんがかすかに開いた右手をこちらに向けて赤い舌を突き出していた。どうやらぼくはとんでもない威力のデコピンを食らったらしい。

「本来は堅気の人間に組の内部でやってることなんか見せられねえけど、あっちも俺達を利用してたんだからこれで貸し借りなしだ」

「そうですか……」

 額を慎重にさすってみたが、穴は開いていなかった。凹んでもいない。

「怖かったか?」

「多少は。でも、世の中にはあの強姦魔よりもっと怖くて嫌な人間もいますから」

「そのお前が怖くて嫌だと思う奴の中に、俺も入ってるのか?」

 よだかさんは相変わらずシニカルな笑みを浮かべていた。いつかこの人を驚かせてみたい。でも、今はきっと無理だろう。

「よだかさんは、ちょっと怖い人です」

「そうか」

「でも、嫌な人じゃないと思ってますから。殺人鬼で、セクハラしてきますけど」

「………………」

「………………」

 何か言えよと叫びたい気持ちを必死で堪える。この沈黙から逃げる道はないかと視線を彷徨わせていると、気づけば翠雀を出ていた。楪くんと初めて出会った公園が見える。ぽつねんと一台だけ存在する自動販売機が眩しいくらいの白っぽい光を放っていた。

「ちょっと、飲み物買ってきます」

 ぼくは《瀬戸内レモンレモネード》を一本買った。蓋を開けると、檸檬のいい香りが鼻をついた。飲んでみると、大方イメージ通りの爽やかな味がする。美味しい。ただ、小学四年生の少年がおすすめするものにしては大人っぽい飲み物な気もする。自分で思っていたより喉が渇いていたのか、なかなかペットボトルの飲み口を離すことができない。ぼくがレモネードを飲んでいるうちによだかさんも公園の中に入ってきて、冷たいココアの缶を買っていた。彼もその場で飲み干し、早くも空になったアルミ製の缶は片手の握力で押し潰された。そのまま自動販売機の横にあった缶専用ごみ箱に放り投げられる。

「おい愛織」

「はい」

 ようやくペットボトルの飲み口を離すことができた。半分とまではいっていないが、もう半分近くペットボトルの中身が消えていた。

「俺にとってお前はちっとも怖くない女子高生だ」

「でしょうね」

 そもそも不死身の殺人鬼にとって、怖いと思う存在なんているのだろうか。もしいるのだとしたら、少し気になる。そして怖がらせてみたい。

「それに、嫌な奴でもねえよ」

「そうですか」

 意外だな、と心の中で呟いた。

 結局よだかさんはぼくを《クルーエル》の前まで送ってくれた。途中ですれ違った通行人を彼が一人残らず惨殺したせいで、ぼく達が歩いてきた道は血と臓物で汚れてスプラッター映画のような有様となってしまった。しかしぼくには関係のないことだと割り切る。

「明日も学校あるんだろ。早く寝ろよ」

「そのつもりです」

「また明日な」

「はい」

 ぼくはマイク入りペンダントをよだかさんに返し、エントランスに入った。部屋に帰って浴槽に熱めの湯を張りながら、今着ている服はこのままぼくが受け取ってもいいのかな、と思考する。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ