01 入学式の放課後
よだかさんと初めて会ったのは忘れもしない四月六日、入学式の日だった。
日本唯一の犯罪都市として有名な広島県杏落市。
日本国内で最悪の鬼門。
人の命は二束三文。
とにかく人口の増減が激しい。
せめてもの長所は安い物価と何故か市民に美男美女が多いこと。
そんな市内でも比較的安全地帯とされる揺籃町。東京からそこに引っ越してきたぼくが、生まれて初めての一人暮らしにもそこそこ慣れ、落ち着き始めた頃だった。
ぼくがこの春から通うことになった市立杏落高校は、落書きがされた門や壁、割れた窓ガラスや罅が入ったコンクリートなどがなかなかにインモラルなセンスを醸し出していた。弾痕や血糊のようなものも見かけた気がする。しかし入学式は滞りなく進んだ。体育館には空席がいくつか存在していたが、ここにいる生徒の三割が不良だという情報はすでに知っていたから不思議ではない。入学早々に式をさぼる生徒も少なからずいるだろう。
一年四組の教室で担任の挨拶を含む話が終わり、すぐに下校。徒歩二十分で着くマンションに帰って、受け取ったばかりの教材を整理する――はずだった。
「どこだよ、ここ」
気づいたら見覚えのない殺風景な部屋で、ぼくは椅子に座っていた。正確に言えば椅子に縛りつけられていた。両腕が背凭れの後ろに回され、手首が縄らしいもので縛られている。しかし両脚はそのままにされていて、まず抱いた感想は「杜撰な拘束だな」だ。
どこかの倉庫だろうか。鉄骨の枠組みが剥き出しで、とてもではないが一般住宅とは思えない。カーペットも絨毯も敷かれていない床はコンクリートで、軽く埃が積もっていた。それほど重くないパイプ椅子で両脚が自由だとは言え、無理に椅子ごと立ち上がって動こうとすれば確実にこの床と熱いキスをする羽目になるだろう。それは遠慮願いたい。
どうしてこんな状況になっているのか。やがて冷静になった頭が事態を把握する。通学路にある小さな公園で、ぼくが目撃したものがいけなかったのだ。
平日の昼前で無人に見えた公園の隅、公衆トイレの陰に人影が二つ。気にせず通り過ぎてしまえばよかったのに、ぼくは立ち止まった。立ち止まってしまった。
「あっ、あああの、これ……五十万あります」
「ああ。確かに」
一人の若い挙動不審な男が茶封筒を差し出すと、もう一人の貫録を感じさせる中年の男が受け取り、中身を確かめてから紙袋を渡す。中に入っているのは薬物か何かだろうか。まるでフィクションのような怪しい売買が展開されていた。ぼくがこの犯罪都市に来て二週間が経っていたが、そういう売買の現場を見るのは初めてだった。
幸い距離があったため、二人はぼくに気づいていないようだった。すぐに立ち去ろうとしたのだが、突然背後から頭を強く殴られ、そこで意識が途絶えた。今考えてみれば、ああいう現場には見張りくらいいるのが普通だろう。公園の近くには黒塗りのバンが停まっていた。あの中に見張りがいたのかもしれない。油断していたぼくの落ち度だ。しかし今さら後悔しても後の祭り。
「あ、そう言えば荷物は――」
どこに、と首を動かすとすぐに見つかった。部屋の壁に凭れさせるように、真新しい黒い通学鞄が置かれている。誰かがわざわざ持ってきてくれたらしい。人を攫ったという証拠を残さないためだろうか。とにかく捨てられていなくてよかった。
とりあえず、拘束されている両手を力任せに動かしてみた。よほど強く縛ってあるらしく、ぎしぎしと縄が軋むだけだ。むしろ動かした分縄が食い込んで、いらない痛みまで味わうことになった。やっぱり素手で解くのは無理らしい。左手の人差し指に嵌めていた指輪をどうにか親指だけで弄り、仕込まれていた刃を出す。後ろ手のため手探りで必死に指を動かしていると、ぶつっ、という手応えを感じて縄が解けた。自分の指も少々傷つけてしまったが、まさか本当に縄まで切れるとは。杏落市に来たばかりの頃に「若い頃は暗殺者だったんだよ」と言いながらこの指輪を売りつけた露天商の老人に感謝しよう。
頭に手をやると、まず帽子の感触があった。攫われるときに落としていなくてよかった。かすかに鈍痛が残っているが、殴られた衝撃で軽く瘤ができた程度だろう。
重い荷物を持っていては脱出に不利かもしれない。そう悩んだものの、ぼくは結局新品の教科書で膨れた鞄を肩にかけ、静かに部屋から出た。しかし現実はそう甘くない。部屋から出てすぐの廊下で、小柄だが強面の男とばったり鉢合わせてしまった。
「ガキが逃げるぞ!」
声を張り上げながら、男がぼくの顔面に真っ直ぐ拳を突き出す。とっさに屈んで、こちらも拳を突き上げると男が呻いて倒れた。顎に上手く当たったらしい、なんて喜ぶ間もなく別の痩せた男が近くの部屋から現れた。腹を狙って蹴り出された右足を鞄で受け止め、お返しに軸足の膝を蹴る。そのままバランスを崩して倒れ込んだ男の股間を、申し訳なく思いつつも全体重かけて踏み抜いた。想像以上に痛そうな悲鳴が上がる。ごめんなさい、と心の中で両手を合わせておいた。
二人の男をどうにか乗り越えて廊下を走り、チェーンロックがされた鈍色のドアまで到達する。助かった。いや、まだ気を抜いてはいけない。そう考えながら鍵を開け、チェーンロックも外し、ドアノブを掴んだ途端――ものすごい勢いでドアが引かれた。
「うあっ」
ぼくはドアノブを掴んだまま前につんのめり、ドアを開けた誰かの胸元に顔をぶつけてしまった。ああ、畜生。上手くいけると思ったのに結局ここまでか。ホールドアップ、なんて幻聴が聞こえた。体勢を直し、そのまま素早く両手を上げる。
「お前、堅気の客か?」
頭上から聞こえてきた男の声に、ぞくりと背筋が震えた。恐怖を感じたのではない。今までに聞いたことがない、あまりにも綺麗な声だったからだ。思わず閉じていた目を開けた途端、喘ぐような小さい声がぼくの喉から漏れた。綺麗な声の持ち主はその声に相応しい――いや、相応し過ぎるくらいに美しい人だった。こんな鬼気迫る状況で、不思議と時間が一時停止でもしたかのように錯覚する。
天使の輪が浮かび上がっているその髪は、ぼくと同じ黒髪だと認めたくないほどに見事だ。烏の濡れ羽色とでも表現すればいいのか、まるで濡れたような色艶があった。長さは耳より下、肩より上で何か整髪料を使っている様子はなく、無造作にしている。白兎のような真紅の瞳を持つ目はやたらと長い睫毛に囲まれ、それが白皙の美貌に薄らと影を作っていた。脚がすらりと長く、その分胴が短い体型をしている。喪服のお手本みたいに上下ともに真っ黒で飾り気のない服に包まれた身長は百九十センチくらい。しかし足元を見ると、黒い靴は十センチくらいのピンヒールだった。年齢は十代後半から二十歳前後くらいに見える。案外、ぼくとそこまで年の差はないのかもしれない。
「おい。聞いてるのか」
オスカー・ワイルドの小説にでも登場しそうな美青年だ。なんてことを考えていたぼくはその怪訝そうな声で我に返った。ものすごく長い時間相手を観察してしまったような気がしたが、実際にはそれほど時間は過ぎていなかったらしい。
「す、すみま」
せん、と言い切る前に男の右脚――その膝頭が突然ぼくの腹部にめり込んだ。
「っ! あ、ぐ……」
鳩尾には入らなかったものの予期していなかった衝撃に、たまらずぼくは膝から崩れ落ちる。それと同時に派手な銃声がぼくの後ろから響き、目の前に立っていた青年の胸に穴が空いた。ついさっきまでは、ちょうどぼくの頭があったと思われるところに。
「え」
喪服を着ているため目立ちにくいが、確かに空いた穴からは血が溢れ出していた。銃で撃たれたことは一目瞭然。それなのに、彼は顔色も変えず平然と立っている。
「防弾衣を着てやがる! 頭を狙え!」
怒鳴るような男の声が聞こえて振り返ると、二十メートルほど離れたところに物騒な雰囲気を纏った男が三人いる。そのうち二人が銃を構えていた。彼らの位置からでは遠いのか、黒い喪服に滲む血が見えないらしい。
「お前、何しに来た。うちの商品を狙ってんのか」
銃を構えた男の一人が錆声で問う。当然ぼくではなく、喪服の青年相手に。
「仕事で来たんだよ」
つかつかと五歩ほど進み、物怖じする様子もなく答えた青年の右腕が霞んだ。ぶんっ、と風を薙ぐような音が聞こえた次の瞬間、硬いもの同士がぶつかり合うような音が聞こえる。かと思えば、先ほど口を開いた男が悲鳴もなく後ろ向きに倒れた。ぼくも男達も何が起きたのかすぐには理解できない。しかし倒れた男の近くでころころと転がる鈍色のものが目に留まった。
「……ドアノブ?」
誰より先にぼくが呟いた。どうやら青年はいつの間にかドアノブをもぎ取っていて、それをとんでもない威力で投擲したらしい。そう理解したと同時にもう一人の男が銃を立て続けに撃ってきた。慌ててぼくはその場に伏せ、鞄を頭に寄せる。何かが倒れる音がすると、すぐに銃声は止んだ。恐る恐る顔を起こして、後悔した。青年は銃弾をまともに浴びたらしく、顔の上部が割れた柘榴と化して仰向けに倒れていた。惨殺死体だ。肉片。血。脳漿。毛髪。脳、もしくは頭蓋骨の欠片。そこまで視界に映した後で、喉の奥――胃から何かがせり上がってくるのを感じたが、堪える。まさか杏落市で初めて目撃した死体がこんなにショッキングなものだなんて。
「死んだな」
頭上から声が聞こえ、ぼくは首根っこを掴まれた。男は髪に整髪料か何かをたっぷり使っているのか、ワックスじみた匂いがきつい。そう思っているうちに首根っこを掴む男が後ろに下がり、開け放たれたままの血で汚れたドアが遠ざかる。まだ青空だ。正午は過ぎただろうか、と現実逃避をしてみる。
「はん。お綺麗な顔が台無しだな」
「仕事って言ってましたけど、どこの者だったんでしょうね」
銃を片手に持つ丸刈りの男が言いながらもう一発、喪服の青年に銃弾を放った。腹部に穴が空き、そこから血が流れ出る。しかしそれ以外の反応はない。
「血が出てる……。こいつ防弾衣、着てないみたいですよ」
「どっちにしろ頭さえ撃てば終わりだろうが」
「そうなんですけど、じゃあどうして最初に撃たれたとき平気だったのか」
そこで言葉を区切り、男は自分の足元に視線を落とす。ぼくは思わず目を疑った。相変わらず割れた柘榴のような顔をした青年の手が、傍らに立った丸刈り男の左足首をしっかりと掴んでいる。しばらく信じられないものを見るような目でその手を見つめていたが、男は黙って拳銃に新しい弾を込める。ぼくも、ぼくの首根っこを掴む男も無言だ。
「………………」
「………………」
「………………」
そして銃弾を装填した男が銃口で狙いを定めようとしたとき、形容しがたい変な音が聞こえた。直後――いや、ほぼ同時に丸刈り男の獣じみた絶叫が廊下に響き渡る。
「おいおい、俺は夢でも見てんのかよ……」
引き攣った声がぼくの頭上から降ってきた。丸刈り男の左脚が足首の辺りから裂けて、生々しい肉と血と骨の色合いが見えている。あの形容しがたい変な音は、喪服の青年が素手で丸刈り男の足首を引き千切ったものだった。丸刈り男が床を転げ回る傍らで、千切ったばかりの足首を掴んだまま青年が起き上がる。
「なあ、ここって水道あるか? 顔を洗いたい」
口の中に溜まっていたらしい血を吐き捨て、彼は言った。顔や髪が血塗れではあるものの、いつの間にか全ての弾痕が消えて元通りとなっている。傷一つ、残っていない。
「すごい……」
まるでホラー映画に出てくるアンデッドだ。あまりに現実離れしたこの状況に、ぼくは恐怖を感じるよりも感嘆するような声を出してしまった。鞄を持つ手に力が入る。
「くそっ!」
悪態をついた男に突き飛ばされ、ぼくはとっさに床の上で鞄をクッションにした。丸刈り男が暴れるため床はそこら中が血で汚れ始めている。急いで鞄を抱え、男から距離を取った。卸し立ての制服を血で汚したくはない。この黒いセーラー服は古風な趣向だが、なかなかぼくの好みに合っているのだから。
「うるせえな」
ぽつりと呟いた青年は持っていた足首――その肉から露出する、ささくれ立った骨を勢いよく男の喉元に突き刺した。一度口から血を吐き出し、何度か痙攣した後で静かになった男からじわじわと赤い血溜まりが広がっていく。廊下にはとんでもなく悪趣味なオブジェじみた死体が完成し、金臭い血の匂いがさらにひどくなった。
「そこの処女」
青年がぼくを見て、言った。少女ではなかった。確かに処女と言った。
「もしかして、ぼくのことですか」
「この空間のどこにお前以外の処女がいる」
「ぼくが処女かそうじゃないかなんて、あなたは知りませんよね。初対面ですし」
「それくらい大体見たらわかるだろ。嫌か」
「いい気分じゃないのは確かです」
「だったらチェリーガールって呼んでやる。それともシンデレラバストがいいか?」
「………………」
確かにぼくの胸はAカップからちっとも成長できていない。制服の上からでは限りなくまな板に近いだろう。だからってシンデレラバストなんて呼ばれたのは初めてだ。いっそのこと普通に貧乳と言えばいいのに、せめてもの情けなのか逆に貶しているのか。
「おい、シンデレラ」
「処女の方がいい気がしてきました」
一等星級の輝きを何かの手違いで人間の器に無理矢理ぶち込んでしまった。そんな煽り文句が似合いそうな麗姿を持っていながら、かなり口が悪い人だ。もったいない。
「処女。お前、学生の身分でここにいるってことは堅気の客か? それとも誰かの遣いか」
「堅気は堅気ですけど、客って何のことです」
「市内で拳銃と銃弾を密売する古い団体がいるだろ」
「初耳ですね」
「最近、その団体の中で商品を横流しする裏切り者が出始めたらしい。それで取締役が俺に拳銃を回収するよう依頼した」
つまり、ここは商品を横流しする裏切り者が集まる場所ということか。
「ぼくは関係ありませんよ。ただ学校からの帰り道で、怪しげな売買の現場を見てしまって誘拐されただけなんです。それで逃げようとしてたら、あなたと出会いました」
「ふうん。関係ありません……か」
青年は何が面白いのか、唇の端をつり上げた。そこから覗く犬歯が、まるで牙のように鋭く尖っていて思わず見入ってしまう。吸血鬼みたいだ。
「面白そうじゃねえか」
「は?」
「面白い。すっげえ面白いことになりそうだ」
「あの、っ」
不意に左腕を掴まれた。引き千切られるのではと危惧したが、そんなことはなかった。青年はぼくの腕を掴んだまま廊下の奥へ進んでいく。ああ、帰ろうとしていたのに。
「ついてこい、処女」
「哀逆愛織です」
これ以上処女と連呼されるのは嫌だったため、ぼくはとっさに名乗っていた。すると青年は唐突にぼくの腕を離して「哀逆愛織。愛織」と復唱するように呟き、首だけでこちらに振り返ると無邪気な笑みを浮かべた。
「俺は黒喰よだか。よろしく」
「う……」
美しい。その顔は最早ただ一言、美しいとしか言い表せられない。よだか、なんて童話では醜い存在とされる名前なのに。このよだかさんの前ではありとあらゆる美辞麗句が無駄となる。そんな美貌を間近で見て、ぼくは今日一日で一生分の運を使い切ってしまったのではないか。もしかしたらこの後、ぼくも彼に殺されるのかもしれない。ここは杏落市の中では安全地帯と言えるものの、それはあくまで比較的だ。揺籃町にだって殺人鬼注意の警戒標識があるのだから。そして、あの都市伝説も。
杏落市には不死身の化け物がいる。
不死身の化け物とは、一人の殺人鬼。
杏落市に存在する殺人鬼は、最早人間ではなく文字通り――鬼。
そんな都市伝説はぼくがまだ東京で暮らしていたときからまことしやかに噂されていたものだ。異名だか二つ名だか、ほとんどの人が本気で実在すると思っていないそれの呼び名はいくつもあった。魔王。死配者。東洋の悪魔。最悪の災厄。人型地獄。
「その呼び方はどれもやめろよ」
前に向き直っていたよだかさんが鬱陶しそうな声で言った。
「他人が勝手につけただけの馬鹿みたいな呼び名だ。俺のことは普通によだかと呼べ」
「………………」
ぼくの表情なんてちっとも見ていないのに、よだかさんは読心術まで使ってみせた。確かに化け物じみている。とりあえずぼくは動揺を押し殺し、質問してみた。
「一応確認のため訊きますけど、よだかさんって殺人鬼ですよね」
「ああ。よくわかったな」
「よくわかるも何も……」
やっぱりだ。きっとぼくはこの後よだかさんに殺されるのだろう。ぼくが死にもの狂いで抵抗したところで、彼は赤子の手を捻るくらい簡単にぼくの息の根を止めるはずだ。十五年と約半月、短いうえに特別誇れることなんてほとんどない人生だったな。
「ここだ」
死ぬ寸前に走馬灯って本当に見れるのだろうか。そもそも走馬灯ってどういうメカニズムなのか。などと考えていたところ、よだかさんが足を止めた。ぼくが拘束されていた部屋の右隣にある、やけに大きなドアの前だった。そこから忙しない物音や罵声が聞こえている。よだかさんは普通にドアノブを回して開けようとしたが、がちゃり、という音がしただけだった。鍵がかかっているらしい。ピンヒールを履いている彼は、それでも迷うことなくドアを右脚で蹴り飛ばした。大きな音と粉塵が上がり、ドアはひしゃげて内側へ倒れ込む。人間の足を素手で引き千切ったところを見た後では、驚きが少ない。
「ほら、ビンゴ」
「いや……あれだけ音が聞こえてるなら、誰でもわかりますよ」
広い部屋の中に四人の男がいて、慌ただしく荷作りをしている最中のようだった。大きな机の上でトランクケースの中に様々な拳銃を詰め込んでいる。あれが彼らにとっての商売道具なのだろう。四人のうち二人はつい数分前にぼくが気絶させ、悶絶させた男だ。
「ま、待て!」
貫録のある男が声を張り上げる。ぼくを突き飛ばして逃げた男だ。顔色は青くなり、軽く充血した眼球がぎょろぎょろと動いてぼくとよだかさんを交互に見た。
「お前の目的はなんだ? うちの商品か、金か?」
「拳銃を回収しろって依頼だから、商品だな。あ、でも売上金もその場で見つかったら一緒に回収するようにとも言われてたから両方か」
「その依頼者ってのは……いや、聞くまでもねえ。どうせあの頭が古臭い禿げ爺だろ。畜生が。こんな化け物に依頼しやがって」
ぶつぶつと呟いた後で男は大きく溜め息をついた。
「わかった。商品も金も全部お前に渡す。言う通りにするよ」
だから命だけは助けてくれ、と。そういうことを暗に言っているわけか。男の偉そうな態度は一気に媚びるようなものに変わり、揉み手でもしそうな雰囲気があった。その後方で控えている男達も異論がある様子を見せない。ふとよだかさんの顔を伺ってみると、何故かものすごく不満そうだった。小学生になったばかりの幼い子供が母親に怒られるとき、こんな顔をするかもしれない。
「なんだよそれ。つまんねえな」
舌打ちをして、突然よだかさんは右手でぼくの首根っこを掴んだ。
「え……ちょっと、よだかさん?」
今のこれと同じ感覚、ついさっきにも経験した。そう思い出している間にも足が地面からどんどん離れて、ぼくは空中に浮いた。鞄が地面に落ちる。
「あっさり降伏するんじゃねえよ。犬か、お前ら」
「あ、あの」
「もっと抗えよ。せっかく面白そうな展開になってると思ったのに」
「そろそろ下ろして」
「俺を楽しませて、満足させろ」
野球部員がする金属バットの素振りみたいに、風を切る音が聞こえた。同時に自分が重力から解放されていることに気づかされる。そして全身が何か、壁ではないものに激突した。頭が、背中が、腕が、腰が、脚が、とにかく全身が衝撃を感じる。一瞬だけ、首を強く絞められたように呼吸ができなくなった。
よだかさんがぼくを男達に向かって投げた。
このときになって突然そう理解した。手足がばらばらになったのではないかと思った直後、重力を思い出したかのようにぼくは地上に落下した。コンクリートの床ではない。妙に弾力がある不安定な場所に、四つん這いになる。いつの間にか閉じていた目を開けてみると、二人の男が並んでぼくの下敷きになっていた。他の二人もぼくがぶつかった衝撃で、ちょうど後ろにあった壁に頭でも打ったのか倒れていて、気を失っている。どれだけの威力だったのか、後ろの壁は歪に凹んでいた。一人だけ、首があらぬ方向に捻じれて息をしていないのだが、これはぼくのせいではないと思いたい。切実に。
「あーっはっはっはっはっはっはっは!」
しん、としていた部屋の中で哄笑が響き渡った。空気を震わせるその声の正体。それはぼくでもなければ、男達の誰かでもない。よだかさんだ。
「はははははははははは! 面白い、面白い面白い面白い! ははははは! ふ、くっくっく……人間ボウリング、ストライク――最っ高!」
よだかさんは背中を仰け反らせるようにして、無邪気さと残酷さを併せ持つ子供のような表情で面白そうに笑っていた。最悪だ、こいつ。
なかなか笑い止まない声を聞いているうちに、ついさっきまで忘れていた全身の痛みがじわじわと神経に伝わってきた。骨を全て砕かれてしまったかのように、自分の意思とは関係なく力が抜けていく。ぼくは今、気を失おうとしている。はっきりとそう思った。視界に入ってくる情報は薄れ、やがて意識は真っ暗な闇に沈んでいく。
「愛織。お前、面白そうだ」
意識が完全に消える寸前、そんな声が聞こえた。