17 小さなストーカー
「私の親友が、二週間前に自殺未遂を起こしたのよ」
話している内容は随分と暗いものだが、声色や口調は異様に明るく朗らかだ。
よだかさんと向き合う依頼者――漁火珊瑚さんは高く結い上げた茶髪と白いチューブトップがはち切れんばかりの豊満な胸が目立つ、その華やかで派手な見た目通りキャバクラで働いているのだと言う。今話している親友は同窓で、彼女とは全く正反対な女性らしい。
「それも普通の自殺じゃなくてね。そういうサイトとかで仲間を募る集団自殺よ」
「インターネットが普及してからは多いみたいですね」
珊瑚さんはよだかさんの言葉に頷き、檸檬のスライスを浮かべた紅茶を一口飲んだ。赤く透けるようなロングスカートの中で足を組む。
「それで彼女は日時と場所を決めて、その仲間と会ったわけ。日時が二週間前の夜十時、場所は仲間のうち一人の家だったんだけど……」
カップを持つ彼女の右手がぶるぶると震え、紅茶の波が立った。カップをソーサーに戻した後もまだ震えている右手を左手が包む。
「実際に行ってみたら、どう見ても死にたがりには見えない男達がいて、親友はそいつらに強姦されたわ。どうせ死ぬんだからいいだろって」
ぼくとよだかさんは口を挟まず、黙って話を聞く。
「馬鹿な子よね。……いや、本当に馬鹿なのはそれほど追い込まれてる親友に気づいて助けられなかった私だわ。彼女は当然、警察に親告することができなかった。それができるくらいなら、初めから集団自殺なんて考えないものね。解放された後はそのまま自殺することもできずに泣き寝入りよ。精神を病んでしまったらしくて、最近は幻聴や幻覚に悩まされてるみたい。病院に行こうと私が言っても頑なに拒否するの」
珊瑚さんはそれまで張りつけていたような笑顔から無表情になっていた。両手を組んで膝の上に置いたまま、彼女はずいっと身を乗り出す。
「私からの依頼はね、請負人さん。親友を穢した馬鹿な男共に落とし前をつけさせてほしいの。ここの規定にある通り、殺さずね。この手の奴は一度痛い目を見ないと同じことを何度でも繰り返すわ。だから、しっかり身体で覚えさせなきゃ」
「わかりました。そのご依頼、請負いましょう」
話し合いを終えて珊瑚さんが事務所から出ていくと、よだかさんは唇をつり上げた。
「強姦魔に対する落とし前――か。最近はいい依頼がなかなか来ねえと思っていたが、今回はすげえ面白そうだな。俺を満足させられるかどうかは別だが」
そう言って、つい先ほど珊瑚さんから受け取ったメモ用紙をひらひらと振る。無地の白い紙に書かれているのは、珊瑚さんの親友が使っていた集団自殺サイトのアドレス。
「おい、処女。さっそく情報収集だ――と言いたいんだが」
一度言葉を区切ってソファーから立ち上がり、よだかさんはぼくの後方を指差した。
「十五のお前に息子がいたなんて聞いてねえぞ」
「せめて弟にしてくださいよ」
溜め息をつきながら振り返り、ぼくはずっとそこに無言で立っている少年を見た。ぱっと見た限りでは十歳くらい。背中にはそこそこ年季の入った黒いランドセル。淡い水色の半袖シャツ、臙脂色のネクタイ、墨色に青いチェック柄が入った膝上までの短いズボンという制服は、先月出会った年上の他校生が着ていたものと色彩がどことなく似ている。それどころか左胸には常善の校章が刺繍されていた。
「制服からして、常善学園の初等部だな」
「みたいですね」
「それで、どうしてこいつを連れてきたんだよ。最初は依頼かと思ったけど何も喋らねえ」
よだかさんは少年に近づき、じっと見下ろした。しかし少年は相変わらずの無言で、よだかさんの美貌に気を失う様子もなく見上げている。十歳くらいの子供にしては随分と据わった目で、特別整っているわけではないが利発そうな顔立ちだ。形のいい真ん丸な頭を短い黒髪が覆い、勉強だけでなく運動も得意そうな印象がある。身長はまだまだ発達途上な百四十センチ前後。中等部に入った頃から異性に注目され始めるかもしれない。
「よだかさん。実はぼく、六月に入ってからストーカーされてるんです」
言って、ぼくは珊瑚さんが座っていたソファーに移動する。
「ストーカー?」
「はい」
怪訝そうな顔で振り返るよだかさんに、ぼくは頷く。
「マンションのすぐ下で待ち伏せされたり、部屋に盗聴器を仕掛けられたり、後をつけられたり、鍵をかけたはずの部屋に侵入されたり」
「ふうん」
「そのストーカーが、彼です」
「は?」
よだかさんはきょとんとした顔でぼくを見つめ、次にもう一度少年を見下ろす。少年は顔色一つ変えていないどころか眉も動かしていない。不意に彼はよだかさんから視線を外し、ぼくが座るソファーの後ろに回った。左側の三つ編みを撫でるように触れてくる。
「…………随分と距離の近い、静かなストーカーだな」
「ええ。ぼくもそう思います」
カシャ、と軽快なシャッター音が耳元で聞こえた。大方三つ編みか後頭部全体かを撮影したのだろう。こうして人目も憚らず堂々と相手の写真を撮るところも、ぼくの中にある知識としてのストーカー像とはかけ離れたものだ。世の中には実に色々なストーカーが存在するのだと、彼の行動から教えられてしまった。百聞は一見に如かず。
「きっかけみたいなものはあるのか?」
「いいえ。一度訊ねてみたんですけど、何も答えてくれなくて」
するとよだかさんもぼくの背後に回ったかと思うと、いきなり少年が手にしていた携帯端末を取り上げた。突然のことに少年は目を丸くし、取り返そうと手を伸ばす。しかし元々身長が高いうえにヒールの高い靴を履いたよだかさんに届くわけもない。
「画像フォルダ、ほぼ愛織の写真で埋まってるぞ。でも盗撮らしいものは少ないな。着替えや入浴の最中を撮ったものもない。見てみるか?」
「遠慮しておきます」
ぼく達が話している間も少年は必死で携帯端末を取り返そうとしていた。よだかさんの脛を蹴るがびくともしない。すると何を思ったのか、ランドセルの横につけていた黄橡のリコーダーケースを後ろ手に開けた。しかしケースから取り出されたのは、リコーダーではない棒状のもの。警棒かと思ったそのとき、少年はよだかさんの右腕にそれを当てた。青白い閃光が飛び散り、ばりばりばり、と皮膚がざわつくような音が響く。スタンガンだ。いくらよだかさんでも、筋肉を強制的に収縮させられては本人の意思に関係なく身体の自由が利かなくなる。彼の右手から落ちてきた携帯端末を少年が受け止めた。
「杏落市で販売されてるスタンガンにしても随分と強力じゃねえか。この辺りでは見たことのない警棒型だ。もしハンドメイドだとしたらお前、結構金持ちだろ」
焦げついて煙を立てている袖を軽く払い、よだかさんは笑みを浮かべる。少年はそんな彼に抗議の視線を向けるが何も喋らない。本当に無口だ。伊吹さんを思い出す。
「対処はしてるのか?」
「頼むから盗聴器だけはやめてくれと言ったら、その後はなくなりました。もしかしたらぼくが把握できていないだけかもしれませんけど。マンションの部屋に入っていたときも何も盗まず、ぼくが帰宅すると出ていきます。相手は子供ですし、無言電話やごみ漁りみたいな実害はないので気にしないようにしています」
「つまり黙認してるってことか」
「ええ」
我ながら犯罪都市に馴染みつつある自分自身に呆れる。東京にいた頃のぼくであれば、ストーカーが大人だろうと子供だろうと、すぐ家族や警察に相談していただろう。
「それが妥当だろうな。警察に相談したところでこういうことはすぐに解決できない。本人の精神にそれほど負担がないなら、下手な刺激をせず放っておくのが一番だ」
「ただ、今日はとうとう事務所にまでついて来てしまいました。昨日まではビルの中に入ろうとはしなくて、ぼくが帰る頃にはいなくなっていたんですけど……」
珊瑚さんはこの事務所に入ってきたとき、彼を怪訝そうに一瞥したが何も言わなかった。依頼者が全員その対応でいてくれるのならありがたいが、中には部外者の子供に依頼の話を聞かれたくないと思う依頼者もいるだろう。所長のよだかさんもいい思いはしないかもしれない。もし彼が少年を追い出せと言うのなら、ぼくは追い出すつもりだ。
「俺は別に構わねえよ」
その言葉に、ぼくと少年は同時によだかさんを見た。
「いいんですか?」
「依頼者が嫌がるなら、そのときだけ退場させておけばいいだろ。俺を満足させることができるかは微妙だけど、愛織のストーカーって肩書きは結構面白い」
よだかさんは再びソファーに座り、テーブルの上にメモ用紙を置いた。
「いい加減仕事の話に戻るぞ」
「あ、はい」
「まずはこのサイトで適当な偽名使って、集団自殺の仲間探しをする。冷やかしの演技だと思われないよう、それらしく振る舞えよ」
「前にも言いましたけど、パソコンは持ってないんですよ」
「携帯端末ならあるだろ」
「よだかさんは仕事用と私用とで二つあるから片方を使えばいいですけど、ぼくは一つしか持ってません。普段使うものに怪しげなメールが大量に届くのは嫌ですよ。だからと言って学校のパソコンをこんなことに使うわけにはいかないし――」
不意に肩を優しく叩かれて、振り返ると少年がランドセルを下ろしているところだった。スタンガンを一度リコーダーケースに戻し、ランドセルの蓋を開ける。ぼくが小学校時代に使っていたものとは全然違う教科書がいくつか見えた。どうやら彼は小学四年生らしい。持ち主に取り出されたのは、現在最新型と宣伝されている薄っぺらなタブレットパソコン。最近の小学生は学校にこんなものを持ち込むようになっているのか。驚きだ。
「可変型のタブレットか」
よだかさんが呟くと少年は頷き、タブレットをぼくに差し出した。
「…………まさかとは思うけど」
「そのまさかだろ。今の話の流れでタブレットを渡すってことは、つまりそういうことだ」
横からタブレットをひったくるように取ると、よだかさんはそれを勝手に起動させた。我が物顔で操作をする彼の前で、液晶画面にインターネットのホームページが開かれた。続いてメールボックスのページも表示される。
「インターネットは特に子供向けの制限もかけられてない。それにメールアドレスをいくつも持ってるみたいだな。愛織、お前はこれを使え」
「え、でも……本当にいいの?」
「どうぞ」
「うわっ」
突然少年が口を利いたことで、ぼくは思わず驚きの声を上げてしまった。かなり失礼だったかもしれない。よだかさんはシニカルな笑みを浮かべ、少年の頭を右手で掴んだ。
「てっきり喋れないのかと思ってたぜ。お前、名前は?」
「…………………」
少年は再び無言になった。ぼくはよだかさんの手を退け、少年と目線を合わせる。
「教えて。これからきみのこと、ちゃんと名前で呼びたいから」
「小学生を口説く女子高生の図」
「黙れ殺人鬼」
「柩木楪です」
そう名乗った声は、まだ幼いからか少女の声とさほど変わらない。ボーイソプラノ歌手になれるのではないかと思うほど、澄んだ綺麗な声だった。
「柩木? お前、それって」
よだかさんが言い終わる前に、事務所の扉が荒々しく開かれた。波が押し寄せるように入ってきた人達は全員男で、年齢はぱっと見ただけでも二十代から五十代まで幅がある。穏やかで優しそうな人もいれば、血の気が多そうな強面やインテリっぽい知的な人と様々だ。二十人ほどの集団で事務所内に入ってきた彼らは、こちらを見て口をそろえた。
「若、無事ですか!?」
バス――とまではさすがにいかないがバリトンはあった。バリトンとテノールの男声合唱に応じたのは、たった一人分のボーイソプラノ。
「来るなと言ったですよ」
一体なんだ、これは。
ぼくはよだかさんを見たが、子供が新しい玩具を与えられたときのような無邪気な笑みを浮かべた美貌に何も言えなくなる。直後、彼は一番手前の男に音もなく跳びかかった。目を剥いた男の首に長い脚が蛇のように絡みつき、次の瞬間ごきりと不吉な音がした。
あらぬ方向へ首の曲がった男が崩れ落ちるより先に――銃声が、響いた。