15 校争の準備
午後の授業は急遽なくなり、すぐに下校となった。五限目が始まるまでに三年生の男女が家庭科室で互いを刺し合い、理科準備室で生物担当の男性教師が二年生の女子を絞殺したからだ。きっとどちらかの事件一つだけだったなら午後の授業は続いていただろう。いくら犯罪慣れしている学校でも、さすがに二つも事件が重なると大事扱いされるらしい。
昔ヶ原兄弟からボウリング場かカラオケ店に行こうと誘われたが、ぼくは左手の抜糸をしてもらうため丁重に断りを入れて八雲さんのもとに急いだ。
「ふうん……校争か。そういうのに愛織が参加するなんて、意外だね」
言いながら、八雲さんはいい香りのハーブティーをティーカップに注ぐ。左手の抜糸はとうに終わり、異常はないと改めて診断されたのだが、あまりにも時間が余っているぼくは応接間のような部屋に通されていた。テーブルに用意されたのはハーブティーとドレンチェリーが可愛らしい絞り出しクッキー。上品なガラスのティーカップに注がれたハーブティーは彼がブレンドしたものらしく、カモミールとレモングラスとミントが混ざっている。よだかさんから酒豪だと聞いていたため、優雅にハーブティーを淹れる八雲さんの姿は意外に映った。
「何? そんな物珍しげに見て」
「あ、すみません。酒豪だって聞いていたので」
「そう。私が飲むのはこっちだよ」
八雲さんが取り出したのは、壜に入った自家製らしいハーブ酒だった。アルコールの度数が高いのか、蓋を開けた瞬間ぼくまで酔ってしまいそうな匂いが鼻をつく。琥珀を溶かしたかのような色のハーブ酒を、八雲さんはショットグラスに入れて一気に煽った。
「毎日が激務の私には酒もハーブもありがたいんだよ。今日なんて明け方から弾丸の摘出手術を望む患者が二人、美容整形にのめり込んだ一人の患者がまた顔を変えたいと言ってきて、それが終わったかと思えば腹から背中まで日本刀で貫かれた患者が一人、手術はお前の抜糸をする一時間前に終わったところ」
「お疲れ様です」
「ありがとう。一人で仕事してると、そう労ってくれる人がいないんだよ」
八雲さんが助手のような人達と手術をする光景を想像してみたが、似合わなかった。闇医者という後ろめたい職種の彼は、一人で仕事をする方が都合もいいのかもしれない。ぼくはそんなことを考えながらハーブティーを一口飲んだ。美味しい。一人暮らしを始めて以来、こういう本格的なハーブティーを飲まなくなっていたから新鮮だ。実家ではよく飲んでいたが、今となってはあまり味を思い出せない。
「ところで、土曜日までにその校争のルールを決めないといけないんだろう」
「はい。八雲さんは何かいい案、ありますか?」
「悪いけど、子供の馬鹿馬鹿しいお遊びに付き合う暇はないよ。そもそもお前の意思で引き受けたんだから、まずは一つの案が出るまで自分で考えなさい」
「ですよね」
なかなか手厳しいがごもっともな返事にぼくは俯く。
「何か必要なものがあるって言うのなら、多少は協力してあげられるけど」
闇医者に用意してもらえるものと言ったら医療器具――いや、それよりも薬か。何せ八雲さんは百薬を統べる名医とまで呼ばれているのだから。きっと用意できない薬は何一つないのだろう。そして扱い方だって当然心得ている。琴太郎先輩から渡された資料には全て目を通したが、薬品の類を使った校争は確かまだなかったはず。薬と言えば、毒にもなる。毒を使う方法で、笛吹鬼が却下しないような校争は考えられないだろうか。
「………………あっ」
「どうかしたのかい?」
ぼくは頭の中でもう一度、たった今浮かび上がった考えを反芻する。
「愛織?」
大丈夫だ。もしかしたら、これなら上手くいくかもしれない。笛吹鬼が絶対に却下しないとは限らないが、もしこのルールが受け入れられれば、ぼくはきっと勝てるだろう。
「愛織」
「あ、はい。すみません」
「謝る必要はないけど……大丈夫?」
「はい。あの、八雲さんに用意してもらいたいものがあるんですけど」
椅子から腰を浮かし、身を乗り出すぼくに八雲さんは見開いた目を瞬く。その仕草が童顔の彼をますます幼くさせた。
「お願い、できますか?」
八雲さんはぼくの説明を聞くと、真一文字にしていた薄い唇を三日月型にした。
「ただ殴る蹴るの応酬なら猿にだってできるだろうけど、それは随分面白そうだ。私を幻滅させないお前はやっぱり本当にいい子だね」
「そういうこと言われると、八雲さんが大人に見えます」
思わずそう口にしたところ、優しげな笑顔の八雲さんに鼻をぎゅっとつままれた。
「痛い痛い痛い痛いです」
「まだ二回しか会っていない大人にそんな口を利くとは、生意気な小娘」
「すみません。調子に乗りました」
「素直に謝るところは可愛いのに。よだかの悪影響が出てるのかもしれないね」
心底不快そうに言いながらも、すぐにお願いしたものを用意してくれた八雲さんにぼくは頭を下げ、黒喰請負事務所に向かった。
「よだかさん。貼り紙を――」
持ってきました、と言おうとした声が引っ込む。いつものように事務所の扉を開けた瞬間、とんでもない光景がぼくの目に飛び込んできた。
よだかさんはソファーの上で寝そべるような仰向けの体勢になり、テーブルに置かれたケーキスタンドから色とりどりのマカロンをつまんでいた。それだけなら特に珍しくもない光景なのだが、彼の麗姿は変貌していた。目を黒く縁取り、唇をいつにも増して赤く濡れたように見せる化粧が施され、指先の爪は異様に長く鋭いものとなって赤いマニキュアが塗られている。身に着けているものはぴったりとした黒のレザーパンツのみ。ピンヒールを脱いだ素足の先、桜貝のようだった爪には指と同様赤いペディキュア。そして露わになった両腕と脇腹には左右対称に金のピアスを二列並べて開け、黒いリボンが通されてコルセットのようになっていた。臍には柘榴石のような宝石が目立つピアスが開けられ、存在感を放っている。
「今日はいつもより早かったな」
「…………」
「おい、どうした。早く中に入れよ」
「あなたはよだかさんですか?」
「なんだその英文の訳みたいな問いかけ。イエス、アイアムって返せばいいのか」
ぼくは軽く目を擦り、もう一度ソファーに寝そべる彼を見つめる。長時間凝視していると脳髄を熱く焼かれてしまうような、この凄絶な美貌はよだかさん以外考えられない。
「どうしたんですか、その格好」
事務所内に足を踏み入れ、ぼくは開けっ放しにしていた扉を閉めた。するとよだかさんは口に放り込んだマカロンを咀嚼しながら、ソファーの上で上体を起こす。
「ついさっきまで仕事してたんだよ」
「その、妙な格好をするような仕事が?」
「ああ。身体改造した男の写真ばかりを載せる雑誌があるんだ。依頼者はその会社の人間。基本的にはそういう倶楽部だとか愛好会だとかに入ってる有名人を撮るんだが、最近はマンネリ化防止のためモデルでもタレントでもない一般人をスカウトしてるらしい。それで今回、ぜひ俺の写真を撮らせてほしいって言ってきてな」
「よだかさんって元々そういう身体改造、してました?」
「するわけねえだろ。化粧も含めて全部依頼者側にやってもらって、撮影は終わったけどせっかくだからそのままにしてるってだけだ。どうせ肉削げばピアスホールも元通りになるんだからな。お前知ってるか? これ、コルセットピアスって言うんだぜ」
左脇腹の黒いリボンをつまんで笑うよだかさんに、ぼくは頭痛がしそうだった。もう片方のソファーに鞄を下ろし、クリアファイルに入れておいた貼り紙五十部を取り出す。
「これ、昨日完成させた貼り紙です」
「ありがとな。じゃあさっそく二十五部ずつ――」
貼り紙を受け取ろうとしたよだかさんの動きが、ぴたりと止まった。彼の視線はぼくではなく、ソファーに向かっている。振り返ったぼくはそこでよだかさんの見ているものが何か、わかった。ぼくが開けたままにした鞄の口から、八雲さんから受け取ったものが覗いていたからだ。とっさに張り紙をテーブルの上に投げ出し、鞄のファスナーを閉めたところで、ぼくの首によだかさんの腕が回された。
「愛織。今、何を隠した?」
「…………女子高生のプライバシーを侵害しないでください」
苦し紛れにそう言ってみると耳元でくすくすと笑われる。そして喉元を指先で緩やかに撫でられ、ぞわっとした。今なら指紋の凹凸すらも感じ取れるくらい、感覚が鋭敏になっていることがわかる。マニキュアを塗った長い爪の先が引っ掻くように触れてきた。視界に入るよだかさんの白い腕には、コルセットピアス。不気味だが美しいと思える。
「女子高生が鞄に入れるものにしては、不自然じゃねえか?」
「ここは犯罪都市ですよ。どんなものが入ってても、おかしくない」
「確かにな。だけど、俺には今そんなことどうだっていいんだよ。話をはぐらかそうとしても無駄だぜ。もう見えたんだからな。愛織、お前何か隠してるだろ」
畜生。思わず舌打ちをしたくなった。校争に参加するという依頼をよだかさんに黙って勝手に引き受けたことが、読心術を使われるまでもなく、こんな形で発覚してしまうとは情けない。何が情けないのか自分でもよくわからないが、とにかく情けないと感じる。よだかさんの顔が見えていないことが、せめてもの救いだ。それでも、今ぼくが戦慄していることは手に取るようにわかっているのだろう。
「ラストチャンスだ、チェリー。素直に教えるなら意地悪しない。……それともお前、もしかしてこんな格好をしてる俺にいじめられたいのか?」
「生憎そんな特殊嗜好、ぼくは持ってな」
がむ、と首筋に噛みつかれた。いつの間にか帽子を取り払われていたらしい。鋭い犬歯が皮膚に食い込み――生温い唾液をたっぷりと溜めた舌が濡らし――しっとりとした唇が吸いつき――堪らずぼくは声を張り上げた。
「降参!」
腕を後方へ回してよだかさんの右肩口を掴み、自分の右膝を地面につけるように身体を丸めると、彼はあっさりとぼくに転がされた。すぐにぼくの首から腕を放し、勢いのままくるりと一回転してから立ち上がる。再び向き合ったよだかさんは相変わらずシニカルな、それでいて無邪気な少年のようなあどけなさが残る笑みを浮かべた。
「はは。実に処女らしい可愛い反応するじゃねえか。ある意味健全な女子高生だよな」
「勘弁してくださいよ。心臓に悪い」
言いながらハンカチで首筋を拭うと、紅がついていた。はあ、と深く溜め息をついてソファーに沈み込む。よだかさんはまだくつくつと笑っていたが、ぼくが校争の話を始めると静かになった。ぼくが考えている新しいルールを含めて全てを話し終わる頃には、真紅の瞳がきらきらと輝いていた。
「いいな、そういう学生らしいこと」
「学生らしいですか?」
「青春じゃねえか」
「青春ですか?」
「俺からすれば十分学生らしい青春だ。羨ましいくらいにな。それはさておき、お前は俺の許可なしで勝手に依頼を引き受けたってことだろ。しかも報酬を飛び魚の煮干しにして」
「好物なんです」
「魚のミイラがか」
よだかさんは奇妙なものを発見したような目つきでぼくを見た。そんなに変だと言うのか。ぼくと飛び魚の煮干しに謝ってほしい。しかし今は、よだかさんに黙って勝手な行動を取ったぼくが謝らなくてはいけない。
「別に謝らなくていいぞ」
「えっ」
「お前が依頼を取ってくること自体には何の問題もねえよ。むしろ、ここで俺の助手を始めて約一ヶ月――いい成長ぶりじゃねえか。それはもう愛織の仕事で、俺が一切手伝わなかった場合は報酬も全額受け取っていい。当然俺もできる限りフォローするが、自分で引き受けたからには責任を持ってしっかりやれよ」
「だったら、なんでさっき」
「ただし俺に何も報告しないことは許さない」
「…………はい。胆に銘じておきます」
「よし」
満足げに頷き、よだかさんはケーキスタンドに残っていた最後のマカロンを食べ終えた。手にした貼り紙ををちょうど半分に分けて、片方をぼくに渡す。
「さっそく二十五部ずつ、適当なところに貼りに行くぞ」
言いながら事務所の扉に向かっていく彼に、ぼくは慌てて呼び止めた。
「せめて着替えてください!」
今のよだかさんが外に出ては、路上で気絶する人間が大量発生しかねない。