13 校争の始まり
左手を八雲さんに治療してもらって六日が経った。特に悪化している様子はない。左手を濡らさないようにする生活にも慣れたところで、明日はいよいよ抜糸だ。
「あ、めーちゃん。今から帰り?」
放課後に階段を下りていると、踊り場にいた百太郎くん――ではなく、琴太郎先輩に声をかけられた。周囲には恐らく彼と同じ二年生だろう女子生徒が三人いて、あからさまな敵意を込めた視線をこちらに向けている。ぼくは思わず足を止めてしまったことに軽く後悔した。今すぐにでもこの場を去りたい。
「いえ。一階の情報処理室Ⅰに行くところです」
「ふうん。もしかしてパソコン使う検定の練習とか?」
「そんなところです」
本当は、黒喰請負事務所を宣伝する貼り紙作りのためだ。ぼくは自分のパソコンを持っていないうえに事務所にもパソコンが置かれていない。だから学校の情報処理室を使わせてもらうしかない。だがそんな説明をしていては琴太郎先輩と長話をすることになり、今も射殺さんばかりの視線をこちらに向ける女子の先輩達がますます機嫌を損ねるだろう。
「そっか。頑張れよ」
「はい」
ぼくは急ぎ足で階段を下りた。
杏落高校で生徒のためパソコンがある教室――情報処理室Ⅰと情報処理室Ⅱはそれぞれ一階の端と二階の端に位置している。二階にある情報処理室Ⅱには比較的新しい機材が多くそろっているため、今日も部活動で使われているはずだ。とてもではないが、部外者が私用で入るべきじゃない。ぼくは一度職員室で鍵を借り、情報処理室Ⅰに入った。授業中にはほとんど埋まっている席ががらんとしていた。一番手前の席に座り、電源を入れる。パソコンが起動するまでの間に鞄からUSBメモリと手帳を取り出し、改めて黒喰請負事務所の住所や電話番号などに目を通していく。
この仕事は昨日、よだかさんに助手業務だと指示された仕事だ。今日の放課後は事務所に行かなくてもいいが、なるべく早く貼り紙を制作すること。元々あの事務所は閑古鳥が鳴くようなところではないのだが、所長の彼はもっと知名度を上げたいらしい。それならオフィシャルサイトの方がいいのではというぼくの意見は何故か理由もなく却下され、ぼくが学校で新しい貼り紙を作ることになった。古い貼り紙はあったのかと訊いたところ、昨年も一度よだかさんが貼り紙を作ったのだと言う。しかし杏落市内の至る場所に貼りつけたところ、翌日にはその全てが剥がされてなくなっていたらしい。
「もしかして、その貼り紙によだかさんの顔写真載せてました?」
「所長の写真だぜ。載せるのが当然だろ」
さも当たり前のように返した後で、よだかさんは「あの直後はものすごい人数の客が押しかけてきたけど、その場で勢い余って皆殺しにしたんだよな」と笑っていた。
第一条件はよだかさんの顔写真を載せず、名前だけを記しておくことだ。あとは適当な文章をつけて、昨日の間にカメラで撮った写真を切り貼りする。幸いなことに最近情報の授業で文書デザインを習ったばかりだから、苦ではない。わからないことがあれば、室内の本棚にある教科書や参考書を取り出して調べる。そんな作業を始めて一時間近くが経った頃、不意に騒がしい声や足音が扉の向こう側から聞こえてきた。男子の声が二人分。
「やばいって。今のうちにさっさと帰ろうぜ」
「いや、でも、ちょっと見物してみんか? 面白そうじゃん」
「馬鹿。巻き添え食らって怪我するぞ」
「そうかもしれんけど……」
「もうあいつらは昔ヶ原兄弟だけに任せた方がいいって」
足音は近くの階段を駆け下りて、聞こえなくなった。かと思うとさらに別の足音や声が何人分も聞こえてくる。ぼくは一旦席を立ち、グラウンド側にある窓を開けてみた。
普段ならば運動部の生徒や下校する生徒が行き来する放課後のグラウンドが、今日は妙に閑散としている。その原因はすぐにわかった。淡い水色のシャツ、黒のネクタイ、雪白のブレザー、墨色のスラックスというお洒落な制服を着た男子高校生が二人立っているせいだ。グラウンドのほぼ中央にいる彼らのすぐ後ろでは、いかにも不良らしい風貌をした杏落高校の生徒が六人倒れている。
「あの制服……常善学園、だっけ」
杏落市にある私立校の一校で、小中高一貫の共学。普通科のみの杏落高校とは違って普通科以外に商業科と工業科があり、偏差値や進学率がかなり高い進学校。しかし犯罪都市に存在するためか、生徒の中にいる不良も多いと聞いたことがある。もしかすると常善学園の不良がわざわざ他校にまで来て、喧嘩を仕掛けている――と言ったところだろうか。
「だとしても、ぼくには関係ないな」
窓をぴしゃりと閉め、一応鍵もかけてぼくは作業に戻った。外から聞こえてくる物音を無視してキーボードとマウスを操ること三十分が過ぎ、貼り紙は一旦完成した。印刷プレビューを表示し、ディスプレイを写真に撮って、その画像をよだかさんの携帯端末に送信する。三分も経たないうちによだかさんから電話がかかってきた。
「もしもし」
『早かったな。頼んだ翌日にもう完成させるなんて、優秀な助手がいて俺は幸せだぜ』
「それはどうも。貼り紙の内容、あれで問題ないですか?」
『ああ』
「昨日借りたUSBメモリに保存しましたから、明日事務所で渡しますね」
『お前が今いる場所って学校だろ』
「そうですけど」
『そこで印刷しろ。印刷費も紙代もただで済むからな』
「………………」
普段あれだけ甘味に大枚をはたく殺人鬼は、変なところで節約するらしい。学校側には申し訳ないが、大目に見てもらうことにしよう。
「わかりましたよ。枚数はどれくらいにします?」
『とりあえず五十部。どうせ市内にしか貼らないつもりだから、まずはそれくらいでいいだろ。俺には不要だからそのUSBメモリはお前のものにしていいけど、貼り紙のデータはまた使うかもしれねえ。一応残しておけよ』
はい、と返そうと口を開きかけたときだった。突然ガラスの割れる盛大な音に耳を貫かれ、驚いた拍子にぼくの指は通話を一方的に切ってしまった。音の発生源に目を向けると、ちょうど三十分ほど前にぼくが開閉した窓のガラスが光をきらきらと反射させながら飛散し、百太郎くんが室内に転がり込む――そんな映画のアクションシーンみたいな瞬間が視界に飛び込んできた。なんだ、これ。
「大丈夫か、百太郎くん」
窓際に座っていなくてよかったと思いつつ、席から立って声をかけてみる。転がり込むような体勢から、無事靴の裏をガラスの散った床につけて彼は着地した。幸いガラスで切ることはなかったらしく出血はないが、殴られたような痣がいくつかあった。彼の背後――窓の向こう側から百太郎くんめがけ足を振り上げる人の姿が見える。しかしその足が百太郎くんの脳天に直撃する寸前、横から現れた第三者によってその人は殴り飛ばされた。
「おい、モモ。今危なかったぞ」
殴り飛ばしたのは琴太郎先輩だった。彼もガラスに気をつけて窓から室内に入ってきたかと思うと、兄弟そろってぼくの近くに寄ってくる。
「お前でも鋼板入りの靴で踵落とし頭に食らったら死ぬだろ」
「そりゃあな。サンキュ、キン」
「あの。二人とも、何してるんですか?」
そして何故ぼくの近くに来るんだ。
「校争だよ」
百太郎くんと琴太郎先輩の声が重なった直後、すっかりガラスがなくなった窓から怒声とともに二人の男子が入ってきた。
「昔ヶ原兄弟! 逃げ回ってんじゃねえぞ!」
案の定、彼らと派手な喧嘩を繰り広げていたのは常善学園の生徒だった。一人は黒髪でハーフバックとでも言えばいいのか、前髪の左半分以外を後ろに撫でつけている。顔立ちは昔ヶ原兄弟に勝らずとも劣らず、精悍で整っていた。切れ長の目で、やや神経質そうな印象もある。もう一人――百太郎くんの脳天を蹴ろうとして、琴太郎先輩に阻止された方――は深い栗色の髪をウルフカットにしていた。目に黒いゴーグル、顔の下半分にスカルマスクを着けているせいで顔立ちや表情が読み取れない。昔ヶ原兄弟をはじめとする杏落高校の派手な不良と比べると、二人とも落ち着いた雰囲気がある。
「おい。そこの女子」
「え、ぼくですか」
黒髪の彼は頷き、教室の扉に向けて視線を送った。
「さっさと出ていけ」
「………………」
これはつまり「俺達は今からここで喧嘩をするからお前は退場しろ」と暗に言っているのか。一般生徒に被害をかける気がないということはありがたい。ありがたい、のだが。
「すみません。嫌です」
ぼくの言葉に昔ヶ原兄弟は何故か笑い出した。
「何?」
目をつり上げ、黒髪の彼がぼく達に一歩近づく。ぱきん、とガラスの割れる音がした。美形ほど怒った顔は怖いとよく聞くが、ぼくからすればこの人は怒った顔も格好いい。
「ここでやらなきゃいけない仕事がまだあるんです。できれば今日中に済ませたい。この情報処理室Ⅰはぼくが先に利用していたんですよ。第一ここは杏落高校なんですから、あなた達他校生に指示されて出ていく謂われはありません。だからお願いします。四人とも、喧嘩は余所でやってくれませんか?」
ぼくは席に戻り、画面が仄暗くなっているディスプレイと向き合う。A4サイズの紙にカラーで五十部の印刷。学校の経費に軽く謝罪と感謝の念を送り、クリックした。教卓の脇にある印刷機が起動し、ゆっくりと紙を吐き出す音がやけに大きく聞こえる。いつの間にか昔ヶ原兄弟の笑い声は止んでいた。
「なあ、笛吹鬼。今日はちょっと一時休戦しようぜ」
「あぁ?」
百太郎くんが二人に話しかけると、黒髪の彼が苛立たしげな声を上げる。スカルマスクの彼はさっきから一言も発さず、沈黙しているままだ。
「お前らの狙いはどうせ俺達じゃなくて、フクさんだろ。それくらい知ってるって」
フクさん。
その固有名詞が出た瞬間、常善の二人がぴくりと反応した。そして彼らの全身から、こちらの肌がぴりぴりとするような怒気が溢れてくる。確か、クラスメイトの不良が口にしていたはずだ。今日はフクさんが登校しているだとかしていないだとか、いつだったかそういう会話を誰かがしていた。有名人なのだろうか。
「残念だったな二人とも。今日はフクさん、さぼりなんだ」
琴太郎先輩が相手を小馬鹿にするような笑みを浮かべ、百太郎くんが続ける。
「だから、校争は別の日に持ち越そうぜ。それも、今までにない新しいルールにするんだ。その校争で負けた奴は勝った奴の命令をなんでも一つ聞く。校争で決めたことならいくらあの人でも応じるはずだから、好きなだけやり合えばいい。自分達を裏切ったフクさんと」
しばらくは誰もが沈黙して、印刷の音だけが室内に響いていた。やがて、じっと百太郎くんを睨みつけていた黒髪の彼が口を開く。
「その新しいルールは誰が決める」
怒りを堪えていることが明らかなほどに低い声だ。それに臆する様子も見せず、百太郎くんは突然ぼくの背後に回った――かと思うと、彼の手がぼくの両肩に置かれる。
「もちろん、この子。一年四組の哀逆愛織」
「はっ?」
驚きの声を上げたのはぼくだけではなく、黒髪の彼もだった。
「ちょっと、何言い出すの百太郎くん」
「ふざけるなよ。そんな一般生徒の女子を校争に参加させるつもりか?」
「ある意味公平だろ。俺か百太郎が決めるより、お前らのうちどちらかが決めるより」
言いながら琴太郎先輩は印刷機に近づいていく。
「校争に初参加する奴が、新しいルールを決める。こういうやり方は前代未聞じゃない。めーちゃんは自分でもできる校争のルールを考えればいいんだ。あんまり自分だけに有利だったり、馬鹿馬鹿しい内容だったりするなら却下されるだろうけど」
たった今印刷されたばかりの貼り紙一枚を手に、琴太郎先輩は戻ってきた。
「めーちゃん。これって検定の練習じゃないよな」
「あ、はい。本当はアルバイト先での貼り紙作りをしてて……」
「俺にも見せろよ」
百太郎くんが兄の手から貼り紙を取り上げる。
「飼い犬の散歩から犯罪組織の密偵まで、どんな仕事だろうと殺し以外請け負います――か。これ、つまりは便利屋ってことだろ」
「こんな事務所が三途川町にあるなんて、俺達知らなかったよ。でも、ナイスタイミングだ。これって俺達からめーちゃんに依頼してもいいんだよな」
「え」
昔ヶ原兄弟は、それで何人もの女性を籠絡してきたのだろう笑顔をぼくに向けた。
「新しいルールを考えたうえで」
「俺達と校争に参加してくれ」