11 連休最終日
黄金の名を冠する連休中は、特に予定もなくよだかさんの仕事に付き合わされた。そして明日から再び学校だという連休最終日の午後、ぼくは意味も目的もなく揺籃町の公園に訪れた。鉄棒、滑り台、ジャングルジム、アスレチック、シーソーといった遊具で小学生くらいの子供達が遊んでいる中、誰も使っていない空色のベンチに座る。
昼食を少なめにしたせいか、三時前にして早くも小腹が空いてきた。いつも非常食として持ち歩く飛び魚の煮干しを齧り始めたところ、どこからか猫が集まってきた。この公園、こんなに猫が潜んでいたのか。十匹以上の猫がぼくの座るベンチを取り囲む光景はなかなか圧巻だ。やや離れたところで、口を半開きにした子供達がこちらを凝視している。やはり野良猫が多数を占めていたが、中には首輪をしている毛並みのいい猫も紛れていた。ぼくはベンチに座ったまま、猫に飛び魚の煮干しを奪われないように食べ終えた。しかし獲物がなくなっても猫達はぼくの傍から離れようとしない。
どうしたものか、と思いつつ傍らにいた一匹の猫を抱き上げる。耳が折れ曲がっていて、虎のような模様入りの綺麗な毛並みだ。人に慣れているのか嫌がる様子は見せなかった。
「きみは美人さんだね」
立派な首輪をつけているから、飼い主がいるはずだ。きっと家では可愛がられているのだろう。しばらくぼくがその猫を撫でていると、突然背後から声をかけられた。
「よお、処女。……お前ヒト科からネコ科に種族替えしたのか?」
「してたまるか」
首を仰け反らせると視界によだかさんが入った。右手には四角い紙を持っているが、何が書かれているのかこちらからは見えない。
「何か用ですか? もう少ししたら事務所に行くつもりだったんですけど」
「ついさっき、お前にもできる依頼が来た。猫探しの依頼だぜ」
「へえ」
ぼくは仰け反らしていた首を元に戻し、抱いていた猫の喉元を撫でる。舌で指先を舐められるとざらざらとした独特の感触があった。
「……………………」
「よだかさん?」
なかなか依頼の内容を話し出さないよだかさんを振り返ると、軽く眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。その視線はぼくではなく、ぼくが抱いている猫に向かっている。
「……愛織。そいつの首輪、名前が書いてるだろ」
「ええ。リュカって名前みたいです」
「そいつだ!」
突然大きな声を張り上げた彼は、ぼくの手からひょいっと猫を掴み取った。左手で襟首を掴んでいる一見危ない持ち方だが、親猫が子猫を運ぶときも同じところを銜えるはずだ。しかし人間がむやみに襟首を掴むと首を絞めかねないという話も聞いたことがある。
「ちょっと。その持ち方、大丈夫なんですか?」
「耳は折れてる、毛の色はブラウンマッカレルタビー、目の色は金に近い琥珀色、赤い首輪にリュカの名前があるスコティッシュフォールド――間違いねえな」
ぼくの言葉を無視して、よだかさんは四角い紙を見ながらぶつぶつ呟いていた。リュカは大人しく四肢を投げ出した状態でぼくを見つめている。そんな目で見ないでくれ。この人に捕まった時点でどうしようもないんだ。それにきっとよだかさんのことだから、多分きみに悪影響の出ない持ち方をしているはずだ。そう心の声で訴えたとき、よだかさんは四角い紙をぼくに渡した。写真だ。被写体は、目の前にいるリュカ。
「依頼者の飼い猫で三日前から行方不明になってるこいつ、リュカを探す依頼だった」
「そう、だったんですか」
「今までにも猫探しの依頼が来ることは何度かあったが、俺でも今日ほど早く見つけられた日はなかったな。まさか仕事の話をする前から捕まえているとは……すごいなお前」
よだかさんは手品を初めて見た子供のように、ただ純粋に驚いたという表情でぼくを見つめている。なんだか照れ臭くなってきた。
「昔から何故か猫に懐かれやすいんです。それに今日は飛び魚の煮干しを食べてたから、その匂いで余計に猫が集まったんでしょうね」
「はん。やっぱり、同類として見られてるんだろ」
よだかさんはリュカをぼくに押しつけ、歩き始める。ぼくがベンチから立ち上がると、まだ周囲に残っていた猫達は鳴き声を上げながら道を空けてくれた。公園から出る間際、子供達が「あの人、猫遣いだよ」と騒いでいるのが聞こえた。なんだ猫遣いって。
ぼくとよだかさんは揺籃町の中でも高級住宅街とされる翠雀に向かい、そこに住む依頼者――資産家の奥様と聞いていたが、まさにそんな人だ――にリュカを届けた。依頼者は大きな宝石の指輪がいくつも目立つ手で飼い猫を撫で回し、化粧が落ちるのも構わずぼろぼろと涙を流して感謝の言葉を繰り返す。ようやく涙が止まると、報酬とは別にケーキをご馳走させてほしいと言ってきた。これには当然よだかさんが食らいついた。高級老舗の洋菓子店で注文したらしいシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテは大変美味だったが、ぼくは巻貝のような依頼者の髪型を凝視してしまわないようにと必死だった。
連休最終日という憂鬱な気分になりやすい日にしては、いい具合に物事が進んだ日と言えるだろう。事務所に行く前から一つの依頼を早々に終わらせ、その依頼者には喜ばれた。美味しいケーキまでをご馳走になったうえ、報酬には色をつけてもらえた。よだかさんも上機嫌で依頼者を殺さずに家を出て、翠雀を後にする――というときだった。
「なんだ、あれ」
よだかさんがぴたりと足を止めた。ぼくも足を止めて前方でざわつく人々の視線の先を見る。住宅街の道路で両手に出刃包丁を持ち、ぐるぐると振り回す中年の男がいた。まるで剣舞でも披露するように。その行動だけでも十分異常だが、ぶよぶよと脂肪を持て余した青白い身体に白い褌しか身に着けていない姿も異常極まりない。
「直視すると精神衛生に悪影響を及ぼすタイプの変態ですね」
社会不適合者である自分を、全身で表現しているようだ。きっと、何かしらの不幸に見舞われて現実から足を踏み外してしまったのだろう。あるいは薬物にでも手を出したか。しかしぼく達には他人の事情など何の関係もない。問題点があるとすれば、あの変態がいることで道を塞がれてしまったことだろう。
ついさっきまでのぼくを罵りたかった。杏落市という犯罪都市ではいついかなる状況であろうと犯罪に巻き込まれてもおかしくない。朝から夜まで平和に過ごしていたところで、就寝する際ベッドの下に潜んでいた殺人犯に殺される可能性だって十分ある。それをわずかな幸福感で忘れかけるとは。ぼくの馬鹿。
「遠回り、しますか」
「却下」
よだかさんは誰もが選ぶであろう選択肢を却下した。却下しやがった。
「あれが道を封鎖してるせいで俺達が遠回りしないといけないと言うのか」
「じゃあ警察に連絡しますか? でも周囲の誰かがすでに通報してるはずですよ。トリガーハッピーポリスが真っ先に駆けつけると思いますけど」
「それじゃあ面白くないだろ」
かつん、とよだかさんのピンヒールが地面を叩く。前方にいた人々は近づいてくるその音に振り返り、途端呆けた顔になり、ふらふらと道を空ける。モーセが開いた海のように、人の波が左右にぱかりと分かれた瞬間だった。
「逃げるか」
ふう、と息を吐いて回れ右。ぼくは全力で駆け出した。
時よ止まれ!
ゲーテのファウストで有名なこの言葉、神に祈った人は少なくないだろう。人間は一刻一秒を争う場面でついつい時間に干渉しようとする。無理であることを承知で、それでも願わずにはいられない。奇跡が起きるのを期待する。
しかし、実際に時間が停止することなどあり得ない。
個人個人による体感時間の差は明確に存在するし、精神状態による体感時間への影響も大きいとは思うが、全てのものが共通した時間の中で存在していることに変わりはない。個々がその時間をどう感じ取ろうが、時間そのものへの干渉は絶対に不可能だ。ぼくもそのことを理解している。それでもあらゆる現実を排し、非現実のみに心を委ね、時よ止まれと願った。もちろんファウストのように悪魔との契約を終了しようとしたのではなく――出刃包丁を二本も装備した変態に追いかけられているからだ。
逃げ足の早さは人並み以上という自信があるが、ぼくを追いかけている男は見た目に反してなかなかエネルギッシュだ。きっと今、彼の中ではアドレナリンが大量放出されている状態なのだろう。おまけにすれ違う通行人には見向きもせず、ぼくだけを標的として認識しているらしい。それでもこのまま走り続け、逃げ続けていれば、じきにあの男は警察がどうにかしてくれるはずだ。ぼくはそう信じて歩道を走る。
だが、不安なことがある。信号機だ。今走っている住宅街を抜けてしまえば、その先には交差点が増える。交差点には当然信号機が設置されている。全て青信号なら何の問題もないのだが、それは現実的にありえない。いずれは赤信号に引っかかるだろう。そして立ち止まったところを追いつかれれば、面倒だ。こうなったら今すぐ近くの塀を上って他人様の家の屋根を行き来する方がいいのかもしれない。それでも、まだ明るい時刻から人の目につく形でパルクールをすることは極力避けたい。
どうしたものかと考えつつ手足を動かしていると、不意にぼくの左隣をとんでもないスピードで何かが追い越していった。バイク、ではない。自転車だ。そして、その搭乗者は――。
「愛織!」
よだかさんだった。
どうやら彼は他人様の自転車を一時的に拝借してぼくを追いかけてきたらしい。
「乗れ」
「は、はいっ」
つい数日前にも似たような展開があったな、と思い出しながらもぼくはよだかさんに感謝した。すぐに立ち乗りして、よだかさんに後ろから抱きつくような体勢でしがみつく。二人乗りの禁止は重々承知だが、そんな悠長なことを言っていられない。よだかさんがピンヒールのつま先でサドルを踏み込むと、二人乗りで重量が増えたにも関わらず、ぐんっと発進した。ふらつく様子もなく、スムーズに加速していく。心なしか暴走気味のような気がするのだが。そう思った直後に自転車が車道――否、交差点に飛び込んだ。
当然、青信号だろうと思いながらもぼくは信号機を見る。
「あ」
赤だった。
目の前で軽トラックが右折しようとしているところに、ぼく達の乗った自転車が突っ込む。自転車と軽トラック、相撲を取って勝つのは言わずもがな後者だ。そして搭乗している人間は、その際の衝撃にまず耐えられない。反射的に目を閉じると、大きな衝撃と一瞬の浮遊感があった。とっさに両腕で頭を抱える。背中から落下して、痛みを感じながら目を開けた。目の前は車道で軽トラックが停まり、壊れた自転車が転がっている。立ち乗りしていたぼくは衝突すると同時にその反動で交差点の手前、歩道まで飛ばされたらしい。よだかさんはどこだろう。上体を起こして振り返ると、出刃包丁を手にした褌姿の男がいた。日本語とは思えない甲高い奇声を発し、右手に握った出刃包丁をぼくに突き出す。
「いっ、づ……!」
とっさに開いた左手を突き出した結果、出刃包丁の切っ先はぼくの掌を切り裂いた。貫通しなかっただけましだろうが、痛いものは痛い。血が流れ、手相がはっきりと見えている。すると男は第二撃を開始しようとしたのか、左手に握った出刃包丁を大きく振り上げ――ぴしっ、という小さな音に動きを止めた。直後、男の首からものすごい勢いで鮮血が噴き出す。慌てて血がかからないように避けたところで、男は前のめりに倒れた。
「大丈夫か、チェリーガール」
その声にもう一度車道を見ると、頭や口から血を流すよだかさんがこちらに近づいていた。彼の背後では軽トラックを含めて複数の車がぶつかり合い、悲惨な光景が広がっている。恐らくよだかさんは自転車ごと軽トラックの体当たりをまともに受け、車道側に落ちた先で車に轢かれたり跳ねられたりしたのかもしれない。
「よだかさん。今、この人に何かしました?」
「犬歯を弾いただけだ」
「けんし、って……歯ですか?」
「ああ。ちょうど一本折れたからな。こう、指でコイントスするみたいに弾いて」
「それで、まさか」
「上手く頸動脈に当たったみたいだな」
「相変わらずとんでもない芸当を見せてくれますね」
指で弾いた歯が銃弾並みの威力になるなら、この殺人鬼にとっては拳銃があってもなくても銃殺が可能になるじゃないか。絶対、推理小説の犯人役にしては駄目だ。そう思っていると、よだかさんはぼくの左手を見つめた。そう言えば出血しているんだった。左手首を右手できつく握りしめ、心臓より高く上げる。こんな傷を負ったのは久しぶりだ。
「それ、医者に診せるのか」
「ええ。一旦マンションに帰って保険証を取ってこないと」
「いらねえよ」
そう言って、よだかさんはぼくの襟を掴んで立ち上がらせた。車道はすっかりパニック状態で渋滞が起き、悲鳴や怒声と一緒に黒い煙が上がっている。幸いなことにぼく達を加害者だと指差す人は今のところ誰もいない。
「早く行こうぜ。保険証がなくても安く治療してくれるいい医者、知ってるから」
ぼくはよだかさんに引っ張られ、人々の混乱に乗じてその場を立ち去った。