夜を引き裂く右手
久しぶりに短編小説を投稿させていただきます。浅葱です。
今回は、タグにもあるようにボーイズラブだと感じる部分があるかと思いますので、苦手な方はご遠慮ください。また、風味というだけでそうした行為があるわけではありませんので、そちらを期待してきてくださった方のご期待に添うことはないと思います。
それでは、よろしくお願いします。
僕は、帳。太陽を覆い、月を招く夜の化身。
生まれたのは、静かな凪の夜。目を開けるとそこは真っ暗で、僕は一人立ちすくんでいた。それからずっと、ずっと独り。
最初に覚えたのは、名前。名付けには、親という存在など、いない。帳という名前は、否応なしに僕に役目を押し付ける。
次に覚えたのは、恐怖。日の光の下に、僕は、いない。夜の帳を下したこの身が、光に拒まれてしまうのではないかと、恐ろしかった。
その次に覚えたのは、孤独。夜には、誰も、いない。皆が息を潜めてしまうから。柔らかな温もりにくるまれて、明日を夢見て目を閉じる。
そうしてたくさんのことを覚えて、生きて、僕は知った。この世界は、太陽ばかりを愛している。太陽の強い命の光ばかりを、求め仰いでいる。そんな世界が、僕は嫌いだった。
何度下したかわからない夜の帳は、今夜も僕を孤独に落とす。眠る場所として見つけた樹木の洞は、一人で過ごすには少し大きく、他には誰もいないことを痛烈に感じさせた。そう、誰もいない。誰も―――、
「こんばんは」
ふと聞こえた声。誰か、いるの?誰に、言っているの?……僕に、言っているの?まさか、そんな。
「どうしたの?」
続いた声に震えて顔をあげれば、優しい顔をした男の人が立っていた。月の光が冴えて、彼を僕の目に彩って見せた。
不思議と、恐怖はなかった。不安も、何も。
「ここで何をしているの?」
何もしてないよ。身動き一つ取らず、彼を見つめた。
「僕、サエハっていうんだ。お邪魔だったかな?」
お邪魔じゃないよ。そう言いたいのに、声が出ない。唇は小さく開閉しては息を漏らすのに、それが音にはならず消えていく。
「え、と……。ごめんね、驚かせちゃったよね」
違うんだ。いや、驚いたのは本当だけど。でも、そんな申し訳なさそうにしないでよ。あぁ、まだ彼はそこから立ち去っていないのに、まだそこに姿があるのに、彼の気配が遠のくような感覚が襲ってくる。
「僕、向こうの畑を見に来たんだ。もし、気が向いたら遊びに来てね」
待って。待ってよ。お願いだから…
「行かないで!」
それは思わずのことだった。初めて独りに絶望して泣き叫んだ日以来の大声だった。その人、サエハと名乗った人は細い目をまんまるに見開いて驚いていた。そして、また優しい顔で、
「行かないよ」
と微笑んだのだ。
初めて、誰かと夜を過ごした。初めて、誰かが隣にいてくれた。初めて、誰かとお話をした。その誰かは全部全部、サエハさん。サエハさんが僕に全部を与えてくれた。
毎晩サエハさんは、僕を訪ねて来てくれた。そしてサエハさんの畑で作っているもの、僕が今日見つけたもの、サエハさんの好きな花が咲いたこと、僕の見た夢のこと、色々なことを話した。もっともっとと思うけど、サエハさんは、夜が明ける前には帰って行ってしまう。こうして話せる時間はほんのわずかで、離れる時間は永久にも思えた。そうやって僕の夜は相変わらず寂しいものだったけど、少なくともその日から、一人ではなくなった。それがどんなに温かく、希望に溢れたものだったか、僕以外は知らない。
夜のわずかな時間をサエハさんと過ごす度、僕はどんどん欲張りになっていくようだった。もっと近く、深く、長く彼の傍に居たい。けれど、それを彼に伝えるにはまだまだ臆病で。だってサエハさんは、やっぱり光の下の人だから。それをどれだけ恨んで、光に怯える自分を疎んだか知れない。
またいくつかの夜が過ぎて、僕とサエハさんとの距離は以前より近づいた。それが甘えになったのか、心の隙間をほんの少しだけ、サエハさんに見せてしまった。
「太陽が嫌い?」
「うん。だって、僕は……帳、だから」
サエハさんは農夫だ。太陽の恩恵に生きている。そんな人に太陽を貶すようなことを言ってしまうなんて。言葉にした瞬間に、大きな後悔の波が押し寄せてくる。もしかして、嫌われただろうか。呆れられただろうか。そんな負の思考に膝を抱えて、顔を上げられずにいた。すると、いつもの優しい声が、僕の頭上に降ってきた。
「僕は太陽がなければ仕事が出来ないからね、太陽をありがたく思っても、嫌いだと思ったことはないなぁ」
あぁ、やっぱり嫌われた。嫌われてしまったんだ。
「そして、月を嫌いだと思ったこともない」
「え?」
驚いて顔を上げる僕に、サエハさんの表情はいつもと変わらない。優しく微笑んで、夜空を仰いでいる。
「もちろん、その月を招く夜の帳も」
そうやって僕を覗き込む彼が、僕にはとても綺麗に見えた。そしてさっきとは違う意味で彼の顔を見られなくなってしまって、まずいことでも言ったかと彼が焦り出すまで、あともう少し。
それでも、世界は夜に静まる。太陽を求める声が、あちらこちらから聞こえてくる。夜を越えた朝の光は希望の光だと、太陽を讃える人々の姿が見える。そんな時、無性にサエハさんに会いたくて、でもそんな都合よく会えやしないからサエハさんの言葉を思い出す。僕を許す、守りの言葉。
「君が夜の帳を下ろしてくれるから、月の優しい光が太陽の力を深くしてくれるんだよ」
この言葉は、僕の宝物。僕のお守り。これさえあれば、怖くない。安心して、太陽の光を背に暗闇の中で眠りにつける。
そこまでが、僕の幸せの絶頂期。これ以上ないくらい、サエハさんと二人きりの幸せな時。その中で次第に欲張って肥大する僕の心は、ある日最大の間違いを犯す――――――。
「一晩一緒に?」
「そう。夜が明けるのを、一緒に待ってほしいんだ」
「どうして……?」
「僕は、サエハさんと同じ世界で生きてみたい。でも、一人で太陽の下に出るのは、怖いから…」
「そうか。わかった、一緒に太陽を待とうか」
いつもの洞穴の、いつもより入口に近い場所で朝日を待つ。そうやって朝を待つのが、とても楽しかった。新しい世界に、サエハさんの世界に、これからサエハさんと飛び込むのだと心は高潮して、嫌っているはずの太陽を待ち望んだ。その時の僕には正しくあの忌々しい太陽の光が、希望の光に等しくてただ無垢な子供のように焦がれたのだ。
今までになく長い時間を一緒に過ごすことが嬉しくて、いつもより饒舌な僕だったけど、上滑りする言葉の羅列にもサエハさんはいつものように優しく微笑んで、時折声を上げて笑いあったりした。沈黙だって心地が良くて、こんな時間がこの先も続くのだと、そう、信じて――――――。
「さぁごらん。太陽が昇ってくるよ」
いよいよだ、とサエハさんの声がする。大きな期待と小さな不安。僕の胸を占領する二つの心。僕にだって希望の光が降り注ぐ。それを疑うことはしなかった。サエハさんの言葉の続きを聞くまでは。
「そうだ。太陽の下に出たら、君に紹介したい人がいるんだ。仲良くなってくれるといいんだけどなぁ」
その瞬間、僕の二つの心は逆転を果たす。今まで、サエハさんが誰かの話をしたことなどなかった。それがいきなり、何で?
僕の心などお構いなしに太陽は昇ってくる。サエハさんも、僕が同じ世界を生きることに何の疑問もなく、そこには希望しかないかのように微笑んだ。
「昇ってきたよ!行こう!」
差し出されたのは、彼の右手。洞穴の入り口に立つ彼は朝日を浴びて輝き、彼自身がまるで太陽のように見えた。小さな期待は、大きな不安に押しつぶされそうだというのに、僕はほとんど無意識にその差し出された右手を、両の手でしっかりと握り返していた。
初めて握ったその手は、とても大きくて、力強く、強い光に目を瞑る僕を、案外あっさりと太陽の下へと引っ張り出した。そしてゆっくり薄らと目を開けると、昇ったばかりの太陽の光は、僕が思っていたよりも柔らかく、僕になど興味がないかのように堂々と世界の頭上を照らしていた。
「どう?」
「…わかんない。でも、きっと」
あなたと一緒なら大丈夫。そう続くはずの言葉は、大きな声でかき消された。
「サエハ!お前、朝帰りとはいい度胸だな!どこに行っていた!説明しろっ!」
やってきたのは、綺麗な人。僕がサエハさんを綺麗に思うようなそういう綺麗じゃなくて、姿かたちがそのまま綺麗な人だ。
「あ、ツバサ。おはよう」
「む、おはよう。って、そうじゃない!何をしていたのだ!お、起きたらいないから、私は…」
「心配してくれたの?ごめんね。でも、嬉しいなぁ。探してくれたんでしょ?」
「う、うるさいっ!たまたまだ!た、たまたま、外に出たらお前がいたのだ!」
見たことのない表情だった。サエハさんの微笑みは、いつも優しく、温かく、綺麗なものだというのが、僕の今までの認識だった。でも、どうしたことか。今の彼の表情を見てみろ。誰が僕の認識する笑顔が本当の、彼の心からの笑みだと言うだろうか。 今の彼の笑顔こそ、真の笑みだと誰もが嫌でも気づく。慈しむような、見守るような、求めるような、そんな笑顔。そうまるで、愛していると、言うような…――――――。
そこで僕の思考は停止する。その先の意味に、向き合いたくはなかったからだ。
すると、
「…んん?なんだこいつ、じゃなくて…こほん。サエハ、こちらはどなたかな?」
その綺麗な人と目があった。瞳の色まで、美しかった。そしてその美しさが、どうしようもなく気に入らなかった。そして、サエハさんに愛されてきたのであろうその、純粋な奔放さも。
「この子は帳くん。僕の友達だよ。あ、さっき紹介したいって言った人がこの…」
「私はツバサという。最近毎晩毎晩何をしているのかと思っていたが、君に会いに行っていたのだな。今後とも、サエハ共々よろしく頼む」
声が出なかった。色々なことが起きすぎて、頭がパンクしそうだ。あぁ、でもそれより何より、この人と話をしたくない。
「おい、大丈夫か?どうした」
「緊張しているんだよ、この子は今日初めて太陽の下に出たんだから。もう、だから僕が紹介したいって言ったのに」
「えぇ!?そ、そうなのか…すまん」
「ふふふ」
僕を置いて、話をしないで。その人よりも、僕を見て。そんな願いは聞き届けられることはなく、サエハさんの右手は、さも当たり前かのように解かれ、僕は太陽の下に置き去りにされた。そしてサエハさんはあのいつもの笑顔を浮かべ、僕に感動的な言葉で絶望をくれたのだ。
「君はこれからたくさんの人と出会えるね。きっと君の世界は、もっともっと広がるよ。そんな君の世界の片隅に、僕がいつまでもいられることを願うよ」
なんでそんなこと言うの。ふざけないでよ。そんな言葉では騙されない。僕の世界は、あなただ。あなたが中心なんだ。あなたがいるからこんな太陽の下へ来たっていうのに、こんな簡単にあなたは僕の手を放してしまうというの?どうして?………その人が、いるからなの?
もう心には、期待も不安もなかった。あるのはどろどろとした嫉妬心と、僕は間違いを犯してしまったのだという後悔だ。僕はわがままになりすぎた。あなたの大切がまるで僕であるかのように勘違いをして、あなたがいつまでも隣にいるのだと信じ切って。こんな残酷な真実があるならば、すべて知らずに生きていた方がましだった。何も知らず、あなたに愛されていると錯覚した愚か者として生きていた方が、ずっとましだった。
そんな僕の後悔は、僕の夜を変えてしまう。この瞬間までサエハさんとの幸せで塗りつぶされていた夜が、偽りだったのだから仕方ない。幸せを噛みしめるために幾度となく思い返した記憶が、今度は逆に鮮明な絶望となって僕を縛り付けた。
「やぁ、こんにちは。今日も来てくれたんだね」
「こんにちは、サエハさん。うん、今日もお手伝いがしたくって」
「そっか、それはありがたいなぁ。じゃあ今日も、ブドウ畑に一緒に行こうか」
それからまた時は過ぎて、僕はサエハさんの手伝いを申し出るようになった。少しでも一緒にと、少しでも振り向いてくれるようにと、そう思った結果だった。けれどそれは、サエハさんの周りのすべてがあのツバサとかいう人に繋がっているのだ、と知らされるだけの、むなしい行為だった。こうして僕の付け入る隙などないと突きつけられても尚傍に居たいと願うのは、やはり彼だけが僕の世界だからなのだろうか。
「いやぁ、君が手伝ってくれて本当に助かるよ。これでツバサの好きなブドウジュースが、もっとたくさん作れるようになるね」
「……そう、だね。喜んでくれると、いいね」
「うん。できあがったら君にもあげるから、期待していて」
「………うん」
傍には居られるのだ。これ以上に幸せなことが、あるものか。わがままになるな。付け上がるな。僕にはこれが、これこそが、幸せの最大値なのだ。
そうして今日も飽きることなく、あの人を想うサエハさんの横顔を見つめている。その視線の意味に、あなたが気づくことはないけれど。
サエハさん、あなたは僕の太陽だ。憧れで、でも憎くて、それでも愛さずにいられない太陽だ。
「君が夜の帳を下ろしてくれるから、月の優しい光が太陽の力を深くしてくれるんだよ」
あなたはそう僕に話したよね。そうやって僕に、言葉のお守りをくれたよね。あの時、僕があなたの月になるのだと心を高鳴らせたのに、あなたにはもう、月があった。あなたが深く愛する優しい月が。僕じゃない、あの人が。
あぁ、やっぱり嫌いだ。嫌いだ、こんな世界。でも、あなたがいるなら、生きていける。あなたのためなら、いくらだって、あなたの愛するものの上に帳を下ろそう。あなたとあなたの愛するものが柔らかな安らぎの中で、優しい夢が見られるように。そう、あなたに触れた僕のこの両の手で――――――。
独りの夜から飛び出した、あの瞬間のあの光。あれは、失恋に似た閃光だ。そうか。切り裂かれたのか。あの日の右手は、僕を救ってくれたのと同時に、僕を、僕の夜を切り裂いたのか。どうりで、この心が底から掬われないはずだ。
それでもきっと、僕に選択肢はなかったのだ。たとえ時間が巻き戻ったとしても、何度も何度も、僕はあの洞の外から差し出された右手を、取らずにはいられないのだろう。その手を望んだのは他でもなく、この僕自身だったのだから。
僕は、帳。太陽に焦がれ、月を睨む夜の化身。
サエハに対しては、賛否両論あるような気がします。先に読んでくれた友人二人は、真っ二つに割れていました。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。