日常
眠りから覚めるといつも見知らぬ日常が一瞬だけ過ぎる。
一瞬だけという云うのは、つまり、そういう事なのである。
火は、薄く灯る。
蝋燭で十分すぎる狭い居室に私の影が大きく写し出されている。
朽ちた床机に腰掛け、影だけが盛んに動いている。
いや、蝋燭の横に置いてある砂時計も必死に時間を流しだしている。
私はそんなものを気に留める事なく先ほどから黙々と便箋を読み耽ていた。
傀儡とでもいうのだろうか。視線を文字に捕られてしまったようだった。
戸口からは、冷風が静かに忍びこむ。
と、突然文字が歪み出し、踊りだす。
自在に、在る所に在らず、文章の取留めがなくなり
いよいよ居た堪れず便箋から視線を外す。
やっと日常が戻ろうとする。
文字は戻り、影はまだ揺れるが
しかし日常が戻らない。
普遍な私の日常が戻ってこない。
私は、戸を蹴り開けると蛇口に駆け、水を必死に流す。
水を見る。
確かに水は排水口へ流れてゆく。間違いなく流れている。
ただ、いくら見ても呼吸は安定せず、靄を振り払う様に、頭を何度も振り子にする。
しかし日常が戻らない。
私に巣くった怨讐が焦げ付き離れない。
口を開け大きく息を吸い、鼓膜を心臓の鼓動に貼り付ける。
汗が流れ、体を倦怠が纏い、薄暗い部屋の灯りが小さく隙間から漏れる。
生きている!
手を思い切り握り締め、次には開く。血液が渡る。
―生命がある。私には生命がある!
―来るなら来い!私を貶めてみろ!
叫びは音にならず、空しくそこに在るだけであった。
あてが無くなった床机が寛ぎ、便箋は床で詠み人を待つ。
光が落ちた。
日常は蝋燭の火だけにあったが、それもいつかの冷風によって消えてしまった。
私の日常は消えた。
私も消えた。
私の居ない日常だけが部屋を満たしていた。
愉しんで頂けたら幸いです。