大雨洪水警報
「あれ。雨だな」
ぼそりと呟く声に、窓を見た。
さきほどまで晴れていたはずの空にはどんよりと雨雲が垂れ込め、細かい雨が天から細く糸を引くように地面に落ちて行く。まだ降り始めたばかりだから見当がつかないけれど、とりあえずすぐにやみそうには思えなかった。
夜までは大丈夫と言っていた天気予報を信じた私は、傘を持って来ていない。帰りは濡れるしかないか。そんな事をぼんやりと考えていた。
「おい。ぼーっとしている暇があったら、さっさと問題を解けよ」
ぱこんと軽い音を立てたのは、私の頭で。丸めたテキストでそれを叩いたのは、英語教師の大和先生だ。
今は放課後で、ここは英語教務室の隣にあるLL教室。英語の成績がかなり芳しくない私は、大和先生の特別補習を受けている真っ最中だった事を思い出す。
「先生が雨だって言うからじゃないですか」
「あれ? そうだったか?」
相変わらずの人を食ったようなその口調に、思わず脱力せずにはいられない。黙っていればそこそこ男前なのにとは思うのだが、こんなふうにどこか恍けているところもいいのだと、物好きな女子生徒たちからの人気が高いのだ。この先生は。そして男前な事を鼻にかけたりせず面白おかしく授業を進めてくれるため、男子生徒からもそこそこ人気があるらしい。
「先生、ここが分かりません」
先生が個人的に準備してくれたプリントを指差し、質問してみる。雨だろうが雷だろうが、これを終わらせない事には家に帰してもらえないのだから。
「あー? ああ、これはだな。ここにthatが入るんだが、口語文だから省略されているんだよ」
「だー、もうっ。何で勝手に省略するかな。だいたいthatの意味なんか、あれ、だけでいいのに」
「お前ね」
先生の盛大な溜息に、なんだか私が悪い事をしている気分になってしまう。確かに英語が苦手なのは私の理解力が足りないせいだけれど。
「うわ。こりゃまたすげーな」
なんの事かと思うまでもなかった。さきほど降り始めた雨の勢いが増し、かなり土砂降りの様相を見せ始めたのだ。いつの間にか風も強くなり、窓から教室内に雨が降り込んで来ていた。
私は先生と二人で手分けして窓を閉め、掃除道具入れから雑巾を持ち出して濡れた所を拭いた。そうこうしている間にも、空はどんどん暗くなり、雨はバケツをひっくり返したという比喩がぴったりだと思えるほど激しさを増して行く。
『ただいま大雨洪水警報と雷注意報が発令されました。校内に残っている生徒は速やかに下校してください』
そんな校内放送が入り、私は思わず先生と顔を見合わせた。
「佐川。お前、チャリ通だっけ?」
「一応、そうなんですけど」
容赦なく窓にたたきつけられる雨水をちらりと横目に見て、私は溜息を吐く。
「これじゃ無理だろう」
「うーん。電車とバスを乗り継いで、帰れない事もないんですけどね」
普通に自転車なら片道四十五分。この二年間で鍛え上げた私の脚なら二十五分。けれど学校から最寄の駅まで徒歩十分、電車で十分バスで十五分、さらにバス停から自宅までは徒歩十分。乗り継ぎの時間とこの降りっぷりを考慮すれば、一時間近くはかかってしまうだろう。
そして最大の問題点は、傘がない事だった。
「どうせ濡れるんなら、自転車で帰った方が早いかなあ」
小さく呟いたつもりの声は、しっかり先生の耳に届いてしまっていたらしい。私を見る先生の表情が、なにか言いたげなものになった。
「お前ね。この雨脚の中チャリに乗って、目を開けていられるとまさか思っているんじゃないよな?」
「あ」
そんな事、言われるまで思い至りもしなかった。
「ついでに言うとだな。その格好で濡れたら、悲惨な事になるぞ」
今の私の格好は、学校指定の標準服の夏仕様。上は白のブラウスと深緑色のボータイに、下は規定より少し短めの紺と緑のチェック地のプリーツスカート。確かに濡れればプリーツは取れてしまうかもしれないけれど、それのどこが悲惨なのか分からなくて、思わず自分の体を見下ろした。
「白いブラウスが水で濡れるとどうなるのか、知らないわけじゃないよな?」
濡れた姿を想像し、なるほどと納得する。
「透け、ますよ、ね」
「まちがいなく、な」
黒板の上の時計を見上げると、午後五時過ぎ。しかたがない。
「先生、お金貸してもらえます?」
「教師に借金を申し込むとはいい度胸だな。何に使うつもりだ?」
「タクシー、呼ぼうかなって」
ここから家まで一体いくらかかるのか、考えるとちょっと怖い気もするが、五千円もあれば足りるだろう。
「迎えに来てもらうあてはないのか?」
「七時過ぎまで学校にいさせてもらえるならいいんだけど、うちの両親共働きで、まだ帰ってる時間じゃないんですよ。中学生の弟に自転車で来いって言うのも無理だし」
私の言葉に、大和先生は腕を組んで何事か考えこんでしまった。警報が出ているのなら、生徒の下校を確認した後、教職員たちもすぐに帰る事になるはずだ。七時までというのは無理だろうと分かっている。
「金は、貸せないな」
あまり期待してはいなかったから、まあ仕方がない。
「普段の生活はカード中心でな。現金は毎日必要最低限、三千円しか持ち歩かないんだよな」
「じゃあやっぱり濡れて帰ります。どうせこの雨じゃ、他人の事を見ているほど余裕のある人なんかいないだろうし」
相変わらず土砂降っている雨を眺める。女は度胸だ。
そうと決まればぐずぐずしていられない。私は机の上に広げたままになっていた荷物を鞄に詰め込み、ついでに鞄を雨から守るために掃除道具入れからゴミ袋を一枚拝借し、手早く帰り支度を整えた。
「て事で、先生、さようならー」
「ちょっと待てこら」
さっさと教室を出ようとしたのに、むき出しの二の腕を掴まれて引き止められてしまう。素肌に先生の手の熱を感じて、心臓が小さく跳ねた。
「少しでも明るいうちに帰りたいんですけど」
「特別サービスだ。送ってやるから感謝しろ」
親切の押し売りとは、教師の風上にもおけない行為ではなかろうか。
「え。あ、いやあ、それはいいです、遠慮します。自力で帰りますから」
「バカ言うな」
「考えてみれば、自転車を置いて帰ってしまったら、明日の朝はもれなくバス電車コースですから。この際押して歩いてでも、自転車で」
「歩いてどのくらいかかると思っているんだ? 風邪ひいてぶっ倒れられたら、俺の夢見が悪くなる。素直に送られろ」
ああ、そうだ。この人はこういう人だった。私はにわかに痛みはじめたこめかみを指で押さえた。
「職員室で事情を話して来るから。まあ、今日みたいなのは特例だから問題にもならんだろう」
それは、まあ。普通の時ならば、仮にも教師が一人の生徒だけを特別扱いするのはご法度だろう。この特別補習で既に特別扱いされている自覚はあるのだが、その事実には目を瞑って私はとりあえず頷いた。
「正面玄関に車を回すからな。間違えて昇降口で待っているんじゃないぞ」
むだに近い距離。不敵とはいえ笑顔を向けられて。思わず踊ってしまった心臓の鼓動を悟られないように一歩体を引こうとしたが、腕を掴まれているために失敗に終わった。
正面玄関で待っている間も雨は景気よくどんどん降っていて、地面で跳ね返る水滴も手伝って、ガラスのむこう側はまるで幕を引いたかのような有様だ。
クラブ活動などで残っていた生徒もほとんど帰ってしまったらしく、何人かの教職員が帰宅する姿を見送った。
そして待つ事十数分。玄関前に車が横付けされ、小さくクラクションが鳴らされる。さすがにこの雨では窓を開けるわけにもいかないのだろう。
私は覚悟を決め、玄関のガラス戸を開いた。途端に降り込む雨に躊躇する間も惜しく、目の前の車のドアを開いて助手席に体を滑り込ませる。たったそれだけの事なのに、髪もブラウスも少なからず雨水を吸ってしまっていた。
「ほら」
大和先生が投げてくれたタオルを受け取り、とりあえず髪についた水滴を拭う。
「言っとくが、俺はお前の家を知らんからな。道案内しろよ」
「あ、はい」
車が正門から滑るように走り出る。さぞかし荒い運転をするのだろうという予想は、いい意味で裏切られた。
「とりあえず国道を右、でいいんだな?」
「あ、はい。そうです」
雨音よりも大きく、かちかちというウィンカーの音が車内に響く。
学校の前の道は既に、側溝から溢れ出た雨水で小川のような状態だった。国道はさすがにましとはいえ、それでも左端の車線を走る車が跳ね上げる水の勢いは、かなりなものだ。
「この中を、チャリを押して帰るつもりだったって?」
「う」
確かにこの現状を見れば、それがどれだけ無謀な事だったのかを思い知らされないわけにはいかない。
「でも、私、低血圧なんですよ。朝早いの苦手だから、明日バスと電車で学校まで来るのを避けたいなーと」
「それだけか?」
「え? 他になにか、あるんです、か?」
思わず先生の顔を見ると、にやりと意地悪く歪む口元が見えた。なんだか背筋がぞくっとする。
「俺の車に乗りたくなかったんじゃないのか?」
ぎくり。体と心臓が音を立てたんじゃないかと思うくらい、焦った。
「ま、まさかあ」
あははと軽く笑ってごまかそうと必死な私の額には、いつの間にか汗が滲んでいる。
「雨が降ってるから、蒸し暑いですねー」
右手をぱたぱたと顔の前で振り、あおぐ真似をした。
くすり、と笑われたような気がするけれど気付かなかった事にしていると、先生がエアコンのスイッチを入れてくれる。その頃には時折空が光っているような気がして来てはいた。
周囲の車も安全運転で、制限速度ぎりぎりくらいのスピードで流れて行く。まだ早い時間なのに、どの車もヘッドライトが点いていた。その光に照らされて、激しい雨の道筋がきらきらと光って見え、思わずそれに見惚れてしまう。いつもと同じ光景のはずなのにまったく別のものに見えるのは、きっと私の気のせいだろう。
「そろそろ左に寄ってもらった方が。信号を超えたら、側道に入ってください」
「ん」
私の誘導に従って、車は国道から側道に逸れる。
「つきあたりを右に行って、二つ目の角を右です」
側道は少し低くなっているからなのか、水たまりというよりは小さな池のような状態で。
「そこを左で、一つ目の角のところがうちです」
「うーん、こりゃ、佐川が一緒でなけりゃ行き着けなかったかもな」
そう。私の家は少し分かりにくい場所に建っていて、いつも友人や運送屋に道を説明するのに苦労している。
「や、まあ、でも、こんな事でもない限り、先生がうちに来る必要はなかったでしょう?」
「今は、な。でもまあ、将来的には困るだろうから、今日分かってよかったんじゃないか」
将来って。
「えー、と?」
「おー。雷が近くなって来たみたいだな」
次第に近付く雷の音。さきほどから、光と音との間隔が短くなってきている事には気付いていたけれど。とか思っていたら、最後の角を曲がる十数メートル手前で、車が停まってしまった。
「先生? 私の家、そこなんですけど」
大和先生は、ハンドルに両腕を置いてその上に顎を乗せ、ぼんやりとフロントウィンドウを滝のように流れて行く雨水を眺めている。まさかここで下りろと言うのだろうか。どうせ送ってくれるのならば、せめてあの角まで行ってくれればいいのに。そんな勝手な事を思いながら、シートベルトのストッパーを外した。
「えーっと。送っていただいて、ありがとうございました」
仕方なくドアを開けようとした時、ようやく大和先生が動いた。
「明日の朝」
「へ?」
右手を掴まれ、私の動きが止まる。
「学校の近くまで送ってやる」
「え? え?」
掴まれた手に意識が集中して、いきなり何を言われているのか、瞬時には理解できない。
「チャリ、学校に置いて来ただろう? 朝が苦手なお前を、俺が迎えに来てやると言っているんだ」
それはなかなかに魅力的な申し出だった。けれど、それはまずいんじゃないかという声も私の中には確かにあって。
「特別扱い、は、まずいんじゃないんですか?」
できるだけ平静を保ったつもりだったけれど、途中少しだけ声が上ずってしまった。
「困っている生徒に手を差し伸べるのは、教師の役目だろう?」
「や。まあ、確かに困ってはいますけど」
また空が光り、次いで雷鳴が響き渡る。かなり至近距離らしく、音も大きい。
私は雷は怖くない。むしろ天から地に突き刺さるように見える稲光を見るのが好きだ。屋外にいるのならばともかく、屋根の下にいれば安全だと知っている。そして車の中は鉄の塊の中。実は一番安全なのだという事も、父から聞いて知っていた。
思わず外の光に見惚れていたら、右肩に重みを感じて我に返る。右手はまだ先生の左手に掴まれたまま。肩に、先生の頭がもたれかかっていた。
「な、に、してるんです、か」
「お前って鈍いよな」
言われて思わずむっとする。確かに敏感な方ではないと思うけれど、そんなにしみじみ言われるほどひどいとは思っていないからだ。
「惚れてる男が優しくしてやるって言ってるんだから、甘えていればいいんだよ」
目が点、とはまさにこの事で。喉から声が出ないのは、驚きのためなのかそれとも恥ずかしさからなのか。
「ほ、ほれ、って」
確かに以前、大和先生には私が好意を持っている事を言い当てられてしまったのだけれど。危うくファーストキスまで奪われそうになったのだけれど。あれから何度も放課後の特別補習で二人きりになっても、その事を蒸し返される事がなかったから、あれはたぶん先生流の冗談なのだと思っていたというのに。
よりによって今、LL教室などよりもずっと狭い密室に二人きり。しかも手を伸ばせば触れてしまえ、実際こうして触れられている状況で蒸し返されて、私の心臓はとても正常に働いてくれない。
手に肩に先生の熱を感じて、頭がおかしくなりそうだ。
「ま、卒業するまで手は出さないでいてやるから、安心しろ」
そんな事を言いながら耳に息を吹きかけてくるのは反則だ。
「せ、せせせせ、せん、せいっ?」
耳朶にかじりつかれる感触に、思わず息を呑む。ざらりとした何かが耳を這い、背筋にぞくぞくと形容しようのない震えが走った。全身の肌が粟立つのは、たぶんきっとエアコンのせいじゃない。
思わずドアから離した左手で耳を隠し、体を引く。とはいえ狭い車内の事。ほんの数センチで背中がドアにぶつかってしまった。
それだけでもう私はいっぱいいっぱいなのに、先生はいたって余裕。肩を小刻みに震わせ、実に楽しげな笑みを浮かべている。
「うーん。やっぱりお前、面白いな」
「お、面白いって、人をおもちゃみたいに言わないでくださいっ!」
稲光と雷鳴が、ほぼ同時だった。耳をつんざき空気をも震わせるその轟音に、さすがの私もびくりと体が震えた。
「おもちゃだなんて思っていないから、俺が手を出せない間は他の男のものになるなよ?」
いつもどこか人を食ったような楽しげな先生の目が、今はまっすぐに私を見据えている。至近距離から見る先生の目は、その色までもがいつもとは違うような気がして。大和先生が大和先生じゃないような、奇妙な錯覚。それはともすれば私が私じゃなくなるような、そんな歪に捻じ曲がった感覚だった。
非日常的なこの状況に、頭が麻痺して正常な思考ができない。頭が真っ白になっているというのを初めて体験した気がする。
急に先生の顔が遠くなり、ずっと掴まれたままだった右手がようやく解放された。痛いくらいの力で握られていたらしく、せき止められていた血流がいきなり戻った事で、指先にじんわりとした痛みをもたらしている。
車がゆっくりと動きだし、もうほんの目と鼻の先だった自宅の前に着いた。
「え、と。あの。送っていただいて、ありがとうございまし、た」
舌がもつれてうまく喋る事ができなかったけれど、とりあえず謝辞を述べて足元に置いていたカバンを手に取った。
「明日の朝、七時四十五分にここにいろよ」
「は? え?」
本気なのだろうか。本気で、明日の朝迎えに来てくれるつもりなのだろうか。私はすぐには言葉を返せず、先生の顔を見た。
「離れがたいって気持ちは分かるけどな。手を出したくならないうちに、さっさと下りてもらいたいんだよ、俺としては」
本当はもっと一緒にいたかった、なんて思っていた事は、しっかりばれていたらしい。
「あ、じゃあ、明日?」
念を押すと言うよりも確認するように。
「ああ」
やはり、迎えに来てくれるつもりなのだ。
「わかり、ました。じゃ」
「おう。気をつけてな」
気をつけるも何も、ここは既に私の家の前。ドジってすっ転びでもしない限りは、なにが起こるわけでもないだろうに、先生はそう言った。
「先生も、気をつけて」
心を奮い立たせ、ドアの外に出る。
わずかに弱まったとはいえまだまだ土砂降りの雨の中、地面の窪みにたまっている水を蹴り上げながら私は玄関先に駆け込んで。雨の中に消えていく車のテールランプが視界から消えてしまっても、しばらくの間跳ね返しの雨水がかかるその場に立ち尽くしてしまっていた。
そして結局それが原因で風邪をひいてしまったのは、また別のお話。