ブラッドエンジェル
その日の深夜に、僕はいつもは感じない尿意を感じて、ナースステーションの横にあるトイレに行った。何の問題もなく排出して病室に戻ろうとした。
ふと気が付くと、ナースステーションがいつもより皓々と照明が点いているような気がした。そして、ナースステーションの中から何やら話し声が聞こえてきたのだった。耳をそばだてると、どこかで聞いた声のように思われた。とりあえず確かめようと、ナースステーションに近づいてみた。
「なぁ、頼むよ。お前が俺にサインをしたから、こうして忍んで来たんじゃないか。俺の血を捧げるから、俺に『あれ』を与えてくれ。お願いだ」
男の声がした後に、女の声が聞こえた。
「イヤよ。もうあんたの血はあたしには必要ないから。これ以上、あたしにまとわり付かないでよ。あたしの正体がバレちゃうじゃないの」
僕はその時に思い出した。今日の夜間勤務は『金沢美鈴』だったことを。女の声は明らかに金沢美鈴だった。そして、男の声にも聞き覚えがあった。そうだ。昼間に大騒ぎした『近藤』とかいう男の声だということに気が付いた。
「俺の血が最高って、美鈴は言っていたじゃないか。違うのか? どうなんだ?」
「もっと最高の血を見つけたのよ、うふふ。あの甘美な味わいは、あんたの血とは雲泥の差だわ!」
「そんなことを言うなよ。なぁ、お願いだ。あと一回でいいから。頼む、この通りだ」
近藤は土下座をして、金沢に懇願していた。
「仕方がないわね。今日のあたしは極上の血を飲み損ねてるし。あんたの血で我慢してあげるわ」
「やったー、さぁ、早くやってくれ!」
浮き足立つ近藤に、金沢は表情を変えずに言った。
「でも、これで打ち止めよ。これ以上、血を抜いて『あれ』を服用すると、あんたは死ぬわよ。分かったわね?」
「あぁ、分かった、分かった。大丈夫だから」
「二百CCが限界よ。それでいいわね」
「四百CCでもいいぜ」
ナースセンターの診察台に仰向けになって腕を捲り上げた近藤と、テキパキと献血の機械を準備をする金沢の会話が続いた。そして金沢は抜群のテクニックで素早く近藤に献血の針を打ち込んで血を抜き始めた。
「血を抜いている間に『あれ』を出すわね」
「おう、頼むぜ」
そう言うと、金沢の輪郭が青白く輝き出したかと思ったら、金沢の身体全体が輝き始めた。僕は眩しくて目を閉じた。目蓋を通過する光の刺激がなくなったと感じて目を開けると、そこには得体の知れない生物が存在していた。姿の形は一見して人間のようだが、背中に薄い膜の羽根が生えているのが大きな違いだった。そして身体全体は白っぽい半透明で、顔の表情はその形があるだけで機能しているようには思えなかった。
ここまでならば、それはまるで『天使』のようでそれ程驚かなかった。だが次の瞬間、その得体の知れない天使のような生き物が大きく変化したのだ。頭がパックリと半分に割れて、その裂けた中から赤い液体があふれてきて、それを得体の知れない生物自身がすくい取っていたのだ。
その異様な姿と光景に、僕は思わず声を上げてしまったのだ。
「何だ、あれは!」
僕の声に気付いた得体の知れない生物は素早く僕に近づき、無言のまま僕をナースセンターの中へと引きずり込んだ。僕はもう口も聞けない状態だった。ただワナワナと震えてその場にいるしかなかった。得体の知れない生物はそんな僕を両腕で拘束した後、金沢の声が僕の頭の中で響いた。
「あら、こんな所にいたの、あたしの可愛い子ちゃん。これで手間が省けたわ。あたしは、リマキナ星のヒュメナイオス。あなた方のいう『天の川銀河のサジタリウス腕』から来たの。これでも、あたしは美食研究家として、天の川銀河では有名なのよ。美味しいモノを探し求めて天の川銀河を旅しているの。偶然通り掛かった、こんな片田舎のオリオン腕のちっぽけな太陽系、チンケな地球でこんなに美味しいモノを発見できるとは思ってもいなかったわ」
僕の顔を見て、リマキナ星人のヒュメナイオスは舌なめずりしているように思えた。
「ざっと説明したけれど、理解できたかしら? 貴方が、あたしの見つけた中で最高の血の味の持ち主なのよ。貴方にも『あれ』を与えて、あたしの虜にしてあげるわ。うふふふ」
そう言って、リマキナ星人のヒュメナイオスは、裂けた部分から流れ出る赤い液体を僕の口に含ませた。その瞬間に、僕は人間が味わったことのない、得も言われない恍惚なトランス状態に入ってしまったのだった。
「あぁ、これが近藤という男が言っていた『あれ』なんだ。あぁ、何とも抗しがたい世界だ。あぁ、精神が溺れていくぅ。あぁ、心が癒されていくぅ。そして、感情が沈んでいくぅ。肉体から抜け出てしまいそうだぁーっ……」
異星人のドラッグで、僕の精神は混沌とした意識の奈落の底で完全なる癒しにノックアウトされたのだった。