採血騒動
更に翌日の午前中は院内がとても騒がしく、その喧騒は遠く外来受付の方で聞こえていたのだが、段々とその騒音の音量が大きくなった。あまりにも騒がしいので、僕はベッドから起き上がって病室の扉を少し開けて、扉越しにナースセンターの方向の通路を覗き見た。
「おいっ! 金沢はいるか! 看護師の金沢だ! 金沢を出せっ!」
大きな声で怒鳴っている男は、たくさんの看護師に囲まれて押し留められていたが、それでも看護師達では抑えきれない様子で、ズルズルとこの病棟のナースステーションまで来てしまったようだった。
その男は、薄汚れたグレーのポロシャツにヨレヨレの紺のジャケットを羽織り、ズボンは黒地にシルバーのラインが入ったジャージを穿いて、サンダル履きだった。目は窪み、頬はこけて、無精髭を生やして、既に異常な感じの男だったが、一番印象的だったのはその男の顔色だった。真っ青で、全く血の気を感じられなかったのだ。
「近藤さん、落ち着いてください。貴方はもう完治したんですから!」
そう怒鳴った看護師に、近藤と呼ばれた男は怒鳴り返した。
「何を言っているんだ! 俺は全然治ってないぞ! さぁ、早く俺から血を採って調べてみてくれ。きっとどこかが悪いはずだ!」
近藤はそう言い終わると、再び暴れ出した。
「止めてください!」
「落ち着いてください、近藤さん」
「暴れないでください!」
看護師達は口々に叫びながら、近藤を押し戻そうとしていた。
その時、向こう側の通路の病室から金沢が現れた。金沢は、シルエットがAラインの、襟元の大きなボタンがアクセントのガーリーワンピースのナースウエアを着ていた。それを近藤は目ざとく見つけた。
「おい、金沢! 金沢美鈴! 俺だ、近藤だ!」
金沢は、名前を呼ばれてふと顔を向けた。近藤と呼ばれている男を見て一瞬表情が曇ったが、すぐにニコニコとした顔に戻って騒ぎの中心である、近藤という男に近づいていった。
「あーら、近藤さん。今日はどうしたの? もう病院に来なくてもいいんでしょ?」
近藤は、急に大人しくなって身繕いをしてから、金沢に対面した。
「そんなことを言うなよ、美鈴。まだ、どこかおかしいんだ。なぁ、頼むよ。頼むから、俺の血を採って調べてくれよ。お願いだ、美鈴」
近藤は、金沢に切々と訴えたが、金沢の答えは明確だった。
「近藤さん、それは出来ないわ。だって、近藤さんはもう病気が治ったのよ」
それを聞いた近藤はガックリと肩を落とした。その様子を見た金沢は、近藤の手を取って握り締め、近藤を凝視しながらこう言ったのだった。
「分かったかしら?」
看護師にとって『スキンシップ』は常套手段だ。だが、こんな狂気の男に通じるのだろうか。僕は甚だ疑問だったが、事実は意外な方向へと進んだ。
「うん、分かったよ。俺、帰る」
金沢の顔を凝視していた近藤は、ニコニコとして金沢にそう言った。そして、回れ右をしてトボトボと玄関の方へ歩き出したのだった。