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HOPE&PEACE  作者: 麻婆
9/9

9.ホープとピース


 所長が収監されてから一ヶ月ほどたった。思っていたほどの長期間ではなく、模範的であれば意外とはやく戻れるらしい。あの人のことだから、都合のいい外面を被って、うまいことやるに違いない。そして、すぐに事務所へ復帰してくれる。だから私は、自分の周りだけを心配していた。

 調査業の本格的な勉強をしながら、きたるべき一人での探偵業務に備えている。

 勉強や入道太さんの稽古に集中しているときは、余計なことを考える余裕はない。弓道もまた始めた。事務所からは少し電車に乗らなければならないけれど、素敵な弓道場を見つけて、的や俵を相手に心を静かにしている。

 事務所ではいつも独り。所長がいつのまにか作成していた“調査業の基本”という本を閉じると、私の頭は考え事を始める。思い出すのは、やっぱりあの事件。

 長浜夫妻と、佐山渚、佐山夫妻だ。夢さんはとても元気。いつも頼んでないのに出前を持ってくる。階下から、ご飯だよーと叫ぶんだ。元気ってもんじゃない。長浜夫妻は相応の罰を受け、佐山夫妻には相応の補償がなされた。渚ちゃんもお咎めはなく、家族に愛という名のお叱りを受けた。でも、それだけじゃないはず。それだけじゃ、駄目なはずなんだ、と私はぐるぐると頭を悩ます。

「仕事に私情をはさむのは悪くない、か……むむぅ」

「知恵熱が出んぞ、葉月」

「ぅああああああああッ!」

 身長二メートルの、厳つい妖怪が唐突に現れた。

「お前なぁ、そんなウメズ漫画みてぇな顔してビビるんじゃねえよ。俺だって傷つくんだぜぇ……」

 よいこらしょー、と入道太さんは事務所の窓から入ってきた。

「ここ、三階なんすけど……」

 だからなによ、と入道太さんはウィンチみたいなものでワイヤーを巻き取っていた。改良の余地ありだな、と胡散臭いことも呟いている。

 忍者かこの人。

「三階の窓、しかも背中側から、突然お化けみたいな大男が入ってきたら、ふつう誰だってビックリするすよ!」

「お前いつから普通になったんだよボケ。慣れないこと考えすぎなんだよ」

 あと次ぎにお化けって言ったら撃つからな、とわりと本気のトーンで入道太さんは言った。

「ふははっ」

 私は思わず笑ってしまった。所長が座っていた椅子に、いまは私が座っている。入道太さんの狼藉に頭を抱えた私は、なんだかすこし所長と重なって可笑しかった。

「葉月よ、長浜夫妻のことは忘れろ。綺麗さっぱりとな、そうしないと、今度はお前が文人の後を追うことになりかねねぇ」

「……でも」

 結局、私たち探偵には、長浜洋介がどうしてあんなことをしてしまったのか、いまなにを想っているのか、それらの類は知らされることはなかった。彼と、その妻の動機――根っこの部分は、警察しか知らない。所長と私のパンチで彼らは目が覚めたんだろうか、そうでないなら、私は……。

「お前に出来ることはねぇよ」

 入道太さんは心を読んだようなことを言った。いや、まあ、おそらく読めたんだろう。

「お前は探偵、俺は刑事、カウンセラーの真似事をするにゃ、ちょっと粗暴すぎるわなあ」

 己の領分をはみ出さず、私情をはさめ、ということだろうか。

「俺たち刑事も、お前ら探偵も、人間の善い所なんざほとんど見ることはねえ。見えてくるのはクソばかりだ。あんまクソに執着してるとなあ、匂いが染み付くんだよ」

 私は思わず自分の髪を嗅いでみた。

「馬鹿かお前」

 念のためすよ。

「所長の言っていたことも、そういう意味だったのかも知れないすね……」


 ――そして、綺麗に忘れろ。お前の目が濁ってしまわないようにな。


 入道太さんは溜息まじりに言う。

「まあ、なんにせよ。この世界はあんま出来がよくねぇ。そいつが生むクソを、ひとつひとつぶん殴って、目を覚まさせていくなんざ、人間のやれることじゃねぇよ」

 そうなんだろう。結局、私たちは自分の周りにある、大切で愛おしい平和を守るしかないのかも知れない。

「平和って、ちっちゃいすね」

「ちいせぇ奴は、ちいせぇ平和を守んだよ。とち狂った奴が、デカイ平和を掴もうとして死ぬ」

 私の気分はすこし落ち込んだが、入道太さんの言葉はどこか、妙に心地のよい所へ落ちた。

「小さい平和かあ……。自分、小さい奴すかね?」

「なにカップだ?」

「Aすけど……、ってなんの話すかッ!!」

 セクハラ極まりない入道太さんは、お腹を抱えて笑っている。油断してんじゃねぇよ、とか言いながら。

 この人はいつか酷い目に遭う絶対。もう絶対そうだ私が遭わせようか!

「実はBにかぎりなく近いすよ」

「うるせえよ、ちいせぇ見栄張るなや」

「小さくないすよっ!!」

 もうやだ。

 ぐぎぎ、と歯を鳴らして私は立ち上がった。長浜に続いて現れた女の敵はここにいた。

「元気じゃねえかよ。その調子ならいけるな?」

「んあ゛?」

 威嚇するヤンキーみたいな声に、自分でもびっくりしてしまった。

「佐山渚だよ。正直、親のほうは大丈夫だろ。不倫していたとはいえ、娘の援助交際の事実はなかった。問題は娘のほうだ」

「そう……、すね」

 恋人だと思っていた人に騙され、親が強請られていた。そしてその恋人だった人は逮捕されてしまった。渚ちゃんはきっと、やりきれない想いを抱いているに違いない。それとなく佐山希に話を聴いた限りでは、渚ちゃんは元気でいるらしい。佐山希が家事の手伝いで失敗すると、ぺち、と殴られるらしい。佐山希は楽しそうに話していた。それはちょっと微笑ましい光景だ。

 それが、空元気でなければいいんだけど。

「お前がちいせぇ奴かどうか、ちょっと確かめてこいよ。あの娘、お前と文人のこと気にしてたからな」

「はい! 入道太さん、顔に似合わず繊細すね!」

 お前が極太すぎんだよ、と彼は怒った。さっきのお返しだ。

「もし、佐山渚が、思っている以上のクソにまみれていたら、お前はなにもするな。すぐに手を引け」


 ――私情だけで動くと、ロクなことがない。


「肝に銘じるす!」

「あ、おい――ッ!」

 私は駆け出し、事務所に鍵をかけると、すぐに渚ちゃんにメールを送った。放課後まではもう少し時間がある。あのファミレスで待ち合わせをしよう。またあの場所で、色恋の話をするなんて思ってもいなかった。今回は青臭いかどうか、それは微妙なラインだったが。



「あ、いた。やっほー」

 渚ちゃんは私を見ると、小さな手をふりふり対面に座った。

「元気そうすね」

 見た目や雰囲気に暗いところはない。もともと渚ちゃんがどういう人間だったのか、それは私には分からない。だから、これが普段の彼女なのかも知れない。でも、どこか爽やかすぎるのが、違和感といえば違和感。

「私もそうだけど、探偵さんたちも大変だったみたいじゃん」

 私は渚ちゃんに好きなものを注文させ、自分でもコーヒーを注文した。

「まあね、って……刑事さんから聞いたすか?」

「うん、あの細い巨人さん」

 長倉入道太で間違いはないだろう。いったい、どこまで話したんだろ……。

「自分たちのことは、まあ、いいんすよ。それよりも、んと……」

 私が話を切り出せず、ちょっと冷や汗が頬を伝おうかという頃。渚ちゃんは照れたように笑った。私はいままで、彼女の笑顔を見たことがなかった、そう気付いた。少なくとも、偽物じゃない笑顔を。

「心配で様子を見にきたって?」

 自分から切り出した渚ちゃんは、とても可愛い笑顔だった。どうしてか、これも探偵の報酬の一つだと思えた。

「うん……、大変な目にあったから、もしかして、無理に元気出してるんじゃないかって思ったすよ」

 それが変なんだよ、と渚ちゃんはジュースを吸い込む。明後日の方向を見ながら、頭を整理しているようだ。

「こう……なに? 論理整然? なんか綺麗に話せないかもだけど、いい?」

「構わないすよ。まあ、自分の方が、色恋に関しては疎いすけど……」

 なにせ、私は探偵しか見ていなかった。

 渚ちゃんは、んふっ、と飲みかけのジュースを吹き出しそうになりながら、ゆっくりと語りだした。

「まず、びっくりしたじゃん? だって、洋介が私を騙して、お父さんも騙して、恐喝してたんだもん。びっくりするよ。援助交際してることにしろ、とかさ、探偵事務所に行ってみろ、とかさ、変だとは思ってたんだけどさ……」

 うん、と私は相槌をうつ。なるべくそれ以外は行わない。話に詰まりそうなら、こちらで整理して助け舟を出す。所長を見て覚えた、聞き上手になる方法だ。ちゃんとできるかは、まあ、自信ない。

「そのせいで……、お父さんは体調が悪くなって。でも……私のことは黙ったまま、死のうと思うまで苦しんだんだよ。そんなのってないよ。お母さんも心配で顔色が悪くなってたし……。なんか、ひどいよ。私のせいでも……あるんだけど、さ」

 渚ちゃんは、自分の言葉で、自分の感情を刺激してしまったんだろう。ぐす、と鼻を一度すすった。

「お父さんとお母さん、渚ちゃんはどっちも好きなんだね」

 私がそう言うと、おばあちゃんも好き、と彼女ははにかんだ。

「んで……、話を聞くとさ、探偵のおじさんとお姉ちゃんもさ、大変な目にあってるし。おじさんは、私たちを助けようとして、そのせいで刑務所に入れられたんでしょ?」

 あ、探偵のお兄さんか、と渚ちゃんは可笑しそうにした。

 確かに所長は佐山親子を救おうとして、無理やりな方法で物証を集めた。でも、所長自身の私的な執念がなければ、仕事を完全に逸脱した、その行動はおそらく取らなかったはずだ。これは言わないでいた方がいいだろうな、と私は思った。

「うちの所長は、ちょっと無鉄砲でして、ははは……」

「それで、最後は洋介がいなくなった」

 そう。そうなんだよ。渚ちゃんにとっては、不倫であろうと、好きな人であったはずなんだ。

 私は気付けば、テーブルの下で強く拳を握っていた。緊張によるものだ。

「すごい悲しかった。私は好きだったし、洋介。それは本当だしさ。だから、めっちゃ悲しい、はずなんだけどさ……」

 むむー、と渚ちゃんは一度ジュースに口をつけた。

 私はある予感を覚えた。もしかしたら――。

「お父さんが、私のために体壊すまで我慢して、なんとかしようと頑張って、でも駄目で。それを探偵さんたちが助けてくれて。それから、洋介の悪いことから守るために、仕事じゃないのに、逮捕されるくらい探偵さんは頑張って、えぇと……」

「なんか爽やかな気分?」

「そう、それっ!」

 渚ちゃんは大きな瞳を輝かせ、私に人差し指を向けて笑った。

「悲しいし……、寂しいっちゃ寂しいんだけど、それよりもさ、あんまいい子じゃない私のためにさ、超必死になって守ろうとしてる人がさ、いっぱいいたんだよ!」

 びっくりじゃん、とテーブルを叩く渚ちゃん。

「洋介は好きだったけど、なんか罪悪感みたいなのもあったし。こう……、悲しいけど、まあしゃーないかーって、感じもして。こうなっちゃたら、先のこと考えて生きたほうが、楽しいんじゃないかなー的に思えてさ。んで、必死な人を見てさ、必死っていいなあっていうか。……やってやるか! っていうの? 微妙にこう……さっぱりした気分なんだよね!」

 自分でもなに言ってるかわかんねぇ、と渚ちゃんは突っ伏した。けらけらと笑っている。

 私は思い出していた。

 高校生のとき、渚ちゃんと同じくらいの歳。初めて反抗というものを知って、補導された夜の警察署で、似たような心地になった。なにかを失うかも知れないけれど、それよりも、もっと凄いものを手に入れたような、未来へ、先へと高鳴る胸の鼓動を、今でも鮮明に憶えている。

「そっかー。それなら、渚ちゃんは大丈夫すね。自分が保証するすよ」

「なにその自信」

 そう渚ちゃんは笑うが、色々あったけれど、ここにこうして元気で笑う私がいる。それがなによりの証だ。

「長浜洋介なんて、綺麗に忘れろ。君の目が濁ってしまわないようにな」

 私は低めの声を出して、渚ちゃんへアドバイスを送った。

「なにその台詞! きもいよっ。あ、わかった! 探偵のお兄さんの真似だっ!!」

 所長はキモいらしいす。今頃くしゃみでもしてるすね。

 それから私は、渚ちゃんと他愛のない会話をして店を出た。携帯電話の番号も交換した。恋愛相談に乗ってくれると彼女は言ったが、とりあえずそんな予定はない。というか、お姉さんの私が、高校生に相談しなくてはならないのか、と少し愕然とした。

 ちくしょー。

 渚ちゃんの清々しい笑顔と、それを見た自分の気持ちとを照らし合わせ、私は小さい奴だったと思い至った。小さくてもいい、ましてや殺人事件解決じゃなくてもいい、こんな気持ちを貰えるんなら、どんなクソにまみれた世界でも、私は探偵でいたいと、強く決意した。



 ★★★



 今日は所長が帰ってくる日。

 そわそわ。私の心境を語るんなら、それに尽きる。

 所長は迎えに来なくてもいいと言った。照れくさいんだろうか。いやまあ、たしかに出迎えるとか照れくさい。この綺麗に掃除してある事務所であれば、私の領域だ。きっと所長は驚いて、おたおたするだろう。だから私はここで待とうと思ったんだ。

 思ったんだけど、やっぱり、そわそわ。そわそわ。

 つまり水族館だ。

 水族館はいい。ぴちぴちを観ていると、とても癒される。それで心を落ち着かせよう。

 私はすぐに、休日であるはずの友達に電話をした。

「あ、おはよう栗子(くりこ)

 いま何時なの、という絶望的に寝起きの悪い声が聞こえた。

「朝の八時」

 声にならない唸りを上げる栗子を呼び出し、私は待ち合わせ場所のカフェへ向かった。



 カフェテラスという耳慣れない言葉に頷き、私は待ち合わせた栗子と共に席に着いた。

「小夜子がポニーテールとか、珍しいものが見れたわ……」

 久しぶりに会った栗子は、やっぱり栗色のボブヘアが似合う。

「探偵してると、長い髪はやっぱ、ちょいと邪魔なんすよ。へへ、似合わないすか?」

 いやマジ似合うわ、と栗子は唖然として見ている。

「小夜子はかっちりメイクしたり、髪型きめると駄目だと思うんだよ。邪魔臭いからポニー、ってくらいのがらしくていいと思うわ」

「そ、そすか。まあ、じゃあ切ればいいじゃん、て話にもなるすけどね」

 それは駄目だろ、と独り憤った様子の栗子。褒められているのかどうか怪しい感じがした。栗子は素直だから、たぶん褒めているんだろうけれど。

「いやーでも、マジで探偵になるとは思ってなかったよ」

 栗子はアイスティーをストローで転がしている。日差しの強くなり始めた季節に、心地のよい音が転がっていく。

「絶対なるって言ったすよ」

 そうだけどさ、と栗子は心配顔だ。彼女は悪ぶっているくせに素直で優しい。名前のわからない派手な服を着ている。私はいつものパンツスーツ。上着は背もたれにかけた。まるでオジサンじゃないか、とちょっと思って忘れた。

「だって、危ないこともあるんでしょ?」

「うん、まあね……。でも、栗子に路地で襲われてから、自分かなり強くなったすよ」

 ちょっと意地悪なことを言ってみる、

「なっ……。そ、そ、そ、それは……。てか、そん時からもう強かったじゃんよ」

 と、栗子はすぐ顔を真っ赤にして慌てる。かわいいのだ。

「にやにやすんな! ……で、なんなの今日は?」

「水族館へ行こうかな、と」

 最近は行けてないし、と私は付け足した。そして自分の迂闊さを悟った。

「はーはー、はは~ん。さては良いことがあったな小夜子く~ん?」

「い、いや、そんなんじゃないすよ」

 お返しとばかりに栗子はにやにやと私を見る。ストローを私の顔の前でぐるぐると回す。

「ウソだね。小夜子は良いことがあると、すぐ水族館に行くじゃん。ぴちぴちを観に行くすー! とか言って」

「自分、そんな体育会系みたいな喋り方しないすよ!」

 あ、……れ?

「なに? 無自覚だったの? 驚きだわ……」

 ますます体育会系だわ、と栗子は爆笑している。体育会系に失礼だ。

 私は洞察力のなさを見抜かれ、探偵になると決意し、常にそれを意識してきた。かなりの集中力と洞察力を手に入れたと思っていたんだけれど、自分についてはあまり頓着していなかった、ということだろうか。あまりの恥ずかしさに穴を掘りそうだった。

 所長、私はまだまだ未熟でした。

「き、気を付ける……す」

「なんで? いいじゃんそのままで。小夜子は熱血で鉄拳なんだから、そのままでいいじゃん」

「まじすか……」

 可愛くない、と言おうとして、自分でもらしくない考えだと思い直した。

「ま、いいすよね、このままで!」

「そうそう!」

 で、と栗子は私をにらむ。

「良いことってなに? 男か? 男なのかっ……! あれ、でもそれだと男と行くよね、水族館……」

「落ち着いてほしいす……」

 私は事情を説明した。訳あって戻れなかった所長が帰ってくること、そわそわして黙って待っていられなかったこと。

「はい帰れー、いますぐ迎えにいけー、そいつと水族館いけー」

「なん……」

 栗子はボブヘアを揺らしてくつくつと笑う。

 こっちは緊張してるのに、馬鹿にしないでほしいもんす。

「なにがどうあれ、小夜子にとって大切な人なんでしょうが。いっつも電話で、所長がすね! 所長がすね! ってうるさかったじゃん」

 栗子とは、所長の事件が終わったあと、久しぶりに連絡を取った。自分が探偵になったこと、事務所の所長のこと、色々と電話で話した。

「そんなには、言ってないすけど」

「はいはい。わかったから、さっさと迎えに行きなさいよ」

「了解す……」

 とはいえ、時間にはまだ早かったため、栗子と久しぶりに買い物なんかを楽しんだ。夏に着ようと、似合いそうもないワンピースなどを買ってしまった。気の迷いとは恐ろしいものだ。



 さて、と私は煙草を取り出し、ジッポーで火を点けた。かきんと美しく鳴ったそれは、日差しが強まった季節に丁度よく涼やかだった。

 なんという銘柄か、出がけに一本もらった煙草なので、それはわからない。少し物足りない重さで、煙は私の肺から外へ出た。あまりにも久しぶりに吸ったためか、頭がくらくらと自己主張をした。

 街まではずいぶんと歩かねばならない。街でタクシーを拾い、事務所に戻る。長倉経由で迎えは断ったが、きっと小夜子は事務所にいるだろう。いきなり目の前にいたら、たぶん心の準備もないまま、小夜子のペースに巻き込まれてしまう。だから断ったのだ。

 とはいえ、いざ外に出てみると、不安というものは意図しないまま膨れ上がるものだ。私は世界に取り残されたような気分になっていた。何年も塀の中で暮らし、存在を忘れられ、帰ってみても居場所はない。そういう類の不安だ。

 長倉も小夜子も待っている、そう言っていたし、長倉にいたっては数日前に電話で話した。

 恐れることはないのだ。不安に思うこともない、はずだ。

 リビングルームで死体を見上げ、謝り続けたあの日。犯人を追い続け、捜し出し、絶対に殺す。私はその希望一つを、両の目で見続けた。クソッタレた世界に独り残された叫びは、両の耳を塞いで、聞こえないフリをした。

 しかし、希望が打ち砕かれ、見える景色も聞こえる音も変わった。いま、私はこんなにも独りが怖い。初めて知った。

 出来の悪い世界は広すぎる。独りで向かい合うには、すこしばかり恐怖が勝る。私は寂しかっただけなのだな、と改めて思わざるをえなかった。

 収監されてからは、考える時間だけが茫漠(ぼうばく)と目の前にあった。そんなとき、どうしても考えてしまうのは、私が妄執に身を焦がした十四年間だ。それは、決して間違ってはいないと、いまでも思っている。それがなかったら、私はここに立っていられなかった。おそらく家族のもとへと急いだろう。だから、過去の自分は否定しない。けれど、それに囚われることだけは、もうやめにしよう。

 そして、決意も新たな私の前に現れたのは、まだ踏んだことのない道。茫漠とした世界そのものだった。理解と感覚は必ずしも一致しないのだ。私は、また、今度は違う孤独を、見てしまうのではないかと、やはり少々の怯えを感じていた。

 こんなことなら、見栄を張らずに長倉あたりに来てもらえばよかったか。

「…………」

 あほくさい、と私は声に出さず、煙草を吸いながら街を目指した。聞こえる鳥の鳴き声も、頭を撫でる風の爽やかさも、走る車の音も、全てが懐かしく、以前とは違ってしまった。

 こちらに走ってくる車は、誰を迎えに来たのだろう。はたまた、誰かを送り届けにきたのか。いずれにせよ、私には無関係の車である。

「あ……」

 携帯灰皿を持っていなかったことに気付いた。私はスモーカーであるが、ポイ捨てはしたくない。調査の必要上、ポイ捨てを演じることはあるが、それは特例だ。

 困ったな。

「どうぞ」

 車の音が止まった。困っている私の真横で、車の音が通り過ぎずに止まった。

 嫌な予感がした。声でわかってしまったのだ。つまり私は、心の準備などできていないのだ。

「あぁ、すみません。ご丁寧にどうも……」

 私は、古ぼけたキャロルを運転している女性に、短くなった煙草を差し出した。女性の手には灰皿があった。

「ずいぶんと、大事にされていらっしゃるんですね。そのカロル」

「キャロルすよ、所長。……歩いて帰らせるすよ? もう……」

 すまんすまん、私はそう言いながら、灰皿に押し付けたはずの煙草が、やけに沁みるなあと目をこすった。

「それと、御守りにしていた煙草す」

 手渡された煙草――PEACEを開け、さっそくジッポーを鳴らした。聴いたこともない、嬉しそうに、空を駆け上っていく澄んだ音。

「……ただいま」

「おかえりなさい。待ってたすよ、ずっと」

 小夜子はキャロルの運転席で、満面の笑顔を見せた。前歯は欠けていなかった。馬鹿にしようと思っていたので、それがすこし残念だった。

「あぁ。……ありがとう」

 私は助手席へ座り、開いた窓から顔を出した。

 PEACEが非常に重いのだ。誤って涙しそうになるほど重い。

「所長、煙草うまいすか?」

「うまいよ」

 空気のうまい所は煙草もうまい。私のダメ人間的な持論である。人里からすこし離れたこの場所は、煙草がとてもうまいのだ。だから、小夜子のほうを見られないのは、うまい空気を吸いながら、うまい煙草を吸うためだ。

「いまの所長、ちょっと萌えるす」

「うるさいよ小夜子くん」

 いま、私の声が震えた事実を、小夜子は見破るだろうか。それが探偵復帰への、最初の関門である。そんな気がしたのは、あの日、小夜子と出会った夜に、彼女は私が探偵である事実を見破ったからだった。

 まったく、小夜子に会ってから、私の全てが狂ってしまった。

「所長!」

「なんだ?」

「ぴちぴちを観に行くすよ!」

「……あぁ。いま、流行っているからな」

「べつに流行ってないすけど……」

 そらみろ、いきなり滑ったではないか。実に幸先のよいスタートである。

 私は思わず、少し笑ってしまったのだった。




 ―― おわり ――

 最後の最後まで、読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。



 ―― 麻婆 ――

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