8.PEACE
二十六歳にして多くの部下を持ち、警察内での地位を確立し始めていた怪人――長倉入道太はその日、非番だった。しかし、人手不足というものは唐突にして非情であり、それはいかに長倉のような人物であろうとしわ寄せがくる。
しかも、長倉が唯一の尊敬を向け、一生勝てないと言わしめた男からの連絡だった。
「入道太くん強いよね? ちょっと人手が足りないから手伝ってもらえる? 嫌な予感しかしないんだよねえ」
石動という刑事は電話でそう告げた。石動の予感はほぼ予知に近い、と噂されるほどのものだ。現場主義をつらぬく刑事として鋭敏化された、それこそまさに超能力と言ってもよいだろう。
「あぁ、石動さん一人ですか。そりゃ不味い」
「だよねえ。荒事になったら僕は弱いから」
石動は警察になるために必要な格闘技術など、運動系はぎりぎりの線であった。長倉としては嘘くさいと思っているのだが、手合わせをすると本当に弱い。どうにも掴めない人物なのである。
「あぁ? この事件ですか。どうして石動さんが?」
署に来るなり、長倉は怪訝に思った。女子高校生を路地へ引きずり込み、強姦した弾みで殺してしまったという事件。被疑者はすぐに特定され、ほぼ終わっている事件だ。石動という異常に優秀な刑事が、どうして途中交代を申し出てまで担当したのか、それが不思議だったのだ。
「やばいんだよ。すごくやばい。だから今日も一人じゃ無理だと思ってね、入道太くんを呼んだんだ」
「なにがそんなにやばいんです?」
長倉は笑った。くはっ、と息を吐き出しすぎた笑い方だった。
「被害者の弟だよ。第一発見者――永塚文人。あれはやばい。やばすぎて、思わず担当を替わってもらったよ」
やばいやばい、と嬉しそうに繰り返す石動。長倉が怪人と呼ばれるのなら、石動は奇人であった。彼は正義の人で、信ずる正義のためには、常軌を逸した行動すら取る。数々の勲を立てながら、いまだ現場にとどまっているのは、本人の意向だけではない。
「はあ……、報告書を読んだかぎりじゃ、ちょいと優秀なだけの中学生でしょう」
「入道太くんも見ればわかるよ」
いまの長倉にはわからない、石動なりの理由があるのだろう。そうでなければ、わざわざ“犯人が自殺した”という報告をするだけで、長倉を呼びだすはずがない。いかに二人一組が基本とはいえ、他にも非番の刑事はいるのだから。
◇
永塚宅へ到着した二人を待っていたのは、新しい死体だった。
「……ッ!」
長倉のあからさまな舌打ちが、沈んだリビングに響いた。
文人の母親は自殺していた。娘の死によってすり減った精神が、突発的に生んでしまった悲劇。文人にとっては連鎖的に生まれた惨劇だったろう。そこへもたらされる、元凶の自殺という一報。それは彼にとって、吉報とは成り得なかった。
母親の生存を諦めきった瞳で見つめていた文人。どれほど辛いのだろうか、苦しいのだろうか、悲しいのだろうか。どれほど怒り、憎んだのだろうか。その全てをぶつけたいと、願ってやまなかった犯人もまた、自ら絶望して死んだ。
受け入れがたいのも頷ける。しかし――。
「ふざけるな! 隠したのか? 自殺したなんて嘘だ! それは母さんだ!」
「文人くん……、もう少しだけ落ち着きなさい」
長倉は、石動につめよる文人を見て戦慄していた。落ち着けと、文人をさとす石動も、この状態を理解しているはずだ。
「犯人はどこだ!? ……あぁ、いいよ? いなくなったなら捜し出す。姉さんも、母さんも死んだ。でもそいつだけは僕が殺す!!」
もういない、死んだ犯人を捜し出して殺す。憎しみと悲しみと怒りで錯乱状態にある、と普通なら誰もがそう思うだろう。しかし文人は錯乱などしていなかった。狂ったように喚き、小柄な石動の胸ぐらを掴み上げている。その涙にかすむ瞳は、いたって“冷静”だった。
冷静に、至極まっとうな瞳で、“死んだ犯人を捜して殺す”と言っているのだ。現実を理解して尚、である。
やばい。これは確かにやばい、と長倉は思った。へたな狂人よりよほどやばい。石動が興味をもつのも理解できた。
永塚文人は、使いようによっては類まれな逸材になるのだ。石動の正義を実行するための、コマとして最適な人材なのである。どうだやばいだろう、と語っている石動の瞳のほうが、長倉には狂って見えた。
「おい、やめろ文人」
長倉は被害者家族への思いやり、という顔を捨てた。
「なんだ、お前は知ってるのか? 死んだ犯人の居場所」
文人はやはり、冷静な瞳で狂ったようなことを言った。いや、一般的な見方をすれば、文人はまさに狂っている。執念に澄んだ瞳は、憎しみで濁っているようにも見えるだろう。
「おう……、知ってる」
ぎぎぎと異音がした。長倉の返答に、文人の歯が鳴ったのだ。食いしばった歯の音だ。
「俺がお前を養ってやる。犯人の捜し方も教えてやるよ。そのかわり、俺が協力しろと言ったら、お前はいっさい断るな」
長倉の言葉に、石動は安心した顔を見せた。それは、胸ぐらを開放されたからではない、彼の思った通りの展開へ事が運んだからである。
石動は正義の人であり、その信念のためならば、なんの犠牲も厭わない。もちろん自分の手を汚すことすら厭わない。
長倉は野心の人であり、その渇望のためならば、尊敬してやまない正義に憑かれた男をも利用する。
「……わかった」
しばらく考え込んだ文人は、長倉の申し出を受けたのだった。
怪人と言われる刑事の御用達、永塚探偵事務所が開業するのは、もう少し先の話であった。
◆
小夜子が図書館から戻り、事務所にいた長倉と話しはじめて幾ばくか。
「なんだ、母親の自殺は知らなかったか?」
長倉は昔話を終え、事務所のソファーに背を預けた。
「ちゃんと記事に目を通そうとしたら、所長が後ろに立ったんで、斜め読みしかしてなかったす……」
「くはっ、そらビビるわな」
むしろその状況で、斜め読みできたお前にビビるわ、と長倉は胸中でつぶやいた。
「この世界はよ……、あんま出来がよくねえんだ。死が死を呼んでさらに死を生む、そんなミステリみてえなことが、クソほど起こりやがる」
まあ、よく出来てるとも言えるか、と長倉はつまらなそうに付け足した。
「入道太さんは所長の友人なんすよね? 少なくとも、自分は本当にそうだと思ってたす」
小夜子は文人の不遇に涙をこらえた。そして、長倉が文人をただのコマと見ていたのであれば、即座に手と足を出そうと思って身構えていた。
「飛びかかってきたら撃つからな。お前、殺意はもうちょっと分かりにくくしとけよなあ」
「殺意までは抱いてないすよ……」
見事に見破られ、バツの悪そうな小夜子へ、ホントかよ、と長倉は少し笑う。
「俺が文人を便利に使おうと思って、使っていたのは本当だ。でもよ、俺はあいつが十五んときから面倒見てんだぞ? 自分でもビビったが、そりゃ情ぐらいわくぜ。親子って感じじゃあねえし、やっぱ俺と文人は、まあ友人だろう」
対等なわけじゃねえが、という言葉を長倉は仕舞っておいた。小夜子のジト目が、完全に息を吹き返していたからだった。
「そうすか」
「友人だが、それと同じくらい、ビジネスライクでもある」
ぴきりと小夜子の目は緊張をおびた。それを平然と受ける長倉の目もまた、やけに真剣なものだった。
長倉は唐突に大きなあくびをかみ殺し、この場にただよう緊張感を壊しにかかった。寝てねえんだよ、と悪態をつきながら。
「それで?」
小夜子の視線はまったくブレず、長倉の全てを白日にさらそうとしているようだった。
いいねえ、と長倉は笑いながら、一枚の誓約書を取り出した。古い紙だが、警察が証拠品を取り扱うように保存されており、綻びなどはない。
「俺と文人の拇印だ。判子なんてもんは名前が変わっちまえば意味がねえ。ここに、一人の人間としての証を刻むことが重要なんだよ。人間と人間の約束だ」
「なんとなく、わかる気がするす」
小夜子にとって目の前の誓約書は、それ以上のなにかを感じてしまうものだった。灰色だった所長の姿が、徐々に色づいていくような。
「あんま時間がねえから手短に話すぞ」
要約すると、長倉は文人が高校を卒業し、自立できるまでの経費を全て負担。そして、警察ではない文人がある程度の捜査技術を身に付けられるようにすること。そのかわり、文人は長倉の協力要請を拒まないこと。拒んだ場合はそれ相応の処置をすること、である。
「こ、これは、謎臭くもなるすね……」
「なんだそりゃ?」
探偵になった理由を小夜子がたずねたとき、文人が示した反応を知らされ、長倉は腹を抱えて笑った。
――「確かに自分、ほぼ親のいいなりで育ってますしね」
――「私も似たようなものだ」
「くははははっ……はあ。腹いてぇ。俺が親か? ぶははははっ!」
「ガキんちょすか、入道太さんは……」
うるせえよ、と言った長倉は、小夜子が本調子になってきていることに、笑みが抑えられなくなっていた。
「まあ、つまりだ。あいつが、そう思う犯人を見つけて殺すことを、俺はとめねえ。そのための捜査技術の基礎も教えた。そしてあいつは俺に協力して、俺はいまの地位を手に入れた。もし文人が本懐を遂げて、ただの腑抜けになったら、俺はさっさとあいつを切り捨てる」
長倉はいとも簡単に、文人を切り捨てる、と言ってのけた。友人でありながら、それと同様にビジネスライクでもあるとは、そういうことなのだろう。
小夜子は、長倉という人物をも、わずかずつ理解し始めていた。
「そう思う犯人……、本懐……」
小夜子は頭の中にいくつかのピースを取り込んだ。まだ白い光の線はピースを繋げてはいない。しかしそれは、もう小夜子の脳みそが冴えている状態といってよかった。
「切り捨てるって、言葉でいうのは簡単でカッコイイんだけどよ。文人は俺のあんま知られたくねえ事とかも知ってるわけよ。人間を一人いなかったことにすんのは、すげえ骨が折れる。めんどくせえから、やりたくはねえんだよ」
くあ、と長倉は大きなあくびをした。あぁめんどくせえ、とかボヤきつつ携帯を弄っている。
「葉月、昔話はこれで終わった。お前はどうすんだ? 念のため言っておくが、文人が持ってきた物証は、長浜夫妻を罰するためのもんじゃねえぞ。捕まえるにゃ手続に時間がクソかかる」
所長がなりふり構わず集めた物証。真っ先に長浜夫妻へ手を下さない所長。図書館での所長の雰囲気。所長が見た希望。
小夜子の脳髄を、気持ちいいくらいの光の線が轟き、そのピースたちを貫いた。
「あっはは! そうすね、その物証は、渚ちゃんとその家族を助けるためすね! 先に長浜へ手を出したら、渚ちゃんの情報が撒き散らされるかも知れないすからね」
意外と目がでけぇなお前、と長倉は少し驚いている。
「おう、そうだな。強請られた金を振り込まなくてもいいように、んで、娘のウソ援助交際の事実を流さないように、それを見張って脅しをかけるくらいなら、これがあれば余裕で部下は動く」
うふふ、と小夜子はしたり顔で笑う。自慢の髪の毛も、得意そうに揺れた。
「なんだよ気持ちわりぃな……」
「で? 入道太さんがここでのんびりと昔話を聞かせてくれたということは?」
うおっほん、と長倉は咳払いをして、携帯電話を外套にしまった。
「まあ、俺ほどになれば? お前に封筒を受け取った時点で、すぐに部下を動かすわな……」
で? で? と小夜子はさらにしたり顔で長倉を問いつめる。
「長浜夫妻宅も、見張ってるんすよね? つまり所長は?」
めんどくせえな、と声を荒げた長倉は、小夜子の頭を鷲づかみにした。
「あぃいたたたたッ!」
「文人は俺の部下を察知して、まだ踏み込んじゃいねえ。牽制しろと言っておいたからなあ。だが、この行動は誓約に反する。お前が行くってんなら、部下は引かせる」
痛いすよハゲるすよ、と小夜子は半ば本気で抵抗をはじめた。長倉は殴られる前に手を放したのだった。
「自分、行くすよ。所長に会いにいきますよ」
小夜子の真っ直ぐに射る瞳をみて、長倉は嬉しくなった。文人にいいオマケがついたな、と、手遅れになる前でよかったよ、と。
「勝算はあんのか? ねえんだったら文人は諦めて、葉月探偵事務所でも構わねえぞ。期待してるって言ったのは、そういう意味でもある」
「勝算はあるすよ。入道太さんと話して、光明が見えたす。当たって砕けろ、期待してていいすよ」
まあ、葉月探偵事務所も捨てがたいすけど、と小夜子は笑った。
「なんだそりゃ。……ったく、厄介者の周りにゃ、マジで厄介者しか集まらねえのな。出来の悪い世界だ」
そう言って長倉は頭をかき、俺も厄介だわな、と鼻で笑った。
「厄介者といえば、入道太さんが尊敬している刑事、石動さんでしたか、ちょっと殴りたいんすけど、いまどこに?」
まじかよ、と長倉は本気で呆れ、そして悪びれもなく言った。
「邪魔くせえから地方の閑職に左遷してやった」
「うっわ、どんだけ腐ってんすか……」
小夜子はどん引きである。
「夢食堂で突っ伏してた葉月よりは、まだマシだと思うぜぇ」
その小夜子はもういません、とはっきり宣言し、小夜子は事務所を飛び出した。
「おい待て――、あぁもう、めんどくせえな。事務所の鍵どこよ? 帰れねえじゃねえか……」
上司に言いつけてやらんとな、そう言って長倉は、外套の中からピッキング用具を取り出した。
★
私は走った。ときおり吹く寒風に、私の髪は流れ、体は凍えた。電車の中で低いヒールは折った。走りにくいんだ。体が震えているのは、寒いからだけじゃない。ちょっと怖いからだけじゃない。私は、武者震いというものを体験している。
所長が自分にだけ意味のある行為、つまり長浜を殺すことに固執しているのはわかった。それは、周りがなんと言おうと、容易に止まらないということも、私はよく理解している。とくに所長は、十四年もの間、“もう死んだ犯人”を捜し続けてきた。それを見つけたいま、私にできることは、もうないんじゃないかとも思ってしまう。
でも、そんな所長だからこそ、わかってくれると信じている。私の想いが、伝わると信じている。私は所長に、「やめろ」なんて言えはしないんだ。だったら、私にできる精一杯で、私は私を通す。それだけだ。
私は電車を降りてまた走る。勢いあまって転んだけれど、立ち上がってまた走る。周囲の人たちがびっくりして、変な目で私を見る。関係ない。私は走る。
所長に拾われて私は助手になった。共にすごした時間は長くない。共有した思い出も多くない。入道太さんみたいに、何年も近くにいたわけじゃない。助手としても優秀じゃなかったはず。
それでも私は見ていた。ずっと所長を見ていた。その様を焼き付けようとしている。
いまでもそうだ。
月日なんて、年月なんて、そんなもんはどうだっていい。いまは掃いて捨てろ。時間なんて関係ないんだ。私がなにに固執して生きて来たのか、そして、生きて行きたいと願うのか。
それをわからず屋の所長に、もう一回教えてやるんだ。目が覚めるくらいに、思い知らせてやるんだ。
◆
目標であるマンション。そこから十数メートル離れた地点で、私は待機せざるをえなかった。ずっと、不意の故障で止まった車を修理する、一般人を装い続けた。もちろん本当に故障しているわけではない。
まったく、面倒なことになったな、と私は煙草に火を点けた。薄っすらと紫色が見えてきた空に、煙草の煙が流れていった。
私が捜し続けていた、“もう死んだ犯人”が、ようやく見つかったというのに、すぐそこのマンションにいるというのに、私は中へ踏み込めないでいた。
私の本懐を邪魔しない、と誓約したはずの長倉。いま、私の行動を阻んでいるのは、その長倉の部下たちだ。部下といっても、長倉が直接の上司であるわけではない。やつは刑事課の人間だ。私をスコープで覗いているのは特務課の特殊部隊員たちだ。
佐山親子を守るためという名目で、私の行動を制限してくるかも知れないとは思ったが、特殊部隊を送り込んでくるなど誰が予想できるというのだ。
まったく、本当に、面倒なことになった。
佐山親子など放って置けばよかっただろうか。十四年も追い続けた、もう死んだ犯人。十四年も追い続けたからだろうか、自分の中にある執念が、薄れているのではないかと、少し変な心地になった。
私は母親が自殺したときに狂った。ぶら下がる母親に、リビングで独り姉のことを謝り続けた私は、もう犯人を殺すこと以外の生きる目的を失った。なんど謝っても、お前のせいじゃないのよ、という優しい母の声は聞こえなくなってしまった。いま思えば、そういった自分の行動も、母を追いつめる結果に繋がったのかも知れない。
でも、もう遅い。全てが遅い。犯人は自殺し、私が殺すことも叶わなくなった。ならば、この気持ちはどこへいくのだ。誰へと、何処へと、ぶつければいいのだろうか。
そして思い至った。
この世界はあまり出来がよくない。同じような下衆は腐るほどいる。きっと捜し続ければ、この世界のどこかに、姉さんを食い散らかしたように、誰かを食い物にしている奴がいる。そいつに全てをぶつけてやるのだ。お門違いであり、八つ当たりである。そんなことは百も承知だった。小夜子なら、少しは理解してくれるかと思ったが、彼女は根が優等生だ。期待は酷というものか。
だが、長倉はその目的を聞いて笑った。丁度いいと、お前を探偵にしようと思っていたんだと喜んだ。お前は探偵に向いてるよ、と。
「ふん、どうだか……」
煙と共に自嘲を吐き出して、私は辺りの様子が変わったことに気付いた。展開していた特殊部隊の一部が、いつの間にか引き上げていたのだ。私を監視していた隊員たちだ。
私は携帯灰皿に吸殻を放り込み、新しい煙草を取り出そうとして慌てた。いつもポケットに入れていたHOPEが無くなっていた。図書館で思わず握り潰してしまったことを思い出し、いよいよボケてきたな、と頭を叩く他なかった。
まあ、それでもいい。今日で終わる。
ずっと捜し続け、似たような下衆をたくさん見てきた。だが、私の中の犯人像と結びつく者はいなかった。
今日までは、だ。
十四年の時を経て、私の乾坤一擲を振り下ろそう。
スーツの胸ポケットにしまったお守り。あの日、私が探偵事務所を開業した日、長倉がお守りだと言ってくれたもの。それは小さな拳銃だった。至近距離で発砲すれば、外さず人を殺せると言った。
前に進むのか、後ろに戻るのか、はたまた沈むのか、もうわからないが、わからなくなるほど願った一歩を、私は踏み出した。
「犯人はズバリ貴方だッ!」
突然、そんな若々しい声が頭上から降ってきた。
道路をショートカットしたとみられるその人物は、私の背後にある塀を跳び越えてきた。踊る影は、砂ぼこりを上げて停止した。もう、顔を確認しなくてもわかる。仕事の練習だと言って、なんども聞かされた犯人呼ばわりだ。
「小夜子くんか……」
「お待たせしたすね、所長」
小夜子はまだ、私を所長と呼ぶのか。呼んでくれるというべきか。
「私は待ってなどいないが」
そうすか、と笑った小夜子は前歯がなかった。急いで走ったため、どこかで落としたのだろう。そういえば、ずいぶんと汗だくだ。風邪を引いてしまう。
私は要らぬ心配をしている自分に呆れてしまった。
「待ってなかったすか……。まあ、待ちぼうけは、させずに済んでよかったすよ」
「……話しが見えない。私は用事をすませなければならないんだ、どいてくれ」
「いやだ」
小夜子はこちらが怯むほどの目をした。彼女が反抗しているときの目、自分の父親を殴ったときと同じ目だ。眠そうな目蓋は開き、私の心臓を射抜こうかという視線。背中に汗が浮かんでしまいそうだった。
「所長が犯人と長浜を重ねて、固執していることは理解してるす。周りがなんと言おうと、止まらないことも自分なら理解できるす」
やはり小夜子だな、と私は思った。長倉の特殊部隊の一部が引き上げたとき、もし、誰かが止めに来るのなら、小夜子だろうと思っていた。しかし、本当にやって来るとは、少し予定外だった。
「そこまでわかっていて、まだやめろと言うのか? 私には、もうこれしか残っていないんだよ」
「ホントにそうすか?」
「あぁ」
おかしい。いや、おかしくはない。小夜子と小難しい話しが噛み合っている、それに不安感を覚えるなどおかしい。なんだというんだ。
「周りの声などお構いなし、そんな所長はわかってくれるすよね?」
「なにを、だ?」
小夜子の顔が徐々に険しくなっていく、泣きそうだ、と言ってもいい。
「自分が、なにに固執して、いまここに立ちはだかっているのかを、すよ」
小夜子くんが固執、と私は呟き、思い当たるのは一つだった。
「探偵か? ならば――」
「ちがう!!」
小夜子の体内燃料が爆発した。そんなイメージ。爆風をともなった大音声は、私の頭を揺さぶった。
違うとは、どういうことだ。小夜子は探偵になりたいと、父親を殴り倒していたではないか。
「その小夜子は図書館で死んだす。自分は……、自分は! 所長と一緒に探偵をしたいんすよ!」
アスファルトが鳴った。小夜子が一歩こちらに踏み出したのだ。
「いまの自分は、それに固執して、たとえ所長が嫌だと言っても、絶対に諦めないすよ!」
小夜子の震え。拳が震え、声が震え、体が震えている。それは私の心臓を揺さぶらんとしているようで……。
「だからなんだというんだ? それがどうしたというんだ? 私と一緒に探偵? だからやめろとでも言うつもりか!?」
しまった、と思ったがもう手遅れだ。私は激昂していた。生きている人間に、本気で怒ったのはいつ以来だ。
「やめろ、なんて言わないすよ」
「なに?」
「とにかく歯を食いしばれ――」
声も出せなかった。
「――永塚文人ぉぉッ!!」
何かを考え、口にするには、その時間は短すぎた。
小夜子の拳、だろうか。もうそれすらわからない。とにかく殴られた。なんども。
見えるのは空と地面との繰り返し。
「……――ぁあッ!」
小夜子は声を上げて私を殴る。声を上げて泣いて、私を殴る。
「よ……、よく聴け……、駆け出し探偵」
私はようやく間隙を突いて声を出した。なにを言おうというのだ、私は。
「調査業に、私情を挟むことは……悪くない――、
瞬きの間をおいて、小夜子の暴力圏へ。私は塀に背中をぶつける。
――結局のところ、人が人を想うからこそ……成り立つ、人情家業だからだ」
マンションの人間に見られてはいないだろうか、と心配になった。しかし、そんなこと、いまは些事だと言える。
「くっ……!」
痛い。いや、分からない。もう衝撃としか感じない。
「だが、胸に……刻め、駆け出し探偵」
辛うじて攻撃を避けた。
こんなことなら、長倉になにか格闘を習えばよかった。しかし、避け、逃げることには、わりと自信があったのだが。
「知っての……とおり、見てのとおり……、私情だけで……動くと――、
ほら、また小夜子の拳だか足だかが飛んできたではないか。
――ロクなことがない」
本当に……。
地面を小さなものが転がった。私の歯だ。
「そして……、綺麗に、忘れろ! 駆け出し……探偵っ」
まったく、さっきから私は、なにを言っているのだ。これではまるで遺言じゃないか。
「お前の目が……、濁ってしまわないようにな!!」
私はポケットに入れていた砂を投げつけた。実に小ざかしいが、目潰しである。怯んだ小夜子の――。
「忘れられるかッ!!」
小夜子の細いが引き締まった腕。その腕力。
「私は助手だッ! 所長を見てたんだ!」
小さくて、硬く握られた拳。
「そんな話、いまさらなんすよッ!!」
なんども私の腹に、重く突き刺さった。
以前、小夜子は佐山希に言った。
――正しいと思って殴ることが大事す。
こいつ!
いまの小夜子は、そんなことは思っちゃいない。自分の方が正しいなんて、思っちゃいない。
自分の執念の方が、私の十四年の執念よりも、勝っているのだと、確信して殴り続けている。両者が譲らないというなのら、自分の執念で、私の執念を、殴り倒せばいいと。
なんだそれは。なんなんだそれは、ふざけるな!
私は、どれほど――、
「どれほど奴を追いかけてきたと思っている!!」
私の乾坤一擲、懐から出した拳銃は、砂で目を鈍らせたはずの小夜子に叩き落された。
「奴って誰すか!!」
殺される。
いっそう強く殴られた頭で、そう思った。私の十四年が殺される。
「犯人はズバリ貴方だ、最初にそう言ったす……!」
どういう、ことだろうか。犯人は私だ、とは一体。
口から血液だか胃液だか、とにかくなにかが吹き出した。震える脚は、私に考えることを許さない。震える手は、私に掴むことを許さない。私はついに耐え切れず、膝から崩れ落ちた。
しかしそこには、顔面を強打するべき硬い地面はなかった。さほど、私と高さの変わらないものに、全体重をあずける恰好になった。重さに耐えられるとは思えなかった華奢なそれは、意外にも力強く私を支えた。
「所長はお母さんが亡くなった日、独りになってしまった。大変なとき、独りでいるとロクなことを考えない」
優しい匂いと、優しい声だった。母さん、ではない。母さんの髪は、もっと、もっと短かった。背も、こんなに高くはなかった、と思う。ならば姉さんか。それも、どこか違うと思った。
「自分は身をもって、それを知ったす。夢さん、入道太さんがいるす。自分は、みんなに……助けてもらったす」
知ってましたか? と、私をかき抱く人は言った。
「探偵の、一番の報酬は、待ってくれている人が、渡してくれるんすよ……」
私の首を濡らすものは涙か。泣かせてしまったのだろうか。それとも血だろうか。また、死なせてしまったのだろうか。
「みんなが待ってるんすよ、所長を。 夢さんが、入道太さんが、小夜子が……待ってるんすよ」
あぁ……。
あぁ、そうか、と私は理解した。
「小夜子くん……、そこにいたのか」
「ずっと……、いたすよ。帰ってきてください。また、また所長は、お姉さんみたいに、待ちぼうけにさせるつもりすか?」
犯人がわかった。
犯人は、ズバリ私だ。
有り得ないと理解しながら、やはり私はどこか狂って、もう死んだ犯人という、希望という、虚像を追いかけることに必死で、ただ必死で。ずっと、待っていてくれた人たちを、私はまた、この手から落としてしまおうとしていた。
犯人は、孤独の中で見つけてしまった、私の中に巣くう、あの薄汚い路地で見たような、ありえない希望だったんだ。
小夜子の馬鹿力は、私の持つ希望をも、蹴り落としてくれたのか。
◇
私は携帯電話を耳に当てた。
「長倉か? 文人だ」
『おう、イチャコラすんのは終わったか?』
「うるさい黙れ」
目が覚めた私は、小夜子の膝上で寝ているという、前代未聞の大失態をおかしていた。車の中だったのが、唯一の幸いだ。正直、私の乾坤一擲、拳銃で自らの脳みそを吹き飛ばそうと思ったが、拳銃は残っていた特殊部隊に回収されたようだった。
『で?』
電話口の長倉は、声こそいつもの調子だが、向こうでニヤついているのがはっきりと伝わってくる。特殊部隊員を通じて見ていたに違いない。まったく腹が立つ。
「ん……、あぁ……そうだな。とりあえず……、お待たせ」
『ハイ待ってましたッ!!』
死ぬほど馬鹿にされることを覚悟しての言葉だったが、返ってきたのは、清々しいほどの馬鹿っぽい返事だった。
「声が大きいです、長倉さん」
くははっ、べつにいいだろ、と長倉は笑う。こいつは、こんな楽しそうに笑う奴だったろうか。
「それで、迷惑ついでに、もう一つ頼みたい」
『ほう、高くつくなあ、そりゃ』
まだなにも言っていないのだが、長倉には返せないほどの借りがあるのだ。もう今更である。いつか踏み倒そうと思った。
「――、と言うわけなんだが、なんとかできないか?」
『めんどくせえなあ。しかしまあ、それは俺としても気分がいい。いままでお前を見てきてよかったと言えるわな』
「ほんとかよ」
私は照れ隠しも含め、鼻で笑った。
へっ、と長倉も妙に照れた笑いをこぼした。
『だが忘れるな文人、俺たちはビジネスライクでもある』
「そうだな……。どんなペナルティでも受けよう」
長倉はビジネスライク“でも”あると言った。その前にあったであろう台詞は、言われずとも勝手に聞こえた。こいつは声が大きいからな。
『お前は例の物証を手に入れるため犯罪を犯した。で、いまから行うことも、お前が一人でその罪を背負うと。それらの罪を、不味い飯をくって贖え』
「ん……? それは社会的に当然のペナルティだ。私が言っているのは――」
『うるせぇよ、最後まで聞け。お前はまた永塚探偵事務所に戻って来い。俺はずっと、お前をまた便利に使える日を待ってるからよぉ。私情にケリをつけたからって、俺から逃げられると思ってんじゃねえぞ』
「ふ、はは。お前、変な色のキノコでも食ったんじゃないのか? ……まあいい、わかった。また世話になるよ、ありが――」
通話が切れた。
「おい……」
私の感謝の言葉は、いつの日か探偵として復帰するその時まで、長倉に預けられた。
恥ずかしがり屋め。
「所長……」
私の背後に、心配そうな顔の小夜子がいた。
「そんな顔をするな。小夜子くんは、私の執念を上回り、私の希望ごとぶっ飛ばしてくれたんだ。本当に、君は……なんというか、無茶苦茶だ」
「えぇ……、褒めてくださいよ」
いつもの、どこか愛嬌のあるふくれっ面で、小夜子はぶーぶーとうるさい。
「小夜子くんは胸を張って、私が戻るまで事務所を守っていてくれ。頼んだぞ、葉月探偵」
「ぅ……、了解す!!」
歯の欠けた満面の笑顔。つられて笑った私の歯も、きっと欠けているのだろう。
「あ、そうだ所長。煙草、吸いたいんじゃないかと思って、いま買ってきたんすよ」
まじか。超うれしい。
手渡された煙草は、私の吸ったことのない銘柄だった。
「小夜子くん、これHOPEじゃなくて、PEACEじゃないか……」
「はい!」
わざと、ですかぁ……。
駄目だったすか、と笑う小夜子に、私は駄目だと言えるはずもなく。ジッポーを鳴らして、吸ったことのないPEACEに火を点けた。
「ぐッ……げはっ!」
これは重い。HOPEの倍ほど重かった。
私は咳き込みながら、そのいまは心地よい重さを手放した。
「だ、大丈夫すか!? どうしたんすか?」
「ちょっとまだ重かったよ、この煙草。私が戻るまで、小夜子くんが保管しておいてくれ」
はあ、了解す、と小夜子は寂しげな顔をした。先ほどから言っている、私が戻るまで、という言葉の意味は、おそらく理解しているだろう。長倉もバックアップしてくれるだろうし、夢食堂だって胃袋を全面バックアップだ。味の評判は悪いようだが、値段は安い。
まあ、それよりも――。
「小夜子くん、あの物証にあったテープはもう聴いたか?」
「え? いや、自分はまだちゃんとは……」
唐突な話題転換に、すこし驚く小夜子。いつも驚かせてくるというのに、逆には弱いのか。把握した。
「長浜洋介はこう言っていた。
――渚は僕に好意を抱いている。それは僕の財産といえるだろう。
――それを利用して更に財産を増やすことの、どこに不正があるというんだ?
――君も承知したはずだ。共犯なんだよ、君と僕は。
さすがの愛美も絶句していたよ」
小夜子は瞳に炎を宿した。例の瞳だ。完全に怒っている。
「自分も絶句したすよ!」
「長浜洋介も、私と同じで、どこか一つ、ネジが飛んでしまった人間なのかも知れないな」
「だからって……、さすがに渚ちゃんが……」
あぁ、そうだな、と私は同意した。
「佐山渚、佐山夫妻、そして我らが佐山夢さんに、ひどい迷惑をかけた男だ。間違っている」
「所長?」
小夜子が、私の可笑しなテンションに戸惑いの笑みを見せている。
「間違っていたら、どうするんだっけ?」
あははっ、と声を上げた小夜子。短い前髪の下で、眉毛がぴょこんと跳ねた。
「長倉の話しでは、夫妻は部屋にこもっているらしい。どうだ? いまから一緒に、ちょっと長浜洋介を、殴りに行かないか?」
私は小夜子に殴られて、あちこち痛む体を気にもせず、拳を天高く振り上げて見せた。
「もちろんす! 間違えたら殴るすよ!」
「そうだよなあ!」
私と小夜子は、長浜のマンションへ向かって駆け出した。速さを競う子供みたいに。とても、とても昔に、置いてきてしまった忘れ物を、見つけたような気分だった。すこし緩んだ涙腺は、PEACEが重いせいだとしておこう。
そして、私の中にある、まだ見たこともない新しいピースに、あたたかな火が灯ったのだった。
―― 次話へつづく ――
最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございます。
次が最終話です。
そちらもよろしくお願い致します。