7.助手は探偵に夢を見る
所長は許せないと言った。
それは誰を許せないんだ。話の流れ、佐山渚にたいする所長の態度からして、長浜夫妻だろうか。十分にありえる気がした。
でも、長浜夫妻への怒りは、似たような案件を繰り返してきた所長にとって、どこかちぐはぐな怒りだ。
永塚ハル。
暴行され、殺害された所長のお姉さん。当時十七歳。それは渚ちゃんの年齢と一致する。
――佐山渚は援助交際をしていない。
所長は憶測でそう言った。つまり、謀に巻き込まれた渚ちゃんをお姉さんとダブらせ、長浜夫妻を許せない、と言ったんだろうか。それが核心に近い気がした。
所長が消息を立ってから数日、私は浅い眠りを繰り返しながら、そんなことをひたすらに考えていた。朝もやのように部屋で煙っているのは、煙草のもくもく。
煙草のもくもくには慣れている。起きて思考にふけっているとき、私は所長の煙草を灰皿で燃やしていた。所長はなにか考え事をするとき、私が近くにいるっていうのに、お構いなしで煙草を吸っていた。いや、考えるときだけじゃない、四六時中だった。だから私にとって、この煙草のもくもくは、自分が探偵の助手である事実と結びつくんだ。
HOPEという名前の煙草。短くて、小さな可愛らしい箱に入っている。それなのにわりとキツイ煙草らしい。頑固な職人みたいな煙草だ。パッケージには弓矢が描かれていて、とてもシンプル。所長はこの弓矢でどんな希望を狙っていたんだろうか。所長が見ていたそれは、本当に希望なんだろうか。
不意に所長がいるような気がして、私は灰皿を振り返った。
当然、誰もいなかった。もくもくと、希望を燃やし続けているだけだった。
「所長……」
思わず声に出した言葉。それが引き金だった。私の頭の中で、怒涛のように数々のピースが飛び回った。白い光の線は、ピースを追うことさえできず、ただいたずらに私の胸をささくれ立てる。涙は流しつくした。八つ当たりはソファーにやりつくした。
渚ちゃんとお姉さんをダブらせ、長浜夫妻に怒りを向ける。それは理解できる。けれど、やっぱりおかしい。どこかちぐはぐだ。
どうして、お姉さんを暴行した犯人へ向けるような怒りを、長浜夫妻に向けるんだろうか。それじゃまるで……。
まさか――。
いや……、わからない。わからないや。
体はさほど動かしてない。それなのに、私の体はくたくたで、頭もぼんやりとくらくらの間で彷徨っている。
「髪……、気持ち悪いなあ」
ずっとお風呂にも入っていなかった。昇り始めの射光が、私の目をかすめて部屋の隅に落ちた。なんだか、もうどうでもよくなって、私は脱力にまかせてソファーに伏した。
★
「いらっしゃせー!」
夢さんの声はいつもの調子で、いつもの調子がでない私には痛いくらいだった。不思議と馴染んでいるのは、所長が消えてから数日、洗っていない髪の毛と、脂ぎった店の壁紙だ。
「……小夜子ちゃん、どうしたんだい」
夢さんの声がただならぬものへ変わった。ポニーテールなんて珍しいじゃないかい、と。
「そっちすか……」
冷や汗とか涙とか、皮脂や埃でぎとぎとした髪は、そうとうに心地が悪くって、私は適当に縛っておいていた。お風呂に入るのも、シャワーを浴びるのも面倒くさくて、どうでもよかったんだ。
私はよろよろとカウンターに座り、まるで酔っぱらって管をまく人みたいに突っ伏した。
夢さんの声は聞こえなくなった。なんで夢食堂にきたのか、自分でもよくわからない。事務所にいると頭がどうにかなりそうだったから、防衛本能がそうさせたのかもしれない。
どれくらい突っ伏して、カウンターの匂いを嗅いでいただろうか。ごとん、と目の前に温かいものが置かれた。
「注文してないんすけど……」
「いいから食べな」
ぴしゃりと言った夢さんの声は静かだった。鼻腔をくすぐる、みりんと三つ葉の香り。
「お、親子丼すか」
夢食堂は、チャーハン以外は不味い。なかでも所長お気に入りの親子丼が一番不味い。正直、しばらく何も摂取していないお腹でも、あまり食欲がわいてこない。
「ん? 違ったかい?」
夢さんはお母さんみたいな顔で、私を見ている。
「あ、いや……、これ、食べていいんすか?」
「いいんだよ。息子の件のお礼さ」
きちんと依頼分の料金は貰っている。請求書は私が作った。だからこれは、夢さんの好意だ。店で一番不味い料理でも、好意というものはこんなにも嬉しい。探偵という仕事の、一番の報酬は、実はこんなところにありました。所長は知ってましたか? もちろん知ってたすよね。
「いただ……き、ます」
びっくりするほど落ちてくる涙。夢さんのせいだ。夢さんが、お母さんみたいだから。辛さや悲しさで枯れ果てた涙は、優しさによってまた潤うんだと知った。親子丼に涙が落ちる。私は気にもせず、がつがつと親子丼をかき込んだ。
「親子丼、この店で……ぐむ、一番不味いと思ってたんすよ」
もごもごと喋る私に、夢さんはどっちかにしな、と苦笑いをくれた。だから私は食べた。
「不味いって言いながら、ずいぶんとうまそうに食べるじゃないか。ははは。腹空かしてまあこの子は……」
夢さんの言葉は優しく私の涙腺を刺激した。喉が詰まっているのは、がっついているせいなのか、泣いているせいなのか、なんかもう、わからなくなった。ひっく、ひっく、て本当に酔っ払いみたいになっていて、自分でもだんだん面白くなった。
「正直、やっぱ不味いすよ。でも今日は美味しいすよ。いつも塩気が足りないと思ってたんすよね」
「涙が丁度いいってかい? なかなか言うじゃないか!」
夢さんはがはは、と笑った。ボケの説明みたいなことはしないで欲しいすよ。
「なにがあったか知らないけどねえ、ご飯が美味しいうちは大丈夫なんだよ。溜息ついて座って、ご飯食べて泣いて、いい頃合になったら笑って、また立てばいいんだよ」
しばし黙々と泣いて食べて、親子丼が底を見せはじめたころ、店先に人の気配があった。
「いらっしゃせー!」
夢さんの威勢のいい声が、いまは少し心地よいものへ戻りつつある。
「おう、きったねぇ店だな。客もまたきたねぇな」
長身痩躯を上等なスーツで武装し、とても所轄の刑事とは思えない男が、くはは、と特徴的な笑いをともなって現れた。入道太さんだった。今日もあの物騒な外套をはおっている。
「ごちそうさまでした」
私はどんぶりをカウンターへ置き、つかつかと歩み寄る入道太さんを見つめた。
「葉月。お前なにしてんだ? んなきったねえ濁った目ぇしやがって。眠そうな面は建前だけにしろや」
入道太さんは私を罵倒し、夢さん俺にも親子丼、と言ってどかりとイスに座った。私の目はいま濁っているらしい。眠そうな顔だけは仕様なのに酷いな、この人。
「なんで親子丼だってわかったすか? もう空なのに……」
匂いだよ、と入道太さんは言った。信じられない。カツ丼と親子丼の匂いを嗅ぎ別けられるのは私だけだと思っていたのに。
「……あんた、長倉って刑事じゃないのさ、あんたに食わすもんはないよ」
ドスの効いた夢さんの声。息子さんの件で、刑事課から追い払われたんだっけ。
「そうか? 息子さん助かっただろ。あのまま刑事課でゴネてたら、どうなってたかわからねえぞ」
入道太さんは高圧的だ。いつでも、誰にでもそうなんだろうか。
それを受けた夢さんは、顔を真っ赤にしてぷるぷると震えだした。入道太さんを殺しかねない眼光でにらんでいる。彼女の死角で、そっと入道太さんは腰の手錠に手をやった。しかし、その手錠は使われることなく終わった。
夢さんの顔色が元に戻り、「あいよ……、親子丼ね」と、調理を始めた。夢さんはなにかを堪え、そして飲み込んだんだろう。
「恐ろしいねぇ。ワッパじゃ利かねえな、たぶん」
入道太さんは酷いことを言った。夢さんに謝れ。でも、私もちょっと同じことを思ったのはナイショです。
「まあ、夢があっていいけどなあ」
なんだそれ。この人は所長みたいなことを言うんだな、と私の頭でまた暗雲がたれ始めた。カウンターについた煙草の焦げ痕が間近に見える。
で、と入道太さんは、私のポニーを鷲づかみにした。
「お前はなに腐ってやがるんだ? うわっ……!」
髪の毛を唐突に離され、カウンターにおでこを強打した。でも、そんなことは瑣末なこと。私はどうすればいいんだろ。どうすれば、あの所長が戻ってくるんだろ。
「葉月、髪の毛くせぇな。手がぎとぎとすんだろが。風呂はちゃんと入れよ」
「あ、はぁ……」
私はおでこを撫でながら身を起こした。実はちょっと自慢だった長い髪。ぱらぱらと汚れでまとまって、私の腕を撫でていった。どうしようもない気分。かつてこんな捨て鉢になったことがあったろうか。探偵を目指す前の方が、それどころか、ゴミ捨て場に転がってた時のほうが、よほどマシだった。私は、もうここで引き返すべきなんだろうか。親父もきっと安心してくれる。そう、だよね。
「入道太さん」
「うるせぇなボケ。聞きたくねぇ」
「自分、探偵はもう辞めようかな、と思ってるす」
「勝手に喋んじゃねえよ……。マジで人の話聞いてねえな、こいつ」
私はいま、なんて言った? 探偵を辞める?
気付けば、私の中で燃えていたあの燦々とした炎は、もう、見えなくなっていた。
「葉月よ。俺に髪の毛ふん掴まれて、お前はなにボケ面さらしてんだよ。あん時の目を見せろや、弓道部はすげえんだろうが」
入道太さんは私に怒り心頭みたいだった。違うか、怒りじゃない。なんだろうか、どうも頭が回らなくなった。せっかく夢さんのお蔭で戻り始めたというのに。なんなんだよ。
なんなんだよ? あれ?
「でも、……でも、もう所長が――」
「お前はあの書類を見たんだろうが。そのとき俺が言ったことを覚えてんのか? ん?」
――別に開けて見なくたって、葉月の探偵助手ライフは大して変わらねえ。
――だが開けちまったら、あいつの泥沼に足を突っ込むことになんぞ?
たしかに、見ようが見まいが、私はここでこうやって突っ伏していただろうな。ただ、その理由が、理由の重さが、違っている。所長の過去を、そして現在の所長が、なにを求めて彷徨っているのかを知った。それが入道太さんの言う泥沼なら、私は見事に突っ込んでしまっている。
「泥沼に突っ込んで大転倒ってか? だから頭もくせえんだなあ」
くははは、と入道太さんは笑う。
なんなんだよ、もう。馬鹿にするためだけに来たのか?
「おまち」
ささくれた私の意識に、夢さんのぶっきらぼうな声が聞こえた。おそらく親子丼ができたんだ。
「長倉さん……あんたぁ、小夜子ちゃんをイジメにきたのかい? え?」
「おいおい、包丁とか出すなよなあ。パクるぞコラ……。まあ、いいから夢ちゃんは黙っててくれな」
夢ちゃんて……、と夢さんは固まり、すごすごとカウンターの奥へ引っ込んだ。
がつがつと親子丼をかき込む入道太さん。不味いとか嘘だろ、と美味しそうに食べている。信じられない。
「文人の居場所――、
入道太さんは箸を止め、銀縁のメガネ越しに私をにらんだ。
――というか、そういう類のもんは、だいたい検討がついてる」
「……ぅえッ!?」
とつぜん降ってきた朗報に、私のイスは後方にふっ飛んだ。
「どこすか!? 所長はどこにいるんすかッ!!」
ばしばしと腕を叩かれ、私は入道太さんを締め上げていることに気付いた。米粒が手の甲についてしまった。
「お前らなあ、俺は刑事だぞ? 傷害罪とかで捕まえちゃったりできんだぞ? 現行犯も甚だしくて逆に面白いわクソが!」
「先に入道太さんが、自分の頭を鷲づかみにしたす」
うおっほん、と入道太さんは大げさに咳き込んで見せた。米粒もったいねえ、とか言いながら。
「先に手を出したのが俺だろうと、そんなもんは揉み消すに決まってんだろ。一捻りだ!」
この国の警察機構はもう駄目なのかも知れないと思ってきました。
「それで所長は――」
「葉月」
入道太さんは私の声を遮った。初めて遭遇した夜の事務所、そこで襲われたときのような、絶体絶命を意識せざるをえない声色。
「お前は、自分の親父をぶん殴ってまで、いまここにいる。それはどうしてだ?」
禅問答かと思った。
口が悪く、所長に負けないくらい飄々とした人が、私に真剣な言葉を向けた。
「それは、父さんも改めて聞いてみたいもんだな、小夜子」
「ちょっ……!」
親父だった。うちのハゲ親父が、どうしてか夢食堂にいる。
「俺が呼んどいた」
入道太さんが悪戯小僧の顔をした。
なんなんだよ、もう!
「葉月よ、携帯の電源くらい入れとけよなあ。もう少しで捜索願が出されるところだったんだぞ。めんどくせえ」
「ま、まじすか……」
つまり入道太さんは、事が大きくなる前に、ここへ私を探しに来た、ということだったんだろうか。
「でも捜索願って……、自分ほぼ事務所に居ましたし……」
そうだ、私は事務所にこもってずっと考え事をしていた。頭が回らず、ほとんど呆けていただけだけれど。
「何度もノックした。また扉を破ろうかと思ったが、母さんに怒られたからな、やめておいたんだ」
親父……。
呆けていた私は、まるでノックの音に気付かなかった。そんなんじゃ、昔の私に戻ったみたいじゃないか。探偵にはなれない、と断言された昔の私。
「なあ、答えて見せろよ。親父に心配かけて、超絶敏腕刑事に面倒かけて、そうまでしてお前は、どうしてここにいる?」
入道太さんがにやけ顔で私を見ている。親父は鷹のような目で、射抜くように私を見ている。夢さんは厨房のほうから、ガッツポーズを寄こしてくれた。
なんなんだよ。
もう、ホントに、なんなんだよ!
ヂリッ!
自然と顔が笑みを形作ってゆく。胸にわだかまっていた燃料が、爆発的に燃焼をはじめた。そうだ、そうだよ。
「自分は――、探偵になる!」
くははっ、と楽しそうな笑い声。入道太さんだ。
「親父さん、こいつはもう引き止めても駄目だぜぇ。俺にさっさと小夜子を探せって、突っかかって来たアンタと同じ目ぇしてやがる」
同じ目……。
私は、親父と同じ目をしてるんだろうか。少し気恥ずかしくなった。
「刑事さん、私はもう止めませんよ。小夜子は親のいうことを守る素直な子でした。とてもいい子でした。でもね、夢を語ったことが、一度もなかったんですよ。親としては、今ぼろぼろの娘を見たら、ちょっと複雑な気持ちになりますがね、それでもね、応援してやりたくなったんですよ」
「お、親父……」
入道太さんは親子丼を食べていた。すでに話を聞いていないかのようだ。
「小夜子、お前の好きなようにしなさい。母さんと話し合って、そう決めた。あの探偵さんと、仲良く支えあって頑張っていくんだぞ」
なんだか妙な方向に勘違いをしたままだけど、まあいいか。
「ごっそさん」
よいこらしょ、と入道太さんはどんぶりを置いて立ち上がり、妙に似合う銀縁メガネを押し上げた。
「探偵になるってんなら、文人の居場所は――、……わかるな?」
「はい。自分で見つけ出します!」
そうだ。どうして今までそうしなかったんだ。びっくりして、理解できなくて、悲しくなって、考えることに埋没して、悲劇のヒロインにでもなったつもりだったのか? 似合わないことこの上ない。
んじゃ帰るわ、と言った入道太さんを親父が引きとめた。
「刑事さん、お茶でも飲んで、もう少し話しませんか? お礼もしたい」
「嫌だね。俺はアンタの千倍は忙しいんだ。しかも、厳つい面の犯罪者と毎日顔合わせてんだ。茶ぐらい一人で飲みてぇよハゲゴリラ」
「ゴっ……!」
絶句する親父。入道太さんは、もう少し素直になったらどうだろう。お礼とかこっぱずかしいから不要だ、と。
「葉月、頼んだぜ。お前にゃ期待してんだ」
またしても頼まれた。あの夜の事務所で、入道太さんが頼んだのは、友人である所長のこと。そして今回もそれはたぶん同じ。少し違うのは、今回は私に対しても、わずかばかりの親愛の情を見せてくれた。
待っていてください。必ず見つけ出しますよ、所長。
そのまえに、まずはお風呂に入るす。
☆
自宅のお風呂に入り、新しいパンツスーツを装備した私は、事務所の引き出しから持ってきた資料をもとに、ある場所へ向かった。
十四年前、その場所で、女子高校生が死んだ。何者かに暴行され、殺された。
佐山渚に会って以来、所長は引き出しの古い資料をあまり見なくなった。もうそれを手に取ることへ、あまり意味を見出さなくなったのかも知れない。問題は、それが良い兆候なのか、悪い兆候なのか、だった。
いま向かっている場所は、所長のお姉さん――永塚ハルが殺されたところだ。そして、所長の生まれた土地でもある。
所長は十四年前、お姉さんと駅で待ち合わせをしていたらしい。その待ち合わせの時間に遅れ、息を切らせて辿り着いたら、お姉さんはいなかった。たぶん、所長のことだから「すまん」とか言って、プリンを渡そうと思っていたんだろう。
そして、目と鼻の先、汚い路地でお姉さんは遺体で発見された。
第一発見者は所長自身だった。自分の姉が冷たくなっている状況で、警察や救急への連絡、蘇生術の試みや現場の確保など、的確な状況判断は冷静すぎる。むしろ異常だと、当時の新聞記事に載っていた。
たしかに所長は冷静だったかもしれない。冷静に、冷静に、と自分に言い聞かせていたはずだ。少なくとも、自分だったらそうする。お姉さんを必死に救おうとしていた。もう手遅れなのは、発見時の状態からして明らかだったけれど、所長が最初に連絡したのは119番だった。
この資料には警察関係者じゃなければ分からないようなものまである。鑑識の報告書や担当だった刑事の報告書などだ。おそらく入道太さんを経由して手に入れたんだろう。
お姉さんは駅で拉致され、路地に連れ込まれて強姦された。そして、それに抵抗して殺された。
刑事でもない私が見ても乱暴な犯行だと思う。しかし、この資料には犯人が捕まったという記事などは無い。あの夜にも感じた、薄ら寒いものが背筋を通る。それは、当時の現場を目の当たりにしているからだと思うようにした。
暗い路地は空き缶や吸殻などのゴミが散乱し、誰が描いたのか、スプレーで壁に“HOPE”という言葉と共に、アートもどきのラクガキがあった。
所長もお姉さんも、この場所で希望など見ることは決してなかっただろう。そのスプレーの落書きに腹が立って、私は思い切り蹴りつけた。大きな音が響いたが、それで誰かが来ることはなかった。お姉さんもここで助けを呼ぶ声を上げたはずだ。だというのにその声は、虚しく区切られた空に消えたんだ。
――私はすうっと、集中力の泉に落ちる。そこは弓道場だ。耳元で弦の震えが聞こえてきた。
想像をしてみる。凶行に遭っている永塚ハルを。このゴミをかき集めたみたいな路地で、理性を欠いた獣に襲われる。声を上げても誰も助けに来てはくれない。必死に抵抗しても圧倒的な力でねじ伏せられる。やめてくれと懇願しても、さらに獣の劣情を煽るだけ。やがて、獣の手は永塚ハルの命へと。
――風を切る。弦が、矢が、私の視線が。心は静かに未来を確定した。矢じりは的の真ん中へ。
そして、永塚ハルは殺された。
――集中力の泉は波打ち、弓道場はゴミ溜めへと戻る。
息苦しくなった。
恐怖によるものじゃない。
両の手が震えた。
恐怖なんか感じない。そんなもんはない。
怒りだ。許せない。ただただ許せない。目の前が赤く燃え爛れていくのを感じた。
私はまた、“HOPE”という文字を蹴った。甲高い音でヒールが壁を抉り、一部が剥がれ落ちた。Pが地面で砕け、“HO E”になった。もし犯人が捕まってなくて、時間の中に埋もれているんなら、所長は絶対にそいつを逃さないだろう。だったら、私も時間を鍬で掘り返し、所長ごと見つけ出してやる。もう一度、私は壁を蹴りつけた。そうすることで所長に会えるような、そんな気がしたんだ。だからおまけに、所長に届けとばかりに、私はジャンプして両足を叩きつけてやった。“HOPE”という文字は完全に剥がれ落ち、この汚いゴミ溜めには不釣合いな希望など、消えてなくなった。
そうして次に向かったのは図書館。当時の新聞記事をもっと沢山読みたかったからだ。本当は、あの場所で所長に会えたらな、なんて甘い考えもあったけれど、それは叶わなかった。
平日の昼間でも図書館は混雑していて、多くの利用者がいた。でも、それは喧騒とは無縁で、どこか心地よい類の混雑だった。
私は新聞記事用に設置されているパソコンへ向かった。年月や日付、キーワードで新聞記事を検索することができる。利用者が少なかった為、待たされるようなことはなかった。
ものの数分で見たい記事が検索され、私は自然と前のめりになった。その一瞬で、予想だにしていなかった事実が判明し、私の頭は暗い淵へと叩き込まれた。
『女子高校生強姦殺人事件、犯人の自殺で終幕』
「…………どういうことすか、所長」
独り言は心の落し物だと思っている私は、いま、なにかを落とした。
私が持っている資料の事件は、既に解決してしまっている。所長のお姉さんを暴行して殺した犯人は――、自殺した。
ちょっと待って欲しい。頭がくらくらとして、尋常ではない現実を受け入れてくれない。所長は一体、なにを今でも追いかけているというのか。冷たいふりをして、実はちょっと優しいあの所長が、いま、とてつもなく怖くなった。落し物は、所長への信頼だったろうか。
――小夜子くん。
――私は許せないんだ。
何を? 誰を?
もう、その許せないという怒りを、ぶつけるべき相手はいない。死んでしまった。
所長はこの事実を知らない? そんなことはないはずだ。所長のスクラップブックを見つめる。これほど執拗に集められた情報の数々、古いが綺麗にスクラップされ、あらゆる媒体へバックアップもされている。
なのに、なんで、事件の終わりを告げる情報だけが、スクラップブックからすっぽりと抜け落ちているんだろう。
妄言、妄念、妄信、妄想、妄断、妄説、妄執。
私が感じた薄ら寒さの正体は、犯人が自殺したという情報、事件が解決したという情報、それらが意図的に収集対象から外されている、という事実への無意識的な恐怖だったんだ。
記事には、他にも目新しい情報が載っていた。第一発見者である永塚文人――つまり所長は、犯人が自殺したなど嘘だと、自分の手で捜し出して殺すのだと、刑事相手に暴れたらしい。しかし、家族を失ったショックから精神的に参っているだけだという判断がなされ、所長にお咎めはなかった。
もしかしたら所長は、あの時、お姉さんの遺体を見つけた時点で、壊れてしまった、のかも知れない。キーボードに載った指先が、嘘みたいに冷たくなっていた。
ジッポーの澄んだ音を背後で聞いた時、私は精一杯の虚勢を張ってみせた。
「ここは禁煙すよ」
かちり、とやけに緩慢とした音でジッポーは閉じられた。あぁそうだったな、とひどく懐かしく感じる声。自分でもわかるくらい緊張で固まった首は、振り返りざま、ぎりぎりと悲鳴を上げた。
「奇遇だな、小夜子くん。面白いものでも見つけたか?」
所長だった。あれほど、どこにいったのかと待ち焦がれた人は、私自身が動き出したとたん、あっけなく現れた。
「煙草は外で吸ってきたんすね」
コートから漂う煙草のにおい。会話がなんとなくキャッチボールできてないことは理解しているつもりだ。
「相変わらず犬みたいな嗅覚じゃないか」
いつもどおり、と言えばいつもどおりの所長。身なりも綺麗にしてあり、数日間も行方知れずだったとは思えない。でも、所長はよれよれだった。見た目じゃなく、精神的によれよれ、そんな印象。
「そういえば、こんなところで会うなんて奇遇すね、所長」
まったく相変わらずだな、と所長は笑わない。
「私は物思いにふけろうかと、姉の事件現場へ足を向けた。別に路地へ入ろうとは思っていなかったが、そこで微かに甲高い音が聞こえてきた。見に行ってみると、見覚えのある女性が壁にドロップキックをしているじゃないか。面白くなって、思わず尾行したよ」
面白くなって、そう言った所長はまた笑わない。
「見られてたんすね……」
「そうとう強く蹴っていたからね。壁が剥がれるとか小夜子くんはどんだけ力強いんだ」
私は意地悪く笑って見せる。所長が笑わないなら私が笑う。どれだけ怖く感じても、きっと所長は所長だと信じたい。
「大きい魚が釣れたすね!」
「え?」
所長は本当に不可解だ、という顔をした。なにを言っているんだ、という怪訝さも加わった。
「なんだか所長がそばにいるような気がして、釣り針を垂らしておいたんす。自分、鼻が利くんで」
「なるほどなあ……」
溜息。所長は額に手をやり、苦く、本当に苦く、笑みをこぼした。私も焼きが回ったかな、と嗚咽のように呟いた。
「あ、あの……」
「これで小夜子くんは、助手から駆け出し探偵へランクアップだな。昇給はドアとテーブル、ソファーの修理がすべて終わってからだが」
駄目だ。どうしてだかわからないけれど、このままじゃ所長がいなくなってしまう。そんな予感が私を捕らえた。どうしたら――。
「長浜夫妻と佐山親子」
所長は苦い笑みを消し去り、唐突にその名前を出した。
「え?」
どうん、と私の心臓が声を張り上げた。次は私が不可解な顔をする番だった。会話のキャッチボールがなされない不安感を、初めて私は味わっている。
「ここ数日、私が所在不明だった理由だ」
「あ、はい……」
得体が知れないと思った。所長はもともと得体の知れないところがあった。自分のことはあまり話さないし、聞いても下手な冗句で誤魔化す。その得体の知れなさが、さっきまでなんとか捉えていられた所長を、完全に覆い隠してしまった。この人は、私の知らない所長だ。
「彼らの関係性を探っていた。一睡もせず体を張った甲斐があったよ」
どうして連れて行ってくれなかったのか、と土石流のように溢れ出しそうになった言葉は、歯を食いしばって抑え込んだ。きっと、これは仕事を逸脱した行為だからだ、と言うに違いない。私だって少しは成長するんだ。
嘘です。本当は、いまの所長が怖くて、下手なことは言えないと思ったからだった。
「……なにか、わかったすか?」
「すべてだ」
私は所長の濁ってしまった目から視線を外さない。でも、怖くて両手に力が入ってしまっている。ぎゅっと結ばれた拳へ、所長の視線がわずかに動いた。たぶん、私の恐怖心はお見通しなんだろう。
煙草が吸いたい、と所長は私に大きめの封筒を渡して、図書館の出口へ歩いていった。
図書館の敷地。
厄介者のたまり場みたいな所に、喫煙所はあった。学校でいえば、体育館裏みたいな場所だ。
「結論を言えば、長浜夫妻は真っ黒だ。それに係わってしまった佐山渚たちは不運という他ない」
所長は封筒を開けるよう促した。苦虫を噛み潰すみたいに煙草を吸っている。私はまるでパンドラの箱でも開けるような気分で、茶色い封筒を開けた。
そこにあったのは、今回の二つの案件を跨ぎ、裏でうごめいてた謀の証拠だった。
――何かを録音したと思しきカセットテープが二つ。そしてそれを再生するプレイヤー。
――小さな親指で拇印が捺された誓約書。
――長浜愛美名義の通帳をA4コピーした用紙が数枚。
「こ……、これは」
私は二の句が次げなかった。これほどの物証を揃える苦労は、並大抵じゃない。素人みたいな私にだって理解できる。普通の手続きを踏んでいては、数日で揃うはずがない。
所長はこれを、これを手に入れて、長浜夫妻を罰しようとしていたんだ。わずかに私の胸へ爽やかな風が吹き始めた。所長は狂ってなんかいない。狂っているんなら、冷静に物証を集めて罰しようなんて思わないはずだ。
だけど、なにかしら犯罪をしでかして手に入れたであろう物証もある。でも、そんなもの、所長なら、「ワカラナイ」って真顔で言うんだ。そうに決まっている。
「テープは後で聴いてくれ。長浜夫妻の会話を盗聴したものだ。もう一つは、佐山渚の証言を録音してある。誓約書は、その証言に嘘がないことを誓約させたものだ」
容赦がない。
私の印象はそれに尽きた。所長はなりふり構わず、この事態を終わらせようとしている。その様子から、冷静ではないわずかな狂気が、私を値踏みしているようで、数秒前の小さな安心感がじわじわと蝕まれていく。胸に吹いている風は、それに同調して少しずつ、ゆっくりと、ぬるく心地の悪いものへ変わり始めた。
「結局、長浜夫妻はなにをしたんすか?」
あぁ、と所長は二本目の煙草に火を点けた。じりじりと先端を焦がす緋色は、どこか導火線に似ていて、不吉ななにかが爆発しそうだった。
「佐山渚は、長浜洋介と恋人同士だった。つまり不倫だ。それは妻である愛美も承知していた。それを利用し、夫妻は佐山希を強請った。渚が援助交際をしていると偽ってな。渚は援助交際をしているつもりはなく、実際に金銭も貰っていない」
破れそうになるほど、私は茶封筒を握りしめて、カセットテープの角に傷つけられた。
許せない。渚ちゃんをダシにして、あの夫妻は私腹を肥やしたという。
「援助交際と偽れば、佐山希は簡単に周囲へ事実を漏らすことはできない。そして、当の渚ちゃんも、不倫をしているという罪悪感から言い出せない……というわけすか」
そうだ、と能面みたいな顔で頷いた所長。
「ん? じゃあ、愛美が浮気調査を依頼してきたのは、一体なんだったんすか?」
「それは、あの夜の渚の行動に関係している。そうそう、小夜子くんが木登りを披露した夜だ」
薄っすらと笑みを見せた所長。その笑みは、昔を懐かしむ世捨て人のようで、ますます嫌な風が強くなっていった。
「考えてみろ、ってことすか……」
所長は、渚ちゃんが長浜洋介によって送り出された偵察だと言った。それは浮気調査のために、自分を嗅ぎまわる者が誰なのか、そして、依頼した人物は誰なのか、を探る目的だった。
つまり洋介は、愛美が浮気調査を依頼したことを知らない。でも二人は共犯であるはずだ。共犯の二人が、互いのあずかり知らない行動を取るとき。それは仲違いと相場が決まっている。小説の読みすぎすか?
でも今回はそういうことだろう。
「浮気調査は愛美の保険だったんすね。もし強請りが公けになった場合、自分だけ罪逃れをするつもりで……」
「そういうことだ。あくまでも自分は浮気された可哀想な妻を演じるつもりだった。もしくは、危なくなったらそれを材料として、自分を共犯から外せと、洋介へ迫るつもりだった。詳細はテープを聴いてくれ、二人が言い争っている」
結局、強請りのお金を振り込ませる口座を愛美名義にして、洋介も保険をかけていたらしい。すさまじい仮面夫婦だと思った。もう、なんのために一緒にいるのか、私には理解できない。
そして、それに巻き込まれ、援助交際を演じさせられた渚ちゃん。彼女の心境も、想像するには私の経験値は不足気味だった。でもとにかく、気持ちのよい心境ではなかったはずだ。
「思えば……」
黙々と、もくもくと、煙草を睨みつけていた所長が、重く口を開いた。
「佐山渚が、うちの事務所に乱入してきたことも、偵察の一環だったんだろう」
「なんて……、なんてことを……」
私の中で怒りの突風が吹き荒れた。所長に対する嫌な予感ごと、怒りがごうごうと気持ちを巻き上げてゆく。いま、手の中にあるのは武器だ。あの夫妻を叩きのめすための。そして、この件さえ片付けば、所長も――。
「そうだ、所長。この物証、どうやって手に入れたんすか? 後学のために教えてくださいよ」
所長はもったいつけた様子で、煙草をゆっくりと灰皿に押し付けた。
「住居侵入罪。窃盗罪。盗聴内容を、今回は完全に第三者である小夜子くん、そして警察へ渡すことによる電波法違反、あるいはそれに伴って恐喝罪もつく」
「なっ……! ちょ、ちょっと、それ、めっちゃ犯罪じゃないすか!?」
所長は淡々と自分の罪状を並べ上げた。その顔はいつものポーカーフェイスで、なにを思っているのか読み取れない。
お願いだから、小夜子の一生のお願いです。ワカラナイ、そう言って、いつもの笑みを見せてください。
「なあ、小夜子くん」
「は……い」
なんだか私は、判決を言い渡される容疑者にでもなった気分だった。
「そこにどんな理由があっても、絶対にやってはならないことって、あると思うか?」
「…………」
迷った。
私は迷い、硬直してしまった。所長は私にこう問いただしている。長浜夫妻を叩くために、自分が犯した罪は、やってはならないことなのかどうか、と。
正直、私は所長を否定したくなかった。だって、こうして私の手の中にある武器は、渚ちゃんを食い物にした奴らを叩くために必要だ。でも、でも、と私は奥歯をかみしめる。これは、所長が犯罪を犯さなくとも、それこそ長倉入道太率いる警察に任せればよかったんだ。時間はかかれど、正当な方法で夫妻を叩くことができたはずだ。
所長、正しい道へ戻ってきてください。また、一緒に探偵家業をするために。だから私は――、
「はい。どんな理由があったって、絶対にやってはならないことは、あると思うす」
と、目を逸らさずに答えた。
大きく。びっくりするほど、大きく目を見開いた所長がいた。呆気に取られたような表情にも見える。やがて所長はゆっくりと、四本目の煙草に火を点けた。
「そうか。その封筒、長倉に渡しておいてくれ」
「待って!! 所長はどうするすか……!?」
所長は吸いはじめたばかりの煙草を捨て、HOPEの箱を取り出した。ぎりり、とまるで弓を引くような音をたて、箱が握り潰された。ようやく見えてきたんだよ希望が、と所長は笑った。見たこともない、純粋な、少年のような笑顔だった。
「小夜子くんは、長倉にそれを渡したら自宅待機だ。……絶対にやってはならないと知ったうえで尚、やらなければならないことが、私にはあるんだ」
私の体は微塵も動かず、声帯も凍りついたように音を発しなかった。所長を探し出すと意気込んで、見つけたけれどなにもできず、またしても見失った。
絶対にやってはならないこと――、それは物証を得るための犯罪行為じゃなかったんすね。
どうしてだろう。間違えたら殴ればいいなんて、佐山希へ息巻いて、私は所長を殴ることができなかった。どうしてだろう。
「あぁ……」
所長の背中が見えなくなって、くすぶっていた吸殻が完全に窒息したとき、ようやく溜息じみた声が出た。
「そうか……」
私は、所長が間違っていると、どうしても認められなかったんだ。あの人は、きっと長浜夫妻を殺す。
――第一発見者である永塚文人は、犯人が自殺したと聞き、それは嘘だと、自分の手で捜し出して殺すのだと、刑事相手に暴れたらしい。
そうなんだ。あの人は、あの時から、もう存在しない犯人を、どこかで捜し続け、自らの手で殺すために、生きてきたんだ。
自分にだけ意味のある行為。それを為さなければ前には進めない。たとえそれが殺人であろうと。たとえそれを世間が断罪しようとも。あの人はきっと殺すだろう。
一度燃料に点火してしまったら、その炎は容易に消えたりはしない。やめろと、馬鹿げていると、間違っていると、ぶん殴られたって、痛くもないし痒くもない、間違っているなんて百も承知だ。その炎は、周りの消火活動などモノともしない。いまもなお瑞々しく、この胸で燃え続けている炎のように。
それは、私が一番よく知っていることだった。
―― 次話へつづく ――
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
物語はスピードを増し、いよいよクライマックスへ。
6話からずいぶん間が空いてしまいました。じわじわかと思いますが、完結させますので最後までよろしくお願い致します。