4.HOPE
公園に外灯は一つきり。広さは目測でおよそ100メートル四方。暗闇と静寂に覆われ、茂っている樹木は音も立てずに私と少女を見つめている。ざわざわと、風もないのにざわざわと。私の胸中はざわめいている。
「ホントに来た……」
私を確認するなり少女はつぶやいた。沈んでいるくせによく通るその声は、夜に聞く鳥の鳴き声にも似た不気味さがある。
「何かあったのか?」
どうして私はこの少女に関わっているのだろう。その疑問が頭の隅で明滅している。いや、もう分かっている。ぼんやりと理解できている。しかし、それを言葉にするのは難しく、上手にまとめることができない。反射や感情に近いものなのだろう。
「さあ……、分かんない」と投げやりに嘆息する少女。明かりの届かないベンチに座っていて、表情は読み取りにくかった。
私はベンチには座らず、少女の傍らに立ったままジッポーを鳴らす。澄んだ音色は辺りへ存外に響き、少し居心地の悪さを感じた。
「一本ちょうだい」
少女の台詞に、小夜子の屈託のない顔が思い浮かぶ。
「駄目だ」私は煙と共に吐き出す。
「洋介はくれるんだけどな……」
長浜のことだろう。
「駄目な大人だな」
「探偵のオジサンさんは、駄目な大人じゃないんだ?」
「長浜とは違う駄目な大人だ」
少女は「意味わかんねー」と少し笑ったようだ。
「長浜とは……いつから?」
少女は少し身じろぎする。
どうして私が呼ばれたのかは分からないが、私とこの少女の共通点はそれだけだ。
「あー、たしか……高1の時から……」
私は苦々しく煙を吐き出す。暗くて、煙がほとんど見えない。ひどく煙草が不味かった。頭の中で、サブリミナルようにさっきの夢がフラッシュバックする。
私の名前を呼ぶ夢の少女。現在、傍らにたたずむ少女とは似ても似つかない。全くの別人だ。しかし――、
「洋介は他の先生とは違って、怒らないし、話も面白いし。半分くらい意味分かんないんけどさ。なんか良い兄ちゃんみたいで、だんだん仲が良くなって……。最初は単なる冗談のつもりで持ちかけたんだけど、いつのまにかお金も貰うようになってて……は、はは」
夢の中の少女と、目の前の少女が重なり合う。背格好も、髪型も、顔立ちも、まるで違うのに、ある一点で共通し―――重なる。悲しげに、寂しげに、微笑んでいる。
本当に……本当に見たくない。そんな顔で微笑んで欲しくない。見透かせる気丈な笑顔など、あの時――見たくなかった。
「…………長浜の話をしているお前、楽しくはなさそうだ」
少女を見るたび、声を聞くたびに、せり上がってくる焦燥感を私は努めて抑え込んだ。
「あー……どうだろ。分っかんね……はぁ」と、またしても溜息多めに少女はつぶやいた。
それが割に合うのか、合わないのか、人によるのだろうが、普通のバイトよりはいい稼ぎになるのだろう。金銭が目的であるかどうかも人によるのだろうが……。援助交際は下火と思いきや、恒常的になってきているという話も聞く。下火だと思われるのは、あまり大きく騒がれなくなったからだろう。良くも悪くも、慣れとは恐ろしいものである。
「少なくとも、私には楽しそうに見えなかった。……それでも、まだ続けていくのか?」
「…………」
少女は黙ってうつむく。
私は何がしたいのだろう。私はこの少女に何を求め、この少女は私に何を求めているのか。焦燥感と、それをどうしようも出来ないイライラが、私を追い立てる。短くなった煙草の先端、オレンジの灯りが指に迫りつつある。
「探偵のオジサン……、私としない?」
少女の見え透いた気丈な笑顔が、私に向けられた。
そして、私の視界を火花が舞った。思わず煙草のフィルタを強く噛んでしまったらしく、指を支点としてフィルタと煙草が分離してしまった。私は携帯灰皿にそれらを放り込んだ。窒息効果で消える火種のように、私の焦燥と、少女の言葉も消えてしまえと、願わずにはいられない。『少女は性的に未熟でも無垢でも決してない』、という誰かの言葉を思い出し、頭に血が上りつつあった。
「いくらだ?」
ノイズ交じりの脳内に、サブリミナルで夢の少女が現れる。明かりに背を向けていてよかった。暗がりに目が慣れても、逆光ならば私の苦い表情は読み取れまい。
「はは……やる気まんまんかよー。安くしとく?」
驚いたように、もしくは呆れたように、眉を上げて自嘲ぎみの笑みを浮かべた少女。ざわざわと、風もないのにざわざわと。
「勘違いをするな。お前が、私にいくら支払うんだ? と、聞いている」
私の返答を、少女は予想もしていなかったのだろう、しばし微動だにせず呆け、出てきた言葉は「…………は?」というものだった。
「私は金を払ってお前と遊ぶほど暇ではない。お前が料金を支払うのなら、仕事として請けてやってもいい」
そんな仕事、今まで請けたことなどなかったが。とにかく腹が立った。あんなことを言う少女にか、それとも、少女があんなことを言うまでにしてしまった長浜にか、はたまた、こんな自分にか。
「なんだよ……それ?」
少女の声は少し震えた。
「言葉通りの意味だ」
私の声は少し震えた。
私はジッポーを鳴らし、煙草に火を点けようとするも、オイルが切れたのか点いてくれない。ジッ、ジッ……と火花が散るだけだ。なぜだか火花の中に、夢の少女が見える気がして、私は止められない。
「はぁ……あーもう、なんかさ。もう……」
少女は何か言っている。
「………虚しくなってきちゃったんだよなー」
なけなしのオイルに火が点いて、小さな青い炎が火花をまといながら揺らめいた。辛うじて火が点いた煙草、それは希望だった。
「それなら、私が殺してやろうか?」
夢の少女へ向けて、私はずっと抱えていた怒気をはらんだ声、私の願いを放った。
「え? そ、それって……」
夢の少女――姉さんは、瞠目して私を仰ぎ見る。姉さんをボロ雑巾にしたあいつを、僕が――。
「あの男を、僕が殺してあげるよ」
「た、探偵のオジサン……?」
姉さんは顔を青ざめさせた。それはあの温度を思い出させる。血の気を失った姉さんの死体。僕を、笑顔のまま、虚ろに見つめ続けていた。
ふいに煙草の煙が目に沁みた。痛覚を刺激され、私は夢おぼろから覚めた。なにを言ったのかは憶えている。自分がどういう状況なのかも理解していた。故にひどい後悔の念にかられた。
「ビックリしたか?」
私は少々おどけた調子で、なんでもない風を装った。どこぞの外国映画のように手のひらを上に、肩をすくめてみせた。
「な、なんだよもー……は、はは。ビ、ビックリしたー……アホじゃねーの!」
私を罵倒する少女の引きつった苦笑い。気丈さはもう影すらない。姉さんと重なることもない。結局、私はこの少女を姉さんとダブらせて、自分の怒りを正当化させようとしていただけなのかも知れない。それは、それはとてつもなく下衆な行為だ。我ながら呆れ返る。でも――。
「ふふ、すまんな。まあ、虚しくなったのなら止めればいいんじゃないのか?」
私は煙草をくわえ、明度を増すオレンジを見つめて長く煙を吸い込み、長く長く――煙を見つめながら吐き出した。
「……そう、だよね。……もう、止めれば良いよね?」
「私が決めることでもないが」
小夜子には深入りするなと言った。だがこれは、完全に業務を超えた深入りだ。私の私的感情に基づく暴走だ。度を超えた感情移入は、探偵としては二流、三流だ。当の私が三流なのだから仕方がない、と言い訳をしてみる。
「……うん。……うん、分かった。洋介に、もう止めるって言ってみる」
少女は自分に言い聞かせるように二度うなずき、彼女なりの一歩を決意したようだった。
「そうか。もし揉めるようであれば、また連絡をくれればいい。力になれることもあるかも知れない」
少女は性的に未熟でも無垢でも決してない、そんな誰かの言葉は間違いであるように、目の前の少女は年相応の純真無垢な笑顔を浮かべている気がした。あくまでも気がしただけだが。
私は煙草を携帯灰皿に放り入れる。消える火種のように、この少女の後悔や未練が消えて無くなれば良いのにと、どうしようもないことを思った。
「探偵のオジサン」
「なんだ?」
少女は立ち上がり、私を見つめる。それは、曇りのない瞳に見えた。もしかしたら暗がりで見誤ったのかも知れないが、よく通るその声は、もう沈んではいなかった。
「なんか知らないけど、ちょっとスッキリした! ありがと!」
私は「ふふ」と自嘲の笑みをこぼし、「私は何もしていない。本当に――なにもしていない」と、捨て台詞を残し、その場を立ち去ろうとした。しかし、ふと思い立った。
「そうだ」
「なに?」
振り向いた私に、少女は小首をかしげる。
「私は長浜より年下だ。まだ二十代だ。長浜が兄ちゃんで、私がオジサンというのは納得しかねる」
「うっそ!? 四十近いと思ってた……」
「もう連絡してくるな」
私は『ぷんすか』という言葉が当てはまるような、漫画的な怒り方でその場を立ち去った。
「お兄さん!送っていってよ!」
「知らん!」
◇
小夜子は難しい顔をして、夜の事務所で所長の机と睨めっこをしていた。時折マイナスドライバやキリ、針金などを引き出しの鍵穴に突っ込んでは溜息を吐く。部屋の明かりは消してあり、窓から射す街灯のみでの作業だった。
所長がいつも見ている書類を拝見しようという考えの小夜子。あれを見れば、所長の考えや行動が分かると思ったのだ。
「んー、鍵って開かないもんだな……」
小夜子は一瞬、こじ開けようとも思ったが、それではなんだか負けな気がして止めた。
「どーしよっかな……――――うおぉッ?!」
小夜子が意識を、引き出しから移したタイミングで電話が鳴った。驚きのあまり立ち上がり、冷や汗を噴き出した小夜子は、出るべきか否か迷った。5回のコールで、電話は所長の携帯電話へ転送される。小夜子は3回目のコールあたりで出ないことに決めた。
そして、小夜子が再び引き出しの前で屈んだとき、電話はふいに切れた。コール音は4回で止まった。所長に転送されないギリギリのラインで、相手は電話を切ったのだ。
偶然か、作為的なものか、小夜子は思考を巡らす。
所長が小夜子に連絡するのならば、彼女の携帯電話が着信するはずだった。小夜子はすでに帰宅したということになっているからだ。この電話が鳴ったということは、つまり事務所に用事があったのだろう。すでに夜も更けているが、依頼の電話が鳴ることは稀にある。特殊な状況下に置かれているため、過敏になりすぎているのだと、小夜子は結論した。
なんだかやる気を削がれた思いで、少し休憩しようと立ち上がった小夜子は、一瞬で飛ぶように所長の事務机に寝転がっていた。休憩で横になるには適した場所ではないし、なにより前転宙返りを決めて休む人間はいない。
「は?……え?……な――ぐッ!?」
「泥棒はいけねぇなあ。んー?」
状況を飲み込めず、混乱している小夜子の頭に、低音の渋い声が降ってきた。軽い調子の喋りだが、返答しだいでは殺されかねない雰囲気を小夜子は感じた。
「あぐ……あ、えと……、ここ、の…事務所の……者すよ」
首元を鉄のように硬い腕で押さえつけられているため、小夜子は切れ切れの声で返答した。
「あんま面白くねえなオイ。もっとこう……スパイスの効いた冗句を頼む」
小夜子をねじ伏せているのは、2メートルはあろうかという長身痩躯の男だった。高級そうなスーツに特殊な形状の外套。そしてシルバーフレームの眼鏡。ハリのある声とエネルギッシュな瞳は非常に若々しい。だが、白髪の多いグレーの頭髪が年齢を不詳にしていた。
「だ、だって……こん、な……引き出し、漁って……も、金目の物なん……て、ないすよ」
「かはッ! 金目の物が欲しくて、こんなくたびれた事務所に盗みに入る奴なんざぁいねえよ」
小夜子は息苦しさと恐怖で目を白黒させながらも、拘束から逃れようともがく。しかし、首は辛うじて声が出せるだけ、両腕はどうしてか体の下に入ってしまっている。右足は男によって踏まれていて動かせない。左足は棒状のもので押さえられ、もちろん動かない。完全に賊扱いの小夜子。
……だが待て何かおかしい。そう小夜子の直感めいたものが脳裏をよぎる。酸素不足で鈍る脳みそを必死に回す小夜子。
「ドア……」
小夜子は一つの結論をもってして呟いた。
「それが?」
男は少し嬉しそうに促した。
「ドアの……か、鍵…は、開いて……た、すよね? なのに、……こ、こん…な引き出、しの、鍵をあ、開けられない……のは、変…すよね?」
「かははッ! いいねえ!お前なかなか見――あ?」
男は自分の左腕に、思わぬ力がかかっていることに気付いた。
小夜子の瞳は真っ赤に充血し、歯は折れんばかりに食いしばっていた。わずかに声を出せていたすき間を自ら投げ打ち、小夜子は首を男の左腕に押し付けていた。動脈が塞がれ、呼吸も出来ない。だが、それでも男の押さえつけている腕を押し戻そうとしていた。そして、それにより出来た小夜子の背中のすき間。両腕が開放されるには十分足りえた。
「ぐ…ぅおああああああああ!!」
「マ!ジかよ……」
咆哮を上げて振り抜かれた小夜子の拳は、寸でのところで回避されてしまった。しかし、小夜子の異常な反撃に怯んだ男は、拘束を解いて後退したのだった。
「メスゴリラかよ……くははッ!」
「うぅ……ゴッ、ゴフッ! ……お前が…………!!」
小夜子はひゅーひゅーと妙な呼吸音を鳴らし、充血した瞳で男をにらむ。
「げ、げほッ……ぅ、はぁ。よ、よく分かんないけど、お前が……悪者だろ!!」
明かりの消えたくたびれた探偵事務所。そんなところに音も立てずに現れた男。そいつ自身が言ったように、盗人なんかじゃない。もっとなにか悪いことを企んでいるやつに違いない。小夜子は事務所を、所長を守るんだと、震える脚をふんばった。
「いや違うよ。落ち着けって葉月」
「………………は?」
飄々とした男は小夜子の苗字を知っていた。面食らった小夜子の顔がよほど面白かったのだろう、男は指を指して笑っていた。
「……あ゛あ゛!?」
「いやー文人のやつ、確かにいい拾いもんしたなあ。うははははッ!!」
永塚文人、それは所長の名前であった。つまり所長の知り合いだったのだ。
「なんなんすか一体……?」
溜息混じりにつぶやいた小夜子。緊張の糸が切れたのか、ぺたんと床にへたり込んだ。
「俺は長倉ってもんだ。文人の友人で刑事だ。ビビらせて悪かったな葉月」
長倉は頑丈そうなステッキを、器用に回して外套の中へ収めた。
「悪かったって言われても……。か、体のあちこち、痛いすよ。なんなんすかなんなんすか……」
小夜子は安堵から思わず涙腺が緩んでしまった。自慢の黒髪も涙で顔にへばりつき、ずるずる鼻水をすすり上げる。
「泣くほどかよ? まあ、歯も欠けたみたいだしなあ。ちっとやり過ぎた、すまん」
「歯は前からすよ! ……ところで、手帳見せてくださいよ。警察手帳」
長倉を睨みつけながら、小夜子は手を差し出す。「早くしてくださいよ」、と言わんばかりにくいくいと手のひらを動かした。
「仕方ねえな。ちゃっかりしてやがる」そう言って、長倉は外套の中へ手を滑り込ませた。「葉月よ。俺が本当に文人の友人の刑事だと、確信したわけじゃないんだろ?」外套の中で、長倉の手は何かを掴んでいる。「気を抜くにゃ、まだ早かったんじゃねえの?」
小夜子は悔いた。嘆いた。己の迂闊さを。それを返上するために、行動しなければならない。だが、一度気を抜いてしまった小夜子は、再度挑みかかる気力をほとんど失っていた。故に、外套から出されるものが何かを見極め、判断し、最小の力で行動しなくてはならない。決意したとたん、小夜子の視界には長倉しか映らなくなった。恐るべき集中力である。
「くはッ!」
小夜子の異常さに気付いたのか、長倉は妙な笑い方をしながら、無造作に『それ』を投げた。無造作といっても、長倉の動作は素早かったし、暗がりで飛んでくる物体を見極めることは困難だ。
!!―――…………。
小夜子の手と、長倉が放った物の衝突音が残響した。
「すんげぇな葉月……。一度も目を逸らさねえし、まばたきすらしねえのかよ」
「弓道部でしたから」
いつもの眠そうな目に戻った小夜子は、警察手帳に目を落とした。
「弓道部ってすげえんだな……。俺もやっときゃ良かったかな」
長倉は胸の中で、ここには居ない友人へと忠告をする。
―― 文人、こいつは使いようだぞ。噛まれないように気をつけるこったな ――
「入道太さん……妖怪みたいな名前すね」
小夜子は屈託のない笑顔で長倉を見ていた。
「ほっとけ!厳つくて嫌いな名前だから、呼ぶなら苗字にしてくれ」
「見た目も厳ついから気にしなくていいんじゃないすか?」
「だから!余計に!名前で!呼ばれるのが嫌なんじゃねえか!」
小夜子は手帳に視線を戻し、「すんません」と棒読みで謝った。
「入道太さんは軍属なんすか?」
長倉は名前に関しては諦め、『軍属』という部分にだけ返答する。
「軍にも顔が利く刑事。そんな感じだな。まあ、あんま気にすんなって。文人がいねえなら俺は帰るよ」
小夜子から手帳を受け取った長倉は、いったん玄関に向けた足を止めて振り返った。
「なあ葉月」
「なんすか?」
小夜子はどこか心ここに在らずだった。
「お前が開けようとしていた引き出し、俺が開ける方法を教えてやってもいいぞ」
「え?」
小夜子は少なからず驚いた。長倉はそこに入っているものを知っているのかもしれない。そして、開けてやってもいいとさえ言い出した。
「ただし、俺は鍵を開ける方法を教えるだけだ。本当に開けるのかどうか。開けたとして、その中身を見たお前が、どういう行動にでるのか。そのあたりは自分で考えてくれ」
「わ、分かったす」
「別に開けて見なくたって、葉月の探偵助手ライフは大して変わらねえ。だが開けちまったら、あいつの泥沼に足を突っ込むことになんぞ?」
「……うん」
小夜子の瞳に映る、揺るぎない気焔を長倉は見た。
「そうか」
そうして長倉は、小夜子に鍵を開ける方法を教え、そのための器具を渡してくれた。
「熟練すれば数秒で開けられる。錠にもよるがな。悪用すんなよ?」
これから悪用する者へ送る言葉としてあまりに不適切だった。それを分かっていて言っているのだろうから長倉も相当な人物だ。
「入道太さんは刑事とは思えない人すね、いつか逮捕されるすよ」
「かはッ! 俺を逮捕できる人間なんて、いまの警察機構にゃいねえよ」
冗談なのか本気なのか、小夜子には判別がつかなかった。ただ、薄暗い街灯の射光に照らされた長倉は、所長とは別の意味で非現実感があった。明確な違いを挙げることはできないが、小夜子は陰と陽、そういうイメージを受けた。
「んじゃ帰るわ」
長倉はのっそりと長身を起こし、軍用の外套をはおった。小夜子の目には、ひるがえった外套の内側に――警察だとか軍隊だとか、そういう人であろうと、普通は持っていないような物がたくさん見えて、顔から血の気が引いた。
「あ、ありがとうでした!」
小夜子はしどろもどろながら、長倉に精一杯の感謝を述べた。
「あぁ。…………頼んだ」
長倉はコツコツと、現れたときには聞こえなかった靴音を鳴らして事務所を去った。
小夜子には一つだけ、長倉に関して信じていいのか分からないことがあった。長倉の警察手帳は本物で、軍属というのも、手帳にあった肩書きや身のこなしからして本当だろう。気がかりだったのは、『文人の友人』というところだった。それが嘘であれば大変なことになる。だから小夜子は、ずっとそのことだけには疑いを持ち続けた。しかし、最後に長倉が残した言葉。
『頼んだ』
小夜子にとって、これは何をどう頼まれたのか不明であったが、間違いなく友人としてのお願い――頼んだ、であったと、小夜子は感じた。文人――所長を心から心配している友達の声だった。
「はい。頼まれたす……!」
長倉との練習で開錠された引き出しを見つめ、わずかな逡巡のあと、小夜子は一気に引き開けた。
そこには予想通り、所長がいつも眺めている書類があった。古びてはいるが、きちんとファイリングされていて、劣化はほとんど見られない。
小夜子はいくつかのファイルを取り出した。それはよく吟味するまでもなく、すぐになんなのか理解できた。ありとあらゆる新聞の記事、ニュース番組を録画したのであろうディスク型記録メディア、ネットのニュースや掲示板の内容を印刷したもの、果ては警察関係者でなければ手に入らないような、鑑識報告書や捜査報告書のコピー。解剖結果の報告書まである。
これら全て、形式や媒体は違えど、同じ事件に関係するものだった。
14年前に起こった女子高生強姦殺人事件。
被害者:永塚 ハル(17)
第一発見者:永塚 文人(15)
新聞記事などには未成年のため名前の記述は無かったが、警察関連の報告書には、被害者、被害者家族(第一発見者)の名前が写真数枚付きで載っていた。被害者は永塚ハル、永塚文人――つまり所長のお姉さんだった。顔写真をみると、快活そうで如何にもお姉ちゃん、といった雰囲気を持つ少女。誰がいつ撮った写真なのか、非常にかわいらしい笑顔で写っている物もある。一方、第一発見者である永塚文人は、姉のハルによく似た女性よりの顔立ちで、これまた如何にも頼りなさそうな弟、そんな雰囲気だった。
小夜子は意図せず周りを見回し、身震いした。このファイル群から感じる違和感。小夜子は自分の手が、脚が、視界が、この事務所が、この世に存在しているのかと疑問に思うほど、現実感を欠いていることに気付いた。それは、小夜子の脳が受け入れがたい何かを感じたがゆえだろう。
執拗なまでに集められた情報。どんな小さな取り扱いだろうと、ピックアップしてファイリングされている。現場に自らおもむいて調査したと思われる書類もある。
だが、それだけならば――まだそれだけならば、探偵という調査業の性質上、異様だと完全否定はできない。
小夜子がもっとも違和感を覚え、そして異常だと感じ、恐怖に駆られた事実。それは――、
これだけの情報がかき集められ、更には14年経ったにも関わらず、犯人が捕まったという記事や報告書が一つも無いのである。
「所長は、まさか犯人を…………今でも――」
小夜子の声は、小夜子自身、まるで現実味を感じないまま事務所で反響した。
◆
私は深夜の公園から真っ直ぐに帰宅し、睡眠導入剤を2錠ほど飲み下して泥のように眠った。薬の力でも借りないと、浅い眠りの中で悪夢でも見そうだったからだ。
朝は思ったよりも早く目が覚めた。かといって寝不足感があるわけでもなく、スズメの鳴き声を楽しむ余裕さえあった。昨日の晩、あの少女はなんだかスッキリしたと、そう笑ってみせた。それは、私も少なからず同じだったのかも知れない。
姉さんの事件に関して、私は忘れたわけではないし、忘れるつもりもない。忘れようがない。だが、少しだけ前向きな気持ちになっているようだった。それが諦めや開き直りに近いものである気がしてしまうが、私は考えないようにして身支度を整えた。
オンボロのマイカーに乗り、事務所へ到着したのは7時頃。なんの案件もないのに、こんな朝早く事務所へ来るなど、開業したての時期を思い出してしまう。
事務所への階段を上りながら、小夜子の気落ちした顔、じとじと睨みつけてくる顔、それらが頭をよぎり、苦笑してしまう。小夜子が来る前に、またプリンでも買いに行こう。
鍵を開け、事務所に入ると妙な光景が目に入ってきた。ソファでうずくまっている小夜子がいたのだ。高級な墨汁を流したかのように滑らかな長髪が、床に緩やかなカーブを描いている。初めて小夜子に出会ったあのゴミ捨て場。等身大の日本人形でも捨てられていたのかと思った、あの夜を思い起こさせられる光景だった。悪い夢でも見ているのか、小夜子はしかめっ面で眠っている。寝息は穏やかなので、特に身体への致命的な損傷はないだろう。
私の事務机は綺麗に整えられてはいるが、最後に見た状態とはだいぶ違う。そして、机の脚が床に傷を作っていた。引きずったような擦過傷だ。小夜子の昨日と同じスーツも、少しは払ったのだろうが、埃で汚れている。
明らかに争った形跡だ。だが、屋外ではなく事務所内でとなると、ほぼ小夜子と争った人物は確定する。
長倉のバカだろう。あいつは身内を本気で殺傷したりはしないが、事務机のパソコンとかが壊れたらどうしてくれるのだろう。まったく、小夜子も含め、血の気の多い連中だ。あとで机は自分流に整頓しなおしが必要である。
私は無理に小夜子を起こさず、目が覚めたときに飲めるよう、コーヒーを淹れ始めた。少しヌルめが好みだったはずだ。砂糖1個にミルク有り。私の粗相で振り回してしまった侘びもこめ、普段はあまり使わない高級で手間のかかるものにした。
私がコートをハンガーにかけ、二人分のコーヒーを給湯室から持ってきた頃、小夜子はむくりと起き上がった。しょぼしょぼした目を擦りながら、「いい匂いすね」と小さな声で言った。
「あぁ、高級なほうを淹れたから美味しいはずだよ」
「あざます」
小夜子はお礼と思しき言葉を寄こし、コーヒーカップを受け取った。
私はゆっくりとした動作で、自分のカップを持って小夜子の対面へ移動した。小夜子は、いつも以上に閉じかかった眠そうな目蓋を暖めるように、カップへ口をつけたまま淡い茶色を見つめていた。
「小夜子くんは、木登りが得意なんだな」
「ぶふッ!!」
私の言葉に明らかな動揺をみせる小夜子。正直すぎて探偵失格じゃないかと思ってしまった。
「な、な、な……ッ!」
「いくら話の聴こえる範囲に隠れられる場所がないからって、木に登るはどうかと思うよ」
「な、な……なんのことすかッ!?」
ここで挫けずにトボけるなんて衝撃的だった。
「髪の毛に葉っぱが付いているよ」
私が小夜子の頭髪を指差すと、慌ててふん掴み、「こ、これは朝ごはんにと思ってぇッ!」と、食べようとしてうな垂れた。
斬新すぎるトボけかただ。大丈夫だろうかこの子。
「いいよ、気にしなくて」
私はできるだけ優しく言った。小夜子は巻き込まれただけ、正確には、その好奇心の強さゆえに首を突っ込まざるをえなかった。それを知っていながら、強く釘を刺さなかった私にも落ち度がある。
「すんません。じゃ一個だけ……聞いてもいいすか?」
小夜子は珍しく目を見て話さない。いつもならば、的のど真ん中を射る矢のような目をするのだが。
「なんだ?」
「所長は今――、じゃなくて……んと、
小夜子は頭をぽり、と一掻き、
あの子を………助けたかったんすか?」
消え入りそうな声で言った。
あの子とは、昨晩会った長浜の愛人のことだろう。
「んー、…………たぶん、違う」
小夜子はこれまた珍しく背を丸めている。
「そうなんすか……」
「あぁ、たんなる気まぐれだ。小夜子くんには深い入りするなと言ったくせにな。私は……ダメだな」
「そんなこと、ないすよ」
いつも元気な小夜子。落ち込んだ顔はあまり見たくないものだな。
「それにしても惜しかったな、小夜子くん」
急な話題転換に驚いた小夜子。コーヒーを口に含んだまま、「ん?」という顔をしている。
「ある先輩探偵が、後輩探偵に言った面白い言葉がある」
「ほほう?」
興味深そうに小夜子の眉毛が持ち上がった。
「私を尾行し、調べられるのならやってみろ。それができたのなら一人前だ、と」
「ほほう!……ほほう!」
小夜子はフクロウにでもなってしまったのかも知れない。妙な鳴き声を上げている。
「対象の真横に生えている木に登っちゃう小夜子くんは、どう考えても不合格だな」
私を尾行して先回りをした上に、少女に気付かれることなく木に登る。探偵というより忍者みたいだ。
「…………そ、そすね。はは、は」
小夜子は少しだけ、困った顔で笑ったのだった。
◇
家に帰っていないらしい小夜子が、事務所の簡易シャワーを使っている間に、新しい仕事が舞い込んできた。なんでも、買ったばかりの犬が飼い主に噛みつき、逃走したのだと言う。大方、つけられた名前が気に入らなかったのだろう。しかし、ペット捜索は専門外だったので、私は知り合いのペット探偵に話をつけた。餅は餅屋というわけだ。彼らは犬を探すときは犬に、猫を探すときは猫になる。もちろん比喩なのだが、電柱へマーキングの真似事までするのだから、あながち大間違いってことはないだろう。手伝えば、紹介料ということで少し料金を回してくれるらしいので、私は俄然やる気だった。
「新しい仕事すかー?」
シャワー室の方から小夜子の声が聞こえてきた。
「あぁ、ペット捜索の手伝いだ」
「ええぇー……」
小夜子は俄然やる気がなかった。
「働かないと事務所のドアとテーブル代が稼げないよ?」
「…………つまらん。所長の話はつまらん」
私は一度マジで怒ったほうがよいのかも知れない。
そんなどうでもいい会話を小夜子と繰り広げていた緩やかな朝、突然の闖入者が現れた。
ドアが急に開いて、制服姿の女の子が事務所に飛び込んできた。あの少女だ。
「探偵のオジサン!」
「な……!」
背中に冷たい汗が流れた。とても動揺していることを私は自覚した。連絡をくれてもよいとは言った、だが突然訪ねてきてもよい、とは言っていない。
「いぇーい!!」
少女は私の顔を見て、とても嬉しそうに飛び跳ねている。なんだ? いぇーいってなんだ? どうすればいいんだ。
「……速やかに帰れ。学生が出入りするようなところではない」
私が邪険に扱っても、モノともせずに詰め寄ってくる少女。調査対象の浮気相手であるところの少女が、調査を請け負う探偵事務所に出入りしているなんて、誰かに知られたら沽券に係わる。
「お願い!」と目の前で少女は私を拝むように手を合わせた。
「なんだ?」
あからさまに不機嫌な顔をしてみせたが、どうやら少女は気付いていない。話を聞かない誰かに少し似ていた。
「エンコー止めたしさ、私を助手にして!」
「はぁぁぁあー!?」
私ではない。私が声を出す前に、シャワー室の入り口から小夜子の大音声が響いた。
「ちょっと!! 助手は自分一人で十分すよね所長!?」
小夜子はインナーの白いブラウス一枚で飛び出してきたように見えた。一瞬ヒヤッとしたが、下着の上に穿くショートパンツらしきものも身に付けていたので、私はホッと胸をなで下ろした。いやちょっと待てこれはこれで――。
「オジサン! 聞いてんの!?」
「所長! 聞いてるすか!?」
頭の痛くなる一日になりそうだった。私は煙草――希望を口にくわえてジッポーを鳴らした。
小夜子を雇ってから、この事務所はずいぶんと騒がしくなった。このまま、私の暗い希望など吹き飛んでしまえばいい。キャットファイトを背中で聞きながら、私は煙草の煙に目を細めた。
「所長!」
「オジサン!」
顔に濡れタオルがぶつかってきた。さすがにこれは姦し過ぎやしないだろうか――。
どうしたものかと、私は火種が消えてしまった煙草を見つめて、大きな溜息を吐いたのだった。
―― 次話へつづく ――
最後まで読んでくださった皆様へ。
ありがとうございました!
次話は、新しい依頼がきます。わだかまりを抱えつつ、二人の奔走はまだ続きます。
次話以降もお暇があれば、ぜひまたお越しください。




