3.乙女の秘密
コンビニから帰った所長は、ずっと浮かない顔をしていた。まあ、お客さんが来たとき以外はだいたい湿っぽい顔をしているんだけど、いつにも増して酷い気がした。私はまだ未熟だし気も利かない。だけど、気落ちしていることくらいは分かるし、少しでも助けになりたかった。
原因はコンビニで、もしくは往き帰りで会った女の人だと思う。私が給湯室へ行っているあいだに電話していたのも、たぶん同じ人だ。所長は険しい顔をして、私の接近にも気付かなかった。人の気配に敏感な、この所長が、だ。
だから私はたずねた。
「女すか?」
怒ったような口調になってしまったけど、ホントに怒っていたんだから仕方ない。所長の元気を奪ったのはどこのどいつだ……? さっき電話してきた女なのか……と。
所長は「小夜子くんには関係のないことだ」と、私を突っぱねた。所長はポーカーフェイスが得意だ。営業スマイルだって得意で、仕事のときは別人のようになる。長浜夫人への対応も、哀愁ただよう微笑と、沈痛な面持ちをうまく使い分けていてビックリした。詐欺じゃないか……と思ったのは秘密です。
それが今はどうだ。眉根を険しくよせ、伏目がちに古い書類を眺めている。読んではいない、心ここに在らずだ。それどころか、煙草を反対にくわえてみたり、それに気付かず火を点けて瞠目してみたりと、おかしな挙動ばっかりだ。私の皮肉にちょっと動揺する、いつもの可愛らしさの欠片も見あたらない。
たまりかねて私は、拳を握って立ち上がった。
「所長――」
「小夜子くん、今日はあがっていい」
私の声など聞こえていなかったみたいで、いきなり遮られた言葉は気勢を失った。握り締めた拳の力は、いくばくか私の右側で揺れ、果たしてゆき場所を失った。
「そ、そすか…………大丈夫なんすか?」
「あぁ、今日はもうやることはない。帰っていいぞ」
「そういう意味じゃないんすよ!」という爆発的なものは、なんでだか私の中で圧殺され、「お疲れ様でした……」と嫌になるくらいのふて腐れた声が出た。口まで尖っていて、自分でも少しビックリした。
私は事務所のドアを閉め、薄暗い廊下を歩いた。じりりじりり……と明滅をくり返す蛍光灯は、まさしく私の胸で瞬くイライラとした感情そのものだ。
あの古びた書類。いつもカギのかかった引き出しにしまってあり、思い出したように取り出して眺めている所長。
そうだ。眺めている。所長は読んでいない。文字を目で追ってすらいない。何度も読んで手に馴染み、もう読む必要すらなく、それでも手に取らずにはいられない。例えば運転免許証のようなものか。そこに書いてある文字なんて読まなくとも、たびたびの更新を欠かさなければ、立派な証明書になる。
所長はいったい、なにを証明しようというんだろう。
所長が探偵になった理由と保管してある古い書類。所長の険しい顔を媒介にして、この二つが私の頭の中で曖昧な繋がりをみせた。言動、行動、状況、空気などのピースが、白い光の線で結ばれてゆく。これだ、という予感。理路整然とした説明なんてできない。それどころか言葉にすらならない。それでも、これが正解だという予感。脳みそが冴えている証拠だ。
私は思考を巡らせつつ事務所ビルの階段を下りた。ラスト一段を強く踏みしめて、自宅へと向かった。
★
「お前、探偵にはなれないな」
美術教師が私の絵を見て、なんの前置きもなくそう言った。正直、絵の評価とは思えず、なんなのかさっぱり分からなかった。不意打ちだったのもあって、私の目蓋はシパシパと大げさな目弾きをした。
「ん…………ん? どういう意味すか?」
「そのままの意味だよ。お前は探偵になれない」
変わり者で有名な美術教師は同じことをくり返えした。
――なんなんだ?
そう思ったとき、私の中で火花が散ったように感じた。溶接などの職人が放つ火花ではなく、粗暴に打ちつけられた鉄骨が、コンクリートとの衝突と摩擦で吐き出す粗野な火花。むかし父親と観たアクション映画を断片的に思い出した。
「そうなんすか。んむ……まぁ、自分、探偵なんて興味ないすから」と、私は美術教師の言葉を軽く流して、深く考えることはしなかった。
美術教師はそんな私に何を言うでもなく、次の生徒の絵を見に行ってしまった。
嫌な感じだった。
教師の言葉や態度が、ではない。自分の背中を駆け上がり、まるで髪の毛を逆立てようとしているような、そんな何かがだ。なんだろうこれは。
ぢりり……!ぢり……!と、また火花が散った。
私は自分の描いた絵を眺めてみる。花瓶に立ててある花の絵。上手くもないが下手でもない。我ながら普通の、一般高校生が惰性で描いたレベルの絵だった。
「自分の絵、なんかおかしいすか?」
私は隣に座っていた、話し慣れない女生徒に聞いてみる。自分では気付いていない何かがあるのかも知れない。
「え? 別に……普通じゃない?」
「そうすよね……」
ちなみに、その女生徒の絵も普通だった。
そんな会話をしていたが、私はすでに美術教師の言葉なんて片隅に追いやってしまっていた。それよりもあの火花はなんのか。その正体が判然としなくて、私は少しイラついた。イラついている、と自覚した自分にビックリした。
昼休みになり、私は屋上に足を向けた。イライラを刻み込むように階段を踏みつけて上った。いつもなら、友達と教室でお弁当を開いてるはずだ。でも、でも今日の私は少しおかしい。美術の時間に感じた苛立ちが頭を支配していて、これじゃ友達に迷惑をかけてしまうと思い、季節がら人の少ない屋上へ行くことにしたんだ。
予想どおり数人の生徒がいるだけだった。髪の毛を染めたガラの悪い男女数人が、私を見て薄ら笑いをうかべている。それを努めて無視し、私はお弁当を持ってフラフラとフェンスに近づいた。
フェンス越しにグラウンドを見下ろしてみる。何もこみ上げてくるものはない。親の勧めで入学した高校の、だだっ広いグラウンドがあるだけ。せいぜいが高いな、広いな、という平凡な感想しか出てこない。
ぢッぢりりッ……と、またしても火花が散る。
私はこんなのっぺりとしたグラウンドを見下ろすために、美術教師に意味の分からない台詞をぶつけられるために、毎日1時間もかけて通学していたのか……?
奥歯を力いっぱい噛みしめてみても、空が、雲が、風が、太陽が、フェンスが、足元のコンクリートさえも、私を馬鹿にして笑っている。そんなはずないのに、そう思わずにはいられない。そんな自分に、より一層イライラがつのる。
ホントに、なんなんだよ。
その時点で、こんな苛立ちを呼び起こした美術教師に『大嫌いだ』というレッテルを貼った。
私は空腹が苛立ちを加速させているんだと、とりあえずお弁当を食べることにした。コンクリの上に腰をおろしてお弁当を開くと、母親に習った通りの料理が並んでいる。昨日の晩の残りと、今朝作ったものだ。綺麗に、美味しそうに出来ている。
ぢりぢりぢりッとまた火花。
「なんだよもう!」
苛立ちが怒りに変わる。
私はお弁当を反対側のフェンスに投げつけた。当然、お弁当はぐしゃぐしゃになり、食べ物ではなくなった。怒りの残骸。
ぢ、ぢぢりッと火花が瞬いた。いま気付いたことだけど、その火花は青い色をしている感じだった。もう少しで、なんなのか解るような気がした。
私はグロテスクになったお弁当を横目に、午後の授業に向かった。怒鳴り声が聞こえた気がしたんだけど、そんなことは些事だ。
正直、そのあとの授業の内容など全く頭に入ってこない。今までは真面目に話しを聞いて、理解できなかったら質問して、ノートを写して、復習して、予習して……。
暗闇で散発的に跳ねる火花は、青白い光を増してきていた。明日になれば、治まっているかも知れないと、私は怒りを賢明に抑えて時を過ごした。
授業の終わりを告げるチャイムさえ苛立たしく感じる。そんなことは初めてだった。友達との会話もおざなりに、私は逃げるように自宅へ急いだ。筋トレして、お風呂に入って、布団にもぐれば、きっとよくなる。弓道をやっていたときもそうだった。辛いこと、嫌なことがあっても、筋トレして、矢をそえて弓を構えれば、もう邪念は消え去ってしまう。だから急いで――。
前のめりになっていた気持ちが、足元に転がってきた残骸に押しとどめられた。怒りの残骸。私が投げた捨てたはずの弁当箱。
私はそれを軽い動作で跳び越えると、ゆっくり脚の回転を停止させた。
「お前、ちょっとこっち来い」
どこから出てきたのか、髪の毛を染めた男子が私を呼びつける。知り合いではない、話したこともない。弁当箱が気になったけど、とりあえず帰ることが今の最重要事項なんだ。だから私は弁当箱を拾って、また帰路を急いだ。
「この……! こっち来いっつってんだ!!」
怒声に思わず顔を上げた先にいた別の男子。横から私の首を腕で押さえつけた。溺れた人を救助するあの姿勢だ。雰囲気は真逆だけど。
「な……ぐぇ……、なんなんすか!?」
バタつく脚を女子二人が掴み、私はあっという間に路地へ引きずり込まれた。怖くない、とは思わない。帰らなければ、というのも最重要ではなくなった。それよりも、ずっとずっと気になることがあった。
この人たちはイライラして、限度を超えて怒っている。四人とも怒っている。
私も怒っている。イライラして、なんなんだか解らなくて、すごい怒っている。
怒りは当然の感情。イライラしてもいい。反抗したって構わない。そうなのかな?
そうなんだよ。だって五人も人間がいて、全員が怒りに身を任せてんじゃないかよ。そうだよ。なんだか解らなくても、頭にきたら怒っていいんじゃんか!
「おい……こいつ、なんかおかしくねぇか?」
「まあ、背高すぎだよね」
「脚もどんだけ長いんだっての……ムカつくわー」
「そういうことじゃねぇよ……なんか笑――ってオイぃ!」
私のパンチは空振りに終わった。無理な体勢からだったし、当たるとは思っていなかった。とりあえず首から腕を外してくれた、それで目的は達成できた。
「この女ぁ!」
男子の一人が大振りのパンチを放った。弓道で培った目は衰えていない。パンチ、という表現で合ってるよね? 少なくとも正拳突きではないよね、なんてことを考える余裕もあった。
はずなんだけど、一発目を避けたあと、その先で待ち構えていた男子に脚を払われた。私は仰向けで宙に浮きながら、そうかケンカは試合じゃないんだ。ましてや一対一でもない、そう思い至る。
身体の筋を痛めることを覚悟して、私は急激な横スクロールで無理やりに着地。私を払った脚をすぐさま掴んで、壁に自分ごとそいつを叩きつけた。私の頭がそいつの顔面へ派手に衝突。これは頭突きというのかな。
「お……お前、な、なに……!」
最初にパンチしてきた奴が何事かを言い終わる前に、私は声の位置からして、さっきの場所から動いてないと予想した。だから私の壁(鼻血を流している男)を押して、勢いのついたキックは見事に相手へ激突。予想外だったのは、左足でキックするはずが、勢い余って一回転してしまったこと。つまり右足かかとでの回し蹴りが、相手の鎖骨に当たった。あと、自分の頭と足もすごい痛い。
勢いよくぶつけ、ぶつけられているんだから、自分も相手もそりゃ痛いよな。もし同じ痛みなら割に合わない、というか不毛だ。
そうかケンカは割りに合わないんだな、と思い至ったときには女子二人が消えていた。ほんの数秒間の立ち回りだったけど、これまでに覚えのない濃厚な感覚に満ちた、そんな数秒間だった。
余韻が去り、我に返った。血とうめき声に沈んでいる男子が二人。それを見下ろしている私。完全に私が悪党みたいだった。
「ヤ、ヤバーいす……」
☆
私は警察署にいた。
留置所とか、取調室とか、小説かドラマみたいな場所に連れて行かれるんだと思っていたけど、普通の会議室に通された。手錠もかけられてなくて、女性警官さんが緑茶まで出してくれた。予想外に話もきちんと聴いてくれた。てっきり、問答無用で眩しいライトを当てられるんだと思っていた。まあ、少年課の刑事さんには「やり過ぎだろ…お前」とすごく怒られたけど。
私の処遇については、自首(?)してきたことと、怪我人のために救急車を呼んだこと、そして事は向こうから起こしたこと、等々により温情を受けた。
男子二人は病院に運ばれ、手当てを受けているようだった。重症ではないけれど、軽症でもないみたい。私の頭もかかとも、じんじんと痛むので、彼らはもっと痛いだろうな、とちょっと落ち込んだ。彼らの親御さんが、学校や然るべき機関に訴えたりしたら、私の高校生活は台無しだろう。でも、まあ、なんというか……そうなったらそうなったで、その現状で精一杯やれることをやればいいか、なんて、少し開き直りに似た爽やかな思考が巡っていた。
今は父親が引き取りに来るのを待っている。品行方正であったらしい私が、初めて門限を破り、あろうことか暴力沙汰を起こして補導。父親は腰を抜かし、母親は襲撃者の家に殴り込む準備を淡々と始めたらしい。どうやら肝が据わっているのは、普段は物静かな母さんのほうみたい。
私が刑事さんに無料でカツ丼は出さない、と教わってビックリしていると、父親が到着した。
「カツ丼って、無料じゃないんだって……」
私は元気であることをアピールしたが、父親は大きく溜息を吐いた。溜息の重さで床が沈んだらどうしよ、と思うくらい大きな溜息だった。
「小夜子……」
私はこんな小さい父さんを見たことがない。実際の質量はすごいんだけど、岩石みたいなんだけど、そうじゃくて。『しゅん、となる』という表現を本なんかでたまに見かけるけど、あれは本当に『しゅん』なんだな、と思った。
父さんは近くまで来ると、私の顔付近まで手を持ち上げた。一瞬、叩かれるんだと思って身体に力を入れたけど、父さんの手は私の頭にのった。でっかい手だった。あっつい手だった。ゴワゴワした手でグリグリするから痛かったけど、自分が安心していくのが分かった。
「一まず怪我がなくてよかった……。襲ってきた連中は許せんが…………まあ、お前が返り討ちにしたから良しとしよう」
母さんも重装備で出かけたしなあ、と苦笑する父さんの目。優しい笑顔で父さんは笑っている。父さんはこんなに優しい目をしていたんだなあ、なーんて、今頃になって気が付く。今度からもっと周りを見なくては駄目だ。大事なことを見失わないように……。
「小夜子は母さんに似たんだなあ……」
なんと反応していいやら、妙なことを父さんはつぶやいた。
「とりあえず、背が高いのは父さんに似たよ。母さんはちっちゃいし」
私はそう言って笑った。
そして、色々な手続きを済ませ、私と父さんは帰路に着いた。
帰り道、襲撃者である男子生徒の家に殴り込んだ母さんから連絡があった。相手方は「よくやってくれた!あのクソガキ共にはいい灸になったろうよ!」と、ずいぶんと豪快な人たちだったらしい。だから、私はお咎めなしであるはずだったんだけど……。
「弁当箱?」
電話中の父さんから、そんな怪訝そうな声が聞こえた。
私の顔から血の気が引いていった。お弁当を捨てたことがバレたんだろうか。戦々恐々と、でっかい父親を見上げる。
「小夜子ぉ……」
「ちょっと待って!それには訳がぶッ――!」
私の言葉なんて届かなかった。あの男子生徒たちなど足元にも及ばない、速度と重量を持った父さんのパンチを左頬に受けた。私は地面をもんどりうちながら理解した。あの胸の火花を。そうだったんだ、これは――。くそオヤジが!!
★
後日、解ったことが三つあった。
私は、胸に生じ始めた火花の正体を理解した。それは『反抗』という名だった。青白くきらめいていた火花は、私に眠っていた燃料に引火し、青い炎に変わった。音を立てて燃える青い感情。ようやく私は、私自身を手に入れた気がした。
そして二つ目。
警察署からの帰り道、父さんは私を殴った。あの父親はすぐ殴る。私がなにか図らずも悪さをしてしまった場合、言い訳する間もなくパンチされる。そして、よくよく考えると、自分が悪いことしたんだと気付かされる。口で言ってくれればいいのに、いきなりパンチするとか実に父さんらしい。傷痕が残らないあたり手加減――というか特殊なパンチ(?)なのかも知れない。
つまり私は、何かしら悪さをしでかした可能性が高い。最初はお弁当を捨てたことかと思ったけど、どうも違うような気がした。特に怒られるのは、人様に迷惑をかけてしまったときだ。もちろん父親が全て正しいということもない。今の私ならそれがよく分かる。でも、あのパンチには確かな正論を感じた。
だから私は色々と調べた結果、再び屋上へ来た。あの襲撃に参加していた女生徒に会って話をしたかったから。また屋上にくるとは限らなかったけど、他の用事もあったし、私は屋上で彼女を待った。
やがてやって来た彼女は、私を見るなり青くなった。「――ッ!」声にならない悲鳴を上げながら、彼女は慌てて逃げようとして転んだ。
「ダイジョブすか?」
私は彼女に手を差し出し、なるべく優しく声をかけた。彼女の瞳は、怯えの色から怒りへ、そして虚勢の色へと移ろいだ。私の手を払い、彼女は立ち上がった。
「お前、自分が最初に手を出したんだって分かってんの?」
「へ?」
衝撃的な事実に、私は呆けてしまった。
私が投げた弁当箱は彼女たちの近くに転がり、中身が飛んできたという話だった。己がいかに周りを見ていなかったか、『洞察力』の足りなさを痛感した。足りない、というレベルではないかも知れないが。
とにかく、私は三つ指をつき、額がコンクリで擦れるほど謝った。我ながら凄まじい土下座だったと思う。他の三人にも謝りに行こう。殴られても、父さんのパンチよりは効かないはずだし。
「ごめんなさい!!」
私の土下座に、彼女が身じろぎしている雰囲気が伝わってきた。私は声のボリュームを更に上げて謝る。
「ごめんなさ――」
「かっこいい……」
「へ?」
再び私は呆けることとなった。全力で土下座している私を見下ろし、彼女は何故だか格好良いという。
「ゆ、許すからさ、あの……」
彼女は言いにくそうに口ごもる。瞳の色は恥じらいに変わった。一体なんだというんだろう。
「許すから……さ。と、と、と……友達になりませんか!!」
謝罪する私の声よりも大きな、好意の大音声だった。彼女は目をつむり、顔を真っ赤にして右手を差し出している。それはなんだか違う気もしたんだけど、私は苦笑いを浮かべてその右手を掴んだ。
栗色のボブヘアが似合う新しい友達ができた。本名は別にあるんだけど、私は彼女を『栗子』と呼ぶことにした。栗子は「なんだよそれ」、と少し不服そうだったけど、とても楽しそうだったから問題ないんだと思う。
「あんな綺麗な土下座なんて初めて見たよ」
「そ、そうすか。あは……はは」
苦笑いの私へ、栗子は照れくさそうな笑顔を寄こして屋上を後にした。
そうして、私はすっきりとした気持ちで眺めていた空から、視線を地上へ転じた。屋上のフェンス越しに眺めたグラウンドはすごく熱い。放課後の部活にいそしむ生徒の熱気で、陽炎でも見えそうなくらいだ。まだ夏には早いのに、太陽だって応援していた。私の髪をなでる風も、もう少し彼らに涼しさを届けてあげたらどうだろう。
不意に屋上のドアが鳴った。それは誰かが屋上へ来た証だ。
振り返った私の前に、三つ目の答えを提出すべき男が現れた。光の射し込まないカビ臭い階段への扉が、不気味な鳴き声で閉じられた。
「いい天気だな」
のん気なことを言うこの美術教師が、放課後の屋上で絵を描くことがある、それは調査済みだった。問題は不定期だということで、私は四日間連続で屋上へ足を運んでいた。そして、三日間連続で夕暮れを眺めて帰ったことになる。
「長浜センセ」
私は待ってましたと睨みつけた。
「……なんだ?」
長浜というその美術教師は、困った笑いをみせながら私に近づいてきた。中性的なようでいて、眉毛がぶっとい、なんだかちぐはぐな顔。
「解ったすよ。センセが自分に、探偵にはなれないって言った意味」
「さあ、そんなこと言ったかな」
薄く笑う長浜の顔は、完全に憶えている顔だった。
「見比べてみたんすよ。自分の絵と、隣の子の絵。正直、その子の絵も巧いとは思えなかったすが、センセに探偵うんぬん言われたのは自分だけだった」
「なるほど。それで……その心は?」
余裕ぶっている長浜が気に食わない。私の中で、あの青い炎が勢いを増した。燃料は底知らずで、いつまででも燃えてくれそうだった。
「自分の絵には模様がなかった」
「…………」
長浜は無言で続きをうながした。
「自分は昔から、話を聞いていないとか、視野が狭いとか、そういう風に言われてたんすよ。ん、まあ……実際そうなんすけど……なんていうか、花瓶に立ててある花を描け、と言われたら花をメインにしちゃって、他のもの――花瓶とかはあまり見えなくなっちゃうんすよ。だから、花瓶の模様を描いてなかったんす」
私は言いながら、恥ずかしさのあまり頭をかきむしりたくなった。
「そうだな。視野が狭く、洞察力もない。集中力だけはムダにあるようだがな」
「む…………。だからって、探偵に例えることないじゃないすか。分かりにくいすよ」
長浜はイーゼルを立てながら、「それくらいも分からなかったら、探偵なんて無理ってことだよ」と腹の立つ笑みを貼りつけて言った。
「どうすか?」
私は負けじと不敵な笑みをうかべ、長浜から視線をそらさない。
「……なにがだ?」
「自分、探偵になれるすか?」
「無理だな」
長浜は即答した。
思わず握った私の拳を、「殴らないでくれよ」と指差す長浜。それでも、爪が食い込むほどに私は拳を握る。それは私の意志だ。固い意志。私の両側で行き場所を探して震える。
「く……なんですか!? なんで探偵ダメなんすか!?」
長浜はキャンバスをコンコンと叩いた。
「どうして君は三日間も待ちぼうけていたんだと思う?」
愕然として声も出せない私を見て、長浜は憎たらしい笑顔でとどめを刺す。
「そこのフェンス側、職員室から丸見えだよ」
「……………………」
こいつは嫌いだ。やっぱり嫌いだ。大嫌いじゃ足りない。超嫌いだ!!
「お、おいおい。暴力はダメだぞ」
長浜が少し怯んだ私の両拳、それを天に届けと振り上げた。ぶぅん……と風を切る音と共に、少し足も浮いた。
「ぜっっったい探偵になる!!」
その大音声によって、気焔を上げて燃えさかる反抗という名の炎。
将来は探偵になる。
両親など、周りの消火活動をモノともせず、未だその炎は燃え続けている。
私が所長の事務所に入った経緯とかは、また別の話。
★
所長は「いまが反抗期か」と言ったが、厳密には違う。あの時から私は、ずっとずっと反抗期。
「なにがあったんすか、所長……」
私のつぶやきは、秋の寒風にかき消された。
―― 次話へつづく ――
最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございます!
次話から時間軸が戻って、所長と小夜子の奔走が再び始まります。
お時間がありましたら、ぜひまたお越しください。