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HOPE&PEACE  作者: 麻婆
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2.探偵は少女で夢をみる

 私の事務所から二つ線を乗り継いだ街のファミレス。ドリンクバーを頼んで座った窓際の喫煙席はさほど混んでいなかった。私と同じく煙草に依存して、明日を呪う人間不信者共が数人いるだけだ。もくもくと吐き出されている煙草の煙が、それぞれ人の想いを形にして現れたら、さぞ面白いだろうな、と想像してみる。が、すぐにそんなのは嫌だな、と考えるのをやめる。

「懐かしいなぁ、この店」

 対面の小夜子は店内を見回して呟いた。店のそこかしこに存在する、懐かしい思い出を探すように。

「昔は良く利用していたということか?」

「そうなんすよ。目の前の高校、自分の母校なんす」

「そうだったな」

 それは履歴書を見て知っていた。禁煙席では学生が退屈そうにモラトリアムを享受していた。

「喫煙席に座るのは初めてっす。良くここで友達とお喋りしたなぁ」

 遠い眼をして懐古する小夜子。

「どんな話しをしていたんだ?」

 調査対象が現れるまでの数時間、少しばかり小夜子の昔話を聞いてみることにした。小夜子に友達がいる、それに驚いたことは口にしないでおこう。怒らせたらパンチが飛んできそうだ。

「平凡なもんすよ。誰が誰を好きだとか、そういう類の話しっす」

「青臭いな。聞いているだけで恥ずかしくなってくる」

「ホントすよ! よくあんな盛り上がったもんすよ。自分はだいたい聞いているだけでしたけど」

 少し照れくさそうに頭をかく小夜子。そんな平凡な高校生だったが、今じゃ怪しい探偵の下でバイトなんかをしている。世の中どう捻じ曲がるのか分かったものじゃない。小夜子を捻じ曲げたどこかの誰かに説教してやりたくなった。しかし曲がった先で、正すこともなく引きずりこんでいるのは私である。自分のことを棚に上げるのは得意であった。

「所長はどんな学生だったんすか?」

 小夜子の昔話から私の話しへすり替わった。さてどうしたものか。

 私は勿体つけるようにジッポーを鳴らし、煙草に火を点けた。煙の向こうにかすむ小夜子の気だるげな瞳に、持ち前の好奇心が宿る。灰皿に煙草でリズムを刻んでから、私は苦笑いをうかべてこう言った。

「昔のことは忘れたよ」

「なーにカッコイイと思ってるんすか」と笑う小夜子。

 別に思っちゃいなかったが、否定するのも面倒なので放って置いた。

 それから長い時間、黙って外を眺めていた小夜子が「ところで所長。このファミレスで張ってるって事は、調査対象はそこのガッコの教職員なんすね?」とファミレスに入って、私が十本目の煙草に火を点けたころ、どうでも良さそうに尋ねてくる。

 小夜子の言う通り、調査対象は小夜子の母校の教師だ。生徒の鏡たる教師に浮気の疑惑が上がるとはなんとも嫌な気分だった。だが所詮は人の子。しかも、私の勘からすると今回は黒だ。

「その通りだよ」

「そうすか……。自分、センセは結構好きでした」

 それは嫌な仕事になるかも知れないな、と少しだけ小夜子に同情した。

「名前はなんて言うんすか?」

 私はビジネスバッグから、フォルダに入れてある書類を小夜子に差し出す。

「長浜……」

 その名を見つけた瞬間の小夜子の顔は、父親が殴りかかってきた時よりも驚きに彩られていた。そのくせ、声は通夜の出席者のように押し殺されていた。『乙女の秘密』とやらの核心に迫るものがあったのかも知れない。

「長浜センセすか……。そうすか……ふーん」

 小夜子の顔が(かげ)る。

「好きなセンセか?」

「んーん、超嫌いでした」

 私のくわえていた煙草から灰がポトリと落ち、テーブルでわずかに砕ける。私は短くなった煙草を灰皿へ垂直に押し付けた。そして、残りのメロンソーダを飲み干して席を立つ。支払いは事前に済ましてあった。

「時間だ小夜子くん」

「了解す」

 小夜子も冷めたホットコーヒーを飲み干して立ち上がった。外はすでに夕景へと姿を変えていた。


 長浜洋介(ながはまようすけ)。三十八歳。子供無し。高校の美術教師。細身で中世的な面立ちをした男。しかし、その太目の眉からはっきりと男性を感じ、どこかちぐはぐな印象のある男だ。この数週間で穴が開くほど見てきた顔だ。

 私と小夜子は夕方の雑踏へと紛れ込んだ。今の私達の格好は汎用性の高いスーツ姿だが、その街によってはスーツ姿というのは目立つことがある。私は色々なバリエーションの服を事務所に用意してあり、出かける街によって使い分ける。あえて一度も洗濯せずに着古して汚れた服も役に立つ。何事も目立たないことが探偵の基本である。尾行相手に振り向かれたら、それでお終いだからだ。

 しばらく他愛も無い会話をしつつ、長浜の歩調に合わせて、見失わない程度の距離を開けて尾行していった。尾行の基本は二人一組だ。他の探偵に頼むこともしばしばある。本来であれば、小夜子に別角度から尾行させるのだが、まだ単独で行動させるわけにはいかない。単独で行動できるようになれば、嘘っぱちの熱意に騙され、小夜子を雇ってしまった失敗も返上できるというものだ。


 長浜はあくびをかみ殺しながら歩いている。大抵の人間は、まさか自分が尾行されているとは思わないものである。長浜もその内の一人だろう。だからと言って、それが気を抜く理由にはならない。一度尾行がばれると相手は慎重になり、その時点で依頼の失敗はほぼ決まったようなものだ。私達は気を張り詰めて長浜を尾行していった。

「お? 駅に向かう見たいすね」

「あぁ、件のマンションは自宅とは反対方向にある」

 長浜は電子マネーカードで改札を抜け、隣の市が終点の電車に乗った。当然、私達もその電車に乗る。しかし、小夜子の面が割れている可能性があるので、長浜とは別の車両に乗り込んだ。一応、長浜が見えるように連結部に近い席を選んで座った。

 長浜がマンションに行くならば、終点まで行くはずである。小一時間ほど電車に揺られることとなる。

「小夜子くんはどうして長浜が嫌いだったんだ?」

 私は長浜を視界の隅に捉えながら、なんとなくそう問いかけた。

「そうすね……。長浜センセは、『お前はこうだ』って相手のことを勝手に決めつけるんすよね」

「それは大変ウザいな」

「そうすね。更に――」

 愚痴がヒートアップするほど、小夜子は私に身体を寄せてくる。ピッタリ張り付くようにして「聞いてるすか!?」と憤る。顔なんか唾がかかりそうなほど近い。暑苦しかったが、これはこれで愚痴を聞く先輩と、その後輩とのカップルに見えて周囲になじむやも知れない。それから、小夜子の話しを半分に聞きながら終点まで向かった。

 長浜の使用している部屋はマンションの五階だった。角部屋に位置するそこはすでに明かりが灯っていた。愛人が待っているのだろう。

「どうするんすか? 乗り込むんすか?」

 小夜子はステップを踏み、今にも駆け出しそうだった。

「小夜子くん、斜め向かいのマンションの一室を今日だけ借りてある。そこで現場を望遠のカメラで押さえる」

 ニッと歯の無い笑顔を見せた小夜子は「今の台詞、前半だけ聞くといかがわしいすね」と楽しそうだ。

「無理だ」

「ちょ、ちょっと!! 無理ってなんすか! ……って、なんでまたフラれなきゃならないんすか!」

 小さく怒鳴る小夜子を無視して、私は向かいのマンションに入って行った。

 私の借りた部屋はフローリング六畳のワンルーム。もちろん、今日しか使わないのでカーテン以外の家具は一切無い。そこの窓から望遠レンズで数倍化した長浜の部屋を覗く。こちらの部屋は電気を点けていない。辺りはすっかり暗くなったので、明るくて下方に位置するあの部屋からであれば、よほどのことがない限りこちらは見えない。

 長浜の部屋は、見える範囲ではベッドしか置いていないようだ。長浜は誰かとそのベッドで会話をしている。誰かは窓枠に隠れて微妙に見えない。

「所長、この部屋ってどうやって借りたんすか?」

「知人は多い方がいい」

 小夜子は「なるほど」と呟き、私の隣へ座る。

 不動産業からの依頼もあるので、そのつてでこうやって一時的に部屋の鍵を借りることがままある。あとは刑事にも知り合いがいる。そういうパイプは作っておいて損はない。どこかできっと役に立つ。シビアな言い方をすれば、ビジネスの信頼とは、相互利益の上に成り立つものだ。相手が骨を折った場合、のちにこちらが骨を折る。逆もしかり。そうやって歯車は回る。


 長浜の部屋ではまだ決定的な出来事は起きていない。私は携帯灰皿を取り出し、煙草に火を点ける。深く煙を吸い込み、吐き出すと、気分が落ち着いていくのが分かる。煙草を吸っていなかった時は、どうやって気分を落ち着かせていたのか分からなくなった。今では煙草が無いと死んでしまう。張り込みの場所や状況によっては吸えないこともあるので、吸えるときに吸うのが私の鉄則だった。

「自分にも一本下さいよ」

 小夜子はそんなことを言い出す。

「駄目だ」

「そうすか……」

 そういえば父親が帰った後にも、小夜子は煙草の話をしていた。あのときの気落ちした小夜子の顔が、視界の隅でくゆる煙に重なった。

 散発的に会話が交わされるなかでも、私は長浜の部屋から目を離さなかった。窓枠で見えなかった誰かを、長浜は不意に抱き寄せた。今まで見えなかった愛人に対し、私は少なからず驚いた。私にはその人物が高校生にしか見えなかった。何故なら制服を着ていたし、成人にしては顔立ちが幼すぎた。しかし、長浜がそういう趣味で着せただけかも知れない。念のため、別の視点でも確認することにした。

「小夜子くん、ちょっと見てくれないか」

 私の言葉に頷き、小夜子はカメラを覗きこんで嘆息した。

「ありゃりゃ、こりゃ教え子すね。あの制服は母校のもんですし、あの子の雰囲気は確実に子供すね。最悪すねアイツ。激写しちゃいますか?」

 意外に冷静な反応を示す小夜子。探偵になりたい、と息巻くだけあって肝が据わっているようだ。

「あぁ、そうだな。適度に撮ってくれ。でも、本番はもっと決定的な場面になってからだな」

「それはつまり……」小夜子の顔がニタリと悪い笑顔に変わる。歯が抜けていて間抜けな表情だった。「本番てことすね?」

「そういうことだ」

 小夜子は「自分が見ててもいいすか?」と言ってカメラを放さない。私は「あぁ」とだけ言って煙草をふかす。

「しかし所長、これカーテン閉められたら終わりすね」

 小夜子はカメラを覗きながらそう言った。

「あの部屋にカーテンがないことは確認済みだったが、念のための保険も用意してある」

「ほほう……。それはどういった?」

「使うときがくれば分かる。盗聴もしているしな」

 私は片耳につけた小型のワイヤレスイヤホンを突いた。『悪い友達』に借りた超指向性の集音マイクを使っているのだが、防音対策のされた部屋でないにしろ、思ったよりも感度がよい。これは買い取ってもいいだろう。

 小夜子はというと、さすがに驚いたのか口をぽかんと開けて、目蓋をしばたたかせている。

「それ犯罪じゃないんすか?」

「ワカラナイ」

「いきなりカタコトすか! まぁ、いいすよ……」

 小夜子は再び長浜の部屋へ向き直る。

 煙草はフィルター限界まで火種が迫っている。それを携帯灰皿に放り入れて、またジッポーを鳴らして石を擦る。深く吸い、長く吐いた。

「吸い過ぎすよ所長」と窓の外を見ながら言う小夜子。「でも、実は煙草に火は点いていない」と、楽しそうに付け加えられた。

「ほう、どうして分かるんだ?」

「石を擦ったあとに火のつく音が聞こえなかったんすよ。あとは煙草の匂いもしなかったす」

 いい耳と鼻を持っているようだ。これはもしかしたら、なかなかの拾い物をしたかも知れない。特に匂いに関しては、ずっと吸い続けていたので、いくら非喫煙者といえど普通なら匂いに慣れて分からなくなっているはずだ。

「やるな。コーヒー豆でも持っていたか?」

「ふふふ、いいえ。犬の鼻ってよく言われていたんすよ。名探偵っぽいすよね」

「小説の読み過ぎだ」と言って、今度は本当に火を点ける。

 その後、一時間は経過したであろう。さすがに一時間程度の張り込みでは音をあげない小夜子。トイレにも行かず、暖房のない部屋で寒いとも言わず、一時もカメラから眼を離さない。単に面白いから、という可能性もないではない。

 小夜子くんはタフだな、などと思っていた私が、イヤホンからの音で顔を上げると、小夜子がプロレス観戦をしているような歓声を控えめに上げる。

「あーっと、始まりました!」

 私は壁に預けていた背を起こし、窓際に近寄る。確かに男女がうねうねと絡み合っている。私と小夜子は無言でその行為を見つめ続けた。時折、小夜子がシャッターをきる。シャッター音は出ないように改造してあった。

「なんか……こう……、変な……気分になってきたぞ」と小夜子が口走った。

「まだまだ甘いな小夜子くん」

「す、すんません……」

 三十分後。

「おぉ! 合体した!」と小夜子が嬌声を上げる。まるでロボットアニメでも観ている少年のようだ。

「激写だ」

「了解す」

 フラッシュのない無音のシャッターが瞬き続ける。

「顔も写ってた方がいいすよね?」

「当たり前だ」

「ふおぉ……自分、興奮してきたっす!」

 小夜子くんの冷静さにはムラがありすぎるように思ったのだった。



 後日。

 小夜子は朝早くから事務所の整理、掃除をしていた。先日に撮った写真と調査報告書を長浜夫人に突きつけて、「黒です」と言うのは午後からなので丁度よかったと言える。

 私は改めて写真を見ていた。プリントアウトした選りすぐりのものだ。

 裸の長浜が制服を着た少女に覆いかぶさっている。少女の足には自身の下着ぶら下がっていた。二人とも顔がはっきりと分かる。小夜子は写真の腕がいいらしい。

 私は写真を封筒にしまうと、机の上に放り投げる。胸糞の悪くなる写真だ。いくつも似たような写真を撮ったが、今回は特別気分が悪い。少女の幼いながら整った顔が、酷く悲しそうに見えたからだろうか。

「悲しいな」

「なにがすか?」

 私の呟きを耳ざとく聴きつけた小夜子が問うてくる。

「この写真だよ」

「そうすね……」

 ジッポーを乱暴に鳴らすと、私は煙草に点火する。じりぃ……と先端が赤くなり、胸に煙が吸い込まれていく。長く吐いた煙は、忙しく動いている小夜子の眼差しをきつくさせた。どうやらお怒りのようだ。

「所長ー。煙草吸ってる場合じゃないすよ」

「そんなのいつだってそうだろう?」

「なーに真理を得たとか思ってるんすか」と笑う小夜子。

 そんなことは思ってもいなかったが、さすがに一人は可哀相なので手伝うことにした。

「これ吸い終わったら手伝う」

「了解す。あ、前から聞こうと思ってたんすけど……」

 小夜子が箒の動きを止めて私に向き直った。

「なんだ?」

「なんで煙草吸うんすか?」

 私は「うむ」と大仰にうなずいてみせ、煙を吐いて煙草を灰皿に押し付ける。

「格好つけたかった、好奇心だった、最初はみんなそんなものだろう。手放せなくなったときには、理由なんてもうないようなものだよ」

「そうなんすか……」

 小夜子は難しい顔をして「自分が思うに、煙草は吸う物じゃなくて、慰めてもらう物なんじゃないかと……」

「…………」

 言い得て妙だった。

「どうすか?」

「煙草を吸ったことのない奴が言うな」

 小夜子は不満げに髪を揺らす。

「だから吸ってみたいんじゃないすか! 一本くださいよ!」

「駄目」

「けちんぼ」

「なにを言っても駄目」

「コロンボ」

 危うく煙草を渡しそうになった。

 そんな私の動揺をよそに、小夜子は作業に戻る。

 私はと言えば、コーヒーの粉が切れていたなと思い出し「小夜子くん、そこは後でいいからコーヒーを買って来てくれないか。粉末の安いやつで構わない」と、お札を取り出してお使いを頼んだ。

「ふんふふーん――――♪」

 小夜子の耳には全く届いていなかった。届いたのであろうが、反応する気がないというのが正解か。

「ちょっと……コーヒーを買いに行ってくる」

 仕方なく席を立った私は、そう小夜子に告げた。

「ででっでーん――――♪」

 今日の小夜子はいつもよりだいぶ耳が遠いようだ。

 私はコートをはおり、ドアを開けながら「それ良い歌だよな」と知ったかぶりをした。

「そうすよね!まあ、いま考えたんすけどね!」

「で、ですよね……」

 どうやら小夜子くんは雑用を沢山押し付けられてご立腹のようだ。

「すぐに戻って手伝う」

「本当すかぁ?」と疑惑の眼差しを向ける小夜子。

「あぁ、私は嘘を吐いたことがないんだ」

「なんて見え透いたウソ吐くんすか……」

 私は居たたまれなくなって街に飛び出した。

 向かったのは近くのコンビニだ。事務所の通りを真っ直ぐに行き、最初の角を曲がれば、誰でも知っている名前のコンビニがある。

 私は小夜子の機嫌をとろうと、甘い物も買って行くことにした。コーヒーの粉とプリンを手にレジへ向かうと、化粧品コーナを見つめている制服姿の少女がいた。学校はどうしたのだろう、と余計な心配がよぎる。

 私はレジへ向かうのを止め、雑誌コーナに立って少女を観察した。

 少女は明らかに挙動不審だった。肩口まである栗色の髪をいじりながら、大きな瞳をちらちらと店員に向けている。おまけに、つま先で床をつついたりしている。

 下手くそだな、と私は思った。

 コーヒーの粉とプリンを持ったまま、私は少女に近づいた。まさに化粧品を鞄に入れようとしている瞬間だった。

「下手だな」

 少女は驚愕の表情で私を見る。見つかるとは思ってもみなかった、という感じだ。慌てて化粧品を棚に戻す。

「……まったく」

「なんだよ?」

 化粧品を戻したことで余裕を取り戻したのか、少女は私を睨みつけてくる。

「コンビニで万引きとは、あまり賢い選択とは言えないな」

「オッサンには関係ないだろ」

 オッサンという言葉に激しく落ち込んだが、顔に出さないよう必死に堪えた。

「そうだな。……確かに関係ない」

「じゃあどっか行けよ!」

「金がないのか?」

「え? あるけど……」

 私の有無をいわさぬ物言いで、少女は反射的に返答した。

「長浜に貰っているのか?」

 さらに今の言葉で追い討ちを受け、目に見えて動揺し始める少女。

 どうして私はこの少女に関わろうとしているのだろう。ただの調査対象の愛人だ。少しばかり若過ぎるが。

「なんでアンタが知ってんだよ!」

「あまり大きな声を出すと大変だぞ」という意味を込めて、私は店員のほうへ視線のみを動かした。

 事実、店員は私達を気にし始めている。このコンビニにはもう来られないかも知れない。

 少女は押し黙ってうつむいた。あの写真の悲しげな顔が脳裏をよぎる。

 私は名刺の裏に携帯電話番号を書いて差し出す。

「なにかあったら連絡するといい」

 一体なにがあると言うのか。私は自分の行動がよく分からなかった。ただの気紛れに過ぎないのかも知れない。

 予定にない調査対象の愛人との接触。私は探偵として三流だな、と痛感した。少女はそんな私から名刺を引ったくると足早に去って行った。

 私は会計を済ませ、事務所へと戻った。


「随分と長かったすね」

 小夜子が湿気の多い瞳で睨んできた。

「ん? あぁ、ちょっとな……」

 私は買い物袋を新しく搬入されたテーブルに置く。

「なんすか、その気の無い返…………ん? なんか女の匂いがするぞ」

 小夜子は鼻をクンクンさせて近寄ってくる。

「所長……女の人と会いましたね?」

「鋭いな」

 さすが犬の鼻だと思い、苦笑するほかない。

「誰すか?」

「気にするな」

「なんすか……また謎臭いすね。尾行しちゃうぞ?」

 私は買い物袋からプリンを取り出す。上にクリームがのっていてカロリーが殺人級の代物だ。

「お土産」

 小夜子はジメジメした瞳でプリンを受け取る。

「甘い物を与えれば女は喜ぶとでも思ってるんすか?」とふくれっ面で言いながらも、嬉しそうにプリンの蓋を開ける小夜子。

「喜んでいるじゃないか」

「喜んでますよ!!」

「……………へ?」

 小夜子は言い間違えたのか、本気で肯定したのか、よく分からない返答をくれた。

 私は小夜子の代わりに事務所の整理を始め、十分後にはプリンを食べ終えた小夜子も加わって、午前中に全て片付いたのだった。



「結果は……端的に言いますと、黒です」

 私が写真と共にそう告げると、喪服のような黒いスーツ姿の長浜夫人が「そうでしたか……」と声を詰まらせる。それは悲しんでいると言うよりも、なにかを算段しているような印象があった。写真を見て驚かないあたりすでに事情を知っていたような気もする。他の人は写真にすら汚らわしくて触れようとはしない。しかし、長浜夫人は吟味するように写真を手に取っている。黒いスーツも相まって、長浜夫妻は真っ黒な夫婦だな、なんて思うものの口には出さない。当たり前だが。

 長浜洋介と同い年の夫人は、年齢よりはだいぶ若く見え、綺麗に化粧された顔はマネキンめいて見える。泣きも怒りもしないものだから余計だ。

 小夜子はコーヒーを二つ用意してから、私の後ろに立って動かない。きっと、あの千里眼を会得しようとしているような視線を突きつけているのだろう。

「あんな男は別れるのが正解ですよマジで!死ねばいいのに!」なんてことは言わずに、「よく話し合われてください……」と当たり障りのないことを言った。向こうから相談がない限り、この台詞が正解である。

 私の言葉に長浜夫人は頭を縦に振る。

「はい。ここからは自分でなんとかします。ありがとうございました」

 長浜夫人は料金を支払うとすぐに事務所を去った。

「なんか怪しいすね、あの人」

 長浜夫人が手をつけなかったコーヒーを啜りながら、小夜子は納得のいかない顔で言った。

「あぁ、まず間違いなくなにか企んでいるな」

 浮気されるくらいならば有利な条件でさっさと離婚したい、と言う者も多いくらいだ。それを思うと、長浜夫人の淡白さは不気味としか言いようがない。

「長浜センセを強請(ゆす)る気じゃないすかね?」

 と小夜子が言うようなことも十分あり得る。

「それはいい線をいっている」と同意して、私はジッポーを鳴らした。

「じゃあ――」

「だが私が受けたのはあくまで浮気調査だ。これ以上深入りする義務も権利も無い」

 小夜子の言葉を遮り、私は一息に常套句を並べた。それと同時にあの少女を思い出して気分が落ち着かなくなったが、煙草をふかしてどうにか冷静さを保つ。

「んー……気にならないすか?」

「それは小夜子くんが長浜洋介と知り合いだからだろう」

「でもでも、痴情のもつれから殺人事件へと発展……! もしそうなったら所長の出番すね!」

「警察の出番だ」

「その時は自分も力を貸しますね!」

 相変わらず人の話しを聞かない小夜子は今日も元気だった。

「小夜子くんは人の話しを聞くところから始めないとな」

「ん? あんすか?」

 小夜子はお茶請けの菓子をかじっていた。

「ダメだなこいつ……」

「誰がメス豚すか!!」

 そこまで言っていないし、意味もズレている気がする。そもそも聞きまちがいようがない。しかし悪口はきちんと聞こえているらしい。そういえば、聞いていないようで聞いている、という特技を持っていたなと思い出す。

 小夜子は頭から湯気を上げそうな漫画的な怒り方で、空のコーヒーカップを持って給湯室に消えて行った。

 私の携帯電話が着信したのはそんな時だった。

「……………」

 知らない番号だったのだが、私はある予感をもって無言で通話を開始した。普通ならば事務所の電話が鳴るはずである。やや戸惑う声があってから、『探偵さん?』と声が聞こえてきた。

「あぁ、そうだ。――――そうか……。…………あぁ――分かった。――――あの図書館の近くだな? あぁ、では」

 通話を終えると、いつの間にか小夜子が私の近くに立っていた。

「女すか?」とジトジトした目で座る私を見下ろしてくる。やたら絡んでくる小夜子に違和感を感じた。

「小夜子くんには関係のないことだ」

 小夜子は「ふ~ん……そすか」と言ってソファに座る。「いまの所長の顔、あんま萌えないす」

「どういう意味だ?」

「所長には関係ないことす」

 ムスッと言い返す小夜子はどうやらいじけているようだ。しかし、そんな小夜子を巻き込む訳にもいかない。なんせ、私ですら何故こういった行動にでているのか分からないのだから。



 少女が私を呼ぶ。

 悲しげな瞳で、悲しげな顔で、泣き腫らした目蓋で、悲鳴でかすれた声で、私を呼ぶ。

 私は答えられない。

 そこにあるのは少女の肢体。ボロ雑巾のような死体。忘れられない温度。

 僕を呼ぶ。

 応えられない。どうして? 僕だけ時を進めているからか?

 これは夢だと気付いている。しかし、覆せない現実でもある。

 その中で私は再び誓う。

 酷い焦燥が私を襲う。

「お前のせいじゃないのよ」


「…………っ。……はぁ」

 私は浅い眠りから目覚め、小さな舌打ちへ溜息を重ねた。額に冷たい汗がびっしりと浮かんでいる。「夢だ。これは夢だ。分かっているんだ」呟き私は、汗を拭って煙草を灯す。

 小夜子が帰宅してから、私は事務所に一人残っていた。特に仕事があった訳でもない。一度帰宅してしまうと、そこからはプライベートだ。私はこれから起こす行動をプライベートにしたくなかったのだろう。そんな自己分析もなんだか虚しく空振る。

 21時45分。

 この小さなオフィス街を窓から見下ろすと、帰宅中であろうサラリーマン達が身体を引きずるように歩いている。彼らには彼らが主役の世界が存在して、私の知らない世界が動いている。その知らない世界が数十億もあり、幾重にも交わっている。それらを全て把握する術は私には無い。それが馬鹿に薄気味悪く感じる夜だった。

 私は事務所を出ると、煙草の煙とも吐息ともつかない白さを、夜空に散らしながら目的地へと向かった。

 15分ほど歩いただろう。取り繕うように生い茂った樹木と、真新しいベンチのみが存在する公園に辿り着いた。

 昼間の電話の主は、すぐには見つからなかった。気配のする方へ眼を凝らしてみると、外灯の届かないわだかまった暗闇の中で、少女が私に気付いて顔を上げた。

「待ったか?」

 思ったよりかすれた声が出て、私は少し怯んだのだった。




 ―― 次話へつづく ――


最後まで読んでくださった皆様へ。

ありがとうございました。


次話は小夜子の過去話になります。

宜しければ、またお越しください。

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