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HOPE&PEACE  作者: 麻婆
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1.探偵と助手はご飯を食べる

 お世辞にも綺麗とは言えない小さな事務所。むしろ汚いと罵られても「そうですね」とうなずく自信がある。目を凝らせば隅々に積もる埃。座っているイスと机も例外ではない。掃除はしているつもりだが、どうも苦手であった。窓から射す薄汚れた光が、ただよう埃をチラチラと視認させる。

 手にしていた古い資料を机の引き出しにしまい、鍵をかけると、私は深く吸い込んだ煙草の煙を吐き出した。煙は筋となって陽光をかすめ、ヤニで黄ばんだ天井や壁に染み込んでいく。そして私は許容量をとうに超えた灰皿へと、短くなった煙草を押し付けた。じゃり……、と火種が砕ける音が心地よい。すき間をねらって吸殻を突っ込むので、灰皿はさながら前衛芸術のようになっている。

「犯人はズバリ貴方だ!」

突然、そんな若々しい声が頭上から降ってくる。頭を軽く叩かれた気分だった。

 声の主は葉月小夜子(はづき さよこ)という、この私を小説のような名探偵と信じて疑わない、先月雇ったバイトである。妙に悲しげな気だるい瞳と、私に迫りそうな高身長、手入れが大変そうな長髪が彼女の特徴だ。服装は灰色のタイトなパンツスーツで決めている。喋らなければどこぞの美人秘書に見えなくもない。だが、その目立つ容姿は探偵にあまり向いてはいない。

 小夜子は日焼けを知らないような細い指を、イスに座っている私へ向ける。腰までの黒髪が楽しげに揺れた。

「なんのつもり? 小夜子くん」

 先ほどまでなにやら考え込んでいたかと思うと、急に「犯人はズバリ貴方だ!」と私を犯人呼ばわりだ。

「なんなの?」

 問いかけを繰り返した私に対し、小夜子は自信に満ちた笑顔を浮かべた。「もちろん仕事の訓練すよ」

「はぁ」と意識せずに溜息が漏れた。

「小説の読みすぎだ小夜子くん。私の所に来る依頼なんて、浮気調査か素行調査、失踪人探し位だ」

 ちなみにペットの捜索は断っている。

「まったまたぁ~!分かってますよ? 所長は隠しているんすね? 本当は陰で殺人事件を大胆な推理でドカンと解決しまくっているんでしょ?」

 そうでしょ?そうでしょ? と近づいてくる小夜子は凄くうっとうしい。

 古びたジッポーの澄んだ音を鳴らし、私は二本目の煙草に火を点ける。ジリジリ焼ける煙草の先端が導火線のように見えた。いったいその先には何が待っているというのか。知りたくもないが。

「吸い過ぎすよ所長」

 私の仕事はうらぶれた私立探偵。29歳にしてうらぶれてしまった。人生は分からぬものである。

「前にも言ったけど、日本の探偵で殺人事件を解決するなんてことはまずない。そういうのは警察の方々が地道な捜査で解決するんだ」

「実はここに隠し扉が!」と言って小夜子は事務所のキャビネットを豪快に開け放つ。

 小夜子は人の話をあまり聞かないのが仕様である。

 もちろん隠し扉なんてものはなく、ただ私のコートやらがあるだけだ。

「所長!」

「なに?」

「今日はどんな難事件を?」

「夕方から夫の浮気調査」

「ほう! それはどんな殺人事件なんすか?」

 私は二度目の溜息をもらす。「あのねぇ……」

 私がもう一度説明をしようとしたとき、小夜子の携帯電話が着信する。

 説明をする気も失せて、私はイスの背もたれに深く体重を預ける。ぎしし、と軋むイスが年季の入り具合を示している。私は煙草を灰皿で揉み消し、先日行った浮気調査の調査報告書をながめる。パソコンの画面に映し出されている調査報告書は、浮気相手の身元や身辺情報はもちろんのこと、いつどこでどうやって知り合ったか、ホテルにはどちらから先に入って行ったか、その前になにを食べたのか、どちらが支払ったのかなど、見聞きした全てのことを詳細に記してある。どんな情報が役に立つのかは後から決まる。この報告書の出来が信頼に繋がり、依頼も増えるというわけだ。

「うわっ! オヤジからか……」

 小夜子はしかめっ面で携帯電話をいじっている。どうやらメールが届いたようだった。「こんな事ならメールの仕方なんて教えるんじゃなかったな、くそ!」と悪態をつきながらも、小夜子は律儀に返信しようとしているようだった。

「お父さん、メールできるんだ?」

「聞いて下さいよ所長!」

 人の話は聞かないが自分の話は聞けと言う小夜子。

「どうした?」

 憤然として小夜子は言う。

「オヤジのやつが探偵のバイトなんて止めろって言うんすよ」

「実に賢明なお父様ではないかね」

 小夜子は机をダンと叩き、「自分の夢は殺人事件を解決する事なんです!」と鼻息を荒くする。勢いあまった黒髪が私の顔にかかり、不覚にもいい匂いだと思ってしまった。

「殺人事件は警察の仕事」

 私は小夜子の髪の毛を払いながら平坦に言った。

「夢なんです!」

 小夜子は耳を貸さない。

 夢があるということは、それだけで素晴らしいことだと思う。それを見つけられないまま一生を終える人もいるであろう。私にもさし当たって叶えたい夢などない。だから、「そうですか。それはよい夢ですね」と今度は軽くあしらう。

「ですよね! オヤジにも言い聞かせないと……」

 小夜子は軽い身のこなしで私の机に座ると、携帯電話を再びいじり始める。メールの返信を作成しているのだろう。

 私は机の上にある、小夜子の小振りなお尻がのっかっている書類を引っぱる。予想外の抵抗の少なさで抜けた書類は、夕方の浮気調査で使用するものだ。数週間で調べた調査対象の行動パターンその他もろもろ。

 しかし、人間の心理をパターンで捉えようとしてはいけない。状況や体調で展開が変わることもある。ある程度は依頼人から聞けば話は早いのだが、依頼人である妻は夫の行動を把握できていないようだった。「残業が多くなりました」とだけ聞いている。むしろ私の方が知っているくらいだ。この調査に小夜子は連れて行っていない。事務所の掃除を申し付けたのだが、それも無駄に終わってしまった。小夜子も掃除は苦手なのかも知れない。

「小夜子くん。そろそろお昼でも食べに行こうか」

 メールを打ち終えたであろう小夜子に私は声をかけた。腹が減っては尾行も出来ぬ。

「牛乳とあんパンすね!」

「違う。隣のビルの食堂だ」

 小夜子はウンザリした顔で「あそこ不味いじゃないすか」と言う。

「そうか? 私はお気に入りだが……」

「所長の味覚は崩壊しているとしか思えません」

「人それぞれだからな。さ、行くぞ」と私は歩き出す。

「あ、待って下さいよ!」

「小夜子くん。鍵、閉め忘れないように」

 外に出ると、秋の冷えた空気が首筋をなでていく。私は着古したスーツの首元を片手でおさえた。

 私の事務所の入っている古ぼけたビルの隣にある、更に古めかしい小さなビルの一階。錆びて文字通り傾いた看板を背負って営業している食堂がある。周りには企業のビルなどがあるにもかかわらず、あまり繁盛していないのは、小夜子の言うとおり味が悪いからなのだろうか。味音痴の探偵とはいかがなものか。今のところ支障はきたしていない。

「所長。なんでこの食堂、『夢食堂』っていうんでしょうね?」

「店主のおばちゃんの名前が夢なんだ」

 小夜子は「ウソ吐かないで下さいよ!」と言って私の背中をバシンと叩く。意外に力強かったので背筋が伸びた。

「どうしたらあんな厳ついおばちゃんが、『夢』なんて可愛らしい名前なんすか」

「夢があって良いじゃないか」

「なーに上手いこと言ったと思ってるんすか」

 私は上がりそうになった口角を緊急停止させた。

 小粋さの欠片もない小夜子の言葉は無視して、私は辛うじて機能している自動ドアの前に立つ。がったんがったんと、手で開けたほうが早そうなドアの向こうから、脂っこい匂いが鼻孔へただよってくる。

 匂いと共に、「いらっしゃせー!」と威勢のよい夢さんの声が鼓膜を震わせた。

 恰幅がよく、見事なだんごっ鼻を持ち、髪には名称不明のパーマ。そして、薄汚れたエプロンを付けたおばちゃんが、ドスドスとまるで漫画みたいな足音で現れた。

「おぉ、探偵さん。いつもありがとね!」と夢さんは豪快に身体を揺すって笑った。

 窓の少ない店内は、昼間でも息たえだえの蛍光灯がまたたき、ひび割れた壁はうちの事務所と同じくヤニで黄ばんでいる。

「おばちゃん、親子丼」

「自分、チャーハンで」

 夢さんは「あいよ!」と言って調理を開始する。中華鍋をいともたやすく操るさまは、夢さんの腕力を物語っているのか、はたまた長年にわたり染みついた技術なのか。興味があるのでいつか尋ねてみよう。

 ところで――。

「小夜子くん、いつもチャーハンだな」

 私の言葉に小夜子は顔をしかめる。

「チャーハンがギリギリ食べられるんすよ」

「そうか? チャーハンが一番駄目だと私は思うが」

 小夜子は口を尖らせた。

「所長はやっぱりおかしいす。所長と結婚したら料理作るのが大変そうす」

「断る」

「何がすか?」

「小夜子くんと結婚は出来ない」

「例えばの話すよ! なんでいきなりフラれなきゃならないんすか!」

 小夜子は不満そうにテーブルを揺らした。

「そうか。例えばの話しか……。まぁ、そう怒るな。今日は奢ってやるから」

 そう告げると、小夜子の瞳は急に輝きだし、気だるそうな半開きの目蓋が全開になる。「…………目、意外と大きいんだね」と言ったが、小夜子は聞いていない。

「やたー! もっと頼んじゃおうかなぁ」と店に張られている手書きのメニューを睨む。

 そんな現金な小夜子を見て私が苦笑いしていると、夢さんが厨房から声を張り上げる。

「探偵さん! 今日は腹減ってるかい?」

「ええ、ペコペコです!」

「そうかい!なら大盛りにしてやるよ! そっちの彼女は?」

 小夜子は水を噴出して立ち上がる。「誰が彼女すか!!」

「そういう意味じゃないだろ小夜子くん」と私は憤る小夜子をなだめた。

「あ、そいうこと? おばちゃん、大盛りで!」

「あいよ!」

 夢さんの返事を聞いて、私は仕事の話しを切り出した。

「小夜子くん、今日の夕方からの仕事なんだが」

「あ、殺人事件すね」

「妻からの依頼で、夫が浮気をしていないか調査しているんだ」

「遺体はどんな状態だったんすか?」

「数週間調査した結果、夫は帰宅前に残業と偽り、自宅とは別のマンションに入って行った」

「容疑者は何人すか?」

「小夜子くん……」

 小夜子は溜息を吐く。額が見えるくらい短く切られた前髪の下で、気だるげな瞳が私をまっすぐに捉える。視線を少しも逸らそうとしない。些細なものも見逃すまいと努力している目だ。

「分かりましたよ。ちゃんとやりますよ……。だからそんなに睨まないで下さいよ。殺人事件解決は自分が一人前になったらにします」

「そうしてくれ」

 私は小夜子から視線を逸らす。小夜子の視線は『あからさま』すぎる。集中力は買うが、周りが見えなくなっては意味がない。その点に関しては私もまだまだ未熟ではあるのだが……。

「で、その夫を尾行して現場を押さえるんすね?」

 突然の話題立ち返りに私は少し驚く。小夜子は聞いていないようで聞いていたようだ。実は優秀なのではないかと思った。

「その通り。ちゃんと聞いていたんだね」

 私がそう言ったところで、料理が運ばれてくる。

「あい、お待ち!」

 ドン。私の前には親子丼。

 ドドン。小夜子の前にはチャーハン。

 美味しそうな湯気が上がっている。

「ゆっくりしていきな」

 そう言って夢さんはカウンターに座るとテレビを見始めた。

「見た目は美味しそうなんすけどね」と呟くと、小夜子は不味そうにチャーハンを咀嚼する。まるでガムを噛むヤンキーだった。

 私が親子丼にがっつくと、またしても小夜子の携帯電話が鳴る。その着信音は今時の若者にしては渋い選択だった。思わず「それ良いな」と言いかけたが、そう言わせるのが目的かも知れない、と思い口をつぐんだ。

「うわっ! 今度は電話かよ」

 小夜子の発言からして父親から電話がかかってきたようだ。メールでのやり取りに痺れをきらしたのだろう。メールは冷静に考えて文章を組むことができる代わりに、感情や意志が伝わりにくい。

 小夜子は携帯電話を耳にあて、「なんだよ禿げオヤジ」と完全にケンカ腰の声を出す。「うるさい! 私は探偵になるって決めたんだよ! 文句があるなら殴ってでも止めればいいじゃんか!」小夜子の勢いは止まらない。なんとなく、焦燥感のようなものに急かされているように感じた。

「脳みその筋トレし過ぎなんだよ」とか、「脳筋のせいでハゲてるんだよ」とか、毒を吐きまくっていた小夜子の顔が急に青くなる。

「えぇ!? そえは……ゴメンしてよ…………マ、マジで?」

 ろれつが怪しくなるほど狼狽していた。

 小夜子は通話を切ると、ゆっくりと私を見る。変な汗が出ているのか、小夜子の顔は妙なテカリを帯びていた。なんだか……、なんだか凄く嫌な感じがした。例えるなら、ペットの猫を探してくれと懇願されたときに似ている。あれは酷い。

「どうした?」

 本当は無視してしまいたいが、私の様子をうかがうあたり、私にも大いに関係があるのだろう。

「怒らないで欲しいんすけど」

 消え入りそうな声で小夜子は呟いた。目蓋は閉じられ、睫毛が震えている。

 恐らくそれは無理だろうと思ったが、頷かなければ先に進まない。だから私は取り敢えず頷きを返した。

「オヤジ来るって♪」

「え?……どこに?」

 小夜子は極上のスマイルらしきものと共に、ウィンクまでして明るく切り出したが、顔が引きつっていて大失敗だと思われた。

 私は「そんなものに興味はなし」とばかりに話を進めた。

「事務所に……」

「いつ?」

「今すぐ…………」

 私は頭を抱えた。親子丼など食べていられる状況ではなくなった。急いで特盛りチャーハンをかき込む娘から想像するに、相当アレな父親だろうと思う。私の親は大人しい人だったし、昔からいわゆるカミナリ親父的な人物は苦手だった。

「補足なんすけど……、オヤジは所長のことを彼氏だと思い込んでるっす」

「……………………? は?誰の?」

「自分の……」

 小夜子は照れくさそうに自分の顔を指差しあと、私に向かって合掌する。「骨は自分が拾ってやるすから、安心して下さい!」

「殺されたら呪うからな!絶対お前を呪う!」

 私よりも大盛りだったチャーハンはすでに空っぽであり、小夜子はうまそうに水をごくごく飲んでいた。





 北風に襟元を正した私を嘲笑うような、真っ白なタンクトップに半ズボン。隆々と盛り上がる筋肉は弾丸すら防ぎそうだ。見開かれた双眸は百戦錬磨の刑事も気後れするだろう。そして、小夜子一押しの怪しく光る頭頂部。いまなら『脳筋』の意味もすんなり理解可能である。

 落ち着いて観察すれば、ちょっとガタイのよいオッサンであるかも知れない。だが小夜子の父親は、ヤンキーのカチコミさながらにドアを蹴破って入ってきた。ドアの壊れる音と、舞い上がる埃と、非常識な人物、という3つの演出効果により、小夜子の父親は怪物に見えてしまった。

「小夜子!」

「なんだよ!」

 親子は来客用のソファを挟んでにらみ合っている。今にも音を立てて破裂しそうな緊張感。ドアの件は適切な処理を行えば訴えることも可能だが、面倒なのでのちに小夜子の給料から天引きすることにした。私は努めてそんなことを考え、頭を冷静に保つ。

 カキ……、とジッポーを鳴らすとお父様に睨まれたので、「失礼しました」と呟いてポケットにしまい込む。いよいよ居たたまれなくなった私のジッポーは、精彩に欠く音色だった。

「探偵なんて止めろ。もっと堅実な道を行け。なんの為に大学まで出たんだ?」

 本物の探偵を前にして、その台詞は如何なものか。父親が喋る度に腹の底がびりびりと震える。一応、小夜子の履歴書を確認しているが、割と有名な大学を出ている。頭脳は明晰なのだろう。

「そんなの決まってる。探偵になる為だよ」

 小夜子は当然のごとくそう言った。なんの迷いもない、些事をも見逃すまいとする真っ直ぐな目で。

「小夜子!」

「なんだよ!なんども呼ぶなこのハ――」

 小夜子の罵倒は中断をよぎなくされた。父親がソファを飛び越えて小夜子に踊りかかったのだ。一息に事務所の空気が揺れ動いた。大浴場の湯船に、大柄の人が入ってきたときのアレだ。あの感覚に似た浮遊感を覚えた。

「――――ッ!」

 小夜子は驚きの声も満足に出せぬまま、身体を硬直させて棒立ちになっている。一方、私はくわえていた煙草を机に落とした。要するに二人とも呆気にとられたのだ。

「うらぁぁぁぁ!」

 父親の雄叫びが事務所を揺らし、小夜子の顔面を拳が強襲した。上陸用舟艇に砂浜がえぐられるように、小夜子の顔も拳によってひしゃげたのが鮮明に確認できた。破壊的な音と共に小夜子はキャビネットに叩き付けられ、とどめに書類が上からなだれ落ちる。

 この父親は小夜子の言った通り、本当に殴って止めようと思ったらしい。愛娘の顔面を何のためらいもなくグーで殴りつけた。少なくともためらっていたようには見えなかった。

 小夜子はピクリとも動かない。紙束からのぞく細長い手足は力なくうなだれている。その様子は手折られたヒマワリを連想させる。

「ち、ちょっと、お父さん……」

「お父さんと呼ぶな!」

「す、すみません」

 動かなくなった小夜子に近寄り、父親は「探偵なんて止めろ」と言い放った。

 さすがに私は割って入ろうと思った……が――。

 唐突に書類が舞い上がり、バサバサと小夜子を取り巻く。書類が煙幕の役割を果たしたのか、父親は目を細めた。

「くっそぉぉおォ――

 舞う紙束を――吹雪を突き抜ける大型ライフル弾のように――小夜子の拳が唸りをあげてつんざいた。拳が顔に打ちつけられた音を、炸裂音だとか破裂音と表現してよいのか分からないが、想像以上の高い打撃音をともない、父親の片足が浮いた。

 ――ォオヤジがぁぁあぁああ!!」

 咆哮する小夜子の拳が振り抜かれた。

 父親の身体がしなり、たたらを踏むもソファに足を引っかけて転倒。来客用のテーブルが真っ二つに割れた。木くずと埃が噴出したみたいに飛ぶ中、小夜子の給料がまたしても激減した。一ヶ月はタダ働きを覚悟してもらおう。

 派手な音をまき散らし、今度は父親が動かなくなる。私は警察を呼ぶかどうかの判断を迫られていた。警察といっても知り合いの刑事だが。

 私の煩悶をよそに、小夜子は倒れた父親に歩み寄る。眠たげな目蓋の下で、炯々とした瞳が父親を見下ろす。

「私は探偵になる!」

 父を超えた勇者のように宣言した小夜子。それに対し、瓦礫から立ち上がった魔王のように父親は告げる。

「いまの一撃に免じて今日は帰る。だが勘違いするな。許したわけじゃないぞ」

「うるせぇ! 二度と来るな!」

 小夜子は口の端から流血し、父親は鼻から流血。まるでむかし観た『怪獣大決戦』のような親子喧嘩だった。

 鼻血を拭うと、父親は壊れたドアを踏みしめて帰っていった。

「大丈夫か? 小夜子くん」

 茫然自失の体でドアを見つめていた小夜子に、私はなるべく穏やかに話しかけた。

「……ん。大丈夫なわけないじゃないすか。あの親父のパンチは半端ないすよ」

「まあ、だろうね……」

 小夜子は「あ、歯折れてる……。あぁ、顔腫れちゃうなぁ……」と呟きながら、救急箱から薬や絆創膏を取り出している。

 事務所内は元々雑然としていたが、今や戦車が通過したみたいな状態だ。散らかる書類、倒れたキャビネット、ひっくり返ったソファ、割れたテーブルなど、元に戻すのは相当骨が折れるだろう。

「所長……」

「なんだ?」

 小夜子は珍しくブルーに入っていた。

「所長はどうして探偵になったんすか? ……んむ」

 んがー、と奇声を発して、折れたらしい歯を引っこ抜き、小夜子は無造作にゴミ箱へ投げた。

「特に理由はない」

 私は即答した。

「なんすか……。即答する当たり謎臭いすね……」

 ふて腐れたようにジトっとした目で見てきた。

「そう言う小夜子くんは、どうしてそうまでして探偵になりたいんだ?」

「………………」

 小夜子は黙して顔を伏せる。

 重い話しになりそうだな、と私は予感し覚悟した。

「乙女の秘密っス☆」

 …………聞いた私が馬鹿だったようだ。頭が痛くなってきた。

「ならばこれ以上聞かない方がいいな」

「そうすね。その方が身の為す」

 乙女の秘密などどうでもよかったし、事務所の惨状から目を背けたくて、私は机の上に転がりっぱなしだった煙草をくわえた。ジッポーをカキンと鳴らす。オイルの匂いに酔いながら、石を擦って火を点ける。吸い込まれた煙は、肺を毒して事務所の天井付近に停滞する。

「うまいすか?」

「煙草か?」

「そうす」

「うまいよ」

 快楽を伴う物のほとんどは、度が過ぎると悪影響を及ぼす。特に煙草なんてものは、『ほど良い』状態というものが存在しない。身体が毒に犯されたとしても、手に入れたい快楽がある。

「…………」

「どうした?」

 小夜子は短い前髪を触りながら「すんません」と棒読みで謝った。

「事務所のことか?」

「そうすね……。滅茶苦茶になっちゃって………。後でちゃんと片付けるす」

 小夜子はうつむき、ずっと前髪を手で梳いている。その仕草は、伸びろ伸びろと、願いを込めているようにも見えた。恐らく前髪が長ければ目を隠し、恥ずかしさや照れくささなどを誤魔化せるからだろう。

「あぁ、そうしてくれ。私も手伝おう」

「ありがとうございます」と小夜子はうつむいたまま、にっこりと微笑んだ。歯が無くなってなければ素敵な笑顔だったことだろう。

「小夜子くん」

「なんすか?」

 小夜子は処置が終わったのだろう、救急箱を棚に戻しながら振り向いた。

「お父さんも必死なんだろう。少しくらい考えてやったらどうだ?」

「駄目す」

 即答だった。

 ふむ、と考えるそぶりを見せ、「私は小夜子くんの夢を応援している」と心にも無いことをまず言った。

 そして、「でも、お父さんも一応小夜子くんのことを心配で言っているんだよ」、と私は不器用な父親の言葉を代弁した。

 私は今年で三十路だが、子供はいない。結婚もしていない。しかし、娘の将来を案じる父親の気持ちは分からないでもない。

「分かってますよ。オヤジは心配性なんす。母親もそうす。心配かけたくないな……とも思ってるす」

「ならどうして……」、というのは愚問であったろうか。

「嬉しいんすよ」

「え?」

 少し予想外の返答であった。

「心配してもらえて嬉しいけど……反抗するんす」

「…………」

 それはまた偏屈で難儀な奴だな……いや、そんなことはないか。自分の目指す将来が、周りの願う将来と食い違うのは、ままあることだ。見据えた未来が揺るぎないものであればあるほど、摩擦は大きくなる。自分を心配する人の気持ちは嬉しいし理解できるのだが、それを振り払ってでも目指したい未来がある。まさに小夜子と父親がそうであるように。

「自分、あるべき時に反抗期が無かったらしいんすよ」

 小夜子は呟いた。私が考えていたことと、どこか繋がっているような発言が少し可笑しかった。

「ふふ。それが今だということか?」

「お? 所長が笑う所なんてレアすね。ちょっと萌えるす」

 小夜子の眉毛が楽しそうなアーチを作ったので、私は慌てて無表情を取り繕った。

「ははは。……まぁ、そうかも知れないってことすねぇ」

「それは良かった。反抗期が無いと病気だ、とまで言う奴がいるからな」

 小夜子は大きく笑い、「じゃあ、今までは異常だったんすね」と言った。「確かに自分、ほぼ親のいいなりで育ってますしね」とも。

「私も似たようなものだ」

 自嘲気味な笑みをこぼして、私は煙草を吸った。

「探偵は親の意向に沿ってたんすか?」

「………………」

 煙草を吸いながら喋ることはできない。

「だんまりすかぁ……ははは。所長はミステリアスっすね」

「そうだ。探偵はミステリアスが売りだからな」

 かなり適当な事を私は言った。

「そうすよね!」

 力いっぱい同意された。

「そんな訳ないだろう小夜子くん」

「ミステリアスな男性は女性にモテるらしいすよ」と相変わらず人の話しを聞かない小夜子。しかも、売れない雑誌にでも書いてありそうな、当てにならない情報だった。

「そうか? まぁ……ありがとう」

「結婚とか考えないんすか? 所長の年齢だと結婚しててもおかしくないすよ」

 確かに人は三十路を過ぎても独り身だと不審がられる場合がある。田舎だと特にそれが顕著だ。そういう意味では結婚も悪くないが……。

「私に結婚は向いていない」

 そう言うと、小夜子は難しそうな顔をして「そうすかね」と呟く。

「それに、うらぶれた私立探偵と結婚したがる人もいないだろう。小夜子くんだって嫌だろう?」

「自分すか? 自分は別に平気すけど」

 あっさり答えられて、狼狽した自分がなんだか酷く恥ずかしかった。

「浮気されたら嫌だしな」

 私は煙を吐き出しながら言った。

 探偵は涙の再会とか感動的な場面にも出くわすが、だいたいは陰謀、策略、憎悪、欲望、執念、嫉妬など、人間の暗い部分に触れることの方が多い。

 私の答えに「ほう! 意外な一面すね! ちょっと萌えるす……いやこれはなかなか」と笑った。いちいち萌えないで欲しいものだ。

「さて、浮気と言えば、そろそろ行こうか」

 私はすっかり短くなった煙草を灰皿に押し付ける。じゃりり……。

 浮気調査の依頼を完遂しなければならない。事務所の整理は後回しだ。調査結果によれば、今日の仕事終わり、夫は(くだん)の別マンションに行く可能性が高い。


「こんなもんでいいすかね?」

「あぁ、鍵がかかればそれでいい」

 あれから私と小夜子は、とりあえず壊れたドアに応急処置を施して、開閉可能にしてから出かけた。

「いよいよ殺人鬼と対決すね!」

「小夜子くん……」

「ゴ、ゴメンして……」





 ―― 次話へつづく ――

最後まで読んでくださった皆様へ。

まずはありがとうございました。


この時点ではまだまだ序章です。

たいしたことも起こっていません。

所長と小夜子を気に入っていただけたなら、続きもぜひ読んでいただければ幸いです。

(続きは鋭意執筆中です)


では、またのお越しをお待ちしております。

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