表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

地球に異動することになった。⸜( ´ᐞ` )⸝オワタ

作者: 華洛
掲載日:2026/07/19


 人は人生の岐路に立たされたとき、本性が出るらしい。


 たとえば婚約者を同期に寝取られたとき。

 たとえばその同期の親が国会議員と太いパイプを持っていて、身に覚えのない横領の罪まで着せられたとき。

 たとえば警察に告訴しない代わりに、地球へ異動しろと笑顔で言われたとき。


 普通の人間なら怒る。

 泣く。

 暴れる。

 机のひとつくらい蹴るかもしれない。


 だが私は違う。


 私は静かに思った。


 ――あ、これ詰んだな。


 感情的になるのはよくない。

 怒りは判断を鈍らせるし、復讐はコスパが悪い。

 こちらが人生を賭けて相手を恨んでも、向こうはたぶん三日後には私のことなど忘れて楽しく生きている。

 それは腹立たしい。とても腹立たしい。

 だが、腹が立つというだけで人生の優先順位を変えるほど、私は情熱的な人間ではなかった。


 恨みはある。

 もちろんある。

 できれば靴の中に画鋲を入れたいくらいにはある。


 でも、画鋲を買いに行くのも面倒だった。


 つまり私は、そういう男である。


 事なかれ主義。

 平和主義。

 風見鶏。

 言い方はいろいろあるが、要するに私は、できるだけ穏便に、できるだけ安全に、できるだけ責任の少ない場所で生きていきたいだけの善良な公務員だった。


 その善良な公務員に命じられた異動先が、地球である。


 地球。

 かつて人類の故郷であり、今では魔物の楽園。

 就職先としての人気は最低。死亡率は最高。

 異動辞令を受けた者の血の気だけが一瞬で引く、誰もが認める特級の外れ勤務地だ。


 普通、左遷にも限度がある。

 せいぜい僻地支部とか、窓際部署とか、そのへんだろう。

 なぜそこで惑星単位の左遷になるのか。

 人事部には距離感覚というものがないのだろうか。


 いや、ないな。

 あったら地球なんて選ばない。


 私は宇宙船の窓から青い星を見下ろし、深々とため息をついた。

 見た目だけなら綺麗なものだ。

 詐欺みたいに綺麗である。

 あれが魔物だらけの危険地帯で、人類文明がほぼ壊滅していると聞かされても、観光パンフレットなら普通に売れそうだった。


 もっとも、現実はパンフレットよりだいぶ悪い。


 配属先は「地域安定環境保全課」。

 名前だけは立派だ。

 いかにも予算を使っていそうな響きがある。

 だが、こういう名前の部署はたいてい、実態がよくわからないまま雑務を全部押しつけられるために存在している。

 私は公務員として、そのへんの機微には詳しかった。


 おそらく現地では、魔物対応、住民対応、物資管理、苦情処理、書類作成、そのほか全部を“柔軟に”担当させられるのだろう。

 柔軟に、という言葉ほど現場に厳しい表現はない。


 とはいえ、行くしかない。

 告訴されるよりはましだし、前科がつかなければ再起の目もある。

 生きて帰れれば、の話だが。


 私は自分の手を見た。


 人類が宇宙へ進出して自己最適化したことで、超能力という力を得た。

 現在は五人に一人ほど超能力を持っていて、私にも超能力は一応ある。念力だ。

 ただし、野球ボールをふわっと浮かせる程度。

 派手さはない。夢もない。

 子供の頃はもっとこう、敵を吹き飛ばしたり、スプーンを曲げたり、せめてモテたりするものだと思っていたが、現実は厳しかった。


 この能力で魔物相手にどうしろというのか。

 ボールの代わりに石でも飛ばせばいいのか。

 ……いや、案外いけるかもしれない。

 世の中、だいたいの問題は速度のついた硬い物体で解決する。


 そう考えると、少しだけ希望が見えてきた。

 希望の形がだいぶ物騒なのは気にしないことにする。


 私は座席に深く腰を沈め、静かに目を閉じた。

 大丈夫だ。

 私は争いを好まない。

 平和を愛し、秩序を尊び、可能な限り面倒事を避けて生きてきた男だ。

 きっと地球でも、慎ましく、控えめに、目立たず、平穏な日々を送れるに違いない。


 そのとき、船内に警報が鳴り響いた。


 赤い警告灯が点滅し、乗員たちが慌ただしく走り回る。

 嫌な予感しかしない。

 私の人生において、警報音が良い知らせだったことは一度もない。


 モニターに映し出されたのは、雲海を突き破って上昇してくる巨大な影だった。


 翼。

 鱗。

 長い首。

 そして、こちらを見上げる黄金の瞳。


 ドラゴンである。


 なるほど、と私は思った。

 地球、思っていたよりだいぶ終わっていた。


 次の瞬間、世界が白く弾けた。







 目が覚めたとき、最初に思ったのは、静かだな、ということだった。


 静かすぎた。

 宇宙船のエンジン音も、警報も、人の声もない。

 あるのは風の音と、どこか遠くで鳥に似た何かが鳴く声だけだった。


 私はしばらく瞬きを繰り返し、それからゆっくり目を開けた。


 空があった。

 青空である。


 天井ではない。

 モニターでもない。

 投影映像でもない。

 本物の空だった。


 私は数秒ほどそれを見上げ、それから心の中で現実逃避を試みた。

 失敗した。


 身体を起こそうとして、全身に鈍い痛みが走る。

 痛い。

 とても痛い。

 だが、痛いということは生きているということでもある。

 人間、前向きに解釈しようと思えば、たいていの不幸には一応の利点が見つかるものだ。


 私はうめきながら上半身を起こした。


 そこは森の中だった。


 正確には、森だった場所に宇宙船が突っ込んでできた大惨事の中心部だった。

 木々はなぎ倒され、地面は抉れ、船体の残骸があちこちに散らばっている。

 煙が上がり、焦げた臭いが鼻を刺した。

 文明の敗北を風景にすると、たぶんこうなる。


 私はしばらく呆然と周囲を見回した。


 生きている。

 どうやら本当に生きているらしい。


 奇跡という言葉はあまり好きではない。

 奇跡を信じると、次からも起きる気がしてしまうからだ。

 だが、この状況で生き残っているのは、さすがに奇跡と呼んでもいい気がした。


 問題は、その奇跡が私以外にはあまり配られていないらしいことだった。


 周囲に人の気配はない。

 見える範囲に動くものもない。

 残骸の下敷きになっている座席や、ひしゃげた通路の一部が目に入るたび、私はなるべくそちらを見ないようにした。


 現実には、確認しなくていいこともある。

 確認したところで救えないなら、なおさらだ。


 私は立ち上がろうとして、膝から崩れ落ちた。

 格好が悪い。

 だが、格好を気にしていられる状況でもない。


 深呼吸をひとつ。

 肺は動く。

 手足も動く。

 頭も、たぶん動いている。

 致命傷はなさそうだ。

 細かい打撲や切り傷はあるが、今さらその程度で騒いでも仕方がない。


 私は改めて周囲を見回した。


 森。

 山。

 澄んだ空気。

 遠くに見える稜線。

 文明の気配は薄い。

 少なくとも東京ではない。


 というか、東京であってたまるか。


 私は残骸の一部に手をつき、よろよろと立ち上がった。

 足元には焼け焦げた金属片、割れたパネル、見覚えのある社章のついた破片が散らばっている。

 つい数時間前まで移動手段だったものが、今では立派な遭難現場だ。


 人生、何がどう転ぶかわからない。

 できれば転ばないでほしかった。


 私は喉の渇きを覚えた。

 次いで、空腹も。

 人間の身体というのは実に正直で、遭難した直後だろうが何だろうが、必要なものは必要だと主張してくる。

 もう少し空気を読んでほしい。


 とりあえず、水と食料、それから現在地の確認。

 可能なら通信機器。

 最悪でも、使えそうな物資の回収。

 こういうとき大事なのは、パニックにならず、やるべきことを順番に並べることだ。


 私はそういう作業が得意だった。

 役所勤めというのは、要するに混乱を処理可能な案件に分解する仕事である。


 だから私は、まず現状を整理した。


 一、宇宙船は墜落した。

 二、私は生きている。

 三、たぶん他の乗員は駄目そうである。

 四、ここがどこかはわからない。

 五、非常に帰りたい。


 うん。

 実にわかりやすい。


 問題は、帰る先が宇宙であり、そのためにはまずこの地球で生き延びなければならないという点だが、そこは今考えても仕方がない。

 大きすぎる問題は、いったん小さく切り分けるに限る。


 私は使えそうな残骸を探して歩き出し、それから三歩で止まった。


 何かいる。

 藪の向こうで、がさり、と音がした。


 風ではない。

 小動物にしては重い。

 私は反射的に身を固くし、そちらを見た。


 木々の隙間から現れたのは、猪に似た生き物だった。

 ただし、似ているだけで猪ではない。

 体高は明らかに高く、牙は異様に長く、背中には岩みたいな突起が並んでいる。

 目が赤い。

 そして何より、こちらを見つけた瞬間の反応に、野生動物特有の“警戒”がなかった。


 あれは、食う側の目だ。

 私は数秒、無言でそれを見つめた。


 猪もどきは鼻息を荒くし、地面を蹴った。

 突進の予備動作。

 わかりやすくて助かる。


 私は周囲を見回した。

 武器になりそうなものはない。

 逃げ道は細い。

 足は痛い。

 体調は最悪。

 実に素晴らしい。


 だが、悲観していても始まらない。

 私は静かに右手を上げ、足元に転がっていた小石へ意識を向けた。


 念力。

 私の、ささやかで、地味で、宴会芸にもならない超能力。

 野球ボールを浮かせる程度の、夢のない力。


 だが今この瞬間に限って言えば、私の手札はそれしかなかった。

 小石が、ふわりと浮く。

 猪もどきが地を蹴った。


 私は思う。

 平穏な人生というのは、つくづく遠い。


 突進してくる巨体を前にして、人間の思考は案外静かになる。

 少なくとも私の場合はそうだった。

 恐怖で頭が真っ白になる、というのはよく聞く表現だが、実際には白くなるほど余裕がない。

 むしろ妙に細かいことばかり気になる。


 速いな、とか。

 牙が思ったより長いな、とか。

 あれに刺されたら痛いだろうな、とか。

 あと、できれば今日はそういう痛みを追加したくないな、とか。


 私は右手を振った。


 浮かせた小石が、弾かれたように飛ぶ。

 狙いは頭部。

 だが、私の念力はそこまで器用ではない。

 小石は猪もどきの額をかすめ、耳の付け根あたりに当たって、乾いた音を立てた。


 効いていない。


 いや、正確には少し効いている。

 少しだけ痛かったのだろう。猪もどきは苛立ったように鼻を鳴らし、ますます勢いを増した。


 最悪である。


 私は横に飛んだ。

 飛んだというより転がった。

 公務員に華麗な回避行動を期待してはいけない。

 私の専門は危機管理ではなく、書類の不備をそれとなく差し戻すことである。


 猪もどきの突進が、さっきまで私のいた場所を抉った。

 土が跳ね、木の根が砕ける。

 あんなものを正面から受けたら、たぶん人間はきれいに死ぬ。

 きれいに死ねるならまだましで、現実にはたいてい、きれいでは済まない。


 私は地面に手をつきながら、散らばった石へ意識を向けた。

 一つでは足りない。

 二つ、三つ、四つ。

 小石がふわりと浮かび上がる。


 できる。

 ただし重い。

 頭の奥がじりじり熱を持つ。

 普段なら野球ボール一個で十分だった能力に、明らかに無理をさせていた。


 だが、ここで遠慮しても仕方がない。

 相手は遠慮なく殺しに来ているのだ。

 こちらだけ礼儀正しくしても、たぶん食われるだけで終わる。


 猪もどきが向きを変える。

 赤い目が、まっすぐ私を捉えた。

 私は静かに息を吐いた。


「――では、業務を開始しよう」


 少し言ってみたかっただけで、深い意味はない。


 猪もどきが再び突進する。

 私は浮かせた石を、一斉に撃ち出した。


 一発目。鼻先。

 二発目。左目の上。

 三発目。喉元。

 四発目は外れた。木に当たって砕けた。


 だが、十分だった。

 猪もどきの体勢が崩れる。

 私は反射的に、足元のやや大きめの石へ意識を伸ばした。

 握り拳ほどの石が、ふらりと浮く。


 これが最後だ。

 たぶん、外したら終わる。


 私は狙いを定める。

 頭。

 正面ではない。少し横。

 さっき最初の石が当たったあたり。

 骨が薄そうな場所。

 人間、追い詰められると妙に冷静になるものだ。


「――行け」


 石が飛ぶ。

 鈍い音がした。


 猪もどきの頭が大きくぶれ、そのまま前のめりに地面へ突っ込んだ。

 土煙。

 沈黙。


 私はしばらく動けなかった。

 勝ったのか。

 本当に。

 こんな、石を飛ばしただけみたいな戦いで。

 いや、実際やったことはだいたいそれなのだが。


 私は慎重に立ち上がり、数歩下がって様子を見た。

 猪もどきは動かない。

 ぴくりとも動かない。

 赤かった目も、もう光を失っていた。


 ……死んだ。


 私は勝利の余韻に浸るより先に、膝から崩れ落ちた。


 疲れた。

 とても疲れた。


 頭痛がする。

 喉が渇く。

 心臓がうるさい。

 全身が汗でべたついて気持ち悪い。

 達成感より先に不快感が来るあたり、実に私らしい。


 だが、休んでばかりもいられない。

 問題はここからだった。


 私は倒れた猪もどきを見た。


 大きい。

 そして、どう見ても食用ではない。

 少なくとも、私がこれまで生きてきた文明圏においては。


 だが、ここは地球だ。

 しかも魔物のいる地球である。

 常識はたぶん宇宙に置いてきたほうがいい。


 私は唾を飲み込んだ。

 飲み込む唾すら、もうあまり残っていなかった。


 水がいる。

 食料もいる。

 このままでは、たとえ次の魔物が来なくても、私は勝手に弱って死ぬ。


 残骸の中に非常食が残っている可能性はある。

 もちろんある。

 だが、探して見つかる保証はない。

 見つかる前に倒れる可能性もある。


 そして、目の前には肉がある。


 肉、と呼んでいいのかはわからない。

 魔物の死体である。

 牙は長いし、背中は岩みたいだし、血の色も若干どす黒い。

 食欲をそそる見た目では断じてない。

 むしろ食欲に対する侮辱に近い。


 私はしばらく考えた。

 考えた末に、極めて理性的な結論に至った。


 ――焼けば、なんとかなるのではないか。


 人類は火を得て進化した。

 ならば今こそ、その英知にすがるべきである。


 私は残骸の中から使えそうな金属片を拾い、近くの焦げた部材からまだ熱を持っている部分を探した。

 幸い、墜落直後の現場には火種に困らない。

 困るのはむしろ、これが山火事にならないかという点だが、今はそこまで気を回せない。


 私は猪もどきの脚のあたりを、金属片で恐る恐る切った。


 硬い。

 皮も筋も硬い。

 切るというより削るに近い。

 しかも臭い。

 鉄臭さに、獣臭さに、何かもっと説明したくない種類の臭いが混ざっている。


 私は途中で二回ほどやめたくなった。

 三回目で本気で泣きそうになった。

 だが、泣いたところで肉は切れない。


 ようやく削ぎ取った肉片を、熱した金属板の上に乗せる。

 じゅっ、と音がした。


 その瞬間、私は少しだけ希望を持った。


 音が料理っぽい。


 見た目は最悪だが、音だけはちゃんと料理だった。

 人間、追い詰められると希望のハードルが驚くほど下がる。


 しばらく炙る。

 表面が焼ける。

 脂らしきものが滲む。

 臭いは……まあ、良くはない。

 良くはないが、さっきよりはましだ。

 “食べ物ではない何か”から、“食べ物かもしれない何か”くらいには昇格した。


 私はそれを見つめた。


 食べるのか。

 これを。

 本当に。


 理性が言う。やめておけ。

 常識が言う。死ぬぞ。

 経験が言う。お前はこれまで、こんなものを口にしたことがないだろう。


 空腹が言う。

 うるさいから早く食え。


 私は天を仰いだ。


 青空が広がっていた。

 実に清々しい。

 こんな日に魔物を焼いて食べようとしている自分が、少しだけ遠い存在に思えた。


「……いただきます」


 誰に向けて言ったのかはわからない。

 たぶん習慣である。

 人は極限状態でも、案外そういうところは捨てきれない。


 私は焼けた肉片をつまみ、意を決して口に入れた。


 硬い。


 まず硬かった。

 次に苦い。

 そのあとで妙な旨味が来た。

 最後に、舌が少し痺れた。


「うっ」


 私は反射的に吐き出しかけ、しかし寸前でこらえた。

 ここで吐いたら、たぶん次は食べられない。

 食べられなければ、たぶん死ぬ。

 死ぬのは困る。


 私は涙目のまま咀嚼した。

 噛む。

 噛む。

 噛む。

 飲み込む。


 喉を通った瞬間、胃が驚いた気配がした。

 「何だ今の」とでも言いたげな反応だった。

 こちらとしても同感である。


 数秒、待つ。


 腹痛は――まだない。

 吐き気は――少しある。

 だが、致命的ではない。

 少なくとも即死はしなさそうだ。


 私は震える手で、もう一切れを取った。


 食べる。

 噛む。

 飲み込む。


 三切れ目。

 四切れ目。


 不思議なことに、五切れ目あたりで身体の奥に熱が広がるのを感じた。


 最初は気のせいかと思った。

 極限状態で変なものを食べたのだから、幻覚のひとつくらい見えてもおかしくない。

 だが、それにしては妙に現実的だった。


 冷え切っていた指先に感覚が戻る。

 重かった身体が、ほんの少し軽くなる。

 頭の芯にこびりついていた疲労が、じわりと薄れていく。


「……は?」


 私は手のひらを見た。


 握る。

 開く。

 もう一度握る。


 さっきまで鉛みたいだった腕が、少しだけ動く。

 念力を使いすぎたあとの鈍い頭痛も、わずかに引いていた。


 いや、待て。

 待ってほしい。


 何だこれは。


 私は焼けた肉片と、倒れた猪もどきを交互に見た。


 まさか。

 いや、そんな馬鹿な。

 だが、現に身体は楽になっている。


 私はしばらく黙り込み、それから極めて慎重に結論を出した。


「……地球、思っていたより終わり方がひどいな」


 魔物を食べたら元気になる世界。

 それはもう、文明がどうこう以前の問題ではないだろうか。

 だが、ひどかろうと何だろうと、使えるものは使うしかない。

 私はため息をつき、残りの肉を見下ろした。


 食事というより、もはや業務である。

 生き延びるための、極めて不本意な業務だ。


 私は静かに次の一切れを手に取った。







 地球に不時着してから、半年が経った。


 半年。

 言葉にすると短いが、実感としてはだいぶ長い。

 少なくとも、宇宙で公務員をしていた頃の私に「半年後には魔物を食べながら廃墟の東京を徒歩で目指しています」と言っても、たぶん鼻で笑って終わりだっただろう。


 だが現実は、たいてい想像より雑で、容赦がない。


 私は今、かつて新宿区と呼ばれていたあたりに立っていた。


 立っていた、というか、ようやくたどり着いた。

 長野に不時着してからここまで来るのに、きっちり半年かかったのである。

 文明が生きていれば数時間で済む距離を、徒歩と野宿と魔物退治で埋める羽目になるとは思わなかった。

 人類の進歩というものは、失って初めてありがたみがわかる。


 目の前には、灰色の瓦礫の山が広がっていた。


 ビル群だったもの。

 道路だったもの。

 行政施設だったもの。

 そういう「だったもの」が、まとめて地面に押し潰されている。


 風が吹くたび、砕けたコンクリートの粉が舞った。

 見上げても、宇宙から見たような綺麗な青い星の面影はない。

 あるのは、文明が負けたあとの景色だけだった。


 私は手元の端末を見た。

 墜落の衝撃で半壊し、その後も何度も落とし、濡らし、ぶつけたせいで、もはや機械というより執念で動いているような代物だ。

 それでも位置情報だけは、かろうじて生きていた。


 目的地。

 地域安定環境保全課。

 旧・新宿区管轄地上行政拠点。


 その表示と、目の前の瓦礫を見比べる。


「……いや、ないな」


 思わず口に出た。


 ない。

 どう見てもない。

 課どころか建物がない。

 建物がないどころか、建物だったという事実すら風化しかけている。


 私はしばらくその場に立ち尽くした。


 半年。

 半年かけて、ここまで来たのだ。


 山を越え、川を渡り、魔物を避け、避けきれないものは石で殴り、食えるものは食い、食えないものは見なかったことにし、どうにかこうにか生き延びてきた。

 その果てにたどり着いた配属先が、これである。


 さすがに少し、言葉を失う。


 いや、少しではない。

 かなり失った。

 私はその場にしゃがみ込み、額を押さえた。


 疲れた。

 とても疲れた。

 半年ずっと疲れていたが、今の疲れはそれとは別種だった。

 肉体ではなく、主に心に来るやつである。


 苦労して目的地に着いたら、目的地が消滅していた。

 これを何と呼べばいいのか。

 徒労。

 虚無。

 あるいは人事の悪意の延長線上。

 どれでもいいが、嬉しくはない。


「……せめて建物くらい残っていてほしかったな」


 誰に言うでもなく呟く。

 返事はない。

 当然である。

 あったら怖い。


 私は立ち上がり、瓦礫の間を歩いた。

 崩れた壁。

 焼け焦げた柱。

 ひしゃげた金属。

 ところどころに、魔物の爪痕のような深い裂け目が残っている。


 戦ったのだろう。

 ここにいた誰かが。

 そして負けた。

 その事実だけは、嫌になるほどよくわかった。


「そこ、何してるの」


 不意に声がした。

 女の声だった。

 私は振り向いた。


 少し離れた瓦礫の上に、ひとりの女が立っていた。

 年は二十代前半くらいだろうか。

 日に焼けた肌に、動きやすそうな革と布の服。

 腰には短剣。背には弓。

 長い髪を後ろで雑に束ね、こちらをまっすぐ見下ろしている。


 警戒心の強い目だった。

 だが、怯えてはいない。

 この地球で生きてきた人間の目だ、と私は思った。

 私は両手を軽く上げた。


「怪しい者ではありません」


 言ってから、いや怪しいな、と思った。

 半年も地球を放浪した三十男が、ぼろぼろの服で瓦礫の中に立っているのである。

 怪しくない要素がない。

 案の定、女は眉ひとつ動かさなかった。


「天人?」


 吐き捨てるような言い方だった。


 その言葉に、私は少しだけ眉を上げた。


 天人。

 地球に残った人類が、宇宙に住む人間をそう呼ぶことは道中でも何度か聞いていた。

 表立って敵視するほどではない。

 だが、好いてもいない。

 空の上に逃げた連中。見捨てた連中。そういう感情が、言葉の端々に滲んでいる。


 もっとも、宇宙側も宇宙側で、地球に残った人々を『地人』と呼んで見下している。

 泥にまみれた旧時代の残り滓。

 そんなふうに。


 どっちもどっちである。


 地球に魔物が現れ地球内外で時間差が生まれた。

 ウラシマ効果と呼ばれるそれは、宇宙での一日は地球での三日。

 宇宙で百年経てば、地球では三百年近く経つ。

 時間の流れが違えば、文化も常識も、同胞意識もずれていく。

 そういう齟齬が積もった結果なのだろう。


 理屈はわかる。

 わかるが、当事者になると面倒くさい。


「ええ、まあ……元はそちら側です」


 私は曖昧に答えた。

 今の私は、宇宙の人間と言い切るにも少し違う気がした。

 半年も地球で魔物を食べて生き延びてきた人間を、果たして『天人』と呼んでいいものか。

 少なくとも、天という字から連想される清らかさはもうだいぶ失われている。

 女は弓に手をかけたまま、顎で瓦礫の山を示した。


「そこに何の用」


「配属先です」


「……は?」


「異動で来ました。地域安定環境保全課です」


 女は数秒、無言で私を見た。

 それから、信じられないものを見る目になった。


 気持ちはわかる。

 私も逆の立場なら同じ顔をする。


 私は少し迷ってから、胸ポケットを探った。

 奇跡的に、まだ残っていた。

 角は潰れ、端は煤け、表面には細かな傷が走っている。

 だが、文字は読める。

 私はそれを二本の指でつまみ、できるだけ丁寧な動作で差し出した。


「間道アラヤです」


 女は名刺と私の顔を交互に見た。


「……なにそれ」


「名刺です」


「見ればわかる」


「では説明は省きます」


 私は軽く咳払いをした。


「地域安定環境保全課配属予定、間道アラヤ。三十歳です。以後、お見知りおきを」


 女はしばらく黙っていた。

 それから、ものすごく微妙な顔で名刺を受け取った。

 受け取るんだ、と思った。

 彼女は名刺を裏返したり表に戻したりしながら、眉を寄せる。


「……紙切れ一枚で何がわかるの」


「所属と氏名と肩書がわかります」


「今ここで一番いらない情報じゃない?」


「公務員にとっては重要です」


「そう」


 興味があるのかないのかよくわからない返事だった。

 たぶん、ないのだろう。


 彼女は名刺を私に返した。

 私は反射的に両手で受け取った。

 習慣とは恐ろしいものである。


「私は日比谷ユウ」


 女――日比谷ユウは、あっさりと言った。


「名刺はないわ」


「そうでしょうね」


「ちょっと今、馬鹿にした?」


「していません。文化差に納得しただけです」


「同じことじゃない」


 その返しが妙に早くて、私は少しだけ感心した。

 警戒心は強いが、口は回るらしい。

 ユウは改めて瓦礫の山を見た。


「で、天人の公務員さんは、こんなとこで何してたわけ」


「ですから配属先です」


「まだ言うんだ、それ」


「辞令は重いのです」


「建物は軽く吹き飛んでるけど」


「見ればわかります」


 私がそう返すと、ユウは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく吹き出した。


 笑うのか、と思った。

 この地球で、しかもこんな場所で、初対面の相手に笑われるとは予想していなかった。

 いや、別に悪い意味ではないのだが、少しだけ不本意ではある。


 ユウはすぐに表情を戻したが、さっきまでと比べてわずかに空気が柔らかくなっていた。


「……ああ、あそこね」


 彼女は視線を瓦礫へ戻した。

 その声音には、呆れと、少しだけ諦めが混じっていた。


「もうないよ」


「見ればわかります」


「魔物の群れが来たの。でかいのもいた。壁も人もまとめて潰された。逃げられたのは、ほんの一部」


 淡々とした口調だった。

 何度も見てきたのだろう。

 こういう終わり方を。


「成すすべもなかった、と?」


「そう」


 私はしばらく黙った。


 半年かけてたどり着いた先の結論としては、あまりにも簡潔だった。

 だが、地球ではたぶんそれが普通なのだ。

 成すすべもなく死ぬ。

 守れず終わる。

 築いたものが消える。

 そういうことが、珍しくも何ともない。


「……そうですか」


 それしか言えなかった。


 ユウはしばらく私を見ていたが、やがて少しだけ警戒を緩めた。


「近くに集落がある。日が落ちる前に動いたほうがいい」


 親切なのか、厄介払いなのかはよくわからない。

 たぶん両方だろう。


「ありがとうございます」


「別に。死なれると後味が悪いだけ」


「優しいですね」


「優しくない」


「では、後味を気にする程度には良識的だ」


「面倒くさいな、あんた」


「よく言われます」


「嘘。あんたみたいなの、そうそういないでしょ」


 それはそうかもしれない。

 少なくとも、壊滅した配属先に名刺を差し出して自己紹介する公務員は、地球広しといえども私くらいだろう。


 ユウは少しだけ視線を逸らし、それからぽつりと言った。


「天人って、もっと嫌なやつかと思ってた」


「宇宙では地人のことをもっと嫌な感じで言っていますよ」


「最低」


「どっちもどっちです」


「……それはそう」


 ユウは足元の瓦礫を軽く蹴った。


「宇宙で百年だっけ。こっちじゃ三百年とか」


「ええ。そのくらいの差があるそうです」


「じゃあもう、同じ人間って感じしないのも仕方ないか」


「理屈としては」


「でも、あんたを見てると、あんまり天人って感じしない」


「半年ほど地球で魔物を食べて生き延びてきましたからね」


「……今なんて言った?」


「聞き流していただけると助かります」


「無理でしょ」


 ユウは本気で引いた顔をした。

 実に遺憾である。

 こちらとしても好きで食べたわけではない。


 彼女は何か言いたげに口を開き、しかし結局閉じた。

 賢明な判断だと思う。

 私も説明したくない。


「とにかく」


 ユウは仕切り直すように言った。


「近くに集落がある。来るなら案内くらいはする」


「助かります」


「ただし、変なことしたら射る」


「公務員に対する信頼が低いですね」


「天人に対する信頼が低いの」


「なるほど。では今後の課題にしておきます」


「何の」


「地域安定です」


 ユウはまた少しだけ吹き出した。

 今度はさっきより自然だった。

 彼女が去る前に、私はひとつだけ聞いた。


「ユウさん」


「なに」


「あなたたちは、やはり宇宙の人間が嫌いですか」


 ユウは足を止めた。

 振り返らないまま、少しだけ考えるような間を置く。


「嫌い、というより」


 風が吹いた。

 瓦礫の隙間で、砂が鳴る。


「もう別のものだと思ってる」


 それだけ言って、ユウは今度こそ歩き出した。

 私はその背を見送り、しばらく動かなかった。


 別のもの。

 たぶん、それがいちばん正確なのだろう。


 宇宙にいる人間は地球を遠くから見る。

 地球にいる人間は宇宙を遠くから見る。

 互いに知っているつもりで、もう同じ時間を生きていない。


 だったら私は、今どちら側なのだろう。


 考えても仕方がない。

 答えが出る問いではなかった。


 私は長く息を吐いた。

 さて、どうしたものか。


 配属先は壊滅。

 職員は死亡、もしくは離散。

 建物も機能も残っていない。

 普通に考えれば、ここで任務終了である。

 報告書を書いて上に判断を仰ぎたいところだが、上は宇宙にあり、通信はつながらず、つながったところで「では帰還を許可します」と言ってくれるほど世の中は優しくない。


 ここまで来て、帰る場所もない。

 戻る許可もない。

 密航する金もない。

 だったら、もうここでやるしかないのだろう。


 私は瓦礫をかき分けながら歩いた。

 何か使えるものがないか。

 何か、ここが確かに【地域安定環境保全課』だったと示すものがないか。


 しばらくして、半ば埋もれた金属板が目に入った。

 私はしゃがみ込み、土と灰を払う。


 文字が見えた。


地域安定環境保全課。


 看板だった。


 建物はない。

 壁もない。

 机も椅子も、書類棚も、たぶん職員もない。

 だが、看板だけは残っていた。


 私はそれをしばらく見つめた。


 妙な話だと思う。

 半年前の私なら、この看板を見ても「だから何だ」としか思わなかっただろう。

 だが今は違った。


 長野で墜落して。

 魔物を食べて。

 山を越えて。

 集落を渡って。

 何度も死にかけて。

 それでもここまで来た。


 その果てに残っていたのが、この看板一枚だというのなら、もう笑うしかない。


「……まったく」


 私は看板を持ち上げた。

 思ったより重かった。

 半年の放浪で多少は鍛えられたはずなのに、普通に重い。

 役所の看板は、無駄に頑丈にできているらしい。


 私は瓦礫の上にそれを立てかけた。


 風が吹く。

 傾いた看板が、ぎし、と鳴った。


 地域安定環境保全課。


 建物はなくても、名前だけはそこにあった。

 私はしばらくそれを見上げ、それから小さく息を吐いた。


「異動になった以上は」


 誰に聞かせるでもなく、私は言った。


「ここで職務を遂行するしかないか」


 世界を救おうとか、復興しようとか、そんな大それたことは思わない。

 私は英雄ではないし、救世主でもない。

 できれば平穏に暮らしたいだけの、しがない公務員である。


 だが、配属先がここで。

 私がここに来てしまって。

 看板まで残っているのなら。


 もう、やるしかないだろう。

 私は看板を見上げたまま、もう一度だけため息をついた。


 そのとき、少し離れた場所からユウの声が飛んできた。


「置いてくよ、間道アラヤ!」


 私はそちらを見た。

 瓦礫の向こうで、ユウが面倒くさそうに片手を振っている。


「今行きます」


 私は少しだけ口元を緩めた。


 空は高く、青かった。

 宇宙から見たときと同じように綺麗で、地上から見ると少し腹が立つくらい何も知らない顔をしていた。


 地球に異動することになった。

 その結果がこれである。


 つくづく、ろくでもない人事だった。


 だがまあ、決まってしまったものは仕方がない。


 私は踵を返し、ユウの待つ方へ歩き出した。

 まずは人手の確保。

 情報収集。

 周辺の魔物の把握。

 できれば水場の確認。

 それから、地域安定と環境保全について考える。


 課の職員は、今のところ私ひとりだ。


 前途は多難。

 予算は不明。

 備品はゼロ。

 治安は最悪。

 だが、看板はある。

 そして、話を聞いてくれる現地住民もひとり見つかった。


 なら、たぶん何とかなるだろう。


 何とかならないかもしれないが、そのときはそのときだ。


 私は歩きながら、ぼそりと呟いた。


「……業務開始、か」


 少しだけ、言ってみたかっただけである。







 研究区画の封鎖が解かれたのは、一ヶ月ぶりのことだった。


 たった一ヶ月、と言う人もいるだろう。

 けれど、外部との接触を完全に断たれたまま、徹夜と連勤を繰り返していた身からすれば、それは十分に長い時間だった。

 昼夜の感覚は曖昧になり、食事は栄養補給の作業に変わり、鏡を見るたびに自分の顔が少しずつ人間らしさを失っていくのがわかった。


 United States of Americaコロニー群、California。

 その一角にある研究施設は、成果を出すには申し分ない環境だったが、人間らしく暮らすにはあまり向いていない。

 外部通信は遮断。私物端末の持ち込みは禁止。研究内容は極秘。

 おかげで私は、一ヶ月のあいだ世界からきれいに切り離されていた。


 最後の引き継ぎを終えたときには、もう立っているのも少し億劫だった。

 同僚が何か言っていた気もするが、まともに返事をした記憶がない。

 施設を出て、自動運転のシャトルに揺られ、借りているマンションへ戻る。

 玄関を閉めた瞬間、ようやく肺の奥まで息が入った気がした。


 靴を脱ぐのも面倒で、私はそのまま壁に背を預けた。

 静かだった。

 研究区画の無機質な静けさとは違う、生活の気配が抜け落ちた部屋の静けさだ。

 数日ぶりではなく、一ヶ月ぶりに帰ってきた部屋は、借り物らしく整っていて、ひどく他人行儀に見えた。


 とりあえずシャワーを浴びるべきか、それとも先に寝るべきか。

 そんなことを考えながら、私は鞄の中からスマートフォンを取り出した。


 画面が点いた瞬間、通知の数に少しだけ眉をひそめる。

 未読のメッセージ、着信履歴、事務連絡、広告、研究機関からの催促。

 予想はしていたが、なかなか壮観だった。


 ソファに倒れ込むように座り、私は上から順に通知を確認していった。

 どうでもいい連絡を流し、急ぎでないものを後回しにし、必要そうなものだけを拾う。

 その途中で、見慣れた名前が目に入った。


【間道アラヤ】


 兄からのメッセージだった。

 開く。

 そこにあった件名を見て、私はしばらく動かなかった。


【地球に異動することになった。⸜( ´ᐞ` )⸝オワタ】


「……何それ」


 声に出してから、もう一度読む。

 地球に異動することになった。

 ⸜( ´ᐞ` )⸝オワタ。


 文面だけ見れば、妙に軽い。

 軽いというより、軽く見せようとしている。兄は昔からそうだ。本当に困っているときほど、妙なところで力を抜いた言い方をする。深刻さをそのまま差し出すのが苦手なのだろう。

 私は眉を寄せたまま、本文を開いた。



-----



サヤへ


しばらく連絡してなかった。元気ならいい。

そっちはたぶん忙しいんだろうと思うので、手短に書く。


結論から言うと、地球に異動することになった。

字面だけ見ると左遷っぽいけど、だいたいその認識で合ってる。


順番に書くと、


まず婚約はなくなった。

相手が同期といい感じになっていたらしく、気づいたときにはだいたい終わってた。

このへんはまあ、見る目がなかったで終了してもいいんだけど、そのあとが少しよくなかった。


職場で使途不明金というか、横領っぽい話が出て、なぜか俺が一番説明しやすい位置にいたらしい。

説明しやすいというのは、たぶん犯人にしやすいという意味だと思う。

実際にはやってない。


ただ、完全に揉めると面倒なのと、向こうもたぶん大事にしたくなかったみたいで、最終的に「警察沙汰にはしない代わりに地球へ異動」でまとまった。

まとまったというか、まとまらされた。


一応言っておくと、死刑宣告ではない。

たぶん。

少なくとも書類上は普通の人事異動だった。書類上は。


地球がどういう場所かは知ってると思うけど、まあ、あまり快適な転勤先ではない。

でも今さら騒いでも仕方ないので、行ってくる。


そっちが研究中なら返信はいらない。

というか、たぶん見られるのもしばらく先だろうし、その頃にはもう出発してるかもしれない。

もし読んだときに「何それ」と思ったら、その感想は正しい。


あと、これは別に遺言とかではないけど、母さんには必要なら適当にぼかして伝えてほしい。

正確に話すと無駄に心配するだろうし、父さんのほうには連絡が行くはずだから、たぶんそっちで何とかなる。


サヤは変なところで無茶するから、こっちのことは気にしなくていい。

俺は俺で何とかする。

たぶん。


それと、前に言ってた特許の件、ちゃんと通ったならおめでとう。

お前はそういうのを取ると思ってた。


では。

生きてたらまた連絡する。


アラヤ



----------



 読み終えたあと、私はしばらく画面を見つめていた。


 最初に浮かんだのは、ずいぶん雑だな、という感想だった。


 人ひとりの生活を壊すにしても、もう少し段階というものがあるだろう。

 婚約者を失い、身に覚えのない罪を着せられ、その処理の延長で地球へ送られる。

 悪意があるにしても、あまりに露骨だった。


 私は無意識に、メッセージを最初までスクロールし直した。

 文面は簡潔で、ところどころ妙に乾いていて、いかにも兄らしかった。

 たぶん、私を必要以上に心配させないように書いたのだろう。

 その配慮が、今は少し腹立たしかった。


「気にしなくていい、じゃないでしょう」


 誰もいない部屋でそう呟いてから、私はスマートフォンを握り直した。

 怒っているのだと思う。

 ただ、怒り方が少し遅いだけで。


 兄――間道アラヤとは、名字が違う。

 両親が離婚したからだ。


 もっとも、ただの離婚と呼ぶには少し妙な別れ方だった。

 父と兄はJapanコロニー群へ、母と私はUnited States of Americaコロニー群へ移ることになった。完全に生活圏が分かれる以上、夫婦としてやっていくのは難しい。そう判断した末の離婚だった。

 それでも両親は、縁まで切るつもりはなかったらしい。彦星と織姫みたいに、一年に一回だけ必ず会おうと約束した。

 子どもじみた約束だと、当時の私は思った。けれどその響きが妙に印象に残って、いつしか私はそれを七夕離婚と呼ぶようになった。


 兄は父に、私は母についた。

 その経緯を説明すると、たいてい相手は少し気を遣った顔をする。けれど、私自身はそのことを特別な不幸だと思ったことはない。名字が違っても、兄は兄だったし、それ以上でも以下でもなかった。


 昔から、少し不思議な人だった。


 争いを好まない。

 感情を表に出しすぎない。

 面倒事を避けたがるくせに、なぜか厄介ごとに巻き込まれる。

 そして、自分が少し引けば済む場面では、驚くほどあっさり引いてしまう。


 私はそれを、全面的に美徳だとは思っていない。

 半分は欠点だ。

 けれど残り半分は、たぶん人としての節度なのだろうとも思う。


 少なくとも、見栄や衝動で他人を傷つける種類の人間ではない。

 だからこそ、今回の件は余計に不自然だった。


 兄が横領などするはずがない。

 倫理観の問題というより、性格の問題として。あの人は、そういう面倒なことを最後までやり通せるほど執着が強くない。

 つまり、これは嵌められたのだ。


 私はスマートフォンを膝の上に置き、ゆっくり息を吐いた。

 疲労はまだ身体の芯に残っている。瞼は重いし、肩も痛い。シャワーも浴びていない。食事もまともに取っていない。

 それでも、今は休む気になれなかった。


 腹が立つときほど、私はむしろ頭が冷える。

 泣くより先に、どこを止めれば相手が最も困るかを考える。そういう性質だ。


 兄を地球へ送った部署には、私の特許技術がいくつか使われている。

 正確には、その周辺の運用系統に組み込まれている。

 私はしばらく天井を見上げ、それから身体を起こした。


 スマートフォンの連絡先を開く。

 弁護士の名前を探し当て、少しだけ指を止めた。


 時刻はもう遅い。

 常識的に考えれば、明日の朝まで待つべきなのかもしれない。

 けれど、兄はもう出発準備に入っているかもしれないし、場合によってはすでに異動手続きが進んでいる。こちらの一日が向こうの一日と同じ重さを持つとは限らない。

 そう思った瞬間、ためらう理由はなくなった。


 発信する。


 コール音が静かな部屋に響いた。

 一回。

 二回。

 三回目で、相手が出る。


『……はい』


 少し掠れた声だった。寝入りばなだったのかもしれない。


「夜分に失礼します。安珠です」


 短い沈黙のあと、相手の声が少しだけはっきりした。


『安珠さん? 珍しい時間ですね』


「ええ。久しぶり」


『研究、終わったんですか』


「一応は。それより、依頼したいことがあるの」


『穏やかな声ですね。嫌な予感しかしません』


「私も同感よ」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 もっと取り乱しているかと思ったのに、案外そうでもない。人は本当に困ったとき、かえって表情も声音も整うのかもしれない。


「私名義の特許の一部について、使用停止の手続きに入りたい」


『……規模によりますが、かなり影響が出ますよ』


「構わないわ」


『研究機関側との調整は?』


「必要な通知だけ法的に通して。感情論に見える形にはしたくないの」


『何があったんです?』


 私は少し黙った。

 説明しようと思えばできる。婚約者のことも、冤罪のことも、人事のことも。

 けれど、それらを順に言葉にしていくのは、どこか品がない気がした。事実として醜いものを、わざわざ口に並べ立てる必要はない。


「兄が地球へ送られたの」


 結局、そう言った。

 相手は数秒黙り、それから静かに息をついた。


『……なるほど』


「関係部署が困る形で止めたい。合法的に、できるだけ整った手順で」


『十分に私情は入っていますよ』


「ええ。でも、だからこそ手順は守るべきでしょう」


 私はソファの背にもたれ、視線を窓のほうへ向けた。

 Californiaの夜景が、遠くで静かに光っている。整いすぎたその明るさが、今は少しだけ白々しく見えた。


『対象の特許番号、利用先、停止条件は整理できますか』


「できる。今夜中に送るわ」


『理由はどうします』


「契約上の再検討と運用上の安全確認。必要なら、研究区画封鎖中に把握できなかった利用実態の精査という形でもいい」


『本当に容赦がないですね』


「感情的に見えるのは不本意なの」


『十分感情的ですよ』


「そうかもしれない。でも、だからこそ雑にはしたくないの」


 相手は小さく笑ったようだった。

 呆れているのか、感心しているのかはわからない。


『わかりました。通知の順番はこちらで組みます。相手に逃げ道を与えない形で進めましょう』


「お願い」


 そこで一度、言葉が切れた。

 私は少しだけ迷ってから、続けた。


「それと、地球行きの便を手配したいの」


『……本気ですか?』


「本気よ」


『危険ですよ』


「知ってる」


『帰還保証も薄い』


「それも承知しているわ」


『それでも?』


 私はスマートフォンを握り直した。

 ケースの内側に挟んだ御守の感触が、指先にわずかに伝わる。


 宇宙での一日は、地球で三日。

 一年で三年。

 十年なら三十年。


 理屈としては、もちろん知っていた。

 研究者として、そうした時間差の影響を知らないはずがない。輸送計画にも、通信遅延にも、社会制度にも関わる基本的な前提だ。

 けれど、知識として知っていることと、それが自分の身に降りかかることは、まるで別だった。


 兄が地球にいる。

 私がここで数日迷っているあいだに、向こうではもっと長い時間が過ぎる。

 数年ためらえば、その差は決定的になる。

 次に会うとき、兄はもう今の兄ではないかもしれない。

 あるいは、次そのものが来ない可能性もある。


 そこまで考えたところで、胸の奥にあった硬いものが、ようやく輪郭を持った。


 焦っているのだ、と私は気づいた。

 ずいぶん遅れて、ようやく。


「……行かない理由がないの」


 声は思ったより静かだった。

 けれど、自分でもわかる程度には、少しだけ急いていた。


『安珠さん』


「時間差があるでしょう。こちらで先延ばしにした数日が、向こうではもっと長い。判断を保留にしているうちに、取り返しがつかなくなるかもしれない」


 言葉にしてしまうと、ようやく実感が追いついてきた。

 兄は昔から丈夫ではあっても、無茶に向いた人ではない。危険な場所で、誰かに頼るのも得意ではなく、たぶん今も一人で何とかしようとしている。

 そういう人が、地球のような場所で長く無事でいられる保証はない。


 私は感情に流されるのが嫌いだ。

 けれど、感情を持たないわけではない。

 会えるうちに会わなければならないと思う程度には、普通の人間だった。


『止めても無駄そうですね』


「うん」


『わかりました。便の手配も含めて確認します。ただし、正式なルートだと時間がかかるかもしれません』


「最短でお願い」


『言うと思いました』


「無理は承知しているわ」


『では、こちらで当たってみます。特許関係の資料も、移動申請に必要な身分証明も、送れるものは全部送ってください』


「すぐにまとめる」


『今日は休んだほうがいい、と一応は言っておきます』


 相手が小さく息をつく気配がした。


『……では、また連絡します』


「お願い」


 通信が切れる。

 静かな部屋に、空調の音だけが戻ってきた。


 私はしばらくそのままスマートフォンを握っていた。

 疲れているはずなのに、眠気はどこかへ引いていた。代わりに、頭の中だけが妙に澄んでいる。


 兄は、自分が助けられる側に回るのがあまり上手くない。

 頼ることにも慣れていないし、困っているときほど平気な顔をする。


 ふと、ずいぶん昔のことを思い出した。

 両親が離婚した日のことだ。

 当時の私は、その意味を細かく理解していたわけではない。

 ただ、これまでのようには暮らせなくなるのだということだけは、嫌になるほどわかっていた。


 兄は父に、私は母につくことになった。

 それも、もう決まったこととして大人たちは話していた。


 玄関先で、私は最後まで黙っていた。

 泣くのは癪だったし、嫌だと言ったところで何かが変わるとも思えなかった。子どもなりに、ずいぶん可愛げのない諦め方をしていたのだと思う。


『サヤ』


兄に呼ばれても、私はすぐには顔を上げなかった。


『何』


『年に一回は会える』


『少ないよ』


『そうだな』


 兄は否定しなかった。

 大丈夫だとか、すぐ慣れるとか、そういう慰めらしいことも言わなかった。ただ、困ったように少しだけ笑っていた。

 そのあと、兄はポケットを探って、小さな御守を取り出した。

 紺色の布地に細い銀糸が入った、ごく普通の厄除け守りだった。新年に神社でもらったものを、たぶんずっと持っていたのだろう。


『これ、やる』


『いらない』


『そう言うと思った』


 兄は苦笑して、私の手のひらにそれを乗せた。

 小さくて、軽くて、拍子抜けするほど頼りない重さだった。


『持っておけ』


『こんなので何が変わるの』


『何も変わらないかもしれない』


 兄はそう言ってから、少しだけ言葉を探すように間を置いた。


『でも、会えない間に、何もないほうが落ち着かないだろ」


 私はそのとき、ようやく兄の顔を見た。

 あの人は昔から、気の利いたことを言うのが上手くない。もっとましな励まし方はいくらでもあったはずなのに、結局そういう、少し不器用で、でも妙に誠実な言い方をする。


『お兄ちゃん、それ慰めになってない』


『そうかもしれない』


『もっとこう、ちゃんとしたこと言えないの』


『ちゃんとしたことって何だ』


『大丈夫、とか』


 兄は少し考えて、それから静かに首を振った。


『絶対大丈夫とは言えない』


 私はむっとした。

 子ども相手に、ずいぶん夢のない返事だと思った。

 けれど兄は、そこで言葉を切らなかった。


『でも、無視はしない』


『……何それ』


『困ったら連絡しろ。できることは多くないけど、無視はしない』


 愛想のある言葉ではなかった。

 優しく抱きしめるでもなく、泣かせるような名台詞でもない。

 それでも私は、そのとき初めて少しだけ息がしやすくなったのを覚えている。


 兄は昔から、そういう人だった。

 何でも救えるほど強くはない。けれど、自分の手が届く範囲のものを、雑には扱わない。

 だから私は、あの人を信頼しているのだと思う。


 あの御守は、今も引き出しの奥ではなく、スマートフォンケースの内側に入れてある。

 迷信を信じる性格ではない。けれど、会えない時間が長くなるほど、ああいう形のあるものを手放しにくくなる。


 だからこそ今も、きっと同じようにしているのだろう。

 できることは多くないような顔をして、それでも無理に一人で何とかしようとしている。

 それが兄の美点であり、今この瞬間に限っては、ひどく厄介な性質でもあった。


 兄の人生を雑に扱った連中のことは、あとで整理すればいい。

 まず優先すべきは地球だ。

 兄がまだ兄としてそこにいるうちに、会いに行く。その判断だけは、先延ばしにしてはいけない気がした。


 私は立ち上がり、机の上に端末を置いた。

 送るべき資料はいくらでもある。特許番号、契約書、利用先一覧、移動申請に必要な個人情報。

 やることは多い。

 その多さが、今はむしろありがたかった。


 窓の外では、Californiaの夜景が静かに光っていた。

 整いすぎたその明るさが、今の私には少しだけ遠く見えた。







 月面都市Artemisの研究棟。


 白い壁。

 白い床。

 白い照明。

 魔物の組織片や体液や骨格標本を扱っている場所だというのに、空間そのものは妙に清潔で、感情の入り込む余地が少ない。

 私はそういう場所が嫌いではなかった。むしろ落ち着くほうだった。


 ラボの隔離区画で、私は魔物由来の細胞片を顕微鏡越しに観察していた。

 地球産の個体はやはり面白い。コロニー圏で培養される劣化標本とは違って、増殖の癖も、拒絶反応の出方も、どこか生々しい。

 生き延びようとする意志が、組織の端々にまで残っている。


 端末が震えたのは、そのときだった。


 研究用ではなく私用の回線。

 表示された名前を見て、私は少しだけ目を細めた。


 サヤ。


 珍しいこともあるものだと思いながら、私は手袋を外して通信を取った。


「もしもし」


『母さん?』


 少し硬い声だった。

 疲れているときの声だと、すぐにわかった。


「ええ。どうしたの」


『頼みがあるの』


 前置きがない。

 いかにもあの子らしい。


「内容によるわ」


『兄さんが地球に異動になったの』


 私は一度、瞬きをした。

 地球に。

 アラヤが。


『理不尽な形で押しつけられたみたい。詳しい話はあとで送るけど、たぶん嵌められた』


 サヤの声は落ち着いていた。

 落ち着いているけれど、静かに怒っているときの声だった。


『私、地球に行く。だから手を貸してほしいの』


 私は椅子の背にもたれた。

 月面都市Artemisから地球へ降りる手続きは、一般人にとってはかなり面倒だ。出入りは厳しく制限されているし、申請理由も審査も煩雑で、誰でも簡単に通れるわけではない。

 けれど私は生物学者で、しかも魔物特化の研究者だった。地球への出入りは業務上どうしても必要になる。普通の人間よりは、ずっと簡単に許可を取れる立場にあった。


「なるほど」


『無理なら無理でいい。でも、母さんならルートを持ってるでしょう』


「持っているわね」


『お願い』


 短い沈黙が落ちた。


 サヤは昔から、必要以上に甘えない子だった。

 頼ることが下手というより、頼る前に自分で解決しようとする。

 そんな子が、こうして真っ先に私へ連絡してきたということは、よほど切羽詰まっているのだろう。


 兄妹ね、と私は思った。

 片方は困っていても言わない。

 もう片方は困っている相手のためなら、自分のことのように動く。

 不器用なところばかり、よく似ている。


「いいわ」


『……本当に?』


「娘の頼みだもの。それくらいは聞くわ」


 通信の向こうで、サヤが小さく息をつく気配がした。

 安堵したのだろう。あの子にしては珍しく、わかりやすかった。


『ありがとう』


「それに、私も地球へ降りる」


『母さんも?』


「ええ。ちょうど確認したいこともあるし、アラヤの件も少し気になるもの」


 少しだけ、というのは正確ではなかったかもしれない。

 けれど、わざわざ言い直すほどでもない。


『助かる』


「必要な手続きはこちらで進めるわ。あなたは必要書類をまとめて送って」


『わかった。すぐ送る』


「無茶はしないでね」


『母さんに言われたくない』


 それには少し笑ってしまった。


「そうかもしれないわね」


『……じゃあ、お願い』


「ええ」


 通信が切れる。

 静かになったラボの中で、私はしばらく端末を見ていた。


 サヤは何も知らない。

 アラヤの中に何があるのかも。

 知らないままでここまで来た。

 それはたぶん、悪いことではなかったのだろう。少なくとも、あの子の人生に余計な影を落とさずに済んだ。


 けれど、今になってまた地球が絡んでくるのなら、話は少し変わる。


 私は端末を置き、ラボを出た。

 自動ドアが静かに開き、研究棟の外気が頬に触れる。月面都市の空気は人工的に整えられていて、匂いが薄い。

 見上げた先には、大きな青があった。


 地球。


 月から見るそれは、いつだって綺麗すぎる。

 あれほど多くのものを呑み込み、壊し、変えてきた星には見えない。

 ただ静かに、青々とそこに浮かんでいる。


「……これも運命かしらねぇ」


 独り言は、誰に聞かれることもなく消えた。


 運命。

 そんな言葉を、私はあまり信じていない。

 けれど、二十年以上も前に地球で拾ったものが、今になってまた子どもたちの人生に影を落とすのだとしたら、少しくらいそう呼んでもいいのかもしれなかった。




 二十年以上前。

 あの頃の私は、今よりもう少し若く、今と同じくらい忙しかった。


 地球での魔物調査は危険だったが、得られるものも大きい。

 コロニー圏では観察できない生態が、あの星にはまだいくらでも残っていた。

 だから私は、許可が下りるたびに地球へ降りていた。


 その日も、調査対象は魔物の繁殖域だった。

 崩れた地形の裂け目に、妙な反応が出ていた。通常個体とは違う、けれど完全な変異種とも言い切れない、不安定な生体反応。

 私は護衛を少し下がらせ、自分で確認に向かった。


 見つけたとき、最初に思ったのは、ずいぶん小さい、だった。


 それは岩陰の湿った土の上で、まだ形の定まりきらない肉の塊のようにうずくまっていた。

 幼虫というには輪郭が曖昧で、幼体というには完成度が低い。

 生まれたて、と呼ぶのがいちばん近いように思えた。


 けれど、ただの未成熟個体ではなかった。


 私は手袋越しにそれを採取し、簡易隔離容器へ移した。

 その瞬間、頭の奥で感覚がひらく。


 解析。


 私の超能力は、対象の構造や性質を読み解くことに特化している。万能ではない。けれど、生物を相手にする限り、かなり便利だった。

 流れ込んできた情報に、私は思わず息を止めた。


「……へえ」


 魔王。

 未成熟ながら、性質は明確だった。


 暴食の属性を持ち弱肉強食の能力を持っていた。。

 喰らった相手の能力や知識を取り込み、自らの糧として際限なく成長する存在。


 面白い、と思った。


 研究対象としては極上だった。

 成長過程を追えれば、魔物の進化機構そのものに新しい仮説が立てられるかもしれない。

 捕食と継承。適応と変成。個体の境界を曖昧にしたまま強くなる生物など、そうそういない。


 けれど同時に、厄介でもあった。


 これを正式な研究ラインに乗せれば、いずれ露見する。

 そうなれば純粋な学術対象では済まない。軍事利用を考える部署が必ず出る。新しい兵器、新しい適応技術、新しい人体応用。

 そういう話になるのは目に見えていた。


 それは少しつまらなかった。


 私は兵器開発が嫌いなわけではない。必要なら理解もする。

 けれど、せっかく面白いものを見つけたのに、ありふれた用途へ回収されるのは惜しいと思った。


 処理するのも惜しい。

 研究に出すのも惜しい。


 そんな半端な気分のまま、私はそれを自宅へ持ち帰った。


 今思えば、あの時点ですでに、まともな判断ではなかったのかもしれない。

 けれど当時の私は、それを特別おかしいとも思わなかった。


 リビングの照明の下で、隔離容器の中の幼体を眺める。

 まだ小さい。

 けれど、内側にある性質は濃い。

 これが育てば、いずれ厄介なことになるだろう。だからといって、ただ廃棄するには惜しすぎる。


 どうしたものかしら、と考えていたとき、玄関の開く音がした。


「ただいま」


 アラヤだった。


 靴を脱ぐ音がして、少し遅れてリビングに入ってくる。

 その顔を見て、私はすぐに気づいた。


 暗い。


 怪我をしたわけではない。泣いたわけでもない。

 けれど、子どもなりに落ち込んでいる顔だった。


「おかえり」


「うん」


「何かあったの」


「別に」


 別に、と言うときは別にではない。

 それくらいは母親としてわかる。


 私は椅子に座ったまま、アラヤを見た。

 この子は昔から、感情をそのまま外へ出すのがあまり得意ではなかった。サヤのように、思ったことをそのまま口にするほうではない。

 飲み込む。

 曖昧にする。

 自分の中で処理しようとする。

 そういうところがある。


「サヤのこと?」


 アラヤの肩が、わずかに揺れた。

 図星だったらしい。


 その頃のサヤは、まだ小学生だった。

 けれど、すでに飛び級で大学へ通っていた。科学者としての資質は明らかで、教える側の大人たちが戸惑うほどだった。

 あの子は本当に、放っておいても高いところへ行く子だった。


 対してアラヤは、悪い子ではない。むしろ穏やかで、気遣いもできる。

 けれど、才能という意味では目立たなかった。

 超能力も、ボールを一つ浮かせる程度の念力がせいぜい。日常の小技としては便利でも、特筆するほどではない。


「今日、学校で言われた」


 ぽつりと、アラヤが言った。


「妹さんすごいねって」


「そう」


「別に、サヤが悪いわけじゃないけど」


「ええ」


「でも、何か……」


 そこで言葉が止まる。

 うまく言えないのだろう。

 自分でも整理しきれていない感情を、まだ子どもの語彙で説明するのは難しい。


 私はその続きを待った。


「俺、何もないみたいで」


 静かな声だった。


 その言葉を聞いた瞬間、私は妙に納得した。

 ああ、そうなのね、と。


 この子は、自分の中の空白を見つけてしまったのだ。

 サヤが持っているものを、自分は持っていない。

 その差を、まだ幼いなりに理解してしまった。


 私は視線を、テーブルの上の隔離容器へ向けた。

 中で、魔王の幼体がかすかに蠢いている。


 弱肉強食。

 喰らった相手の能力や知識を取り込む性質。

 未成熟であるがゆえに、まだ定着先を選べるかもしれない個体。


 研究するには惜しい。

 処理するには惜しい。

 兵器にするにはつまらない。


 けれど、別の使い道なら。


 私はそこで、ごく自然にひとつの可能性を思いついた。

 あまりにも自然だったので、後から振り返るまで、それがどれほど危うい発想だったのかを深く考えもしなかった。


「アラヤ」


「何」


「特別になりたい?」


 彼が顔を上げる。

 驚いたような、警戒したような目だった。


「……なに、それ」


「そのままの意味よ」


 私は隔離容器を手元へ引き寄せた。

 透明な壁の向こうで、幼体がゆっくりと形を変える。まだ弱い。まだ小さい。

 細かく説明したところで、理解できるとも思えなかった。

 ならば必要な部分だけ伝えればいい。


「最近、昆虫食が流行っているでしょう」


「……うん?」


「高栄養で、体質によっては面白い変化が出るものもあるの」


 私は容器を開け、中身を加工済みの小片として取り出した。

 香辛料と栄養ペーストで匂いを整えてある。見た目も、言い張ればそういう食品に見えなくはない。


「これを食べてみる?」


 アラヤは露骨に嫌そうな顔をした。


「まずそう」


「味は保証しないわ」


「じゃあ何を保証するの」


「可能性」


 私は本気でそう言った。

 嘘ではない。

 少なくとも、私の中では。


「もしかしたら、将来的にサヤ以上になれるかもしれない」


 その言葉に、アラヤの目が揺れた。


 ああ、やはり。

 この子はそこに痛みを持っている。


 私はアラヤを愛していた。

 それは本当だ。

 だからこそ、凡庸さに沈んでいくのを見ているのは惜しかった。

 可能性があるなら与えたいと思った。

 それが危険を伴うとしても、価値があるなら試すべきだと、私は自然に考えた。


「危なくないの」


「危険がまったくないとは言わないわ」


 それも本当だった。


「でも、あなたには適性がある気がするの」


「どうしてわかるの」


「わかるから」


 解析のことを、いちいち説明する必要はない。

 私はそういうものを読むのが得意で、この子の器が完全に閉じていないことも、なんとなく感じ取っていた。


 アラヤはしばらく迷っていた。

 当然だろう。

 けれど、最終的には私の言葉を信じた。


 信じてしまった。


 小さな手が、加工片を受け取る。

 口に運ぶ。

 噛む。

 飲み込む。


 その瞬間、隔離容器の中に残っていた本体反応が消えた。


 私は静かに息をついた。

 なるほど。

 弱肉強食は、食べられる側に回っても発動するのね。


 面白い。


「母さん……?」


 アラヤの顔色が変わる。

 熱が回り始めたのだろう。定着反応としては自然だ。


「大丈夫よ」


「なんか、変……」


「想定範囲内」


 彼の膝が崩れ、床に手をつく。

 呼吸が浅くなる。脈が上がる。瞳孔が開く。

 私は端末を取り、数値を記録した。反応は良好。拒絶はあるが、致死的ではない。少なくとも今のところは。


「母さん、これ……」


「少し苦しいでしょうけど、耐えて」


「何を……食べ……」


 私は一瞬だけ迷った。

 けれど、今さら正確に説明しても意味はない。


「特別になるためのものよ」


 それは、たぶんこの子にとっていちばん必要な言葉だった。


 アラヤは苦しそうに身を丸めた。

 熱と痛みと飢えが一度に来ているのだろう。

 内側で魔王の性質がほどけ、人間の器へ流れ込んでいる。

 完全な成功かどうかは、まだわからない。

 けれど、少なくとも反応は起きている。


 私は床に膝をつき、彼の額に触れた。

 汗で熱い。

 震えている。


「大丈夫」


 そう言ったのは、安心させるためでもあり、自分自身への確認でもあった。


「死ぬ確率は高くなかったもの」





 こうして魔王は、一人を除き、その存在を知られることなく死んだ。

 けれど、完全に消えたわけではない。


 そう。

 あの日、あの瞬間に。


 新しい魔王が、誕生したのだ。






読んでいただきありがとうございました。

少しでも「いいな」と思ったら、ブックマーク・評価・感想をいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ