第8話 で、結局この黒パンティーは?
「……と、とにかく!」
俺は無理やり咳払いをひとつ挟み、部屋の空気にへばりついた黒パンティー案件から話題を剥がしにかかった。正直なところ、あの布切れの存在感はちょっとした中級魔導兵器に匹敵しており、放っておけば会話の主導権を永久に握られかねない。こういうときは、より大きな話題をぶつけて流れを変えるのが基本だ。戦術理論の初歩である。なお俺がいまやっているのは、自室で友人たちに向かって黒い女性用下着の件をうやむやにしようとしているだけなので、理論の使いどころとして正しいかはかなり怪しい。
「決闘のほうだ。アイリスとの決闘、あれ、ほんとに俺が勝ったのか?」
言った瞬間、自分で少しだけしまったと思った。
聞き方が露骨だったのだ。いくら俺が四日も寝こけていて、しかも昨日は丸一日死人みたいに寝込んでいたとはいえ、当事者が「ほんとに勝ったのか?」と確認するのは、さすがに少し不自然かもしれない。もっとこう、「どれくらい騒ぎになってた?」とか、「相手はどんな感じだった?」とか、そういう外堀から攻めるべきだった。焦ると人間は問いの角度を失う。俺も例外ではなかった。
案の定、セリナがぴくりと眉を動かした。
「……アンタ、覚えとらんの?」
その一言で、心臓がひやりとした。
……やば
俺は表情が固まらないよう、できるだけ何でもないふうを装って肩をすくめた。こういうときの演技力というものは、平時ならもう少しマシに発揮されるのだが、寝起きのだるさと黒パンティー事件の余波とテンペストへの苛立ちが三重奏を奏でている現状では、どこまで自然に見えているか正直怪しい。
「いや、覚えてないってほどじゃないんだが、その……」
言葉を選ぶ。慎重に。できるだけ自然に。できれば“俺は全部知ってるけど君たちの視点も聞きたいだけです”みたいな雰囲気を演出したい。勝ったらしい、という断片だけはテンペストの口から聞いた。聞いたが、あの竜の証言をそのまま鵜呑みにするほど俺の人生経験は浅くない。あいつは面白がって話を盛るし、肝心なところほどわざと濁すし、なにより人間社会の文脈に寄り添う気が一切ない。つまり、情報源としては最悪なのだ。
「ほら、昨日までずっと寝てただろ。頭が妙に重いっていうか、試合の細部がちょっと曖昧でさ。勝った、らしい、とは認識してるんだけど、どんな流れだったかを整理しときたいんだよ。学園中で騒ぎになってるなら、変な言い方して墓穴掘るのも嫌だし」
カイルが壁に背を預けたまま、じっと俺を見た。
「……細部が曖昧、ね」
「そうそう、そんな感じだ。結果は聞いてる。けど、どう勝ったのか、周りにはどう見えてたのか、そのへんをちゃんと把握しときたい」
「誰から聞いたんだよ、結果」
「そ、それは、まあ……起きてから自分で色々考えてだな」
「考えて勝敗が確定するなら世の中もっと平和だろ」
こいつは無駄に鋭い。優男っぽい顔をしているくせに、人の言い淀みから“そこ嘘くさいぞ”ポイントを拾う精度が高すぎる。諜報向きというか、友人相手には少し手心を加えてほしいというか、どちらにせよ俺の胃には全然優しくない。
セリナが腕を組み、椅子に浅く腰掛けたまま首を傾げた。
「ほんまに大丈夫なん? 昨日も一日中ぐったり寝とったし、起きたと思たら黒パン握って独り言やし、今度は決闘の記憶が曖昧とか、いよいよ心配になってきたんやけど」
「その黒パンの件を会話の流れに混ぜるのやめてくれん!? こっちは必死に別話題へ逃げようとしてるんだよ!」
「逃げ切れてへんけどな」
「知ってる!」
レオンハルトがベッドの端に座ったまま、素朴な顔で口を開く。
「でも、たしかに終わったあと変だったぞ、お前」
「変?」
「勝ったあと、ふらふらしてた」
「それを先に言えよ!」
思わず前のめりになった。いい情報だ。俺の知らない俺が勝ち、その後ふらついていたということは、少なくとも試合の中で相応の消耗があったらしい。完全に別人格へ乗っ取られていたわけではなく、俺の身体が何かしらの反動を受けていた可能性も高い。いや待て、それはそれで全然安心材料ではないのだが、何もわからないよりはずっとマシだった。
セリナが「ほらな」という顔で頷く。
「そうなんよ。勝ったのは間違いない。そこはほんまや。けど、終わったあとのアンタ、なんというか、妙に静かでな。歓声も野次も全部どっか遠くで鳴っとるみたいな顔してて、こっちが声かけても反応がなくてな」
「ほう……」
「せやからウチらも、“あれだけの試合したんやから消耗しとるんやろな”って思っとった。実際、そのあと昨日丸一日寝込んどったわけやし」
そこまで聞いて、俺はほんの少しだけ息をついた。つまり 不自然ではあったが、完全におかしな状態ではなかったらしい。少なくとも友人たちの目には、激戦の反動でぐったりしていた勝者に見えていた。……激戦、という言葉の意味合いはこれから聞かなければならないのだが。
「じゃあ、本当に勝ったのか」
「だからそう言うとるやろ」
「いや、そこをもうちょい詳しくだな。ほら、俺って時々、自分の戦い方に変な癖が出ることあるだろ? ああいうのがどう見えてたのかなって」
「誤魔化し方が雑になってきとるで」
「寝起きだから勘弁してくれ!」
テンペストが俺の肩の上で、見えていないのをいいことに鼻で笑う。
「聞け聞け。お前の可愛いお友だちが、オレの武勇伝をたっぷり語ってくれるぞ」
「黙ってろ。いま俺は必死なんだよ」
また口に出してしまった。
しまった、と思ったときにはもう遅い。三人の視線が、きれいに俺へ集まる。
「……ほんまに独り言増えたな」
「いや、違う。これはその…、自分へのツッコミだ。人間、追い詰められるとセルフ会話でバランスを取ることがある」
「その言い訳、今日三回目やぞ」
「回数まで数えるな!」
カイルが目を細めたもののそれ以上は突っ込まず、やれやれといった顔で肩をすくめた。
「まあいい。本人が整理したいって言うなら、こっちも見たまま話すしかないか」
「助かる」
「助かる助からないの前に、あとでちゃんと診療棟行けよ。記憶が曖昧って地味に怖いからな」
「善処する」
「ほな、ちゃんと最初から言うで。決闘当日、中央決闘場は人でぎっしりやった。そらそうや。学園主席のアイリス様に、ぽっと出の特待生が“勝ったらデート”なんて条件で挑んどるんやから、見世物としては満点や」
「言い方」
「事実やろ」
「まあ事実だな……」
そこは否定しきれない。俺の求愛行動は制度上は合法でも、外から見ればだいぶ派手で、だいぶ無謀で、そしてだいぶ面白い案件だったはずだ。
「最初、会場の空気はほぼアイリス様勝利前提やった」
カイルが続ける。
「お前を見に来てた連中も、勝ちを期待してたというより、“どこまで食らいつけるか”を見たがってる感じだったな。善戦したら大したもの、くらいの温度だ」
「それはまあ、そうだろうな」
「ところが始まった途端、全員その前提を捨てることになる」
俺は知らず、息を止めていた。
「アイリス様の初手、見たか?」
レオンに聞かれ、俺は首を振る。
「いや、それが曖昧なんだ」
「そっか。すごかったぞ。無駄がなくて綺麗で、まさに首席って感じだった。なのに、お前はそれを普通に受けて、普通じゃない形で押し返した」
「普通に受けて、普通じゃない形ってどういう説明だ」
「レオンなりに頑張っとるんや。許したって」
セリナが苦笑し、それから少し真顔になった。
「ウチな、正直、最初の数手は読み合いになると思っとったんよ。アンタの《逆位相共鳴》で相手の予測を乱して、崩して、細かく有利を積む。そういう勝ち筋を想像してた」
「俺も、だいたいそんな感じで考えてた」
「せやろ。せやけど実際は違った。アンタ、最初から妙に強引やった」
「強引?」
「そう。雑という意味やない。むしろ洗練されとった。ただ、発想が“相手の予測を外す”方向やのうて、“読まれてもなお届く動きで上回る”方向へ寄っとった」
「それ、だいぶ無茶じゃないか?」
「無茶を通したから会場が静まったんや」
カイルの声は、冗談抜きだった。
「アイリス様は未来を読む。だから普通は、その先回りに付き合わされる。お前はそこを、読まれてる前提でさらに踏み込んだ。予測された位置へ、それでもなお最適以上の一手をねじ込むみたいな動きだった」
「最適以上って、そんな言い方あるのか」
「見てるこっちがそう感じたんだから仕方ないだろ」
俺はごくりと喉を鳴らす。テンペストからは「勝った」としか聞いていなかった。こいつの言う勝ちがどの程度のものか、もっと泥臭く、ぎりぎりの相性勝負を想像していた。けれど三人の口ぶりは違う。そこにあったのは番狂わせというより、もっと質の悪い何か――常識の外側から突然叩きつけられた力への驚愕に近い。
「アイリス様、途中から顔つき変わったで」
セリナが静かに言う。
「最初は、冷静やった。たぶん、アンタの力量も予測込みで測っとったんやろ。けど、攻防が進むごとに、その計算がずれ始めた。読んだはずの未来で間に合わん、構えたはずの手が噛み合わん、そういう顔になっていった」
「そんなにか?」
「そんなにや」
言い切られる。
「愕然、って言葉が一番近いかもしれん」
「……愕然」
その単語が、妙に重く胸へ落ちた。アイリス・ヴァレンタイン。学園の象徴で、誰よりも隙がなく、誰よりも先を見ているはずの令嬢。その彼女が、俺を前に愕然とした。
嬉しいかと聞かれたら、単純には頷けない。
誇らしいかと聞かれても、素直に胸は張れない。
なにしろ、相手をしていたのは“あの”テンペストであって…
「じゃあ、俺は……いや、俺の動きは、そんなにいつもと違ったのか」
「そこなんよなぁ」
セリナが腕を組み直した。
「アンタらしさがゼロってわけやない。けど、普段の軽口とか余計な動きとか、“女の子の脚が見えたら一瞬そっちへ意識飛ぶ”みたいな俗っぽさが綺麗に消えてた」
「分析が細かいな!?」
「日頃の観察成果や」
「誇らしげに言うことじゃない!」
カイルが薄く笑う。
「一番近いのは、“お前を芯だけ残して研ぎ澄ました感じ”だな。軽さも、抜けも、迷いもない。ただ勝つためだけに構築されたみたいな動きだった」
「それ、聞けば聞くほど俺じゃない感じがしてくるんだが」
「見てたこっちもそう思った」
レオンが、珍しく言葉を選ぶようにゆっくり頷いた。
「でも、お前だった。顔も声もお前だし、動きの癖もどこかに残ってた。なのに、強さの密度だけが別物みたいだった」
「強さの密度って、お前わりと詩人だな」
「たまにはな」
「たまにしか出ないのが惜しい」
俺は机の縁へ軽く腰を預け、できるだけ何気ない顔を作ったまま、その実、頭の中では全力で情報を繋ぎ合わせていた。テンペスト。圧倒。読まれても届く一手。迷いのない動き。アイリスの愕然。たぶん間違いない。あの試合で前へ出ていたのは、少なくとも普段の俺だけではない。俺の身体に染みついた得体の知れない戦闘技術と、テンペストの好戦性と、何かしらの極限状態が噛み合ってしまったのだろう。
それを正直に口へ出すわけにはいかないので、俺は別の方向から探りを入れることにした。
「……で、勝ち方は?」
三人がこちらを見る。俺は慌てて言い添えた。
「いや、ほら、どう終わったのかなって。俺、自分の最後の一手って後から思い返したくなるタイプなんだよ。そこを覚えてないの、なんかこう、座りが悪くて」
セリナは小さく肩をすくめ、それでも話を続けてくれた。
「最後は派手な一撃やなかった。むしろ静かなくらいや。アイリス様が先を取って詰めに来た、そのさらに内側へアンタが潜り込んで、攻防を一気に切り裂いた」
「切り裂いたって物騒だな」
「比喩や。実際には綺麗に崩した。けど、あれは見てる側からしたら“なんでそこが通るんや”って感じやった」
「アイリス様も、対応が一瞬遅れた」
カイルの補足が入る。
「たぶん、最後まで読めてなかったんだろうな。お前の動きそのものというより、お前がそこまで踏み込んでくる前提を置けなかったんだと思う」
「読めない相手、か」
「少なくとも、あの日の決闘場ではそう見えた」
読めない相手。
その言葉が妙に引っかかった。未来予測の才女に対して、それはたぶん能力相性以上の意味を持つ。けれども今そこを深掘りすると、俺の中の別件――つまり肩の上で面白そうに笑っている災厄竜――へ思考が繋がってしまいそうで、俺は無理やり意識を逸らした。
「勝ったあと、アイリスはどうしてた?」
質問が自然だったかどうかの自信はない。恋する男子としてなら妥当な関心に見えるはずだ。たぶん。願わくば。
セリナが少しだけ表情を曇らせる。
「悔しそうではあった」
「そりゃまあ、負けたんだからそうだろ」
「せやけど、それだけやなかった」
「それだけじゃない?」
「……愕然としてた」
今度はカイルがそう言った。
「さっきも言ったけど、あれが一番しっくりくる。自分が知ってる世界の法則を、目の前で一回ひっくり返されたみたいな顔だった」
「そこまで言うか」
「あの“アイリス様”があんな顔するの初めて見たしな」
レオンも頷く。
「会場も一瞬静かになった。誰もすぐには騒げなかったんだ。ありえないことを見た時みたいに」
「それで、そのあと大騒ぎになったわけか」
「せや。主審が勝敗を宣言した瞬間、どっと音が返ってきた感じやな。教師は顔色変えるし、貴族連中はざわつくし、見物してた連中はその場で噂を量産し始めるしで、決闘場の空気はめちゃくちゃやった」
想像する。中央決闘場。満員の観客。学園主席が、無名に近かった転校特待生へ敗れる光景。その中心に立つ俺。いや、俺の身体。眩暈がするほどに現実感が薄い。
「……アンタ、ほんまに覚えとらんのやな」
セリナが、今度は呆れより心配のほうが強い声で言った。
俺は一瞬だけ言葉に詰まった。ここがたぶん分岐点だ。下手に否定しすぎれば余計に不自然になるし、正直に全部話せるはずもない。だったらもう、ここはある程度、曖昧さを認めたうえで押し切るしかない。
「完全に、ってわけじゃない」
俺はそう前置きして、なるべく自然に視線を逸らした。
「ただ、試合の熱が強すぎたのか、後半の感触がぼやけてる。勝ったって結果だけは頭に残ってるのに、その間の繋がりが妙に曖昧なんだよ。たぶん無茶しすぎた反動だと思う」
「無茶しすぎたのは間違いないやろな」
「そこは俺もそう思う」
カイルが腕を組む。
「終わったあと、そのまま医務班に回されてもおかしくなかったしな。お前が倒れなかったのが不思議なくらいだった」
「倒れはしなかったのか」
「会場ではな。けど、そのあとすぐ部屋戻って、昨日は一日屍や」
「なるほど……」
情報が少しずつ繋がる。決闘には勝った。内容は圧倒。終わったあとは消耗。昨日は寝込み。今朝というか昼に目覚めたら、記憶はまだら。そこへテンペストが勝利報告を寄越し、なぜか机の上には黒パンティーがある。
改めて整理すると、ほんとうに碌でもない。
「まあでも」と、セリナが少しだけ口元を緩めた。「勝ったんは事実や。そこは胸張ってええと思うで」
「俺の胸、いま黒パン案件で張る余裕がないんだが」
「そこは切り分けろや!」
「難易度高いわ!」
ようやく少しだけ、部屋の空気が笑いに戻る。助かった。さっきまでの流れのまま“覚えてないのか”を深掘りされると、流石に誤魔化し切れる自信がなかった。
レオンがふと思い出したように言った。
「でも、見てた側としてはすげえ気持ちよかったぞ。アイリス様が悪いって意味じゃなくて、強いと思ってた相手をもっと強いやつが真っ向から超えていくのって、なんかこう、燃える」
「お前はほんとに熱血一直線だな」
「うむ」
「そこで胸を張るな」
カイルも苦笑する。
「正直、あれでお前を見る目が変わったやつは多いだろうな。いい意味でも悪い意味でも」
「悪い意味でも?」
「そりゃそうだ。学園主席を圧倒した無名の特待生とか、権力持ってる連中からしたら不穏そのものだろ」
「うわぁ、急に現実」
セリナが頷いた。
「せやから、なおさら自分がどう見えとったか把握しとくのは大事や。そこはアンタの言う通りやな」
「だろ?」
「ただし、記憶が曖昧なんはほんまに診てもらえ」
「そこは善処する」
「便利な言葉で逃げるな」
俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
逃げている自覚はある。けど、見えない竜と同居していて、そのせいで自分の決闘の記憶が抜け落ちているかもしれません、などと診療棟で相談したところで、まともな処方箋が出る気はしない。胃薬くらいは貰えるかもしれないが、いま欲しいのはもっと根本に効くやつだった。
肩の上で、テンペストが満足げに笑う気配がする。
「聞いただろ。勝ったんだよ、お前は」
「“俺は”って言い切るには、だいぶ複雑な勝ち方だったみたいだけどな……」
小さく零したその呟きは、幸い、誰にも拾われなかった。拾われたのはテンペストだけで、そいつはますます楽しそうに牙を見せるだけだった。
俺は机に置かれた黒いパンティーへちらりと目をやり、それから友人たちへ視線を戻した。
決闘の輪郭は、少しだけ掴めた。
勝利は本物だった。
アイリスは愕然としていた。
俺は俺で、いつもと違う何かになっていた。
問題は、その“何か”がいま肩の上で笑っていることと、どういうわけか黒パンティーが手元にあることだ。
情報が増えるほど謎が増す人生というのは、たぶん設計の段階でどこかがおかしい。俺の青春はもう少し単純明快に恋して悩む予定だったはずなのに、どうしてこう毎回、説明不能の副産物が付いてくるのか。
せめて次に誰かが部屋へ入ってくるときまでには、この黒い物証だけでもどうにかしておきたい。
心の底からそう思いながら、俺は「勝った」という事実の重みと、「覚えていない」という後ろ暗さと、「なぜ黒パンがあるのか」という根本的な謎をまとめて抱え込み、寝起きの頭痛よりよほど厄介な現実に、静かに頭を抱える羽目になった。




