第7話 俺の中の同居人が修羅場すぎて胃に穴が空きそうな件
目を開けた瞬間、俺は天井というものが人間に与える安心感を、あらためて過大評価していたことを知った。
白い漆喰の天井。隅に埋め込まれた監視用のマナランプ。窓の縁から斜めに差し込む朝の光。見慣れた男子寮の自室であり、少なくとも地下牢でも処置室でも解体台の上でもないらしいと理解できる視界が広がっているにもかかわらず、胸の奥に広がったのは安堵ではなく、もっと嫌な種類の沈黙だった。頭蓋の内側で鈍器みたいな痛みが脈打ち、舌の上には寝過ぎた朝特有のひどく間の抜けた苦みが残っていて、全身の関節は他人のものみたいに重い。深く息を吸い込むと、干したばかりのシーツと、窓際に置きっぱなしの訓練着から立つわずかな洗剤の匂いがした。
「……え?」
口から出た声が、自分でも驚くくらい間抜けだった。
俺は弾かれたみたいに上体を起こし、その勢いのまま布団を蹴飛ばしてベッドの上で半分立ち上がりかけ、そこで視界がぐらりと傾いたせいで慌てて膝をついた。後頭部の奥を釘で打たれたような痛みが一気に増し、昨日どころか、たぶん昨日ではない記憶の断片が、水底から浮かぶ泡みたいにいくつか脳裏へ浮いてくる。薄暗い倉庫。鎖。血の味。殴打。笑い声。胸の奥で何かが軋み、内側から爪を立てるような不快な気配。そして――。
「……そこから先が、ねぇ」
思い出そうとするたび、記憶の列車が崖の手前で止まる。自分の内側で何かが目を覚ましたところまではたしかにある。そこから先は、きれいなくらい黒い。酔っ払って記憶を飛ばした経験なんてものは成人済みの男子寮生活をしていれば珍しくもないが、俺の場合は酒ではなく竜で記憶が飛ぶので、事情としてはだいぶ最悪寄りだった。
部屋の中を見回す。壁に立てかけた訓練用の木剣。机の上に積みっぱなしの課題書類。窓際の椅子に投げた制服の上着。足元に丸まった靴下。いつも通りの散らかり具合であり、誰かに荒らされた形跡も、緊急封鎖の黄色いテープも、教官が仁王立ちして待っている様子もない。その平穏さが余計に怖かった。
「……何時間、経った?」
呟いたところで、背中を冷たい汗が伝った。
以前、テンペストに主導権を持っていかれたとき、俺が目を覚ましたのは二日後だった。食堂のおばちゃんにまで「起きたのね」と慈母みたいな声で言われ、クラスの連中からは「冬眠明けの熊」として記録された、俺の青春史におけるかなり不名誉な一件である。今回も同じパターンなら笑えない。いや、前回からして笑えなかったのだが、少なくとも今回は決闘という明確に笑えない予定が目の前にぶら下がっていた。
俺は机の上の黒い板状端末をひったくるように掴んだ。エーテル結晶を動力にした連邦式携帯端末、《エーテルリンク》。通話、連絡、授業資料、マナ残量の測定、簡易地図、ついでに学生の心をじわじわ削る課題通知まで、便利さと支配欲が手を組んで完成した傑作である。
画面を点灯させた瞬間、俺の喉が変な音を立てた。
「……四日……?」
表示を見間違えたかと思って、一回閉じてもう一回点けた。人間というものは、理解できない現実にぶつかった際、驚くほど原始的な確認作業へ走る。俺も例外ではなかった。閉じて、点ける。閉じて、点ける。閉じて、点ける。三回やっても日付は変わらない。俺が意識を失ってから、丸四日が経っていた。
「う、うそだろ……決闘……!」
アイリスとの決闘は、たしか二日後だったはずだ。二日後ということは、つまり、もう過ぎている。過ぎているどころか、終わって、余韻まで冷め始めている時系列である。俺の青春の一大イベントが、俺の睡眠中に開催されて閉幕した可能性が急浮上していた。
「よぉ、ねぼすけ」
呑気そのものの声が頭上から降ってきた。
反射的に視線を上げると、天井付近をふわふわ漂う小さな影があった。白銀の鱗。ちょこんと生えた翼。丸っこい胴体。赤い瞳。どこかの土産物屋で「連邦守護竜マスコット」とかいう名前で並んでいそうな愛らしいフォルムをしているくせに、目つきだけが終末戦争経験者みたいに悪辣である。
「……テンペスト」
俺の体に棲みつく迷惑生物にして、人格侵食系の最悪な同居人。半顕現とも完全顕現とも違う、なぜその姿を選んだのか問い詰めたいぬいぐるみサイズの竜形態で、そいつは器用に空中で一回転すると、悪びれもせずに俺の肩へ着地した。鱗の感触がひんやりしていて、その物理的な現実味が余計に腹立たしい。
「いやぁ、よく寝たなぁ、お前。途中、寝返り打つたびにシーツ蹴り飛ばしててよ、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい無防備だったぜ」
「何日寝かせやがった!!」
怒鳴った瞬間、肩の上の小竜がけらけら笑う。殴りたい。見た目が妙にかわいいせいで余計に殴りたい。
「四日だな。なかなかいい寝顔だった。よだれの筋が芸術点高かったぞ」
「聞いてねぇよそんな評価! 決闘だ! アイリスとの決闘! どうなったんだよ!」
俺が叫ぶと、テンペストは尻尾をゆらゆら揺らしながら、まるで今日の天気でも語るみたいな気楽さで言った。
「……ああ、あの小娘のことか」
心臓が一拍ぶん止まりかけた。
「心配するまでもねぇだろ。オレが蹂躙してやったよ。想像できるか? あの気位の高い貴族娘が、顔を真っ赤にして息を乱し、最後には震えながらこっちを睨む姿ってやつを」
「……っ!」
言葉が出なかった。喉の奥がひゅっと縮んで、肺に残っていた空気だけが情けなく抜ける。四日間の空白。俺の知らない時間。俺の知らない勝敗。そこにこいつが関わっているのは確実で、しかも本人はまるで悪びれる気配がない。
「な、何を勝手に……!」
絞り出した声は、怒りより先に恐怖で震えていた。
テンペストは俺の反応がよほどおかしいらしく、肩の上で腹を抱えるように笑った。竜が腹を抱えるという表現が正しいのかは知らないが、少なくとも笑いを堪える気はまったくなさそうだった。
「感謝ぐらいしろよ。オレが出なきゃ、お前は倉庫で鎖に繋がれたまま終わってた。しかも勝負に負けるなんざ、オレの美学に反する」
「美学の押し売りが重すぎるんだよ! いやその前に、何をした! どこまでやった! アイリス嬢を半殺しとか、洒落にならねぇことしてねぇだろうな!?」
机をばんと叩いて立ち上がり、肩に座る小竜を全力で睨みつける。怒鳴る相手が掌サイズのぬいぐるみみたいな見た目をしているせいで、絵面としてはだいぶ滑稽だったと思うが、そんなことを気にしていられる心理状態ではなかった。
テンペストは赤い瞳を細め、わざとらしく口角を吊り上げた。
「ふふん……気になるか?」
「気になるに決まってんだろ! お前この前の件で謹慎くらったの忘れたのか!? 俺はまだ教官室で『お前はもう少し社会に適応しろ』って言われた屈辱を引きずってるんだよ!」
「社会に適応、ねぇ。竜に向かって随分と人間臭い注文だな」
こいつは俺の必死さを、酒場の余興でも眺めるみたいな顔で受け流し、小さな爪をひらひら振った。その動きに合わせて、空中へ黒い布のようなものが現れる。
「な、なんだそれ……?」
不穏な予感というものは、視認した瞬間よりほんの少し前、説明不能な確信として腹の底へ落ちてくる。俺はその布切れを見た瞬間、自分の人生が今からだいぶ嫌な角度に傾くと理解した。
「ほれ、証拠品だ」
軽く放り投げられたそれを、俺は反射だけで受け取ってしまった。手の中で広がった黒い布。細い紐。控えめなレース。妙に柔らかい感触。見覚えがあるとかないとか、そんな段階を飛び越えて、脳が先に認識を拒否した。
「……ッッッ!!??」
喉から悲鳴とも断末魔ともつかない音が漏れた。
「く、黒……!?」
「おう、黒だな」
「く、黒いパンティィィィィィィ!?!?」
世界が一瞬、本気で止まった。いや、止まったのはたぶん俺の思考のほうだ。手の中にあるのは黒い布であり、しかもただの黒い布ではなく、社会通念上きわめて限定的な用途を持つ黒い布であり、その用途に関して男子学生が健康的な関心を抱くこと自体は人類史に照らして責められないとしても、今この状況で俺の手元にあることは弁明の余地が一ミリもなかった。
「な、なんでだよ!? なんでお前がこんなもん持ってんだよ!? どこで手に入れた!? お前は竜なのか犯罪者なのかどっちだ!?」
「両立する場合もあるんじゃねぇか?」
「開き直るな!」
叫ぶ俺をよそに、テンペストは得意げに胸を張り、小さな尻尾をぱたぱた揺らした。
「喜べよ、スコール。お前が攻略したがってたあの小娘――」
「その言い方がもう最低なんだよ!」
「オレが先に攻略しておいたぞ」
「はあああああああああああああああああああ!?!?」
俺は床へ崩れ落ちた。全身から冷や汗が噴き出し、心臓は競技用マナポンプみたいな勢いで暴れ、胃のあたりがきゅっと縮む。攻略とは何か。言葉の定義をいまここで国際会議にかけたい。少なくとも俺の知る一般的な恋愛用語としての攻略は、こういう物的証拠とセットで語られるべきものではない。
「ふざけんなよ! 何やってんだよお前ぇぇぇぇ!!!!」
テンペストの高笑いが部屋に響く。見た目はどこぞのファンシーマスコットみたいなくせに、笑い声だけは古代の災厄が神殿を燃やしている時のそれだった。
俺は手のひらの黒い布と小竜を見比べ、もう一度布を見て、現実逃避として天井を見上げた。白い漆喰は無言だった。そりゃそうだ。天井に人生相談の義務はない。
攻略。
いやいやいや。
ちょっと待て。
待ってくれ。
百歩譲って「決闘に勝った」くらいなら、俺の青春が寝ている間に代行されたという意味でかなり許しがたいものの、命を助けられた経緯を考慮すれば、歯を食いしばって納得できなくもない。さらに千歩くらい譲って「デートの約束を取り付けた」程度なら、俺の青春の主導権が他人どころか竜に握られた事実に泣きたくはなるが、辛うじて社会復帰の余地はある。
けれども今、俺の手のひらには黒いパンツが載っている。
「……黒パンティーだぞ?」
思わず声に出して確認してしまった。事実確認は大事だ。たとえ確認したところで現実が一切改善しなくても、人は絶望の前で事務作業をしたくなる。
黒パンティー。黒いパンツ。女性用下着。しかも、ただの綿の塊ではなく、なんというか、こう、妙に本気度の高い一品である。見覚えがある。たぶん初遭遇のあの事故のとき、視界の端に焼き付いたシルエットと同種の、黒紐系統のやつだ。神よ、どうしてこんな部分だけ記憶が鮮明なんですかね。
「なかなか強情な女だったがな」
テンペストが肩の上から平然と言う。
「……な、なんだよその言い方」
「少し揺さぶってやれば、顔を真っ赤にして声を詰まらせる。人間の女ってのは見ていて飽きねぇな」
「揺さぶるの意味を今すぐ明確にしてくれ頼むから!」
「ふふん。お前の夜な夜な読んでる発禁寸前の戦術美術書、嫌でも情報が流れ込んでくるんでな。どこで相手が動揺し、何を言えば呼吸が乱れ、どこまで踏み込めば表情が崩れるか、そのへんはだいぶ勉強させてもらった」
「言い回しが最悪なんだよ! しかもよりによって学習教材が俺の黒歴史寄り蔵書かよ!」
「有効活用ってやつだ」
「活用先が終わってる!」
頭を抱えたまま部屋の中をぐるぐる歩き回る。理解できない。いや、理解できる部分があるからこそ余計に意味が分からない。こいつの口ぶりは一貫して下品寄りで、しかも言葉を濁すせいで想像の余地が最悪の方向へ全力疾走してしまう。
「……おい、テンペスト」
足を止め、喉の渇きを押し殺して尋ねる。
「俺が寝てる間に、お前、何をしやがった……?」
声がひどく掠れていた。自分でもわかるくらい、情けない響きだった。もし本当に取り返しのつかないことが起きていたらどうする。俺の青春どころか人生が、いやアイリスの人生も含めて、竜入りの交通事故みたいな形で吹き飛んでいる可能性すらある。
テンペストは俺を見上げ、にやりと笑った。
「さぁな。想像するのも楽しいんじゃねぇか?」
悪びれさが微塵も感じられないその言葉を聞いた途端、本気で胃のあたりに穴が開く音を聞いた気がした。もちろん実際にそんな音が鳴ったわけではないし、人間の胃に効果音が付属しているという話も聞いたことはない。それでも黒いパンティーを両手で持ったまま、見えもしない竜へ顔をしかめて問い詰めている自分の姿を客観視したときの精神的ダメージには、なにかしらの物理表現が与えられてしかるべきだと思う。
「楽しいわけあるか! 俺はいま人生最大級の意味不明案件を処理してる最中なんだよ! なんで目が覚めたら四日経ってて、決闘は終わってて、そのうえ手元に黒パンがあるんだ! 説明しろ! 説明責任を果たせこの同居害竜!」
怒鳴ったところで、テンペストは俺の肩の上――正確には、俺にしか見えていない空間のそのへんで、尻尾をぱたぱた揺らしながら笑っているだけだった。土産物屋の棚にでも並べれば「連邦限定・守護竜まんじゅうマスコット」として人気が出そうな外見をしているくせに、中身は人の人生を面白半分でかき回す災厄そのものである。
「説明ならしてるだろ。オレが勝って、お前が欲しがってた戦利品が残った。綺麗にまとまってるじゃねぇか」
「まとまってねぇよ! むしろ要素が増えてるんだよ! それにこれは戦利品って言葉で処理していい種類のブツじゃねぇ!」
改めて手の中の黒い布を見下ろす。黒。紐。レース。どう考えても社会的に高度な破壊力を持つ物品である。しかも困ったことに、見覚えがある。あのとき見た。見たくて見たわけではないと主張しても信じてもらえる自信がない角度で、たしかに見た。人間は本当に大事なことほど忘れるくせに、どうでもいい色と形だけ妙に鮮明に覚えていたりする。脳の記憶領域の配分担当はもう少し仕事を選ぶべきだ。
「……いや待て。落ち着け、俺。ここは順序立てて考えるんだ」
自分に言い聞かせるように呟きながら、俺は机の前をうろうろと歩き回った。こういうとき、人はなぜか歩く。歩いたからといって問題が解決するわけではないのに、じっとしているよりマシな気がするから不思議だ。たぶん太古の昔から、人類は手に負えない事態に直面するととりあえず歩いてきたのだろう。狩りでも失敗したのか、恋でもこじらせたのか、あるいは俺みたいに寝起き一発目から黒い女性用下着を持たされるという極めて限定的な悲劇に見舞われたのか、その細部はともかくとして。
「ひとつ。俺は四日寝てた。ふたつ。決闘は終わってる。みっつ。俺は勝ったらしい。よっつ――」
「黒パンだな」
「その単語をそんな明るい声で挟むな!」
頭を抱える。いや本当にどうなっているんだ。百歩譲って決闘に勝ったという事実だけなら、俺自身の記憶がないことを除けば、青春ラブコメ主人公としてはむしろ盛り上がる要素である。学園主席の貴族令嬢に挑んで、まさかの勝利。観客騒然。教師絶句。貴族顔面蒼白。そこまではいい。いや本当はよくないが、まだ話として飲み込める。
それなのに、どうして物語の最重要アイテムみたいな顔で黒パンティーが俺の手元に存在しているのか。しかも出所が不明で、説明役は見えない竜で、そいつの証言が一切信用ならない。青春ラブコメにしては推理パートの導入が雑すぎるし、ミステリとして見るには証拠品の性質がだいぶ偏っていた。
「おいテンペスト、最後に一回だけ聞くぞ。お前、ほんとに余計なことはしてねぇよな?」
「余計かどうかを決めるのは、いつだって結果だろ」
「詭弁をこねるな! 俺は倫理の話をしてるんだよ!」
そこで、部屋の扉がこんこんとノックされた。
心臓が跳ねた。
文字通り飛び上がりそうになった俺は、反射的に手の中の黒パンを背中側へ隠し、そのまま数秒ほど不自然な姿勢で固まった。両肩が上がり、視線は扉へ貼り付き、表情筋だけが必死に「俺は平常心です」という演技をしようとしている。客観的に見れば、罪悪感を服着せて二足歩行させたような人間がそこにいたと思う。
「スコール? 起きとる?」
扉の向こうから聞こえたのはセリナの声だった。
普段なら「おう入れー」と気軽に返すところだが、いまの俺は手に黒いパンティーを握りしめ、見えない竜へ怒鳴っていた直後である。状況としては最悪の一歩手前くらいまで来ていた。
「い、いま忙しい!」
「寝起きの人間が言う台詞ちゃうやろそれ」
「いや、その、着替え中で!」
「声の調子からして全裸ではなさそうやけど」
「女子の観察眼が鋭すぎる!」
テンペストが肩の上でけらけら笑う。やめろ。お前は笑ってるだけでいいが、俺はこの扉一枚の向こうに社会生活を持ってるんだよ。
「アンタ昨日丸一日寝込んでて、今日も点呼の時に起きてこんかったやろ。様子見に来たんや。開けるで?」
「ちょ、ちょっと待――」
制止の言葉が最後まで届くより早く、扉が開いた。
入ってきたセリナは最初に俺の顔を見て、それから俺の姿勢を見て、最後に俺の右手を見た。正確には、背中に隠したつもりが隠しきれていなかった黒い布の端を見た。その視線がぴたりと止まる。人は本当に理解しがたい光景を見たとき、一瞬だけ時間の流れから置いていかれたみたいな顔をするらしい。セリナの表情がまさにそれだった。
「……アンタ、なにしとるん?」
後ろから顔を出したカイルが、「どうせまた変な夢でも見てたんだろ」とでも言いたげな軽い顔で部屋を覗き込み、そのまま固まった。さらにその後ろにいたレオンハルトは、事情を飲み込めていないぶんだけ反応が素直で、「おお」と間の抜けた感嘆を漏らした。
最悪だった。いや、さっき「最悪の一歩手前」と言ったが撤回する。いまが最悪だ。
「ち、違う!」
人類史上もっとも信用ならない第一声が、俺の口から飛び出した。
セリナが半目になる。カイルは口元を押さえている。レオンハルトは「違うって何がだ?」という顔をしていた。お前だけはまっすぐ育ってくれ。
「いや、違わへん部分を探すほうが難しい絵面なんやけど」
「これにはちゃんと深い事情が!」
「黒い下着を握りしめながら一人で熱弁しとる男に“深い事情”が存在するとしても、その時点でかなり怖いぞ」
「カイルお前は頼むから冷静な分析をするな! 余計に犯罪現場っぽくなる!」
テンペストが俺にしか聞こえない声で愉快そうに囁く。
「いい友人どもじゃねぇか。誤解に対する初動の速さが実に人間社会っぽい」
「元凶がなに他人事みたいに言ってんだ!」
俺が反射的にそちらへ怒鳴ったせいで、セリナたちの視線がさらに痛くなる。しまった。存在を知られていないテンペスト相手に、いつもの感覚で返すのはまずい。今のはどう見ても、俺が黒パンを持ちながら虚空へキレている危険人物である。
「……スコール」
セリナがいつになく慎重な声音で言った。
「ひょっとしてまだ熱ある? 昨日ずっと寝込んどったし、頭までやられたとかやないやろな」
「いや、頭はまあ元から多少おかしい自覚はあるけど、いまのはそういうんじゃなくて――」
「自覚あるんかい」
「そこで拾うな!」
カイルが部屋の中を見回しながら、わざとらしく咳払いした。
「説明してもらおうか。俺たちは親切で見舞いに来た。すると友人が、手に女性用らしき下着を持ちながら、部屋の真ん中で誰かと口論していた。これを自然に解釈できる余地が、俺にはほとんど見えない」
「俺にもだ」
「レオンまで同意するな! お前の同意はいま妙に重いんだよ!」
セリナはため息をつきながら部屋へ入り、後ろ手で扉を閉めた。そこから先の動きがやたらと慎重だったのが逆に傷つく。野生動物を刺激しないよう距離を取る飼育員みたいな気配がある。
「…ほな、ひとつずつ確認しよか。まず昨日一日、アンタは部屋で寝っぱなしやった。ウチらが何回か様子見に来ても起きへんかった。今日も昼になっても反応ないから、流石に死んでへんか確認しに来た。ここまではええな…?」
「ええよ。そこは完全に事実だ」
「ほな次。なんで起き抜けに黒いパンツ持っとるん?」
「そこが俺にもわからねぇんだよ!」
叫んだ瞬間、室内の空気が一段冷えた。よく考えれば「わからない」が通用する局面ではない。なにしろ物証が俺の手の中にある。世の中、理由がわからないのに所持していると余計にまずいものがあるが、これは間違いなくそのカテゴリに入る。
カイルがこめかみを押さえた。
「お前さぁ……。せめて『拾った』とか『誤って紛れ込んだ』とか、もう少し防御的な嘘をつけないのか」
「下手な嘘をつくと後で余計に詰むだろ! 俺は誠実なんだよ!」
「誠実な男は黒パンを握って虚空と喧嘩しない」
「ぐうの音も出ねぇ!」
レオンハルトが一歩前へ出て、俺の手元をじっと見た。いややめろ。お前の真っ直ぐな視線はいまこう、別方向に鋭い。
「それ、誰のだ?」
「それがわかったらこんな苦労してねぇよ!」
「いや、見覚えとかないのか?」
「……………………」
「あるんだな?」
「言質を取るな!」
セリナの目がすっと細くなる。
「見覚え、あるん?」
「いや、その、見覚えっていうか、完全に一致とまでは言わないが、記憶の片隅に類似資料が残ってるというか」
「犯罪者の供述みたいな言い回しやめてくれへん?」
「俺も好きでこうなってるわけじゃねぇ!」
テンペストが腹を抱えて笑っている。こいつを友人たちにも見せられたら、俺がどれだけ理不尽な目に遭っているか一発で理解してもらえるのに、現実は非情だった。見えるのは俺だけ。聞こえるのも基本は俺だけ。その結果第三者視点では、黒いパンティー片手に一人芝居を繰り広げる危険な成人男子が完成する。




