第6話 テメェが俺の宿主か?
床へ散らばった鎖の破片が、裸電球の鈍い明かりを受けて氷みたいに白く瞬いていた。
その光景が、従者どもの脳にどう映ったのかは知らない。少なくとも、ついさっきまで「庶民の分際で」だの「顔を潰して放り出せ」だの威勢よく吠えていた連中の喉から、今はそういう景気のいい台詞が綺麗に消えていた。代わりにあったのは、ひどくわかりやすい沈黙である。人は本気で理解の外にあるものを前にすると、意外なほど口数が減る。恐怖という感情は案外まじめな顔をしてやって来るらしい。
倉庫の中央には、さっきまで俺を拘束していた鉄柱が立っている。柱の足元には砕けた鎖、裂けた縄、飛び散った金具。少し離れたところには蹴り飛ばした男が突っ込んだ木箱の残骸が山になっていて、細かい木片が薄い埃と一緒に床を覆っていた。右手側の棚は半ば崩れ、ボルトや工具が床へばら撒かれている。鉄屑と木屑が混ざった足場は最悪で、まともに走れば滑るし、気を抜けば足首を取られる。戦うには鬱陶しい。相手を転ばせるにはちょうどいい。そういういやらしい環境だった。
その嫌な空間の中心で、俺の体はまるで準備運動でもするみたいに肩を回していた。
自分の意思で動いている感覚は、半分。
残り半分は、胸の奥から勝手に湧き上がってくる熱と衝動が俺の骨や筋肉や関節の隙間へ遠慮なく入り込んできて、それを内側から操っているみたいな気味の悪さだった。
痛みは消えていない。頬は切れているし、腹はまだ鈍く軋むし、肩は殴られた衝撃をちゃんと覚えている。なのに体の輪郭だけが奇妙なほど軽く、視界だけが赤黒く鮮明で、男たちの呼吸や重心移動の癖までくっきり見えてしまう。追い詰められた動物が急に刃を持ったみたいな、ひどくろくでもない感覚だった。
「……何だ、ありゃ」
誰かが掠れた声でそう言った。
うん、そこは俺も驚いてる。
驚いてはいるのだが、前へ出ている体のほうはそんな戸惑いに付き合う気がさらさらないらしい。唇の端が勝手に上がる。喉の奥にひっかかっていた血の味が、妙に甘く感じられる。良くない兆候だ。良くないとわかっているのに、もう一人の俺みたいなものは、むしろ機嫌が良さそうだった。
そんな空気を横から断ち切るように低い声が落ちた。
「……どけ」
響きは大きくない。怒鳴り声でもない。
それなのに、その一言だけで倉庫の空気が変わった。
ざわついていた従者たちが口を閉ざし、狭い空間の中をうろうろしていた視線までが、一斉に後方へ引く。誰かが慌てて半歩下がり、誰かが道を開ける。小物の騒ぎが一瞬で静まるのは、そこへ本物が来た時だけだ。そういう意味で、その声は十分すぎるほど説得力があった。
群れの後方、崩れかけた棚の陰からひとりの男がゆっくり歩み出てきた。
背が高い。俺より頭ひとつ分は確実に上だ。黒いロングコートの裾が埃っぽい床を擦り、歩くたびにその下の厚い脚が、鉄板の床へ重さを伝えるみたいな鈍い気配を残す。肩幅もある。胸板も厚い。鍛え上げたというより、使い込まれて硬くなった肉の塊をそのまま服の中へ詰め込んだような体躯だった。額から顎にかけて一本、古い傷が走っている。顔の右半分には機械めいた無機質さを宿した義眼が嵌め込まれていて、そのレンズ面が裸電球の光を受けて鈍く反射した。
歩幅は広くない。急ぎもしない。
それでも一歩ごとに、倉庫の鉄板がほんのわずか軋むように聞こえた。
その姿を見た従者たちが、今度は別の意味でざわめいた。
「カイルさん……!」
「やべぇ、出てきた……」
「直属が、前に出るってのかよ……!」
聞こえた名前に、俺は一瞬だけ眉をひそめた。
カイル。
よりにもよってカイルか。
俺の悪友と同じ名前を、こんな場末の殺気をまとったおっさんに使われると、なんだか妙な気分になる。いや、名前に罪はないが、俺の知っているカイルはもっとこう、情報屋めいたニヤケ顔で「面白くなってきたな」などと軽口を叩くタイプであって、倉庫の奥から出てくる黒コートの圧殺機械ではない。名前の印象がだいぶ違う。今度から心の中で区別しないとややこしそうだな、と変なところで冷静なことを考えた。
目の前へ出てきた男――カイルと呼ばれたそいつは、仲間の肩を気軽に押し退けるような仕草で前へ出た。軽く触れただけに見えるのに、押された側は逆らう気配すら見せない。力の差というのは、そういう雑な動作の端々に出る。こいつは群れの中でも別格だ。従者たちの頭で、しかも喧嘩の延長ではなく、仕事として暴力を扱う側の人間。そういう空気をまとっていた。
義眼がこちらを向く。
レンズの奥で、何かがかすかに駆動するような音がした気がした。
「……ようやく強そうなのが出てきたなぁ」
口が勝手に笑いながら言う。
俺自身の内側では、「おいちょっと待て」と思っているのに、前へ出ているほうはまるで旧友に会ったみたいな気安さだった。恐怖がない。むしろ、ひどく楽しそうだ。胸の奥で竜核めいた熱が脈打つたび、その愉快さに油が注がれていく。
「いいじゃねぇか。やっと退屈しねぇ相手が来たってわけだ。なあ、おっさん」
その呼びかけに、倉庫の温度がわずかに下がった気がした。
従者たちの顔へ、「お前それ言うのかよ」という戦慄と呆れが同時に浮かぶ。
「おっさん、だと?」
カイルの口元が、ほんの少しだけ吊り上がった。笑っているのか、怒る前に形だけ整えたのか、その境目がわからない笑みだった。義眼の表面で光が一度だけ流れ、そこからじわりと重い気配が広がっていく。圧迫感というのは、別に見えない力場が発生するわけではない。ただ、その人間の力量が明らかに巨大な“質量”を帯びているとわかった時、人は勝手に息苦しくなるものなのだ。
「……口が減らねぇな、特待生風情が」
低い声だった。
怒鳴ってもいないのに、音の端が冷たく耳に引っかかる。
カイルはコートの裾を軽く払って前へ立った。拳を構える、その動作ひとつに無駄がない。肩が上がらない。肘が流れない。重心は深く落ちているのに、沈みすぎていない。長く実戦をやってきた人間の立ち方だ。教官や上級生の模擬戦でも、似た雰囲気を見たことがある。だがそれとは少し違う。もっと実利的で、もっと容赦がなくて、勝つために必要なことだけ体へ残したような立ち方だった。
「庶民の分際で、ヴァレンタイン様へ喧嘩を売る度胸は認めてやる」
カイルが言う。
「その度胸が身の程知らずなのか、本当に骨があるのか、ここで現実を叩き込んでやる」
「ははっ! そう来なくっちゃな!」
俺の肩が愉快そうに回る。両手がぶらりと揺れ、指先がわずかに開く。赤黒い視界の中で義眼の光だけが異様にはっきりしていた。胸の奥の熱はもう、警告より催促に近い。もっと遊べ。もっと壊せ。もっと強いやつを寄越せ。そんな性質の悪い囁きが、血流に混じって全身を巡っていた。
床を蹴る音がしたと思った時には、カイルの姿が目の前から消えていた。
速い。
ただ大柄なだけじゃない。
重量のある体を、あの速度で前へ滑らせられるのは反則に近い。
義眼が閃き、拳が風を裂く。こちらの顔面へ一直線に伸びてくる軌道は、単純なくせに迷いがない。避けた先まで見越して、途中からほんの少しだけ角度が変わる。軌道修正の癖がほとんど見えない。踏み込み、肩の開き、拳の返し、その全部がひとつの動作として完成しきっていた。
「おっとォ、速ぇな!」
口では笑った。
体は身をひねる。
避けるつもりだった。ほんの少し首をずらせば、拳は空を切る。そう判断したわずかなその“甘さ”へ、拳の先端が噛みついてきた。
頬を掠める。
皮膚が裂ける。
熱い痛みと一緒に、細かな赤い雫が散った。
掠めただけ。なのにこの切れ味か。
拳に質量があるというより、軌道そのものへ刃が仕込まれているみたいだった。
「……ッはは! やるじゃねぇか! いい腕してんじゃん!」
口の端へ滲んだ血を舌でなぞる。鉄の味が広がる。
それを感じた瞬間、胸の奥の竜核がさらに脈を速めた。
カイルは間を置かない。最初の一撃が本命じゃないことは、体勢の残り方でわかった。左足が半歩残り、腰が沈んだまま。続くと理解した時には掌底が胸元へ迫っていた。
「調子に乗るな、小僧!」
掌底を、俺は咄嗟に両腕で受けた。
ズシン、と表現するしかない重さが骨へ来る。
派手に弾き飛ばされたわけではない。そういう荒っぽい力じゃない。体の芯へまっすぐ沈み、受けた側の構造そのものを押し潰しにくる重さだ。腕の骨がみしりと鳴り、肩の関節がひどく嫌な角度へ押し込まれる。まともに食らっていたら胸骨が危なかったかもしれない。
「ぬおっ!? 重っ……!」
笑いながら口はそう言う。
内側の俺は笑っていない。
あぶねぇな、おい。今の、普通にヤバいだろ。
面白いことに、痛みへ反応したのは恐怖より先に熱だった。
衝撃が骨を伝うたび、胸の奥で何かが反響する。竜核が殴られたわけでもないのに、体の損傷を餌にするみたいに熱を増していく。その感覚がひどく気味悪い。痛みが力へ変換される、という表現は、熱血ものの主人公が言えば格好いいのかもしれない。実際に自分の体でそれを味わうと、「お前それ、まともな生き物の機能じゃないだろ」という感想しか出てこない。
「いいねぇ……!やっと“少しは遊べる”相手が見つかったぜ!」
声が倉庫に響く。獰猛なのに、妙に陽気だ。
壁際へ下がった従者たちは、もう完全に口を挟まなくなっていた。さっきまでなら「やっちまえ」だの「潰せ」だの好き勝手言っていた連中が、今は一歩でも前へ出ると巻き込まれるとわかっている。倉庫の隅、崩れた木箱や倒れた棚の陰へ半ば身を隠しながら、ただ様子を窺っているだけだった。
カイルの巨体が沈む。
膝がわずかに曲がる。
その挙動を見た途端、体のほうが勝手に危険信号を鳴らした。
「笑っていられるのも今のうちだ」
低く言うや否や、カイルは床を抉るように踏み込んだ。
今度は拳じゃない。肩から入る突進。目で追えたのは最初の一歩だけで、そのあとはもう、黒い塊が空間を圧縮しながら迫ってくるとしか表現できなかった。
「――ッ!?」
避け切れない。
読んだところで、間に合う速度じゃない。
肩口へ衝撃が炸裂する。
体が横へ持っていかれる。
倉庫の壁があっという間に近づき、背中から鉄骨ごと叩きつけられた。金属がひしゃげ、コンクリートの粉塵が弾ける。視界が一瞬だけ白くなる。肺の空気が全部押し出され、喉が焼けた。
「ぐっ……ははっ! 重てぇなァ!」
笑っている場合ではないのだが、もう1人の「俺」は焦るそぶりもなく本当に楽しそうだった。
胸の奥が燃える。
危機感より先に、もっと来いという衝動が湧いてくる。
カイルはそこで止まらなかった。正拳、掌底、肘打ち、膝蹴り。動きは豪快なのに、ひとつひとつがきっちり急所を拾いにくる。大ぶりに見えて、最短距離で届くように調整されている。長く鍛えてきた戦士の動きだ。しかもただ鍛えたのではなく、実際に壊してきた人間の手つきだ。受ける側は嫌になるほどわかる。
「くそっ……!」
腕を交差させ、肘で逸らし、足を引いて角度を外す。受けるたび衝撃が骨へ沈む。しゃれにならないくらい重い。筋肉の厚みではなく、全身の使い方が重いのだ。腰から足裏まで全部を一撃へ乗せてくるから、受ける側の構造ごと潰しにくる。
ふざけんなよ、おっさん。
強すぎるだろ。
その文句を、前へ出ているほうは歓声に変えていた。
「ははっ……! 悪くねぇ!」
俺の拳が閃く。顔面を狙った直線。今の視界なら当たるはずだ。そう思ったところで、カイルはほんのわずかに首を傾けてそれを外し、伸びた腕を肘の少し上で掴んだ。掴むというより、腕の動線をさらうみたいな自然さだった。そのまま腰を切り、俺の体を横へ投げる。
「ぐおっ……!」
床が背中を削る。鉄屑と木片が服の上から食い込み、火花みたいな痛みが走る。転がった勢いで崩れた棚の脚へぶつかり、金属の箱がひとつ落ちて脇を掠めた。倉庫の空間は広いくせに、転がると障害物ばかりが手足へ絡みついてくる。上から見れば大ざっぱな長方形の倉庫なのに、内部は作業区画、資材置き場、搬送レールの残骸、梁を支える柱、階段もどきの金属足場と、細かいものがいちいち邪魔をしてくる。その煩わしさが、戦闘になると途端に立体的な罠へ変わる。こういう場所へ慣れているのか、カイルの足運びは崩れない。俺のほうは笑いながら転がっていた。くそ、楽しそうだな本当に。
「さすが群れのボスってだけはある……! いい腕してやがる!」
ゆらりと立ち上がる。
赤黒い視界の向こう、カイルはすでに次の間合いを取っていた。壁際まで下がった従者たちの肩越しに義眼が薄く光っている。
胸の奥で、竜核がさらに脈打った。
ずん、ずん、と、心臓とは別の場所で鳴る鼓動。
そのたびに血管の中身が熱を増し、皮膚の下を何かが這い回る。
「けどなァ……」
言葉と一緒に、肩甲骨のあたりから熱が噴き出した。
背中が膨らむ。
皮膚の下で何かが伸びる。
骨格が、ほんの少しだけ人間からずれていく感覚。
倉庫の空気が震えた。裸電球が一斉に揺れ、鉄骨の梁がギシギシと悲鳴を上げる。崩れた棚の上に積まれていた空箱が、振動だけでひとつ、ふたつと床へ落ちた。熱風が抜け、散っていた埃が渦を巻く。広い倉庫の奥行きが、急に浅く感じられる。空間そのものが、俺の背中から噴き出した何かに押されて狭まっていくみたいだった。
「……もっとだ。まだまだ物足りねぇんだよッ!」
叫んだ瞬間、背後へ黒紫の翼が広がった。
幻影だ。
物質としてそこにあるわけではない。
それでも、見た者が息を呑むには十分だった。
夜色の膜を引き裂いたような大きな翼が、俺の背中から半透明の熱をまとって左右へ伸びる。輪郭は揺らぎ、羽ばたいているのか燃えているのかさえ判然としない。ただ、その存在感だけは圧倒的だった。熱風が倉庫を吹き抜け、壁際の木片や紙切れが巻き上がる。倒れた棚の上で工具が跳ね、鉄骨の接合部が嫌な音を立てる。人がいて倉庫があって、その真ん中に人ならざるものの影が立ち上がる。そういう、夢の悪いところだけ現実へ持ち込んだみたいな光景だった。
初めて、カイルの表情が硬くなった。
ほんの一瞬。
それでも十分だった。
義眼の奥で演算でも走ったのか、レンズ面に細い光が流れる。戦士の直感が警鐘を鳴らした時、人は目だけでなく肩の角度も変わる。カイルのそれも、わずかに変わった。
「小僧……お前、何を抱えてやがる……!」
「知りてぇなら……体で味わわせてやるよ!」
答えたのは、俺だ。
けれど、半分は俺じゃない。
床を蹴る。
破裂音。
鉄板が割れた。さっきまで俺を拘束していた柱の足元から、蜘蛛の巣みたいな亀裂が走る。倉庫の中央区画は全面が鉄板張りだったはずなのに、その一部が薄い煎餅みたいにへこみ、裂け、その下のコンクリートまで砕けた。
拳が前へ出る。
赤黒い残光を引く。
カイルも同時に踏み込んでいた。義眼が閃き、黒コートが風をはらむ。こちらの異形を前にしても、退かない。そこは純粋にすごいと思う。まともな感想かどうかは怪しいが、少なくとも、強い相手に真正面からぶつかってくるその図太さは嫌いじゃない。
拳と拳がぶつかった。
轟音。
衝撃。
空気が殴られて爆ぜる。
倉庫の中央にあった木箱がまとめて吹き飛び、崩れた棚の残骸が横転する。壁際に積まれていた鉄材がずれて、レールの上を滑るように数メートル先まで飛んだ。壁の一部が軋み、継ぎ目から外の夜気が鋭く吹き込む。裸電球のひとつが耐えきれず割れ、暗闇が一段濃くなる。その暗がりの中で残った光が粉塵へ乱反射し、世界が白く濁った。
従者たちは悲鳴を上げ、木箱の陰や倒れた棚の裏へ必死に身を隠した。さっきまで人を玩具みたいに笑っていた連中が、自分の頭上へ降る木片と鉄屑から身を守るのに精一杯になっている。因果応報ってこういう場面で使っていいのかは知らないが、気分としては近かった。
粉塵の中心で、俺は息をしていた。
荒い。
熱い。
肺へ入る空気まで燃えているみたいだった。
向こう側で、カイルも構えている。義眼はまだ光を失っていない。拳を受け止めた腕から鈍い音がしたはずなのに、崩れない。黒コートの袖は裂け、前腕の筋肉が露出している。皮膚は赤く腫れ、血管が浮いていた。まともなダメージが入っているのに、それでも立っている。大したおっさんだな、本当に。
その光景を見た途端、胸の奥の何かが笑った。
楽しそうに。
心底愉快そうに。
――ほらな。面白ぇだろ。
声がした。
耳から聞こえたわけじゃない。
頭の内側。もっと深いところ。
骨髄へ響くみたいな、ひどく馴染んだ低い声。
その声を、俺は知っている。
◇
初めてそいつを見たのは、学園へ入ってまもない頃だった。
あれが夢だったのか、記憶の断片だったのか、あるいは竜核が勝手に見せた侵食の映像だったのか、今もよくわからない。わからないが、少なくともあの夜に見た景色の手触りは、現実の何より鮮明だった。
俺は草原に立っていた。
どこまでも平らな大地だった。足元の草は風に撫でられて銀色の波をつくり、遠い地平線は薄く霞んでいる。空は高く、抜けるように青い。雲はゆっくり流れ、陽の光は妙にあたたかい。戦場でも訓練場でも学園でもない、世界から「閉じ込めるもの」だけを取り払ったみたいな広さだった。そんな場所に立つ感覚を俺は知らないはずなのに、懐かしいと感じた。記憶喪失というやつは厄介で、自分にないはずの郷愁まで勝手にこしらえてくる。
声が響いたのは、そのときだ。
――テメェが俺の“宿主”になるやつか?
低い。
荒っぽい。
それなのに、不思議と耳へ痛くない声だった。威圧感はあるのに、拒絶したくなる類の圧じゃない。胸の奥へじかに落ちてきて、そこで当たり前みたいに鳴っているような声だった。
振り返る。
そこで、俺は言葉を失った。
竜がいた。
巨大だった。
というより、“巨大”という一語で済ませるのが申し訳なくなるくらい、空間の感じ方そのものを変える大きさだった。
草原の向こう側に、いや、草原そのものを背負うみたいに、黒紫の巨体が横たわっている。頭部からは二本の角が天を裂くように伸び、鱗は夜の色を塗り固めたみたいな光沢を帯びていた。長い尾が地面へ触れるたび、草の波が遠くまで伝わる。翼はたたまれているのに、それでも山脈の稜線みたいに大きい。金色の瞳だけが異様に澄んでいて、その視線に射抜かれた瞬間、恐怖より先に胸の奥を掴まれるような感覚が走った。
それは畏怖だった。
憧れでもあった。
そして妙に腹立たしいことに、どこかで「かっけぇ」と思ってしまった自分もいた。
「……お前は……誰だ?」
ようやく絞り出した俺へ、竜は鼻を鳴らすみたいに低く笑った。
――俺の名はテンペスト。嵐を喰らい、天を裂くもの。
――テメェの血に眠る“竜核”の声でもある。
竜核。
知らない言葉のはずだった。
それなのに、その響きはずいぶん昔から胸の中にあったみたいに、あっさり俺へ馴染んだ。
テンペストと名乗った竜は巨体を少し持ち上げ、鼻先で空を示した。
――見ろ。
言われるままに空を見上げる。
そこには、無数の影が舞っていた。
白銀。紅蓮。漆黒。蒼。緑。骨だけのもの。光でできたもの。輪郭すら曖昧なもの。ありとあらゆる竜の残影が、雲の上を渡る川みたいに空一面を流れている。飛んでいるというより、記憶が空へ放たれているみたいな光景だった。ひとつひとつは掴めない。けれどそこに確かに“いた”ものの重みだけが、圧倒的な実感を伴って迫ってくる。
――あの空を渡っていくには、俺の背に乗っていくしかねぇ。
――覚悟はできてるか?
その言葉に、胸の奥がひどく熱くなった。
苦しい。
怖い。
なのに、抗えない。
テンペストの金色の瞳は、獲物を見る肉食獣の目つきと、長い旅路の果てでようやく見つけた何かを見つめる目つきが、奇妙な形で同居していた。俺はあの時、自分が選ばれたのか、捕まったのか、あるいはただ見つけられただけなのか、最後までわからなかった。わからなかったが、その日から胸の奥に、確かに“もう一つの鼓動”があるのを知ってしまった。
◇
「……ッ」
息を吸った瞬間、粉塵が喉へ入り、そこでようやく意識が現在へ引き戻された。
倉庫だった。
視界の前、カイルが壁へ叩きつけられている。分厚い鉄骨がひしゃげ、床には放射状に亀裂が走り、割れた壁の隙間から外の夜気が冷たく吹き込んでいた。さっきまで倉庫の中心を支えていた空間のバランスが、まるごと少し傾いたみたいだった。
そして、ゆらりと立っているのは――俺だ。
俺、なのだが、鏡で見たくない種類の俺だった。
両腕は赤黒い鱗に覆われている。人の肌が熱で焼けただれたわけではない。もっと明確に、別種の質感を持った皮膜が腕を包んでいた。指先には鉤爪が覗き、爪というより、肉の奥から押し出されてきた刃みたいに見える。背中には黒紫の幻影の翼。完全に実体化しているわけではないのに、空気を押しのけるには十分な存在感を持っていた。視界の端へ映る自分の影さえ、人型から少しずつ外れ始めている。
吐息が熱い。
歯が長い。
瞳の焦点が、人のものと少し違う。
半竜人。
そう呼ぶしかない異形だった。
「ひ、ひぃっ……!」
「ば、化け物だ……!」
「カイルさんが……やられた……!?」
従者たちが次々と後ずさる。
さっきまで鉄パイプを肩に担ぎ、こちらの尊厳を踏みにじる相談をしていた連中が、今は壁際で小動物みたいに震えている。その反応は実に正直で、だからこそ余計に腹が立つ。恐れるくらいなら最初から人を倉庫へ拉致って縛るな。
「……ははっ……」
喉から漏れた笑いは、自分のものではなかった。
半分は俺。
残り半分は、テンペスト。
愉悦が混ざっている。
血を求める獣の笑い方だ。
胸の奥で竜核が脈動する。もっと暴れろ、もっと壊せ、もっとこいつらの骨が鳴る音を聞かせろ、と煽るみたいに熱を送り込んでくる。理性はまだ残っている。残っているが、薄い。まるで平らな氷の板の上へ、熱した鉄球を何個も置かれているみたいな心もとなさだ。このまま踏み越えられたら終わる。俺が俺のまま戻れなくなる線は、たぶんそんなに遠くないところへ来ている。
「……出てくんな……大人しくしてろ……」
必死に絞り出した声は、自分で聞いても震えていた。
テンペストが、頭の奥で笑う。
――覚悟はもうできてんだろ?
その囁きと一緒に、爪先から火花が散った。
床の鉄板へ熱が走り、小さく焦げた匂いが上がる。従者たちが悲鳴を上げて、さらに奥へ逃げる。倉庫の奥行きは十分あるはずなのに、連中にとってはどこまで下がっても安全圏がないらしい。
荒い吐息のまま、俺は自分の両手を見た。
人のものではない。
俺の意思だけで握られている拳でもない。
半年も前から、わかっていたはずだった。
この力は、単なる“ちょっと特殊な異能”なんかじゃない。俺の中にはテンペストという別の存在がいる。竜核は力の器官であると同時に、意思の通路でもある。便利な強化パーツみたいな顔をしていながら、その実、人格に手をかける気満々の危険物だ。わかっていた。見ないふりをしていただけだ。
――でも、まだだ。
ここで全部持っていかれるわけにはいかない。
学園も。
アイリスとの決闘も。
セリナたちとのくだらないやり取りも。
まだ、終わらせたくない。
俺は爪の生えた拳を、ぎり、と握り締めた。
その手の中で、確かな火照りと熱が軋む。
倉庫の外では夜の風が割れた壁の隙間から吹き込み、舞い上がった粉塵を冷たく押し流していた。奥では、倒れた棚の下敷きになりかけた従者が誰かに引きずり出されている。カイルは壁際で片膝をつき、義眼の光を細く揺らしながらこちらを睨んでいた。
俺の中の“もう一人”は、そんな状況をひどく楽しそうに眺めていた。




