第5話 竜の仮面
倉庫の外で鳴り始めた短い警報音は最初こそ遠かったのに、じわじわと耳の奥へ染み込んでくるような嫌な響き方をしていた。学園都市の警報は、本来ならもう少し理知的というか、冷静な顔で危機を告げる類の音だったはずだ。なのに今聞こえているそれはどこか焦っていて、しかも半端だった。訓練用の設備が誤作動を起こした時に鳴る補助アラートに似ている。聞き覚えがあるせいで、かえって不吉だった。
裸電球がまた一度ちらつく。
倉庫の天井は高かった。むき出しの鉄骨が蜘蛛の巣みたいに走り、その下を横断するメンテナンス用の細い通路が奥へ行くほど暗闇へ溶けている。床は全面が均一なコンクリートではなく、中央の広い作業区画だけが鉄板張りになっていて、端へ寄ると割れたコンクリの継ぎ目や油を吸い込んだ黒い筋が見える。壁際には木箱と鉄材の山、使われなくなった搬送レール、錆びたフック、荷重用のチェーンブロック。整理されているようでいて、実際には雑然としていた。人を殴るには広く、人を隠すには都合がいい。そんな感じの場所だ。
人間、殴られ続けると痛みのほうが先に諦めるらしい。
もちろん、痛くなくなるわけではない。そこを勘違いしてはいけない。頬は頬で焼けるように痛いし、腹は腹で内側から雑巾みたいに絞られているし、脇腹は呼吸のたびに鈍く軋む。手首は縄と鎖で擦れて熱を持ち、肩は柱へ打ちつけられた衝撃でじんじん痺れている。痛覚は全部ちゃんと仕事している。むしろ休まず張り切って仕事をしている。問題は、あまりに量が多すぎるせいで、脳のほうが「もう細かく報告しなくていいから、全部まとめて最悪ってことにしといてくれ」と雑な処理を始めるところにある。
今の俺は、まさにその“全部まとめて最悪”の真っ最中だった。
殴られる。蹴られる。笑われる。拘束された体はまともに動かせず、呼吸ひとつ満足に整わない。裸電球の薄暗い明かりの下で、男たちの靴底がコンクリートを擦るたびに細かい砂埃が舞い、血と汗と錆の匂いが鼻の奥へこびりつく。倉庫の天井は高く、鉄骨の梁がいくつも交差し、その影が床へ黒く落ちている。壁際には木箱や古い資材が山積みになっていて、ところどころにパレットやドラム缶が転がり、足場としては最悪だが壊すにはちょうどいい物が揃っていた。そんな場所の真ん中で柱へ縛られた俺は、ひどく間抜けな見世物にしか見えなかっただろう。
実際、連中はそういう目で俺を見ていた。
「おい、まだ息してるぜ」
「しぶてえなあ。気に入らねえ」
「根性だけは一人前かよ。庶民のくせに」
「その根性、顔の形が残ってるうちに捨てさせてやれって」
笑い声が渦を巻く。
鉄パイプの先が床を叩く。
誰かが壁へ寄りかかりながら、カメラのレンズをこちらへ向けている。
正直に言おう。かなりまずかった。
ただしその“まずさ”は、普通の意味でのまずさとは少し違う。
このまま死ぬかもしれない、とか。
このまま本当に学園中へ情けない写真をばら撒かれるかもしれない、とか。
そういう危機感がないわけじゃない。ある。普通にある。あるが、それよりもっと根っこのところで、別の警戒が全身を引っ掻いていた。
――このままじゃ、アイツが出てくる。
その予感だけが、俺にとって本当の意味での“まずさ”だった。
俺は、ただの特待生じゃない。
その認識は、記憶を失ったあともずっと胸の奥に沈んでいた。自分が何者なのかを完全には思い出せなくても、体の使い方や、追い詰められた時の冷えた視界や、時々頭の中へ差し込んでくる実験室めいた断片が、「お前はまっとうな学生生活のために作られていない」と嫌になるくらい執拗に囁いてくる。
俺はかつて、帝国に属していた。
いや、属していたという言い方すら、少しきれいすぎるのかもしれない。兵士ですらあり、物ですらあり、その中間くらいのものだった気がする。人造魔導兵士。強化素体。被験体。用途ごとに名前を変えられる存在というのは、だいたいろくな目に遭わない。戦争が終わったあと、連邦に捕らえられ、調査資料として扱われ、そこから先も平和な保護生活にはつながらなかった。連邦は帝国ほど露骨に乱暴ではないが、だからといって優しかったわけでもない。研究室の白い光、冷えた器具、無機質な声。俺の体はずいぶん長いこと、“わからないものを理解するための材料”として調べ回されたらしい。
そしてその過程で、俺の中へ埋め込まれたものがある。
竜核細胞――《ドラギオン》。
名前だけ聞くと、どこか中二病の香りがしてしまう。実際、学園の誰かがこっそり考えた創作設定として聞かされたら、「はいはい、竜ね。翼とか生えて世界を焼く感じね」と適当に流していたかもしれない。困ったことに、これはそういう安い空想ではないらしい。エルディア大陸各地の遺跡や地下層から、化石化した巨大骨格とともに断片的に見つかる黒紫の核片。過去の記録では、古代に存在した竜族の残滓だとか、滅びた文明の記録媒体だとか、世界そのものの記憶を蓄積した器官だとか、学者ごとに言うことが微妙に違う。共通しているのは、あれに触れた研究者の末路が、だいたい碌でもないという点だった。
竜核細胞は、記憶を宿す。
しかも、人間に都合のいい形では宿してくれない。
断片的な映像、古代の言語めいた音、感情でも思考でもない巨大な圧力。触れた者の脳へ流れ込むそれらは、知識の贈り物というより侵食に近い。禁忌と呼ばれるのも当然だ。便利な力には、たいてい“便利であってはいけない理由”がくっついてくる。
その被験者に、俺は選ばれた。
帝国の兵士として作られた素体。連邦に回収された実験体。その肉体へ竜核細胞が埋め込まれた時点で、俺はもう普通の人間ではなくなったのだろう。自覚したくはないが、否定する材料もない。
普段は封じられている。少なくとも、そう説明された記憶の断片がある。制御術式だの封印機構だの、そういう単語が頭の奥でちらつく。だが、肉体が極限まで追い込まれ、理性が揺らぎ、死の一歩手前まで踏み込んだ時、その封は緩む。血管を走る熱、骨髄を焼く疼き、皮膚の下を這い回る異物感。あれが臨界点を越えると、俺の中から“俺じゃない何か”が這い出してくる。
「……やめろ……」
口の中だけで呟くつもりが、声になっていた。
掠れてほとんど吐息みたいな音だったが、それでも近くにいた男が面白そうに耳をそばだてる。
「なんだ? 命乞いか?」
「もっとはっきり言えよ。聞こえねえ」
「今なら泣いて謝れば、靴でも舐めさせて帰してやるぞ?」
うるさい。
頼むから、今は黙ってろ。
お前らに対しての“やめろ”じゃないんだよ。
このまま殴り続けるな。俺を煽るな。追い詰めるな。倉庫ごと巻き込むような何かを、これ以上刺激するな。そういう意味での“やめろ”だ。
俺自身が一番よく知っている。
この体の奥で目を覚ますあれは、俺が思春期の勢いでアイリスとのデートプランを妄想している時の俺とは、びっくりするほど相性が悪い。あちらはたぶん、パフェを食べる時にスプーンの持ち方を気にするような繊細さを持っていない。というか持っていたら普通に怖い。
「おい、まだ反抗的な目してるじゃねえか」
「気に入らねえな、その顔」
「もっと叩き込め。夢見る根性ごと潰せ」
鉄パイプを握った男が一歩前へ出る。
肩から腕へかけて無駄に太い。さっきから何発か入れてきたやつだ。握り込みが強すぎて、金属の柄に指跡が浮いて見える。呼吸も荒い。興奮しているのだろう。追い詰められた相手を一方的にいたぶると気分が上がるタイプだ。最低だな、と思う反面、そういう最低さがこの場では一番危険だった。理屈で止まらない人間は、だいたい理屈を踏み越えて余計な一撃を持ってくる。
やめろ。
ほんとに、やめろ。
祈るように歯を食いしばった、その時だった。
胸の奥で、もうひとつの鼓動が鳴った。
心臓とは別の場所。もっと深い、骨の裏側みたいなところで、ずゥん、と低い響きが脈打つ。それは音というより振動に近く、体の中心から四肢へ伝わり、血の流れそのものを一瞬だけ逆巻かせた。熱い。熱いなんてもんじゃない。血が温まるとか、頭へ上るとか、そういう比喩の範囲をすっ飛ばして、全身の血管へ液体の火薬を流し込まれたみたいな灼熱が駆け巡る。背骨の節々が内側からこじ開けられ、骨髄へ熱した針を差し込まれるような感覚が連なって、視界の縁が赤黒くにじんだ。
「……っ、や……めろ……!」
喉の奥から絞り出した声は、もう俺の声というより、潰れた獣の呻きみたいだった。
従者の一人が笑う。
「お、いいねえ。やっと情けない声が出た」
「ほら見ろ。痛みはちゃんと効くんだよ」
「根性ある顔してても、所詮はガキだな」
違う。
そうじゃない。
情けない声を出しているのは、殴られて泣いてるからじゃない。お前らが今まさに、開けちゃいけない蓋を蹴り飛ばそうとしてるからだ。
胸の奥の鼓動が、もう一度鳴った。
ずゥん。
視界の中央へ、翼を広げた影が揺らめく。巨大な骨格。漆黒とも紫ともつかない光沢。瞳だけが赤く燃える、古い何か。夢の断片で何度か見た気がする。あるいは、記憶ですらないただの侵食かもしれない。どちらでも大差ない。目の前へ出てきてほしくないことだけは確かだった。
皮膚の下を、何かが這う。
筋肉の繊維一本一本が、別の生き物に置き換えられていくような気味の悪さ。
歯茎がむず痒い。顎が軋む。
肩甲骨の間に、見えない爪が食い込んでくるみたいな錯覚が走る。
「……やめろ、出てくるな……!」
意識の奥で叫ぶ。
声は届かない。届いたとしても、止まるような相手ではない。
わかっている。わかっているが、叫ばずにはいられなかった。
鉄パイプが振り上げられる。
裸電球の光を受け、その先端が鈍く白く光る。
男の肩が回る。肘が締まり、踏み込みの足が前へ出る。
頭が、それを克明に見ている。
避けられない。
今の体勢では無理だ。
その認識が先に来る。
そして、その認識を塗りつぶすように、全身の奥で何かが笑った。
――ズゥン。
鼓動が、今度は全身を貫いた。
視界が完全に赤黒へ染まる。裸電球の光すら濁って見える。瞳の奥が焼けるように熱く、思わず目を閉じかけたが、閉じるより早く別の感覚が目を開かせた。見える。さっきまでよりも、ずっとはっきり見える。筋肉が動く前の張り。呼吸の癖。重心の揺れ。振り下ろされる武器の軌道。倉庫の梁のたわみ。埃の流れ。全部が同時に、やけに滑らかな映像として頭へ入ってくる。
口の中で、歯茎がぎち、と鳴った。
犬歯が伸びる。
いや、伸びたと認識した時にはもう尖っていた。
「……ったく」
声が出た。
俺の口から。
けれど、その響きは俺のものではなかった。
「だらしねえな、お前」
低い。
乾いている。
獰猛なくせに、どこか呆れたみたいに軽い。
その声を聞いた瞬間、俺自身が一番ぞっとした。
ああ、来た。
出てきやがった。
鎖が軋む。
ギチ、ギチ、と、特殊合金だかなんだか知らない拘束具が、本来あり得ない角度へ引かれて悲鳴を上げる。手首を縛る縄がまず裂け、その下で鎖の輪がひとつ、ふたつと不規則に歪む。俺は立ち上がろうとしたつもりすらなかった。なのに体が勝手に前へ起き上がり、肩が回り、背筋が伸びる。柱へ固定されていたはずの金属が、それについてこられずに音を立てた。
バキィンッ!
甲高い破裂音が倉庫に跳ねた。
鉄の輪が砕け、破片が裸電球の明かりを弾きながら四方へ散る。コンクリ床へ落ちた欠片が、カラン、カランと乾いた音を立てて転がっていった。
「……なっ!?」
「嘘だろ、おい!」
「拘束具が――!」
従者たちが一斉にざわめく。
そりゃそうだ。俺だってびっくりしている。いや、びっくりしているのは俺の意識のほうで、体は妙に落ち着き払っていた。
ゆらりと立ち上がる。
膝が笑うどころか、さっきまでの痛みが嘘みたいに遠い。疲労もある。怪我もしている。そこは変わらない。なのに、体の内側へ別の燃料が流し込まれたみたいに四肢の隅々まで力が満ちていた。嫌な力だ。自分のものではない感じがする。だからこそ、よけいに強い。
首をぐるりと鳴らす。
肩を回す。
砕けた鎖の残りが腕から滑り落ち、床へ重い音を立てた。
その間にも従者たちは後ずさっている。
ほんの半歩。
でも、その半歩で十分だった。人は本能的な恐怖を隠す時ほど、足だけが正直に逃げようとする。
「囲め! 怯むな!」
大男が怒鳴る。
声に力はある。けれどその奥にわずかな揺らぎが混じったのを、今の俺ははっきり聞き取れた。
ああ、そうか。
怖いのか。
さっきまで笑っていたくせに。
「庶民が……!」
「化け物でも何でも潰せ!」
「一気に行け!」
怒号とともに男たちが動く。
四方から散っていた配置が、一斉に収束する。右手に鉄パイプ、左からチェーン、正面低めにナイフ、奥にいる二人は投擲用の短棒みたいなものまで構えていた。数と角度で押し潰すつもりだろう。倉庫の中央、柱の周囲は開けているが、少し外れると木箱と棚と資材の山が立体的に視界を邪魔する。普通なら、囲まれた側が圧倒的に不利だ。
普通なら。
「遅えな」
口が勝手にそう言った。
吐き捨てるようでいて、どこか楽しそうな声音だった。
その軽さが今の俺には一番気持ち悪い。
右から来た鉄パイプが、肩口めがけて振り下ろされる。
重い一撃。勢いもある。さっきの俺なら、まともに食らっていた。
体は、ほんのわずか首を傾けるだけで軌道の外へ出た。数センチ。たったそれだけで、風切り音だけが頬を掠め、鉄は空を叩く。振り切った男の脇腹が開く。見える。開きすぎだ、と思う。思った途端、右脚が床を蹴っていた。
「ほいっと」
ふざけた掛け声と一緒に、踵が男の胸板へ沈む。
沈む、という表現が一番しっくり来た。骨に当たった感触より先に、胸の中央へ何かを押し込み、そのまま背中まで突き抜けたみたいな手応えが足裏を通って返ってくる。男の体が軽く浮き、後方へ吹き飛んだ。背中から木箱の山へ突っ込み、箱板がばきばきと裂け、埃と木片を巻き上げながら棚ごと倒れる。高いところに積まれていた金具の入ったケースがひっくり返り、金属片が床へばら撒かれる甲高い音が連続した。
……いや待て。
今の、俺そんなつもりで蹴ってないぞ?
頭の中の俺が引く。
体のほうは笑っていた。
「おいおい、脆いな。倉庫の備品のほうが根性あるんじゃねえか?」
楽しそうだな、お前。
ほんとに楽しそうだな、お前!
左からチェーンが唸る。
横薙ぎ。間合いを広く取って、こちらの懐へ入れさせないつもりだ。悪くない。悪くないが、速さが足りない。鎖の節ひとつひとつまで見えてしまう今の視界では、その軌道はむしろ丁寧すぎるくらいだった。
俺は踏み込む。
普通は避ける場面だ。だが、体は前へ出た。冷たい鉄の輪が頬先を掠める寸前、片手でそれを掴む。掌へ食い込む感触。重さ。振り回した勢い。全部が腕へ伝わる。普通なら手の皮が裂けてもおかしくない。なのに、掴んだ瞬間の感覚は意外なほど軽かった。細い蛇を首のところで押さえた時みたいに、要は“そこを持たれたら終わり”という類の軽さだ。
ギチ、ギチ、と鎖が軋む。
引っ張ったつもりはなかった。
握っただけだ。ほんの少し、指へ力が入っただけで、金属の節が耐えきれずに順番に潰れ、最後には乾いた悲鳴を上げて砕け散った。
「は?」
「うそ、だろ……」
チェーンを持っていた男の目が、驚きのあまり間抜けなくらい丸くなる。
かわいそうに。人生のどこかで「金属は人より強い」と学んできたのだろう。だいたい合っている。今は例外が立っているだけだ。
「お次」
砕けた鎖を投げ捨てるより先に、体が近づいていた。肘がコンパクトに畳まれ、男の鳩尾へ鋭く突き込まれる。骨ではなく、呼吸を壊す角度。嫌に的確だ。食らった男は悲鳴すらまともに出せず、その場で目を剥いて膝から崩れた。
正面低めから、ナイフを持った男が滑り込んでくる。足音が小さい。腰も落ちている。こいつは他より少し慣れていた。狙いは腹ではなく、太腿か。動きを奪うつもりだろう。判断としては堅実だ。褒めてやりたいところだが、こっちは今それどころではない。
刃が来る。
体が半身になる。
指先が、ナイフの腹をつまむ。
キィン、と細い音が鳴った。
男の顔が凍る。
「お、よく研いでるな」
口が勝手に喋る。
「手入れだけは褒めてやるよ」
そこでほんの少し力が入った。
刃が折れる。
ぽきり、というより、硬い飴を噛み砕いたみたいに呆気ない感触だった。
「な――」
「手入れの方向を間違えたな」
拳が男の顔面へめり込む。
感触がやけに具体的で嫌だった。鼻梁、頬骨、歯列、そういうものが一瞬で拳へ返ってくる。男の体は背後へ跳ね、積まれたパレットへ背中から叩きつけられ、そのまま崩れた木材の間へ沈んでいった。
背後に気配。
考えるより先に体が沈み、右肩の上を何かが通る。棒状の武器。振り下ろしではなく、横からの打ち込みだったらしい。避けた勢いのまま半歩回り込み、肘が後ろへ突き出る。鈍い音。顎へ入った。男の頭が不自然に跳ね、涎と血が飛び、白目を剥きながら足元へ崩れ落ちる。
「ははっ」
笑いが漏れた。
自分のものなのに、自分のものじゃないみたいな笑いだった。
「いいじゃねえか。もっと来いよ。せっかく起きたんだ、退屈させんな」
倉庫の空気が一段冷える。
従者たちの顔から、さっきまでの余裕が消え始めていた。
「なんだよ、こいつ……!」
「さっきまでボロ雑巾みたいだっただろ!」
「化け物か!?」
化け物。
その言葉へ、心の奥の俺がぴくりと反応する。
否定したい。普通に嫌だ。俺はできれば学園生活の中で“化け物枠”ではなく、“ちょっと女好きで変な特待生枠”くらいに収まりたい。けど今ここで暴れている体のほうは、その評価にむしろ機嫌を良くしている気配さえあった。
「好きに呼べよ」
赤黒い視界の中、俺――いや、俺の体は口角を吊り上げる。
「庶民でも化け物でも、今はどっちでもいい。お前らをぶっ飛ばすのに、肩書きなんざ関係ねえだろ?」
大男が吠えた。
「ひるむな! 囲んで削れ! 脚を狙え、関節を壊せ! 一気に行くぞ!」
いい判断だった。
数がある側は、怖くなった瞬間にバラけると終わる。だから声で繋ぎ止める。しかも狙いを胴ではなく脚へ切り替えた。無力化優先だ。感情に飲まれて殴り合いへ移行しないあたり、やはりただのチンピラではない。
床の上で砕けた鎖がきらめく。散った木片が足場を不安定にし、倒れた棚が片側の通路を塞いでいる。裸電球のひとつがさっきの衝撃で揺れていて、明るさにむらがある。視界の奥には、積み上げられた木箱の列が倉庫をいくつかの帯状区画へ分けていて、中央は広いが両脇は狭い。戦うなら、本来は相手の数が生きない狭所へ誘い込みたいところだ。
体は、それをわかっていた。
考えるより先に、左側の箱列へ向かって走っていた。
ひとりが鉄パイプを振り下ろす。
木箱の角へ足をかけ、俺の体はその斜面を蹴り上がるみたいに高度を取った。上から振り返りざま、蹴り。男の肩口へ落とした踵が鎖骨のあたりを潰し、体勢を崩したところへ後続の従者がぶつかる。狭い通路に二人分の体が詰まり、後ろのやつらまで足を止める。上出来だ。数の優位を潰すには、整列を乱すのが早い。
そのまま箱列の上へ乗る。木板がきしむ。
視界が高くなる。倉庫全体の配置が俯瞰で見えた。
中央に大男。そこから左右へ散る六人。崩れた棚の向こう側に二人、カメラの男は入口寄りへ半歩下がっている。逃げ腰だな、お前。記録係が一番先に逃げるの、だいぶ格好悪いぞ。
「上だ! 落とせ!」
「棒持ってこい!」
「逃がすな!」
逃げてねえよ。
むしろ今、だいぶ生き生きしてるのがおっかねえよ。
投げつけられた短棒を、体が空中でひねって避ける。一本は後ろの鉄骨へ当たり、高い反響音を立てて跳ねた。もう一本は木箱の角を抉り、乾いた木屑が舞う。足場は狭いが、相手も上を意識し始めたぶん、下の動きが雑になる。
走る。
箱の上から箱の上へ。
嫌になるくらい体は軽かった。
さっきまで柱に縛られていたとは思えないくらい。
前から槍めいた長棒が突き出される。
倉庫用の鉄パイプを即席で使っているのか、長さだけは厄介だった。俺の体はその穂先――穂先ではないが、まあ気分としては穂先だ――を片手で押さえ込み、そのまま前方の男ごと引っ張った。相手は踏ん張るつもりだったのだろう。床に置かれた金属ケースが足に引っかかり、体勢が一瞬だけ浮く。そこへ箱上から飛び降りる形で膝を落とす。肩と首の間へ入った一撃に、男が悲鳴もなく潰れた。
着地。
木片。埃。
床が近い。
前、右、後ろ。三方向から同時。
「はっ、やっとまともになってきたじゃねえか」
自分の口から出る声が、ほんとうに癪だった。
楽しんでる。完全に。
こっちの精神は「いや楽しまないでくれ、後で困るのは俺なんだ」と全力で突っ込んでいるのに、前へ出ているほうはただ愉快そうに笑っている。
右からのチェーンを踏みつける。床と靴底の間で鎖が滑り、火花が散る。前から来た拳を手首で流し、肩を入れ替えるように懐へ潜り込む。相手の肘関節を逆へ押し込み、そのまま背負い投げじみた崩し。男の体が弧を描き、後ろから突っ込んできたやつと正面衝突した。二人まとめて転がる。そこへ左からナイフ。低い。いい狙いだ。体はつま先だけで軸を変え、刃を脇腹のすぐ外へ逃がす。すれ違いざまの肘打ちがこめかみを捉え、ナイフ持ちが壁へ頭をぶつけて沈んだ。
音が多い。
鉄と木と肉のぶつかる音。
怒号。悲鳴。足音。
裸電球の揺れる金具がかちかち鳴る小さな音まで、今の耳には妙に鮮明だった。
奥の高棚へぶつかった男が、積んであった工具箱を落とす。スパナやボルトが雨みたいに降り注ぎ、床へ散って足場がさらに悪くなる。こういう状況で慌てたやつは大体滑る。実際、二人ほど派手に足を取られ、転んだところへ味方の膝蹴りが入っていた。連携が崩れ始めている。よしよし、と口が笑う。よくない。全然よくない。俺の学園生活的には最悪だ。だが戦況だけ見ればよくなっているのがまた腹立たしい。




