第2話 解決方法は一つ
俺がアイリス・ヴァレンタイン嬢とデートしたい――いや、もう少し正確に言うなら、何がどうあっても一度は正式にデートへこぎつけたい、と固く決意したのには、もちろんそれなりの理由がある。
ここは重要なところだから最初に言っておきたいのだが、俺は別に、学園一の高嶺の花だから狙っているとか、周りの男子が手を出せない相手に挑む俺カッケー、みたいな安っぽい虚栄心で動いているわけじゃない。そこだけは誤解しないでほしい。いや、読者がいるわけじゃないから誰に弁明しているのか自分でもよくわからないのだが、少なくとも俺の中では大事な問題である。
男が美少女を好きになるのに、いちいち理屈なんか要るのかと言われれば、たぶん要らない。
綺麗だから好き。可愛いから好き。優しいから好き。強いから好き。そういう単純明快な感情は、それだけで十分に尊い。俺だってそのくらいはわかる。むしろ、その手の理屈抜きの感情には人一倍理解があるつもりだ。なにしろ俺はかなり健全で、かなり素直で、かなりどうしようもなく思春期まっただ中の男子だからである。
だけど彼女、――アイリスに関しては、それだけじゃない。
断じてそれだけじゃない。
……まあ、発端を辿るとわりとどうしようもない一幕に行き着くのも事実ではあるのだが。
ともかくその話をする前に、まず前提としてこの《アーク・アカデミア》という場所がどんなところかをもう一度整理しておこう。
アーク・アカデミア。
連邦最高峰の異能学園にして、兵士養成都市。
各地から選び抜かれた優秀な若者たちが集まり、異能制御、戦術理論、政治教養、現代兵装、霊素工学、集団戦訓練など、ありとあらゆる教育を叩き込まれる、将来の国家戦力育成機関である。
つまりここにいる連中は、名目上は未来の盾だ。
国家を守る戦士の卵だ。
いずれ戦場に立ち、祖国を背負い、歴史のうねりに巻き込まれていくかもしれない連中だ。
なのに。
「昨日、彼女と夜通しで水辺区画デートしてさぁ。朝焼けのマナ障壁がすげー綺麗でさ」
「お前それ、デートの感想じゃなくて景観の感想じゃね?」
「いやいや、景観込みでロマンだろ。お前も彼女作れよ」
「俺はこの前ついに卒業したわ」
「なにをだ?」
「童貞をだよ、へっへっへ」
「朝から言うことかそれ!?」
寮の食堂に行けば、こんな会話が普通に飛び交っている。
訓練終わりの更衣室では、上級生どもが「あの子は笑うと犬っぽくて可愛い」だの「いや、むしろ副会長の脚線美は芸術」だの、「今度の休暇申請は外泊込みで攻める」だの、とにかく色恋沙汰にうつつを抜かしている。
なんなんだ、こいつら。
ここは兵士育成機関じゃなかったのか。
未来の国家戦力ってこんなにふにゃふにゃしてて大丈夫なのか。
俺はわりと本気で思ったことがある。
連邦は兵士を育てているつもりで、恋に浮かれた若者を量産しているのではないかと。
もちろん青春を否定するつもりはない。そこは誤解してほしくない。俺だって青春は好きだし、むしろ積極的に参加したい側の人間である。だけど参加したいのと、参加している他人を見て心乱されるのとでは話が別だ。
こっちは毎朝きっちり起きてランニングをして、基礎体術を磨き、夜にはマナ制御のイメージトレーニングまで欠かさない。寮のベッドで寝転がりながらでも、呼吸と体内霊素の巡りを揃える訓練くらいはしている。授業ノートだって意外と真面目に取っているし、実技だってふざけているように見えて、要点は外していないつもりだ。
なのに周りの連中ときたらどうだ。
昨日誰それと目が合った、誰それにお弁当を作ってもらった、どこのカフェの季節限定ケーキが二人で食べるとちょうどいい量だった、などと、国家防衛とは一見まったく関係のなさそうな報告を、さも重要情報みたいな顔で共有しているのである。
極めつけには、寮内で流れていた最悪の噂だ。
「聞いたか? 教官のひとりと関係持ってる生徒がいるらしいぞ」
「は?」
「いや、噂だよ噂。でも、夜の研究棟で二人きりで会ってるのを見たとかなんとか」
「それ、普通に補習か指導じゃないのか?」
「お前は純粋だなぁ」
「お前は汚れすぎだろ!?」
いやほんとに、なんなんだ。
兵士の風上にも置けない。
連邦の未来は大丈夫なのか。
こっちはこっちで真面目に鍛錬して上を目指そうとしているというのに、隣を見れば恋バナ、前を向けば惚れた腫れた、後ろを振り返れば不穏なゴシップである。
俺は思っていた。
自分はそんなものに振り回されるつもりはない、と。
兵士たるもの、実力を磨き、訓練に励み、いずれはこの国を代表するエンハンサーとして出世する。異能と肉体、両方を鍛え上げ、どんな局面でも生き残れる人間になる。そこに余計な浮ついた感情は不要だ。恋だの愛だのは、余裕のあるやつがやればいい。
……少なくとも、あの日までは。
そう。
俺は見てしまったのだ。
あれはたしか、昼休み明けの講義棟だった。
授業の終わりを告げる鐘が鳴って、廊下に人があふれ始める、なんでもない日常の一場面である。教科書を抱えた生徒たちが流れ、窓から斜めに差し込む光が床の石目を照らし、遠くで誰かが「次、実技だるい」と文句を言っていた。
俺はそのとき、いつものようにぼんやりと人の流れを眺めていた。
というのも、次の授業が上級戦術論で、教室移動の途中だったからだ。カイルたちは先に行っていて、俺だけ少し遅れていた。別に何かあったわけじゃない。強いて言えば、廊下の向こう側を歩いていた女子の髪飾りが可愛いなと思ったくらいで、実に平和な一瞬だった。
そこへ、アイリス・ヴァレンタインが現れた。
人混みの向こうから、すっと歩いてくる。
銀髪が光を受けて淡く輝き、蒼い瞳はまっすぐ前を見据えている。背筋はすっと伸び、歩幅は乱れず、ほんの少し制服の裾が揺れるたびに周囲の空気まで整っていくような錯覚があった。
不思議なものだ。
人はあまりに完成度の高い存在を見ると、逆に現実感を失う。
廊下を歩いているだけなのに、なぜか周囲だけ舞台みたいに見えるのだ。ざわついていた生徒たちの声が一瞬だけ遠のき、すれ違う男子が無意識に道を開け、女子たちでさえ軽く居住まいを正す。あれを威圧と呼ぶには柔らかすぎる。だけどたんに“存在感”と呼ぶには、少しばかり強すぎた。
俺は、その姿をぼんやり見送るつもりだった。
たぶん、それだけならよかった。
問題は、その直後に起きた。
彼女が階段を上がろうとした、その瞬間だった。
廊下を抜けた風がほんの少しだけ強く吹いたのだ。
ほんの少し。
実際には、たぶん紙一枚が揺れる程度だったと思う。
ただそのささやかな風のいたずらが、俺の人生を盛大に狂わせた。
「……黒、だと……?」
思わず、口の中でそう呟いていた。
いや、正確には声に出ていなかったと信じたい。出ていないはずだ。出ていたら今ごろ俺は学園の風紀委員に取り押さえられている。
見えてしまったのだ。
見えた。
見えてしまった。
しかも、ただの黒ではない。
黒い、細身の、妙に気品のあるやつだった。
俺はこの場を借りて強く主張したいのだが、世の中には“偶然見えてしまう一瞬”というものが存在する。そしてその一瞬は、ときに青年の魂へ致命的な爪痕を残す。別に俺は、見ようとして見たわけじゃない。神に誓って、あれは事故だ。風と階段と制服の裾の角度が、宇宙規模で悪魔的な噛み合い方をした結果でしかない。
だが、事故であろうがなんだろうが、見えたものは見えた。
時間が止まったように感じた。
いや比喩ではなく、本気でそう思った。
ざわめきが遠のき、廊下の音が消え、窓の外の鳥の声も教室から漏れていた雑談も、全部どこかへ行ってしまったように思えた。目の前の世界だけがやけに鮮明だった。階段の白い縁、銀髪の揺れ、制服のライン、そして――その一瞬の漆黒。
あれはもはや布ではない。
神託だ。
芸術だ。
世界が俺に向けて放った、あまりにも直接的な啓示だった。
もちろん、冷静になって考えれば馬鹿げている。
たかが偶然の一瞬だ。
人として、それを過剰に神聖視するのはどう考えても間違っている。
しかし男子高校生という生き物には、ときに間違いだとわかっていても取り返しのつかない方向へ心を持っていかれる瞬間があるのである。
その日から、俺の中で何かが決定的におかしくなった。
授業中、教官が「敵の行動を読む上で重要なのは事前兆候だ」と言えば、なぜか頭の隅にアイリスの姿が浮かぶ。
訓練場で踏み込みの角度を修正しようとすれば、記憶の奥であの一瞬がフラッシュバックする。
食堂で黒胡椒の効いたスープを見れば、黒。
夜に寮の窓から見える障壁の影を見れば、黒。
ノートに走り書きした作戦案を見れば、黒。
「くそっ……このままじゃ任務に集中できねぇ……!」
誰もいない中庭の片隅で、俺は本気で頭を抱えたことがある。
かなり深刻な問題だった。
なにしろ、これは単なるスケベ心の暴走ではない。俺の精神集中に明確な悪影響を与えていた。兵士候補生として、見過ごしていい事態ではない。
俺はそこで、真剣に考えた。
なぜ、こんなにも心が乱れるのか。
なぜ、あの一瞬だけでここまで意識を持っていかれるのか。
答えはたぶん、単純だった。
俺は最初から、アイリスに惹かれていたのだ。
完璧すぎて近寄りがたい。
未来を読み、誰より強く、誰より正しく、美しく、気高く振る舞う。
そんな彼女に対して、たぶん俺はずっと遠巻きに見上げるだけの憧れを抱いていた。
そこへ、あんな“人間らしい偶然”を見てしまった。
完璧な彫像だと思っていた相手が、急に血の通った一人の女の子として目の前へ落ちてきたのだ。
だから駄目だった。
心の距離感が、一気に狂った。
あれで俺は、アイリス・ヴァレンタインを“連邦の至宝”とか“学園首席の才女”とかいう、遠い肩書きでは見られなくなってしまった。あの人も同じように制服を着て、廊下を歩き、風に裾を揺らし、たぶん甘いものだって食べる。そういう生身の女の子なのだと、嫌でも理解してしまった。
そして理解した瞬間、もう駄目だった。
デートしたい。
ものすごくデートしたい。
できればカフェでパフェとか食べたい。
いや、パフェでなくてもいい。紅茶でもいい。なんなら学園都市の水辺区画を一緒に歩くだけでもいい。とにかくあの人と一対一で話してみたい。肩書きも実力差も家柄も全部いったん脇へ置いて、一人の男と一人の女の子として同じ時間を過ごしてみたい。
そこまで認めたところで、ようやく俺は理解した。
この邪念――いや、もう邪念と呼ぶのも失礼かもしれないこの感情を、正面から片づける方法は一つしかない。
そう。
彼女に告白することだ。
もちろん、ただ正面から行って玉砕するのは目に見えている。
普通に声をかけても、俺みたいな素行に若干難のある男子は警戒されるだろう。手紙を出しても門前払い。仮に会話できたとしても、相手は未来予測持ちの天才令嬢だ。こちらが口を開く前に、たぶん三手先まで読まれて終わる。
だったらどうするか。
答えは、もう出ている。
――デート券をかけた決闘。
このアーク・アカデミアでは、異能バトルが日常茶飯事だ。
個人間の因縁解決から成績査定、代表選抜、実技試験、時には学内イベントの余興に至るまで、やたらと決闘制度が活用されている。最初に知ったときは「この学校、話し合いの代わりにだいたい殴り合うな」と思ったものだが、今となっては実にありがたい文化である。
ルールの範囲内なら勝利条件の設定は可能。
なら勝った側が“一日デート”を要求するのも、まあギリギリ制度上は通る。
しかも俺は特待生だ。強化兵候補として、学園側も一定の実力と異能特性を認めている。相手が学園首席の令嬢だろうが、公式に挑戦する資格くらいはある。
そう考えた瞬間、俺の中で全部がきれいにつながった。
ただの欲望ではない。
ただの妄想でもない。
これはもう、恋と任務と青春の全部を兼ね備えた、きわめて合理的な作戦なのだと。
なにしろ俺は、自分の平常心を取り戻さなければならない。
訓練に集中するためにも、アイリスと正面から向き合い、この感情に決着をつける必要がある。向き合わずに遠くから見ているだけでは、たぶんいつまでも心がざわつく。だったらいっそ決闘して、勝ってデートして、話して、それでどう転ぶか確かめたほうがいい。
うん。
我ながらかなり筋が通っている気がする。
もちろん客観的に見ればだいぶ狂っている可能性はある。
しかし青春とは、客観視した瞬間にだいたいみっともなくなるものだ。
当事者の中でだけ成立する切実さこそが、恋を恋たらしめるのである。
たぶん。
きっとそうだ。
そうであってくれ。
そして、無事に決闘へ勝利した暁には――
「アイリス嬢! 俺と一緒にカフェでパフェ食べてくれ!」
と、できるだけ爽やかに、できるだけ健全に、そして内心ではかなり下心まみれのお願いをするつもりである。
なにが悲しくて、最初のデートでいきなり高級劇場だの夜景スポットだのへ連れていく必要がある。まずはパフェだ。甘いものは会話の潤滑油になる。座って向かい合える。スプーンの持ち方で品もわかる。口元にクリームがついたら、それはそれで心臓に悪い。完璧だ。
いや待て。
口元にクリームは危険すぎるな。
俺が正気を保てる自信がない。
やはり紅茶だけのほうがいいか?
だが高校生の初デートで紅茶だけというのも、なんだか貴族っぽくて気取りすぎではないか。むしろパフェのほうが親しみやすいか。いやしかしアイリスほどの令嬢が、そもそも学生向けのカフェでパフェなんて食べてくれるのか――
などと、考え始めると止まらない。
恋というのは恐ろしい。まだ挑戦状すら叩きつけていない段階で、デート先と注文候補と会話の導線まで脳内で組み立て始めるのだから。
だが、それもまた戦略である。
備えあれば憂いなし。
恋愛においても同じことだ。
だからその夜、俺は寮のベッドに寝転びながら、決闘に向けて何度も何度も頭の中でシミュレーションを繰り返していた。




