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第1話 学園都市アーク・アカデミアと“作戦会議”


挿絵(By みてみん)




 アーク・アカデミア。

 その名前を初めて聞いたとき、俺はてっきり、もっとこう、古めかしい石造りの校舎と蔦の絡まる図書館が並んでいるような、いかにも由緒正しい学園を想像していた。名門とか学院とかアカデミアとか、そういう言葉にはどうしても格式ばった響きがある。厳格な教師がいて、成績の張り出しがあって、朝から晩まで小難しい講義を受けさせられる、そんな古典的な学び舎だ。


 だが、実際に目の前に現れた《アーク・アカデミア》は、俺の予想を気持ちいいくらい裏切ってきた。


 まず、でかい。

 途方もなく、でかい。

 学園というより都市であり、都市というより、もう一個の国家みたいな規模をしていた。


 連邦の中枢部、その心臓に位置するこの学園都市は、中央学術区にそびえ立つ白亜の高層塔群を中心に、訓練ドーム、研究棟、実技演習場、学生寮、商業区画、医療施設、霊素炉管理局なんてものまで、放射状にきっちり整備されている。外縁部には《アイギスライン》と呼ばれる多層防壁が走り、上空には蒼白いマナ障壁が半球状に展開されていて、遠目に見ると都市全体が巨大なガラス鉢の中に閉じ込められているようにも見えた。


 夜になると、その障壁面に流れる魔力の筋が淡く光る。

 初めて見たとき、俺は少しだけ息を呑んだ。


 綺麗だった。

 そして同時に、怖かった。


 美しいものほど、時々とんでもない殺意を秘めている。あの障壁の向こうから何かが襲ってきたとして、学園はその瞬間に都市全体を戦闘モードへと移行させるのだろう。塔は砲台になり、訓練区画は迎撃拠点になり、研究施設は後方支援へ切り替わる。そんな機構が、最初から設計に組み込まれているのが、このアーク・アカデミアという場所だ。


 つまりここは、学び舎である前に巨大兵器である。


 ……とまあ、そんなことを考えるたびに、脳の奥で妙な既視感が疼くのだが、そこはひとまず置いておく。なにしろ、この学園都市のすごいところは、そんな物騒な防衛都市でありながら、内部に一歩入ると驚くほど青春している点なのだ。


 中央通りには書店、喫茶店、菓子店、雑貨屋が並び、広場では学生楽団が勝手に演奏会を始め、休日になれば制服姿の男女がカフェテラスに陣取り、甘ったるい飲み物を前にどうでもいい会話で盛り上がる。劇場では演劇学科の連中が恋愛劇だの英雄譚だのを上演し、路地裏では非公式の異能模擬戦に野次馬が群がり、池のほとりでは上級生カップルが「勉強会」と称してイチャついている。


 兵士養成都市のくせに、どうしてこうも恋と娯楽の匂いが濃いのか。

 設計者の趣味を問い詰めたい。

 できれば壁際に座らせて、三時間くらい問い詰めたい。


 だが、そういう矛盾こそがアーク・アカデミアの本質なのだろう。

 戦うために学び、学ぶために生き、青春することで人間性を保つ。

 剣と本と恋文が同じ街区で流通している場所。

 それがこの街だ。


 そして俺、スコール・キャットニップが現在暮らしているのは、そんな学園都市の一角にある男子寮アーク・コロニーである。


 名前だけ聞くと宇宙に浮いてそうだが、実態は堅牢で無機質な巨大建築だ。白い壁。均一な廊下。監視カメラ。定時巡回。四人部屋、二段ベッド、共用ラウンジ付き。生活設備はひと通り整っているし、食堂の飯も案外まともだ。シャワーの水圧も悪くない。文句を言えば言えるが、戦闘教練込みの全寮制施設としてはかなり上等な部類らしい。


 ただ、初日に見た感想が「軍事要塞に下宿してるみたいだな」だったのは否定しない。


 廊下は夜遅くまで誰かしらの笑い声が響いている。

 部屋から漏れてくる光の色で、異能練習中なのか、夜更かしして課題をやってるのか、あるいは禁制寄りの娯楽にうつつを抜かしているのか、だいたい判別がつくようになってきた。ちなみに青白い閃光が断続的に漏れてくる部屋はだいたい雷系異能のやつで、赤く明滅してる部屋は十中八九レオンハルトが怒られている。あいつの炎は感情と連動しすぎるのだ。


 そんな、慣れれば妙に心地よい喧騒の中で、その日の放課後、俺は共用ラウンジへと呼び出されていた。


 いや、呼び出されたというより、ほぼ召集である。

 しかも送り主は、俺の数少ない悪友のひとりにして、最近なにかと俺の人生に介入してくる困った人物だった。


「おっそいやん、スコール!」


 ラウンジの奥、窓際の長机を占領していた少女が、俺の姿を見るなり片手を上げた。

 灰色の髪に、ところどころ水色のメッシュが入った肩までのショート。切れ長というより、いたずらっぽく吊り上がった目元。口角が上がると小さな八重歯が覗くのが印象的で、制服はいつも微妙に着崩している。ジャケットを腰に巻き、ネクタイは少し緩め、椅子に座る姿勢まで妙にラフだ。だが、その崩し方にはだらしなさより“自分の見せ方をわかっている感じ”がある。


 セリナ・オルコット。

 快活で、人懐っこくて、気さくで、口を開けば軽快な関西弁が飛び出してくるクラスメイトである。女子にしてはボーイッシュという評判だが、俺から見れば全然そんなことはない。確かに立ち居振る舞いはさっぱりしているし、肩を組んできたり拳で小突いてきたり、距離感がやたら近いところはある。だが、笑うときの口元や、話に熱が入ったときに頬へかかる髪の揺れ方や、ふとした拍子に見せる指先の細さなんかを見ていると、十分以上に女の子だ。


 しかも、わりと可愛い。

 いや、かなり可愛い。

 そして本人にその自覚があるのかないのか、そこがまた厄介だった。


「遅れたのは悪かったよ、セリナ」

「ほんまやで。五分待たされるだけでも、女子としてはその間に二、三回は“帰ったろかな”って気持ちになるんやからな」

「そんな繊細だったのか」

「今この瞬間に設定されたんや」

「ずいぶん可変式だな」

「状況に応じて最適化されるのが女心っちゅーもんや」


 言いながら、セリナはにやりと笑った。

 その八重歯がまた、小憎らしいくらいよく似合う。


「どうせまた、アイリス様を遠くから見かけて足止めされとったんやろ?」

「……否定はしない」

「せえへんのかい」

「だって綺麗だったんだよ。あれは見惚れるって。中庭の噴水前で上級生に囲まれてるところを見たんだけど、なんかもう、そこだけ一枚絵みたいだった」

「アンタ、ほんまに節操ないな」

「違うぞ。節操がないんじゃない。美に誠実なんだ」

「言い換えが強引すぎるやろ」


 セリナが呆れたように肩をすくめる。

 俺はようやく彼女の正面の椅子に腰を下ろし、そしてそこで、テーブルの上の異様な光景に気づいた。


 ノート。

 都市地図。

 学園構内の見取り図。

 授業日程表。

 それに何枚かの軍用めいたデータシートまで広げられている。


 どう見ても、普通の放課後のおしゃべりセットではない。

 より正確に言うと、会議前の参謀本部みたいな雰囲気である。


「……これは?」


 俺が指差すと、セリナは待ってましたとばかりにペンをくるくる回した。

 そして、椅子の背にもたれていたホワイトボードを立て直し、そこへでかでかと一文を書き殴る。


《目標:アイリス・ヴァレンタイン嬢と一日デート》


「決まっとるやん。アンタの《貴族令嬢デート作戦》の軍議や」


「!!」


 俺は思わず身を乗り出した。

 机が揺れて、インク瓶が危うく倒れかける。


「待て待て待て、本気か!? 俺、ちょっと昨日の夜に勢いで話しただけだぞ!?」

「せやからや。勢いで言うだけやったら、ただのアホの寝言で終わる。せやけど、こうして紙に書いて、要素を整理して、実行可能性を検討したら、それはもう立派な作戦や」

「……セリナ、君は天才か?」

「アホか。そんなおだて方でジュース一本でも奢ってもらえると思うなよ」

「心が強い」

「アンタが安すぎるだけや」


 くくっと笑う彼女の横顔を見て、俺は妙に感心してしまった。

 言われてみればその通りなのだ。願望は口にしただけでは妄想だが、工程に分解して勝率を測り始めた瞬間、それは作戦になる。恋愛を軍事的合理性で包み込むこの発想、俺と相性が良すぎる。


 最高では?


「ええか、まず前提の確認からや」


 セリナはぺしぺしとボードを叩きながら、すでに教師めいた口調で話し始めた。


「アイリス・ヴァレンタイン様は、連邦でも有数の名門、星導貴族ヴァレンタイン家の令嬢や。顔よし、家柄よし、成績よし、異能よしの四拍子そろった超優等生。しかも《星霊演算》っちゅう、未来予測系のレア能力持ち。ほっといても婚約話が向こうから山ほど飛んでくるレベルや」

「知ってる」

「知っとるから苦しんどる顔しとるんやろけど、それでも改めて言う。普通に告白しても、まず相手にされへん」

「うん……」

「手紙もたぶん無理や。護衛か侍女か、あるいは家の人間が検閲しとる可能性が高い。偶然を装って接触しようにも、あの人の周り、だいたい人おるし」

「うん……」

「下手に粘着したら“やばい男”として処理される」

「うん……って、最後だけ急に生々しいな!?」

「いや大事なとこやろ。恋愛と不審者は紙一重やで?」

「そんな恐ろしい紙か?」

「世間は思ってるより薄情や」


 その言葉に俺は少しだけ背筋を伸ばした。

 確かにそうだ。恋に突っ走る男は、自分の物語の中では主人公でも、他人から見ればただの迷惑な熱量を持った存在になりかねない。俺は女好きだが、そこは一応、気をつけているつもりである。たぶん。おそらく。願わくば。


「せやから、まともに行っても無理筋。ここまではええな?」

「認めたくないが、事実としてはそうだな……」

「でも、アーク・アカデミアにはひとつ、アンタみたいなアホに優しい制度がある」


 そこでセリナは、ノートの上に置いていた学園規定集を指で弾いた。

 ぱさりと開いたページには、異能決闘に関する条項がまとめられている。


「異能バトルは合法。公式の申し込み、立会人、観戦許可、このへんの条件を満たせば、学生同士の決闘は制度上認められる。勝負条件も、双方合意がある限りある程度は自由に設定できる」

「つまり……」

「アンタがアイリス様に勝負をふっかけて、勝利条件を“一日デート”に設定するんは、一応、制度的には通る」

「正式にデートできる!?」

「相手が飲めばな」

「そこが最大の関門じゃないか!」


 俺が叫ぶと、セリナはペン先を向けてびしりと指摘してきた。


「せやから今、会議しとるんやろが」


 ぐうの音も出ない。

 俺は素直に口を閉じた。


 セリナは満足そうに頷くと、次のページに視線を落とした。


「問題は三つある。ひとつ目、どうやってアイリス様に勝負を受けさせるか。ふたつ目、受けてもらえたとして、どうやって勝つか。みっつ目――」

「勝ったあと、本当にデートで好感度を上げられるか?」

「そこまで先のこと考えとったん!?」

「当然だろ。勝って終わりじゃ意味ないんだぞ。むしろ本番はそのあとだ」

「うわあ、気持ち悪いくらい前向きやな」

「褒め言葉として受け取っておく」


 セリナは「褒めてへん」と即座に切り返したが、まあ顔は笑っていた。

 この手の会話をしていると、こいつが妙に楽しそうなのが不思議だった。普段から人の面倒を見るタイプではあるが、それにしても今回の熱の入りようはなかなかである。


「で、まずは勝負を受けさせる方法やけど……これは案外どうにかなる」

「ほんとか?」

「うん。アイリス様って、変な言い方やけど、正々堂々には弱いタイプやと思うねん」

「正々堂々に弱い?」

「ほら、あの人って家柄も能力も完璧すぎるやろ。せやからこそ、自分に向けられる好意とか挑戦とかが、だいたい“打算込み”やったり“遠巻きの憧れ”やったりするわけや。でも、真正面からアホみたいにぶつかってくるやつには、逆に対処が難しい」

「なるほど……! 俺という存在そのものが武器になるのか!」

「そこだけ切り取ればそうやな。“真正面からアホみたいにぶつかってくるやつ”としてはかなり完成度高いし」

「褒めてる?」

「半分は」

「残り半分が怖い」


 セリナはそこでくすりと笑ってから、ペン先をつん、と俺に向けた。


「せやけど、ひとつ勘違いしたらあかんで。アイリス様にとって厄介なんは“熱意”そのものやのうて、“予測しにくい熱意”や。あの人は《星霊演算》で数秒先の未来を読む。相手が理屈で動くなら、その理屈ごと先回りされる。せやから、アンタに必要なんは“予測不能の一撃”や」

「予測不能……?」

「せや。理屈で組み立てた戦い方やと見切られる。せやけど、衝動とか、感情とか、ちょっとした思いつきみたいなもんは、相手に読まれても対応が遅れることがある。特に、恋愛絡みの人間の突発行動はな」

「つまり……」

「女たらしらしく、恋の本能丸出しで揺さぶれ、っちゅう話や」


 言い切ると同時に、セリナは口角をきゅっと持ち上げた。

 八重歯が覗く。

 なんというか、その表情には妙に説得力があった。


「……お前、妙に具体的だな」

「そらウチ、女子やし」

「それだけでその断言ができるものなのか?」

「できるできる。女の子ってな、理詰めで来られるより、たまに予想外の球を放ってくる相手のほうが意識に残るもんやねん。もちろん、限度はあるけどな」

「限度を超えた場合は?」

「ただの変人か不審者や」

「紙一重どころじゃないな」

「せやろ?」


 俺は腕を組み、真剣に考え込んだ。

 アイリスに勝つために必要なのは、未来予測を上回る理論ではなく、むしろ理屈の外側にある揺らぎ。そこに俺の《逆位相共鳴》を合わせれば、確かに勝機はゼロではないかもしれない。


 それを口にしたところで、セリナはすぐに水を差してきた。


「ただし、ゼロやないだけで、だいぶ薄いで」

「そこはもうちょっと夢を見せてくれてもいいだろ!?」

「夢見すぎた男が一番危ないんや。現実見ながら夢を見るのが大事やねん」


 そう言って、セリナはさらさらとノートに文字を書き込んでいく。

 項目立てが妙に上手い。字も見やすい。なんなら軽快な関西弁で喋っているときより、紙の上の整理のほうがよほど頭の良さを感じる。


「アンタの《逆位相共鳴》は、相手の異能干渉をズラす、あるいは乱す性質がある。教官らもまだ完全には解析できてへんけど、少なくとも“計算を狂わせる”方向には作用するみたいや。せやから相性自体は悪くない。でも問題は、アンタ自身がその能力をあんまり信用してへんことや」

「……そんなに顔に出てるか?」

「出とる。自分でも何が起きるかわからん力って、使ってて気持ち悪いやろ」

「まあ、そりゃな」


 正直なところ、俺は自分の異能をあまり好きではない。

 便利か不便かで言えば、たぶん便利な部類だ。相手の技を狂わせ、霊素の噛み合いを壊し、流れを乱す。対人戦ではいやらしいほど有効だし、実際、それで何度か格上相手に勝っている。


 でも、感覚が気味悪い。

 発動の瞬間、世界の噛み合わせが半歩ずれるみたいな、嫌な違和感がある。

 自分が正しくそこにいるのか、一瞬わからなくなるのだ。


「それにさ」と、俺は無意識に声を落としていた。「たまに思うんだよ。この力、俺のものっていうより……もっと別の、なんかろくでもない目的のために作られた感じがして」

 言ってから、自分で嫌になった。

 こういう湿っぽい話は、できればしたくない。


 だがセリナは茶化さなかった。

 珍しく真面目な顔でこちらを見ている。


「……帝国製、って噂のことか」

「まあ、そんな感じのやつ」


 俺の入学時から、学園内にはいろんな噂が飛んでいる。

 記憶喪失の転校生。

 異例の強化兵特待生。

 どこかの軍事研究で作られた実験体。

 帝国が造った兵士。

 禁忌兵装の生き残り。


 どれもこれも、証拠はない。

 しかし完全に笑い飛ばせるほど無根拠でもないのが困る。


 ときどき頭の奥に差し込む、冷たい部屋の光景。

 耳の奥に残る、誰かの無機質な声。

 それに、俺自身がしばしば見せる“兵士っぽすぎる反応”。


 全部を偶然で片づけるには、少し材料が揃いすぎていた。


 それでも、セリナは軽く首を振る。


「まあ、過去がどうであれ、今ここにおるアンタはアンタやろ」

「……」

「少なくともウチはそう思っとる。女好きでアホで、でも変なとこだけ妙に勘が鋭い、面倒くさいクラスメイト。それ以上でも以下でもない」

「ひどくない?」

「半分くらいは褒めとる」

「最近みんなその比率で褒めてくるな……」


 けれど、その言葉に少しだけ救われたのも事実だった。

 過去がどうでもいいとは言わない。たぶん、いつかは向き合わなきゃいけない日が来る。

 だけど今は、少なくとも今だけは、俺は俺としてここに座っている。

 目の前には作戦ボードがあって、隣には悪友がいて、目標は学園一の貴族令嬢とデートすること。

 それで十分じゃないか、という気もした。


「よし」と、俺は気持ちを切り替えるように膝を叩いた。「つまり、勝機は薄いがゼロじゃない。むしろ予測不能性と相性の良さを活かせば、一発なら通せる可能性がある」

「そういうことやな」

「そして俺に必要なのは、理屈を超えた衝動」

「せやな」

「つまり、恋の本能」

「そこだけ強調するとだいぶ嫌やけど、まあそう」

「なら勝てる気がしてきた!」

「急に元気になるな、アンタは」


 セリナが呆れ半分、笑い半分のため息をつく。

 俺は立ち上がりかけたが、すぐに彼女に袖を引かれて座り直させられた。


「まだ終わってへん! アンタほんまに会議向いてへんな!」

「会議というものは、結論が見えた瞬間に走り出したくなるだろ」

「猪か。ええか、まだ“どう勝負を受けさせるか”の詰めが残っとる」

「あっ」

「今の“あっ”で済むあたりが心配なんやけど」


 セリナは都市地図の横に、今度は学園構内の中庭見取り図を広げた。中央噴水、掲示板、決闘場への導線、人通りの多い時間帯まで書き込まれている。どこから入手したのかはあえて聞かないでおこう。たぶん聞いたら微妙に危ないルートが返ってくる。


「アイリス様に挑戦状を叩きつけるなら、ある程度条件を整えた方がええ。真正面から行って玉砕するより、“断りにくい状況”を先に用意するんが基本や」

「なるほど。外堀を埋めるわけか」

「せや。ただしやりすぎると“逃げ道を塞いだ最低男”にもなるから、そこは加減や」

「恋の作法、難しくないか?」

「そら難しいよ。簡単やったら世の中みんな苦労せえへん」


 そう言うセリナの横顔が、ほんの少しだけ大人っぽく見えた。

 女子は時々、こういう顔をするから油断ならない。


「……ちなみに、その“加減”って誰が判断するんだ?」

「最終的には空気や」

「一番信用ならない審査員きたな」

「せやけど恋愛はだいたい空気の競技や」

「ルールブックくれ」

「ない」

「終わってるだろその競技」

「せやから毎年大量の敗者が出るんや」


 ノートには、すでに作戦工程がずらりと並び始めていた。


 一、挑戦の舞台設定。

 二、観衆確保。

 三、勝負条件の明文化。

 四、アイリスの未来予測を乱す初手。

 五、相手の動揺を誘う言動。

 六、勝利後のデートプラン仮設定。


 最後の項目を見て、俺は思わず目を見開いた。


「勝利後のデートプランまであるのか!?」

「そらあるやろ。勝ったはええけど“で、どこ行くん?”ってなる男、女子からしたら最悪やで」

「そ、そうなのか……」

「当たり前や。夢だけで女の子はエスコートできへん。段取り八割、ロマン二割や」

「世知辛いな恋愛!」

「でもその二割があるから、みんな懲りずに恋するんやろ」


 そう言って笑うセリナの顔は、やっぱり少しだけ楽しそうだった。


 そこでふと、俺はあることに気づく。


「……なあ、セリナ」

「ん?」

「お前、なんでこんなに協力的なんだ?」


 ペン先がぴたりと止まった。

 問いそのものは、ずっと心の片隅にあった。セリナは面倒見がいいし、ノリもいい。でも、だからといって、ここまで本格的に男の恋愛作戦に付き合う理由としては少し弱い気がしていたのだ。


 セリナは一瞬だけ目を細め、それからすぐにいつもの調子へ戻る。


「そらおもろそうやからや」

「絶対それだけじゃないだろ」

「あと、アンタ一人で突っ走ったら確実に事故るやろ」

「否定しづらい」

「せやから、せめてハンドルくらい握っといたろ思て」

「俺の人生の?」

「今回だけや。たぶん」

「たぶんが不穏なんだよ」


 彼女は肩をすくめ、それ以上は語らなかった。

 ただ、そのとき一瞬だけ、笑顔の奥に別の感情が見えた気がした。気のせいかもしれない。あるいは、俺が女の子の表情を都合よく深読みしがちなだけかもしれない。思春期男子にありがちなやつだ。


 少なくともひとつだけ確かなのは、セリナが今この場で俺の味方をしてくれているということだった。


 それならそれで十分だ。


「よし」と、俺は改めて拳を握った。「やろう、セリナ。アイリス攻略大作戦だ」

「攻略って言い方はほんまにやめとき。女子が聞いたら引く」

「じゃあ、アイリス様お近づき計画」

「軽い」

「一日デート権獲得作戦」

「即物的すぎる」

「……高嶺の花と青春したい大作戦」

「それやったら、まあギリ」

「ギリなんだ」

「ギリやな」


 俺たちは顔を見合わせ、同時に吹き出した。

 ラウンジの窓の外では、夕暮れの光が塔群のガラス面を赤く染めている。空の向こうでは障壁が淡く脈打ち、街路には帰寮する学生たちの流れができ始めていた。喧騒と笑い声と、遠くで鳴る訓練終了の鐘。その全部が、これからなにかが始まる予感に満ちている。


 学園都市アーク・アカデミア。

 異能と科学の集積地。

 巨大な兵器であり、巨大な青春装置でもある街。


 その片隅で、今まさに一つの作戦が産声を上げようとしていた。

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