第11話 隣にいるのは学園主席の貴族令嬢である
「商業区までは少々距離がございます。お車をご用意しておりますので、そちらをご利用ください」
すぐ横で控えていた黒服のひとりが、あまりにも自然な口調でそう提案してきたものだから、俺は一瞬だけ「お車」という単語の意味を頭の中で咀嚼し直す羽目になった。お車。車。移動手段。乗り物。うん、そこまではわかる。問題は、その提案が向けられている相手が俺であり、しかも「ご用意しております」という言い回しの奥に、“君ごときに使わせてやるのだから感謝して乗れ”という圧はないのに、圧がないこと自体が逆に怖いくらい洗練されている点だった。
俺の視線は自然と校門の外へ向いた。
そこに並んでいたのは、さっきから存在感だけは過剰に放っていた黒光りするリムジン三台である。いや、リムジンって実在するんだな。映画や小説の中でしか見ないやつだと思ってた。少なくとも俺の生活圏に「友だちと待ち合わせをしたら校門前へリムジンが三台停まっていた」みたいな経験値は存在しない。普通の学生の待ち合わせはもっとこう、噴水前とか時計塔の下とか、せいぜい駅前のベンチくらいのスケール感で行われるべきなのだ。どうして俺はいま、名門令嬢の外出用車列を前にして、行き先を自分で決めなければならない立場に立たされているんだろう。
もちろん、歩いて行けない距離ではない。商業区までの道はよく整備されているし、正門から外へ出て駅前通りを抜ければ、電車でも十分に行ける。学園都市の公共交通は優秀だ。学生向けの料金体系もありがたい。恋人未満の男女が気軽に出かけるには、むしろそっちのほうが一般的だろう。
その一方で、目の前には行儀よく並んだ高級車と、それを当然のように運用する人々がいる。
無視できるか、そんなもん。
できるわけがない。
「……まぁ、車のほうが早いか」
心の中でそんなふうに小さく呟いて、自分なりに落ち着いた判断を装ってみる。装ってみたところで、内心では「いやいやいや、ほんとに乗るのか? 俺が? これに?」という庶民丸出しの声が大騒ぎしていたのだが、ここで「いえ電車で行きましょう」と言えるほどの胆力は俺にないし、そもそも隣にいるアイリス嬢がリムジン移動に慣れている側なのは火を見るより明らかだった。
だったら乗るしかない。
男は腹を括るべき時がある。
たとえその腹の中身が、緊張と疑問と微妙な吐き気でわりとぐちゃぐちゃになっていたとしても。
「し、失礼しまーす……」
自分でもわかるくらい声が裏返った。
やめろ、俺の喉。もっとこう、落ち着いた大人っぽさを演出しろ。せめて普通に喋れ。そう念じても、こういうときの身体は本当に言うことを聞かない。黒服のひとりが恭しくドアを開け、どうぞ、と静かに手を差し伸べる。その流れるような所作は洗練されすぎていて、俺みたいな一般学生がそこを跨ぐだけで何かの格式を損ねるのではないかとすら思えてくる。
そして、開いたドアの向こうに広がっていた光景を見た瞬間、俺は本気で息を呑んだ。
「……な、なんだこれ」
車内。
いや、これ本当に車内か?
俺の認識している車というものは、四つのタイヤがついていて、人が座るシートがあり、多少乗り心地に差はあれど基本的には“移動のための箱”である。雨風をしのぎ、目的地へ素早く向かうための道具。そのはずだ。
いま目の前にあるのは、どう見ても移動用の道具というより、まるごと切り取った高級ホテルの一室だった。
座席はふかふかの白いソファで、革張りなのに冷たすぎず、手を軽く触れただけで質の良さがわかる。鼻先には革と木材、それからわずかに香る香木めいた匂いが混ざっていて、安い芳香剤の誤魔化しとは根本的に違う。天井にはシャンデリアこそないものの、代わりに淡い乳白色のマナランプが埋め込まれており、その光が車内全体をやわらかく照らしていた。床には厚手のカーペットが敷かれ、走行中でも足音が響かないようになっているらしい。奥の棚にはグラスと小瓶が整然と並び、小型の冷蔵庫らしきものまで備えつけられていた。
車内なのに、居心地が良すぎる。
いや良すぎるを通り越して落ち着かない。
人間というものは、自分の身の丈を大きく上回る快適さへ突然放り込まれると、むしろどう振る舞えばいいのかわからなくなるらしい。少なくとも俺はそうだった。靴を脱ぐべきか一瞬迷った。脱ぐな。さすがにそこまで田舎者ではない。ないはずだ。たぶん。
恐る恐る腰を下ろす。ソファがやわらかく沈み込み、身体を受け止める感触が妙に上質で、その沈み方ひとつにも「君みたいなやつが使っていい代物じゃない気がする」という罪悪感が発生するから困る。背筋が無意識にぴんと伸び、膝の上に手を置く位置すら一瞬迷った。
「やば……めっちゃソワソワする……」
呟いたつもりが、ちゃんと声になっていたらしい。自分の情けないひと言が静かな車内へ小さく響き、すぐ隣へ視線を向けた瞬間、その落ち着きの差に軽く絶望した。
アイリス嬢は、まるで最初からそこへ座ることを前提に生まれてきた人間みたいに自然だった。
背筋はすっと伸び、膝の上で重ねた手の置き方まで無駄がない。足首の角度、肩の力の抜き方、視線の向け先、そのすべてが整っていて、ひとつひとつを真似しようとしても絶対に同じにはならない類の“育ち”が滲んでいる。白と藍を基調としたドレスの生地は柔らかな光を受けて静かに艶めき、プラチナブロンドの髪はマナランプの淡い照明を宝石みたいに弾いていた。
同じ車内に座っているはずなのに、空気の格が違う。
俺がここで「座り心地やばいな」「このグラス触っていいのかな」などと内心で右往左往しているあいだにも、彼女はきちんと“ヴァレンタイン家の令嬢”としてそこに存在している。気取っているわけではない。自然体でこうなのだ。自然体で高級感を発生させるな。庶民の心拍数に悪い。
(……すげぇ。さすが令嬢って感じだ……)
思わず見惚れてしまう。見惚れるな俺。いやでも無理だろ。綺麗なものを近くで見れば人間は見る。しかも相手は学園主席の高嶺の花だ。視線が吸い寄せられるのを、いちいち自制だけで止められるほど俺の精神は鍛え上げられていない。
ふと窓の外へ目をやると、さらに別の意味で落ち着かない光景が広がっていた。
リムジンを囲むようにして、護衛の連中が並走している。
走っているのである。
黒いスーツ、鋭い視線、耳元の通信機、そして無駄のない身のこなし。歩いて護衛するのではなく、車列に合わせて一定距離を保ちながら周囲を警戒しているその姿は、どう控えめに見積もっても“ただのボディガード”という範疇を超えていた。彼らの動きには、学生のアルバイトっぽさが微塵もない。仕事だから守る、というより、“この人のためなら命を捨てられる”種類の顔をしている。
……おいおい。
大統領の護衛かよ。
しかも人数が多い。十人どころではない。前方警戒、側面警戒、後方確認、車列の周囲に散る配置、その全部が訓練されていて、ひとりひとりが独立して動いているようで実際にはひとつの網になっている。いくらヴァレンタイン家が名門だからって、外出のたびにこれなのか。いや、アイリス嬢本人の価値を考えれば納得できなくもない。連邦の象徴のひとりで、未来予測能力の持ち主で、政治的にも軍事的にも影響力の大きい家の令嬢だ。命を狙われる理由がないほうがおかしい。
(……これ本当にただの護衛なのか?)
背筋が妙に寒くなる。俺の初デートのはずなのに、景色としては護送か要人警護か、最悪の場合は戦地への移送である。ロマンと現実の比率がおかしい。いや、ロマンが皆無とは言わない。隣にいるのはアイリス嬢だし、車内もすごいし、状況だけ見れば特別感は満載だ。満載なのだが、その周囲を包む物騒さがいちいち恋愛イベントの雰囲気を破壊していく。
俺がきょろきょろと落ち着かない視線を送っていた、そのときだった。
「コホン」
小さな咳払いが静かな車内に響き、俺は反射的に背筋を伸ばした。
アイリス嬢だった。
咳払いひとつまで上品である。何なんだこの人。俺が同じことをやると寝起きのオッサンみたいな気配が混ざるのに、彼女がやると場が整う。
「……で、商業区のどちらへ向かえばよろしいのでしょう」
まっすぐ俺を見つめる碧眼。
澄んでいて、深くて、変に逃げ場がない。見つめられた瞬間、背中に冷や汗が伝った。
「……っ」
やばい。
何も考えてなかった。
いや、正確に言えば、さっきまで考えていたことの九割が「服どうしよう」「最初の挨拶どうしよう」「黒パンティーって結局なんだったんだ」「テンペスト殺す」で占められていて、肝心の行き先だけがまるっと抜け落ちていたのだ。商業区へ行く、と口にした時点では「まあ何かしらあるだろ」くらいの雑さだった。そこへ来て、いざ高級リムジンへ乗り込み、名門令嬢から“で、どこへ?”と確認されると、脳が急に真っ白になる。
必死で頭を働かせる。
ええと、デートと言えば何だ。
まず遊ぶところか?
いや、待て。ゲームセンターとか言い出したらどうなる。さすがにないか。ないだろ。俺の感覚では盛り上がる場所の候補に入らなくもないが、隣にいるのは学園主席の貴族令嬢である。「庶民の遊技場へお連れするつもりですか?」という冷たい問いを受けたうえ、後ろの護衛連中に“今すぐ車を止めましょうか”みたいな顔をされる未来しか見えない。
じゃあカフェか。
悪くない。……悪くないが、店選びを間違えると終わる。俺の知っている喫茶店は学生向けの気軽なところが中心で、椅子は少し固く、メニューは手ごろで、その代わり放課後のたまり場としては優秀、みたいな店ばかりだ。アイリス嬢を連れて行って「ここのミルクティーがうまいんだ」と胸を張れるかと問われると、心が非常に弱気になる。
レストランは?
もっと危ない。俺の財布事情がある。そう、金だ。金がない。いやゼロではない。学生として最低限は持っている。が、目の前のリムジンの内装を見る限り、アイリス嬢の日常で“普通”に分類される食事の価格帯が俺の一週間ぶんの生活費を軽く超える可能性は高い。高級店なんて入った瞬間に破産する。注文前に死ぬ。
(……詰んでる。普通に詰んでるだろこれ……)
頭を抱えたい衝動に駆られる。
横目でそっと見ると、アイリス嬢は真剣な顔でこちらを見ていた。待っている。ちゃんと俺の答えを待っている。そのこと自体はありがたいんだけど、待たれているという事実が余計にプレッシャーとなって心臓へ圧をかけてくるのはどうすれば…
車内は静かだ。外では護衛が動き、運転席の向こうにはこの車を操る運転手までいるのに、いまここで会話の責任を負っているのは俺だった。庶民出の記憶喪失特待生が、学園一の貴族令嬢をどこへ連れていくか決めなければならない。状況の字面がもう重い。
(……あぁクソ、なんでもっと準備しておかなかったんだ……!)
心の中で叫んでも時間は巻き戻らない。
デートは始まったばかりだというのに、すでにゲームオーバーの匂いがする。恋愛イベントの難易度設定がおかしい。チュートリアルもなしにラスボス戦へ放り込まれた気分である。
それでも答えを出さなければならない。
学園一の貴族令嬢と肩を並べ、ふかふかのソファへ沈み込みながら、俺は頭の中で必死に商業区の地図をめくっていた。
……気まずい。
とんでもなく気まずい。
リムジンの車内は広く、快適で、普通なら「うわーすげー」で終わる体験のはずなのに、いまの俺にとってはその広さが拷問器具みたいに感じられていた。空間に余裕があるぶん、沈黙もまた広く伸びる。狭い場所なら気配で誤魔化せるものが、広い場所だと余計に「会話がない」という事実だけが丁寧に浮き彫りになるから厄介だった。
アイリス嬢は窓の外の夕暮れを眺めている。背筋は崩れない。呼吸は静か。組んだ膝の位置まで美しい。彼女がこうしているだけで、車内が一枚の絵のように完成してしまう。対して俺は、沈み込むソファから変に抜け出せず、足をどの位置へ置けばいいのか、手は膝の上でいいのか、それとも肘掛けを使うのか、どうでもいいことでさえ迷っている。
(あー……やべぇ、何喋ればいいんだ俺……)
背中は冷や汗でじっとりしているし、喉は妙に渇くし、口を開けば失言しそうだし、沈黙を続ければ続けたで気まずい。恋愛イベントの車内会話ってどう始めるんだ。もっとこう、天気の話とかするのか。いや、夜に会う約束をした相手へ「今日はいい天気ですね」は違うだろ。授業の話? 決闘の話? それはそれで重い。ましてや俺には決闘の記憶がろくにない。詰んでる。やっぱり詰んでる。
そんな俺の脳内へ、愉快そうな声が割って入ってきた。
(おい相棒、なんか喋れよ。沈黙が一番ダメだって人間の本能が言ってるぞ?)
テンペストである。
やかましい。こっちは今まさに、その“なんか喋れ”ができなくて困っているのだ。お前は状況をひっかき回す以外の役に立たないのか。
(……黙っとけ。今は俺に任せろ)
(ふーん? でもよ、一度ヤッた相手なんだから、もっと気楽に行けよ)
――ッ!?
鼓膜が破裂したかと思った。
おいこのクソ竜、なにをサラッと爆弾投下してやがる!?
ヤッた!?
いま何て言った!?
聞き間違いかと思って、心の中で二回くらいその単語を反芻してしまった自分も嫌だが、問題はこいつがあまりにも当然みたいな調子でそれを口にしたことである。モラルとか配慮とか、そういう人間社会に必要な機能をこいつは本当に持っていないのか。
(ちょ、ちょっと待て! 今なんて言った!?)
(聞こえただろ? 一度ヤッた。もう関係性は完成してる。だから気楽に――)
(ヤッたって何だよヤッたって!!)
声にならない悲鳴を全力で押し殺す。いや待て。待ってくれ。もし本当に、万が一にも“そういうこと”があったのだとしたら、俺はどういう扱いになる? 記憶がない間に、肉体だけが先に人生の重要イベントを通過していたことになるのか? それって卒業って言っていいのか? いや、そもそも卒業って何だ。学校か。恋愛は単位制か。混乱の方向がもう訳わからん。
胸がドクドク鳴る。喉がカラカラに乾く。心臓だけが一人で陸上部みたいな勢いで走っている。
そっと横目でアイリス嬢を盗み見る。
金糸の髪はマナランプの光を浴びて静かに煌めき、横顔はやっぱり絵画みたいに整っている。長い睫毛の影が頬へ落ち、碧眼は窓の外の光景を映して深く揺れていた。その透明感に、うっかりするとそのまま飲み込まれそうになる。
……くそ、やっぱ綺麗すぎる。
俺が最初に彼女へ決闘を申し込もうと思った理由も冷静に振り返ればかなり単純で、かなりしょうもなくて、かなり真剣だった。学園の廊下ですれ違った瞬間、まず顔に目を奪われた。次に気品へ圧倒された。そのうえで、偶然目撃してしまった“あの黒い紐下着”が、俺の中の男としての何かを完全に起動させてしまったのだ。
そうだ、あの黒パンティー事件がすべての始まりだった。
俺の中の男センサーというか、本能というか、そういうやつが「なんとしてもこの人を振り向かせろ」と無茶な命令を発した。その結果があの無謀な決闘である。自分で振り返っても、よくそんな暴挙に出たなと思う。…いや、案外恋愛における初動ってわりとそういうものかもしれない。理性が仕事を放棄した結果、勢いだけが突き抜ける。そう思うと若さって怖いな。
つまり、最初から下心はあった。
かなりあった。
いや、相当ある。
そこへもしテンペストの言うことが本当だった場合、状況はもう取り返しのつかない複雑さになってくる。俺は記憶のないまま童貞を卒業したことになるのか? 仮にも肉体は俺のものだ。精神の主導権がテンペスト側へ寄っていたとしても、身体的事実だけを切り取れば“俺が”何かをしたことになってしまう。いや待て、それを卒業扱いしていいのか? それって代行じゃないか? 代行卒業って何だ。そんなカテゴリ、人類史に存在するのか?
頭の中で自問自答がぐるぐる回り、気づけば下品な妄想ばかりが膨れ上がっていく。汗が首筋を伝い、胸の奥で心臓が破裂しそうな勢いで暴れていた。
そのときだった。
「……そんなに緊張しなくても」
透き通る声が車内に響いた。
俺は心臓が物理的に飛び跳ねたのではないかと思うくらいの衝撃を受けながら、反射的に彼女のほうを向いた。
アイリス嬢は微笑んでいた、というほど明確な笑みではなかったものの、少なくともさっきまでのような張り詰めた顔ではなく、どこか穏やかな表情でこちらを見ていた。唇の端がわずかにやわらぎ、視線の温度も少しだけ下がっている。それだけの変化なのに、与える印象は驚くほど違った。
「今日はあなたを攻撃したりはしないわ」
「………………っ」
頭の中が真っ白になる。
な、なんだ今の言葉!?
まるで俺が普段から攻撃される前提みたいじゃないか。いや、実際、決闘だの挑戦状だの取り巻きの殺気だので、ここ最近の彼女周辺は全体的に刺々しかった。しかも俺は記憶欠落のせいで、その一部を当人から聞いた情報とテンペストの最悪な煽りで補っている。だからこそ、彼女本人からこんなふうに穏やかな声をかけられると、逆にどう受け取っていいのかわからなくなる。
(おい相棒、ほら見ろ。“ヤッた”仲だからこそ安心してんだよ)
(うるせぇぇぇぇぇぇぇ!!!)
心の中で全力のツッコミを入れながら、口から出す言葉を必死で探す。何か返せ。ここで黙るな俺。黙ったら余計に変になる。なのに浮かぶ候補が全部駄目だ。「ありがとうございます」は変だし、「それは助かります」では何の話かわからないし、「今日は攻撃されないんですね」と復唱するのはあまりにも間抜けすぎる。
結局、俺は乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。
「そ、そうですか……それは、その……助かります」
何だその返答は。
自分で言っておいて思う。もっとこう、あるだろ。もう少し気の利いたこと。相手はわざわざ空気をやわらげようとしてくれたのに、返したのが「助かります」では会話の柔軟性が死んでいる。営業職の初日か。
それでも、アイリス嬢は特におかしそうな顔もせず、小さく頷くだけだった。その反応が逆にありがたい。ありがたいのだが、許されれば許されるほどこちらの未熟さが浮き彫りになる気がして、俺の胃にはあまり優しくない。
リムジンが大通りを抜けると、車窓の景色が少しずつ変わり始めた。
学園の正門周辺に広がる整然とした教育区画から、より人の気配と色彩の濃い領域へ移りつつあるのがわかる。道幅は広いままなのに、沿道の建物に生活の匂いが増え、窓の数が増え、看板や灯りが目につき始める。石造りとガラス張りの外壁が夕暮れを受けて色を変え、遠くでは高層棟の間を細い連絡橋が渡されていた。
そして、視界が一気に開けた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
「……うわ……」
そこに広がっていたのは、アーク・アカデミアの中でもひときわ華やかで、人の営みと都市機能が最も濃く渦巻く場所――商業区だった。
夕暮れの紫が街並み全体へ薄く降り、建物の壁面や窓の縁、街路樹の根元に埋め込まれたマナ灯がひとつ、またひとつと灯り始めている。その光は蛍光灯みたいに均一で冷たい白ではなく、どこか生き物めいた脈動を含んだ柔らかな光だった。淡い金、乳白色、薄青、建物ごとに調整された色調が緩やかに混ざり合い、街全体が呼吸しているみたいに見える。
アーク・アカデミアは八つの区画に分かれ、それぞれが学術、軍事、研究、訓練、行政、居住といった役割を持ちながらひとつの都市として機能している。その中心で、人々がもっとも“生活”を感じる場所がこの商業区だ。学生も、研究者も、軍属も、市民も、何かしらの形でここを利用する。娯楽も補給も消費も交流も、この区画へ集まる。
街並みは緩やかな同心円を描いて広がっていた。中央の大広場を囲むように高層ビル群が並び、その表面には透明な結晶ガラスが幾層にも張り巡らされている。昼間は太陽光を反射して眩しく、夜になると内部のマナ回路が薄く発光し、遠目には街全体が巨大な魔導回路のように見えるのだと授業で習った記憶があった。実際に夕方の切り替わりを目にすると、その説明が比喩ではなかったとわかる。壁面の中を淡い光の筋が走り、建物同士がひとつの生きた機構として繋がっているように映る。
車道は幅広く、三層構造になっていた。上層には自動運転のトラムや軍用輸送車両が行き交い、中央層は市民用の一般道路、そして下層には物流と警備を兼ねた搬送ラインが組み込まれている。上を見れば軌道車両が静かに滑り、横を見れば市民用の車両が流れ、少し下を覗けば大型の輸送コンテナが一定の速度で移動している。整然としている。整然としすぎていて、逆に怖いくらいだ。
しかも、それらの動力源は石油でも蒸気でも電気でもない。淡く脈打つエーテル結晶――マナを圧縮制御するエーテルリアクターによって、都市の呼吸そのものが維持されている。異能と科学の融合、なんて授業で何度も聞かされた言葉が、こうして目の前の景色になっていると妙に説得力がある。連邦は理屈っぽい国だ。理屈っぽいくせに、こういう都市設計だけは異様にロマンがある。
リムジンは速度を少し落とし、街の中心部へ滑り込んでいく。
窓の外には、まさに学園都市の繁華街と呼ぶべき景色が広がっていた。歩道は広く、マナ灯が等間隔に並び、夜でも昼の続きみたいな明るさを保っている。カフェ、書店、劇場、服飾店、百貨店、菓子店、魔導雑貨店。看板にはホログラムめいた立体広告が浮かび上がり、店ごとに違う色と音で人を惹きつけていた。
それだけなら近未来的な商業都市だ。
アーク・アカデミアの妙なところは、その華やかさの中へ軍事色が遠慮なく混ざっている点にある。
壁面の広告に、最新の演劇公演や限定スイーツの案内と並んで、「帝国の影を許すな」「学びと力で未来を護れ」といった連邦軍の広報が流れている。明るい音楽の隙間へ、防衛意識を促す短い映像が差し込まれる。学生向けの異能制御講座の広告の横で、戦傷者向け義肢の新型モデルが紹介されている。平和と緊張が同じ通りで流通しているのだ。この都市は本気でその矛盾を矛盾だと思っていない。
中央広場には巨大な噴水があり、その水流には微細なマナ粒子が混ざっているらしく、風に舞う飛沫が虹色に光っていた。水滴が散るたび、広場の端で遊ぶ子どもが歓声を上げ、若い連中がスマートレンズや携帯端末を向けて撮影している。噴水の周囲にはベンチやテラス席が配置され、その一帯だけ見れば本当にどこかの高級観光都市みたいだった。
さらに目を引いたのは、広場の外縁に立ち並ぶ連邦旗艦企業の店舗群である。
神経補助義肢や戦術支援機器を扱う工学企業 《ローゼンテック》、複製魔導書と知識媒介デバイスで有名な《アストラル出版》、高等演算端末を一般向けへ最適化した《ルミナ・システムズ》、そして軍直営の補給局まで、なぜか堂々と商業区の一等地へ店を構えていた。普通の都市なら軍の補給局はもう少し裏方だろうに、この街では「学生が日常生活のついでに防護繊維ジャケットを見に来る」みたいな導線が成立している。怖い。いや便利なのはわかる。わかるが、価値観の前提がやはり少し物騒だ。
要するにここは、学生や軍人だけではなく、研究者、技術者、市民、商人、観光客、その全部が混ざり合って都市の縮図を形作る区画だった。
アーク・アカデミアの特徴は、学術と軍事が完全に融合しているところにある。ヘリオス帝国がマナ工業と兵器転用を全面へ押し出して近代化を急いだのに対し、エルディア連邦はあくまで倫理と学術の体系を整えながら、段階的に科学とマナを接続していった、と歴史の授業では教わった。結果として、純粋な技術速度では帝国に一歩譲る局面もある。けれど、都市設計やインフラの洗練度では、連邦のほうがよほど先を行っている。
たとえば商業区の建物はほぼすべてがモジュール式だ。災害や襲撃が発生すると、外壁の一部が自動的に閉鎖され、防御用の隔壁と遮断シャッターが展開し、数分で簡易要塞へ変貌する。噴水広場の地下には避難壕とマナ障壁装置が埋め込まれており、平時は市民の憩いの場として機能している場所が、非常時には地域防衛拠点になる。美しい街並みの骨格そのものが戦争を想定しているのだ。
それでいて普段は、学生や市民へ開放された平和な街として機能している。
この二面性。
学園都市でありながら軍事要塞でもあるという矛盾こそが、アーク・アカデミアの本質なのだろう。
俺は車窓へ少しだけ身を寄せ、光り始めた街並みに目を奪われていた。
ここには、俺がいた帝国の都市とはまるで違う景色がある。帝国の街はもっと無骨で、煙と鉄と効率の匂いが強かった。工場群が呼吸し、兵器と資材が絶えず生まれ、街そのものが前線を支える巨大な腹みたいに機能していた記憶が、断片的に頭の奥へ残っている。
それに比べれば、この街は奇妙なほど整っている。学びと娯楽と軍事が共存し、誰もが日常を送りながら、同時にいつでも戦えるよう設計されている。理想都市。そんな言葉を当てはめたくなるほど美しい。
けれど、その整いすぎた美しさの裏へ必ず影が潜んでいることも、俺はなんとなく知っていた。
どんなに明るい通りでも、非常時に閉じるシャッターの厚みがある。どんなに華やかな広場でも、地下には避難壕が眠っている。人が平和を維持するために払う準備のコストってやつは、だいたい見えにくい場所へ押し込められているのだ。
リムジンは噴水広場の横を静かに通り過ぎ、煌めく街の中心へ進んでいく。
商業区の鼓動が、車窓越しでも胸の奥まで届いてくる気がした。
そして、その鼓動を隣で同じように見ているはずのアイリス嬢は、相変わらず落ち着いていた。俺だけが景色に見惚れ、都市の構造に妙な感心を抱き、恋愛イベントのくせに護衛の数を数えてしまうという、情緒の配分がおかしい状態である。
……ほんと、今日の俺、大丈夫か?
そんな不安を抱いたまま、俺たちを乗せたリムジンは夜の始まりへゆっくりと滑り込んでいった。




