第10話 あの黒パンティーのせいだ
はぁ……なんでこうなったんだ、俺。
学園の正門前に立ちながらそんなことを思う時点ですでに今日という一日は健全な方向へ転がっていないのだが、いまさら現実逃避をしても仕方がないので、俺は喉の奥に引っかかっていたため息をひとつ吐き出しながら、夕方の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。冷たすぎずぬるすぎず、昼の熱がようやく石畳から抜けていく時間帯の風は、妙に肌へなじむ。そのくせ洒落にならないくらいの緊張がどっと背後から押し寄せ、まるで実技試験直前みたいなうるささで心臓が暴れていた。
俺がここへ着いたのは、待ち合わせの時刻より三十分も早かった。
三十分である。五分でも十分でもなく、三十分。ちょっとやる気を見せた男子学生の範囲を越えて、もはや緊張で家にいられなくなったやつの行動時間だった。客観的に見れば完全に浮かれている。自覚はあるのだが、だからといって落ち着いて十八時きっかりに来られるほど俺の心臓は高性能にできていなかった。
いや、仕方ないだろ。遅れるよりは絶対にマシだし、女子を待たせるなんて俺の美学に反するし、そもそも相手はあのアイリス・ヴァレンタインだ。連邦でも指折りの名門令嬢。超弩級の高嶺の花。そんな相手との待ち合わせへのんびり十五分前に到着して余裕ぶっていられる奴がいたら、そいつは恋愛経験が豊富なんじゃなくて、単に神経が死んでいるのだと思う。
正門前は、昼間に見慣れているはずの場所なのに、夕方の光を受けると妙に格式ばって見えた。連邦の紋章意匠を組み込んだ石造りの巨大なアーチが沈みかけた陽の色を受けて赤銅色に染まり、その中央には銀色に輝く《アーク・アカデミア》の校章が静かに吊られている。盾と剣を基調にしながら星の意匠を織り込んだあの紋章は、普段は「はいはい立派ですね」くらいの雑な認識で通り過ぎていたくせに、こうして待ち合わせ場所として意識すると途端に意味ありげな圧を持ち始めるから不思議だ。
門の向こうには外周道路へ続く石畳の並木道がまっすぐ伸びていて、等間隔に並んだ街灯のガラス面へ夕焼けが映り込み、まだ灯るには早いくせにすでに夜の気配だけを抱え込んだような顔つきで黙って立っていた。風が吹くたび、並木の葉が擦れ合ってさらさらと音を立て、その合間に遠くを行く車輪の音や帰宅許可を得た上級生たちの話し声が断片的に混ざる。空は西の端が濃い橙に燃えていた。その上から紫がゆっくり溶け込んでいて、真上へ行くほど青が深くなりながら今夜の星の出番を待っている。
景色だけ抜き出せば、青春の一ページどころか恋愛劇の表紙にでもなりそうな舞台である。
問題は、その舞台の中央でどう考えてもその雰囲気に似つかわしくない空気を全力で醸し出している人間がいるということだった。
「なぁ、相棒」
横から気の抜けた声が降ってきて、額のあたりがぴくりと引きつった。テンペストは夕方の風に乗るみたいにふわふわ空中を漂いながら、眠そうに口を開けてあくびをしていた。
「ずっと鏡の前で悩んでたけどよ、外見なんざどうでもいいだろ。力でねじ伏せりゃ女は黙る」
「その価値観で成立するのはお前みたいな竜の世界だけだ」
反射で言い返した瞬間、自分がまた校門前で虚空へ向かって会話していることに気づき、慌てて咳払いでごまかす。見えていない相手に即ツッコミを返すのは、やっている側には自然でも周囲から見ればかなり危ない。何度この過ちを繰り返せば学習するのかと自分でも思うが、テンペストの発言はいちいち人類文明に対する挑戦みたいな内容なので、つい反応してしまうのである。
「ずっと鏡の前で悩んでたけどよ、外見なんてどうでもいいだろ。力でねじ伏せりゃ女は黙る」
「……ねじ伏せるっていう発想で生きてるの、お前みたいなドラゴンだけだからな! 人間社会はそういう雑な解決法で回ってねぇんだよ!」
「面倒くせぇ生き物だな、人間ってのは。“服がどうだ”“話しかけ方がどうだ”って、そんなもん牙の一本もあれば全部すっ飛ぶだろ」
「その牙一本で全部解決しようとする価値観をまず捨てろ! 初対面の印象が悪かったら終わりなんだよ。服装も大事だし、最初の一言も大事だし、空気も距離感も全部大事なんだ!」
怒鳴り返しながら、さっきから何度も頭の中で繰り返しているシミュレーションをまた最初からやり直した。アイリスが現れる。俺が声をかける。どう言う。どんな顔で言う。そこまではいい。問題は、その一歩目の選択肢が全部しっくり来ないことだった。
「やあ、待った?」
頭の中で言ってみる。
軽い。軽すぎる。軽薄寄りの男が慣れた顔で言いそうな台詞だ。俺が言ったら、ただ調子に乗っているだけの奴に見える危険性が高い。
「こんばんは、今日はありがとうございます」
今度はそっちを試す。
…硬すぎる。こんなの取引先へ会釈する新米事務官みたいで、恋も青春もあったもんじゃない。
「ああもう、どうすりゃいいんだよ……」
「ほんと必死だなお前は。外見的魅力ゼロの時点で、もう詰んでんだろ」
「お前いま何て言った!?」
「現実だろ」
「人の心を抉る方向でだけ正直になるな!」
傷つくわ、と言い返しかけたところで、背中の皮膚がぞわりと粟立った。
“何かが変わった”というより、俺に向けられた視線が増えたのだ。訓練で散々叩き込まれた警戒感覚――もとい気配を察知する感知センサーが、理屈より先に「おい、来るぞ」と囁いてくる。俺は無意識のうちに肩から力を抜き、反射的な防御姿勢を取りながら勢いよく振り返った。
「――お前が、スコールか」
そこに立っていたのは、女子生徒三人だった。
女子生徒、という言い方自体は間違っていない。制服を着ている。年齢も近い。学園の生徒であることは見た瞬間にわかる。…わかるのだが、ではその三人を見て「お、女子だ」と軽く括れるかと言われると、答えは明確にノーだった。
空気が違う。
立ち方がまず違う。
一人目はプラチナブロンドの長い髪を背中へ流した長身の女で、目元が切れ長というより、刃物みたいに鋭かった。整った顔立ちは間違いなく美人の部類に入るはずなのに、その視線に一切の愛想がないせいで、美しさより先に「怒らせたら面倒くさそう」という感想が湧く。唇は薄く引き結ばれ、姿勢は一本の槍みたいに真っ直ぐで、俺を見るその眼差しは完全に敵認定のそれだった。
二人目はショートカットの快活そうな顔立ちをしているのに、いまは眉がつり上がり、腕を組んだままこちらを値踏みするように見ている。勝ち気という言葉が似合うタイプで、たぶん普段はよく喋る。そのくせ気に入らない相手には遠慮なく圧をかける。そういう雰囲気が口を開く前からしっかりにじんでいた。
三人目は黒髪にゆるく波打つ長さを持つ、いちばん落ち着いた印象の女だった。目元は柔らかく見えなくもないのに、見ている先が俺だとわかった瞬間、その静かさがそのまま冷たさへ転化する。怒鳴るタイプよりむしろ怖い。感情を抑えたまま静かに相手を追い詰める、そういう種類の危険さがある。
そして三人とも、揃って俺を睨んでいた。
……はい、わかりました。
これ、アイリス嬢の取り巻きだわ。
悟った瞬間、背筋に嫌な汗が流れた。なにしろ俺はこの数日、決闘の記憶がほとんどなく、そのうえテンペストが好き放題した疑惑まで抱えたままここへ来ているのだ。そこへこの三人。時系列が何ひとつ整理できていない男の前へ、「お前、うちのお嬢様に何した?」という顔の美少女三人衆が現れる光景は、恋愛劇というより糾弾劇の開幕として非常に完成度が高かった。
さらに嫌なことに、彼女たちの背後には学園前の送迎スペースへ横付けされた黒塗りの高級車が三台、ずらりと並んでいた。しかもただの車ではない。鈍い艶を宿した車体は長く低く、窓は外から中が見えにくい特殊加工が施されていて、車の横にはいかにも護衛然とした男たちが腕を組んで立っている。黒いスーツ。無駄のない短髪。鍛えられた体格。目元を隠す濃い色のレンズ。
映画かよ。
いや本当に。何だこの急な別ジャンル感は。さっきまで俺は校門前で挨拶の文面をシミュレートしていたはずなのに、いま目の前にあるのは「組織の姫を怒らせた小悪党が詰められる場面」みたいな光景だった。恋愛と軍事と貴族社会が混線すると、こういう絵面になるのかもしれない。なるべくなら一生学びたくなかった知見である。
「……なぁテンペスト」
口元をほとんど動かさないよう小声で呟く。
「俺、いまからデートじゃなくて暗殺されるんじゃねぇのか」
「ククッ、やっぱ面白ぇなぁ人間社会」
全然安心できない回答が返ってきた。こいつは人の生死がかかった場面でも本当に楽しそうだな。いや、竜の尺度からすると人間の緊張など余興程度なのかもしれないが、こちらは余興扱いされる側として全然愉快ではなかった。
三人のうち、先頭のプラチナブロンドが一歩前へ出た。その動きに合わせて、後ろの二人も自然に左右へ散り、逃げ道と視線の角度を押さえる位置取りになる。偶然にしては出来すぎている。こいつら、絶対に普段からこういう連携をしている。侍女というより護衛寄りだろもう。
「決闘に勝ったからといって、調子に乗るなよ」
目の前まで来た女が、低く抑えた声で言った。
顔が近い。睫毛の長さまで見える距離なのに、まったく色気がない。感じるのは圧だけだ。香水の匂いも髪の艶も、今の俺にとっては情報として頭へ入ってこず、ただただ「怖い」の一色で塗り潰される。
「約束通り、明日、私がお前を倒す。覚悟しておけ」
「……は?」
耳を疑った。
いや、待ってくれ。何の話だ。俺はいま校門前でアイリス嬢との待ち合わせをしているはずである。そこへ突然、アイリス嬢の取り巻きと思しき美女から「明日お前を倒す」と宣言された。時系列も文脈もまるで繋がらない。それなのに相手の目だけは本気だった。
明日。
倒す。
覚悟。
単語だけ切り取ると、だいぶ殺伐としている。青春どころか完全に治安が悪い。
「え、いや、何の……」
問い返しかけたところで、脳の奥へ嫌な予感が差した。俺はぎこちなく口角だけを引きつらせたまま、ほとんど唇を動かさずにテンペストへ問いかける。
「おいおいおい、どういうことだよこれ……?」
「んー? ああ」
まるで昼飯の注文でも思い出したみたいな軽さで、テンペストが尻尾を揺らした。
「そういや来てたな、挑戦状。勝手に承諾しといたぞ」
「勝手に承諾すんなぁぁぁぁぁ!!!」
危うく本気で叫びそうになって、俺は寸前で口を押さえた。声にならない悲鳴というものは、こういうとき便利だが心臓には悪い。つまり、俺が寝込んでいたあいだに、こいつはアイリス嬢との決闘を終えたばかりか、その余波で別の相手から届いた挑戦まで受けていたらしい。人の社会生活を何だと思ってるんだ。出欠の連絡といい決闘の承諾といい、勝手に代行する範囲が広すぎるだろうが。
目の前の三人からすれば、急に表情を歪め、虚空へ向かって怒鳴りたいのを必死で堪えている俺は、たいそう怪しく見えたに違いない。実際、プラチナブロンドの眉間の皺がさらに深くなり、ショートカットのほうが露骨に不快そうな顔をした。黒髪の女だけは表情を崩さなかったが、その分、視線の温度が一段下がった気がした。
ああ、これは完全に地雷を踏んだな。
俺、明日死ぬかもしれん。
「それに」
プラチナブロンドの女が、さらに一歩踏み込んできた。近い。圧が近い。
「お嬢様はきっと調子が万全ではなかった。そうでなければ、お嬢様が負けるはずなどない」
超至近距離から告げられたその言葉は、怒鳴り声ではなかった。怒鳴っていないのに低くて重い。喉の奥で熱した金属を転がすみたいな迫力があって、正直、アイリス嬢本人より怖い。美しい女が怒ると迫力がある、というのは世間でよく聞くが、このタイプはその一言では片づかない。怒りに忠誠心が混ざっている。信仰に近い種類の絶対性が、その声音の端々に張りついていた。
俺の頭の中では「取り巻き三人衆」というざっくりした呼び方がすでに定着していたが、こうして目の前にすると、彼女たちはただの取り巻きではなく、半分くらい親衛隊なのではないかと思えてくる。美貌と実力と家柄を兼ね備えた頂点に付き従う者たちが、その頂点を汚されたと思っている。そりゃ怖い。俺の立場で怖がらないほうがどうかしている。
「……で、ですよね。何かの間違いですよね?」
口をついて出たのは、驚くほど情けない返答だった。
自分でもわかる。いまのはヘコヘコしすぎだ。もっとこう、誇りとかないのか俺は。元を正せばアイリス嬢へ決闘を申し込んだのは俺自身である。どれだけテンペストが身体を使って暴れた疑惑があるにせよ、挑戦の口火を切った責任からは逃げられない。なのに今の俺はどうだ。決闘に勝ったらしい男の態度としては、だいぶしょぼい。
わかっている。
わかってはいるのだが。
それでもいまの俺が妙に弱腰なのは、単純に彼女たちの圧がすごいからというだけではなかった。
あの黒パンティーのせいだ。
そう、原因のひとつは間違いなくあの黒い布切れである。俺の机の引き出しへしまわれている、学園主席絡みの超弩級危険物。女性用下着。黒。しかも見覚えのある系統。テンペストから手渡された時点で俺の思考回路は一回ショートしており、その後も正常復帰していない。あれは何だ。なぜ俺の手元にある。どういう経緯でそこへ至った。テンペストは濁す。俺は覚えていない。結果として心の中だけが巨大な積乱雲みたいに膨れ上がっている。
そんな状態で「お嬢様を負かした男らしい態度を見せろ」と言われても無理があるだろう。こっちはむしろ「お嬢様にとんでもない無礼を働いていないか」を確認したくて胃を痛めている側なのだ。
「おい、お前」
ショートカットの女が訝しげに目を細めた。
「いま、何を考えている?」
「えっ!? いや、別に何も……」
心臓が跳ねた。
危ねえ。ほんとに危ねえ。パンティーのことを考えてました、などと口が裂けても言えるか。いや、言えないどころか、そんなワードが頭の表層へ浮いた気配を察知されたら、その瞬間に公開処刑へ移行しかねない。人はやましいことがあると挙動へ出るというが、俺の今のやましさは俺が主体ではなくテンペスト由来なのが本当に腹立たしかった。
でも、何だろうな。この三人を前にしていると、自分がとんでもなく申し訳ない立場にいるような気がしてくる。いや、理屈では俺が全面的に悪いわけではない。寝ていた間の出来事など知らないし、そもそも実行犯疑惑はテンペストだ。それなのに、アイリス嬢へ近い場所にいる相手から責めるように見られると、どうにも「すみません」と言いたくなってしまうあたり、人間の感情というのは理性的ではない。
(ククク……バレたら死刑だろうなぁ)
(やめろ!! その冗談、本気で笑えねぇんだよ!!)
頭の中で怒鳴り返す。テンペストは相変わらず楽しそうだ。こいつは本当に最悪なタイミングで最悪な火をくべる天才だった。
三人衆の視線は冷たい。冷たいというより、温度を奪う系統の冷え方だった。無言の圧というものは不思議なもので、実際に斬られたり殴られたりしていないのに、向けられているだけで胃のあたりがきゅっと縮み、足元の石畳がやけに硬く感じられる。
そんな重苦しい時間が数秒続いた、そのときだった。
ざわ、と。
空気の層がひとつ入れ替わったような感覚が走った。
風向きが変わった、という表現では足りない。もっと広い。周囲の音、視線、人の気配、その全部が同時にひとつの方向へ引っ張られる。そんなふうにしか言い表せない変化だった。訓練で培った警戒心とは別に、人間が本能で察する「格が違うものが来る」気配がある。俺の腕に鳥肌が立ち、背筋を電流みたいなものが走り抜ける。
校門前の喧騒が、一瞬だけ静まり返った。
振り向いた先にいたのは――アイリス・ヴァレンタインだった。
息を呑むという動作は比喩として便利なのでよく使われるが、このときばかりは本当に肺の動きが止まった。目に入った光景を脳が理解するより先に、胸の内側で何かが掴まれたみたいにきゅっと縮む。
綺麗だ、という感想は正しい。
ただ、それだけでは全然足りない。
彼女は街灯の下へ現れた時点で、周囲の背景をまとめて自分の舞台へ変えてしまっていた。長い金糸の髪は夕暮れの残光と街灯の淡い白を同時に受け、歩くたびに柔らかな光の筋を引く。横顔の線は迷いなく整っていて、鼻梁から顎へ落ちる輪郭には余計なものがひとつもない。夜空を溶かしたような蒼い瞳は、遠目にも不思議な深さを宿していた。
制服ではなかった。
纏っているのは、白と淡い藍を基調にした仕立ての良いドレスだった。学園の外へ出る令嬢として過不足がなく、それでいて夜会と呼ぶには少し軽やかで、街へ降りるには気品が強い。つまり、完璧に彼女だった。胸元と袖口には繊細な刺繍が走り、腰のあたりで絞られたラインが無駄なく綺麗に落ちている。裾は歩幅を邪魔しない長さへ調整され、靴は飾りすぎないのにひと目で上等だとわかる細工が施されていた。
そして、その背後にいる人数がおかしかった。
護衛。従者。荷物持ち。侍女。たぶん秘書役みたいな人間までいる。ざっと見ただけでも十人や二十人ではきかない。控えめに数えても数十人規模だった。校門前の車列とさっきの三人衆を見た時点である程度は察していたが、実物を見ると予想の上を行く。何だこれ。デートの待ち合わせに来る人間の陣容じゃない。都市視察か何かか。
……いや、待て。
これ、何?
パレード?
頭の中でそんな間抜けな単語が浮かんでしまうくらいには、現実感がなかった。周囲の生徒たちも同じだったらしく、たまたま通りかかった上級生や寮へ帰る途中の連中が、揃って足を止めて彼女を見ている。その場へいた全員が、彼女の存在に目を奪われていた。圧倒的な存在感、という言葉はこういう時に使うのだろう。
取り巻き三人衆ですら、彼女が近づくと反射的に一歩下がって道を開けた。
まるで、空気そのものが主人へ従っているみたいだった。
俺の心臓は喉まで競り上がり、そこでようやくひとつの事実へ到達する。
――この人に決闘を申し込んだ俺、マジで正気じゃなかった。
たぶん決闘のときの俺は、色々な意味で平常ではなかったのだろう。そうでなければ、この圧を前にして「勝ったらデートしろ」などという条件を口にできるわけがない。近くで見れば見るほど、彼女は“高嶺の花”という言葉を生ぬるく感じさせる存在感を放っていた。花というより星だろこれ。しかも見上げるだけで充分なくらい遠い位置の。
「お嬢様、なぜこのようなものと会う約束を!?」
さっきまで俺を詰めていたプラチナブロンド――どうやらリーダー格らしい彼女が、道を開けながらも必死に訴えかけた。
このようなもの、っておい。
人間扱いすら危うい。いや、気持ちはわからなくもない。目の前の高貴さと俺を比べれば、相対評価で俺の存在感が雑草くらいになるのは否定しにくい。否定しにくいのだが、実際に口にされると普通に傷つく。恋する男子のプライドは案外繊細なのである。
アイリスは足を止めなかった。歩調を崩さないまま、冷ややかでもなく、甘やかすでもない声音で言う。
「沙希。少し落ち着きなさい」
凛とした声が、夕暮れの空気を薄く震わせた。
沙希。なるほど、プラチナブロンドはそういう名前か。名前だけ聞けば可憐な印象すらあるのに、目つきは相変わらず俺を串刺しにしそうな勢いだった。
「私が決闘で負けた以上、この男が“ただの学園の生徒”ではないことくらい、もう理解しているでしょう」
その一言で、場の温度が変わる。
彼女は事実を述べただけだ。飾っていない。言い訳もない。自分が負けた、その結果をそのまま口にした。それだけのことのはずなのに、俺はその潔さに一瞬だけ言葉を失った。
沙希は歯を食いしばるみたいに唇を噛み、「しかし……」と絞り出したものの、それ以上は続けられなかった。アイリスの一言には反論を封じる力があった。家柄や立場だけではなく、言葉そのものへ実感が乗っているからだろう。命令というより結論に近い。彼女がそう判断した以上、周囲は従うしかない。そんな雰囲気がある。
従者たちが一歩退く。
護衛たちもわずかに位置をずらし、視界の通りを整える。
その一連の動きすら統制されていて、俺はあらためて、彼女がどれほど「人を従わせる側」に属している存在なのかを思い知らされた。
そして、その彼女が近づいてくる。
鼻先をかすめた香りに、思考が一瞬止まった。
甘い。けれど重たくはない。花の匂いに朝露みたいな清潔さが混ざっている。そうだ、初めて彼女を間近で見た時も、たしかに似たような香りがした。記憶喪失だなんだと騒ぎながらも、こういうことだけは変に覚えている自分の脳が少し嫌になる。いやでも仕方ないだろ。美しいものに伴う情報は、たまに本能へ直接刻まれる。
視線を上げると、横顔が近い。
近くで見ると、綺麗という単語がさらに追いつかない。睫毛の一本一本まで整っていて、肌は不自然なくらいなめらかで、蒼い瞳の奥には街灯の光が小さく揺れている。顔だけではない。立ち姿、呼吸の浅さ、顎を引く角度、その全部が洗練されていて、同じ学園へ通う学生という括りで考えていいのか迷うくらいだった。
やべえ。
心臓が爆発する。
超どストライクすぎて、危うく鼻の下が伸びるところだった。いや、たぶん一瞬くらいは伸びた。慌てて表情筋を引き締めたものの、間に合った自信はない。取り巻きたちの視線が妙に冷たくなった気がするし、テンペストが頭の中で腹を抱えて笑っている気配もする。全部うるさい。こっちはいま生まれて初めてレベルの緊張をしてるんだよ。
「……スコール・キャットニップ」
透き通った声で名前を呼ばれた、その瞬間。
心臓がどくんと跳ねた。
ただ名前を呼ばれただけなのに、肺へ入る空気が一度足りなくなる。情けない。情けないが無理だ。好きな女の子、しかも学園最上位カーストの令嬢にフルネームで呼ばれて平然としていられるほど、俺は人生経験を積んでいない。
「は、はいっ!?」
返事が裏返った。
終わった。俺の株、いま秒速で暴落した。しかも周囲に観客がいる。やめてくれ。青春の恥ずかしい一幕を公開上映しないでくれ。
取り巻きたちのうち、ショートカットが口元を押さえて何か言いたそうにしているのが見えた。笑われているのか、呆れられているのか、あるいはその両方か。どちらにせよ俺のメンタルへ優しい状況ではなかった。
アイリスはそんな俺を見て、ほんの少しだけ息を整えたようだった。いや、気のせいかもしれない。彼女ほど完成された立ち居振る舞いの人間が、俺の返事ひとつで乱れるとは思いにくい。ただ、なぜかその一瞬だけ彼女の睫毛がわずかに揺れたようにも見えた。
「約束通り、今からあなたの指示に従います」
静かな口調だった。
「……デート券、でしたか?」
脳がフリーズした。
デート券。
その単語、あまりにも直接的すぎるだろ。たしかに言った。言いましたよ俺は。勝ったら一日デートしろって。あの時の俺は恋愛脳と勢いで生きていた。生きていたのだが、いざ本人の口から条件名をそのまま読まれると破壊力が違う。語尾に疑問形がついているせいかなおさら柔らかくて、余計に死ぬ。
「正直に申し上げると、そのようなことをこれまでした経験がありませんので……もしよろしければ、エスコートしていただけると助かります」
さらり、とんでもないことを言われた。
俺の脳内で何かがぱちんと弾け、そのまま白く飛ぶ。処理が追いつかない。情報量が多い。まず彼女は約束を守るつもりでここへ来た。さらに、デートという行為に不慣れだと自分で認めた。そのうえで、俺へエスコートを求めている。
待て待て待て。
それ、つまり。
本当に、今日。
デートなのか?
(おいおいおい……テンペスト!)
心の中で竜へ怒鳴りつける。
(お前、今でもまだ間に合うから何があったか教えろって!!)
テンペストは頭の中でくつくつ笑いながら、いかにも面倒そうに言った。
(間に合うって何がだ? コイツを屈服させたことか?)
(だから屈服ってなんだぁぁぁぁ!!)
危うく本当に声へ出しかけて、俺は奥歯を噛みしめて堪えた。どこまで戦闘脳なんだこのドラゴン。人類の恋愛文化に対する理解が壊滅的すぎる。いや、理解する気すらないのだろう。こいつの中では勝ち取ることと関係を持つことが全部同じ棚へ置かれている。そんな雑な分類で人間関係を処理するな。
(そもそもデートとはなんだ?なんのためにそんなことをする)
(人間同士が距離を縮めるための行動だよ!)
(距離? 物理的には今すでに至近だが)
(そうじゃねぇ! 精神的な意味でだ!)
(精神的距離を縮めるために時間と労力を浪費するのか。やはり非合理的だな)
(だからそういう問題じゃねぇって言ってんだろ!!……合理だの非合理だのって……。人間にはそういう“意味があるからやる”んじゃなくて、“一緒にいたいからやる”時間ってのがあるんだよ!)
(ふむ。目的が先ではなく、相手への欲求が先に来るのか。ますます曖昧だな)
(曖昧で悪いか! そういう曖昧さ込みで相手を知って、好きになって、少しずつ距離を縮めていくんだろうが!)
(好き、か。気に入った個体を観察する行為なら理解できる。強さ、習性、反応傾向を把握しておくのは重要だ)
(お前のそれ、全部“飼育”か“狩り”の文脈なんだよ!!)
(大差あるまい)
(大差あるわ!!じゃあお前はなんだ、戦闘でもないのに相手と長時間行動を共にして、無防備な状態で会話を重ねるこの行為を、全部“無駄”で切り捨てるつもりかよ)
(無防備だからこそ情報が取れるのではないか? 警戒を解いた状態での言動は本質が出やすい)
(それはスパイの発想だろうが!! なんでデートが尋問みたいな扱いになってんだよ!)
(違うのか? 互いの情報を交換し、関係性を構築する行為だろう)
(言い方が完全に交渉か諜報なんだよ!! もっとこう……なんかあるだろ、“楽しい”とか“好き”とか!!)
(感情を優先する時点で合理性を欠く。やはり理解できん)
(くっ……こいつ、本気で言ってやがる……!)
半分やけっぱちになって、俺は頭の中で全力の連想を叩きつけた。カフェ。劇場。服屋。並んで歩く。食事をする。会話をする。男女が親睦を深め、互いを知るための儀式。そういうものだ、と。
テンペストはふん、と鼻を鳴らした。
(そんなものには興味がない。我ら竜族でそういう時間が必要になるのは、縄張り争いに勝ったあと、相手の巣穴の立地と備蓄を確認するときくらいだ)
テンペストを睨みたい衝動を押し殺し、俺はとにかく深呼吸した。落ち着け。落ち着け俺。いま目の前にはアイリス・ヴァレンタインがいる。彼女は約束を守りに来た。そしてエスコートを求めている。つまりここで必要なのは、戦闘狂の竜へキレ散らかすことでも、自分の中の混乱を全部顔に出すことでもない。男として最低限、みっともなくない対応をすることだ。
俺はどうにか姿勢を正し、喉へ張りついた緊張を押し下げる。
「……じゃ、じゃあ……行きましょうか」
声が少しだけ上ずった。
でも崩壊はしていない。たぶん。願わくば。
そう言って手を差し出した瞬間、自分でも「なんでそんな上級者みたいな行動をしたんだ?」と思ったのだが、もう遅い。やってしまったものは仕方がない。差し出した手を引っ込めるほうがよほど不自然だ。
アイリスはほんの一瞬だけ俺の手を見つめ、それからためらいのない所作で、そっと自分の手を添えた。
細い。
柔らかい。
体温がある。
俺の腕へ添えられた彼女の指先は驚くほど軽く、けれど触れたという事実だけが異様に鮮明だった。洗練された仕草とはこういうことを言うのだろう。力が入っていないのに崩れない。近いのに馴れ馴れしくない。自分がどう見えるかを知っている人間の動きだ。
(やべえ、これ本当にデート始まってる……!)
頭の中で警報が鳴る。いや、警報というより祭りである。混乱と緊張と高揚が全部まとめて鐘を鳴らしている。テンペストが横で妙に楽しそうな顔をしている気配まで加わって、脳内の騒がしさはとっくに許容量を越えていた。
その一方で、現実的な問題がひとつあった。
行き先を何も決めていない。
やばい。
今さら思い出した。服装だの挨拶だのを延々悩んでいたくせに、肝心の「どこへ連れていくか」が完全に白紙だった。十八時、正門前へ、ひとりで来てください。そこまではメッセージで指定されていた。しかしその先は、まるっとこちらの裁量に委ねられている。恋愛経験の豊富な男なら事前にプランを練っていただろう。俺はどうだ。緊張で早く来てしまい、挨拶の台詞を脳内で百回くらい修正していた。計画性が壊滅している。
いや、落ち着け。
商業区なら無難だ。
店も多い。人通りもある。いきなり人気のない場所へ連れていくより安全だし、会話が詰まっても見て回るものがある。学園都市の商業区は学生向けの軽食店から高級喫茶まで揃っていて、デートスポットとしての体裁くらいはどうにか保てるはずである。たぶん。知らんけど。
「と、とりあえず……商業区のほうへ行きましょうか」
口に出してから、自分の声が少しだけかすれているのに気づいた。緊張しすぎだろ俺。
アイリスは小さく頷いた。
「ええ。お任せします」
終わった。
いや始まった。
どっちなんだ。
この一言だけで心臓への負荷がさらに跳ね上がる。任せます、って。そんな全幅の信頼みたいな言葉を今ここで投げるな。こっちは中身の半分くらいがまだ混乱でできているんだぞ。
取り巻き三人衆――沙希を筆頭にした親衛隊らしき面々が、ものすごい顔でこちらを見ていた。護衛たちも一定距離を保ちながら、絶対に何かあったら介入できる位置をキープしている。アイリスはそれでも構わないらしく、俺の腕へ手を添えたまま、まっすぐ前を見ていた。
周囲の視線が痛い。
校門前を通りかかった生徒たちは、完全に面白いものを見つけた顔をしている。そりゃそうだろうな。学園主席の令嬢が、正門前で俺みたいな特待生と連れ立って歩き出そうとしているのだ。噂が一晩で都市全域を一周しても不思議ではない。
でも、そんなことを考えている暇はなかった。
いま俺の隣には、アイリス・ヴァレンタインがいる。
学園一の高嶺の花で、未来予測の才女で、俺が決闘を挑み、勝ったらしい相手で、そして今夜、約束通りに俺のデート券へ応じてくれた当人だ。
どこまでが現実でどこからが夢みたいな勘違いなのか、自分でもまだよくわからない。
それでもひとつだけ確かなのは、俺とアイリスの“初デート”が、こうして本当に幕を開けた、ということだった。




