第9話 マジで昨日何があったんだ
ひんやりした風が頬を撫でた。
その冷たさに触れた瞬間、頭の奥で煮え立っていた熱がほんの少しだけ引いた気がして、俺は男子寮の中庭に面した石畳の通路で、ようやくまともな呼吸をひとつした。肺の底まで空気を押し込み、そこで初めて、息を吸うという行為は人間にとって意外と高級な機能だったのだと知る。寝起きの頭痛と、記憶の空白と、黒い女性用下着という極めて説明困難な物証を抱えたままでは、呼吸ひとつにもわりと精神力を使うのだ。
「……っはぁ……」
自分で吐いた息がやけに情けなく聞こえる。
見渡せば、朝の寮の中庭は静まり返っていた。手入れの行き届いた芝生が朝露を弾き、中央に置かれた白いベンチには誰もいない。訓練前の軽いランニングをするような体育会系の連中すらすでに姿を消していて、遠くの校舎方面からかすかに届く鐘の残響だけが、いまがちゃんと平日の午前であることを教えていた。そういえば今日は授業日だった。セリナもカイルもレオンも、さっきまで俺の部屋で散々こっちを疑惑まみれの目で見たあと、さすがに遅れるわけにもいかないと教室へ向かったのだろう。
置いていかれた俺だけが、病み上がりの亡霊みたいな顔で中庭の石柱にもたれ、人生の説明書を探している。
「おーい、ねぼすけぇ」
頭上から間の抜けた声が降ってきて、こめかみがぴくりと跳ねた。
ねぼすけ、とはよく言ったものである。そもそも誰のせいで四日も寝込んだと思っているのか。被害者に向かって“よく寝たな”みたいなテンションで話しかけてくるその無神経さは、古代竜のスケール感ゆえなのか、それとも単純に性格が終わっているだけなのか、判断に困るところだった。いや、困るまでもなく後者の要素が強い気はするが。
「……お前なぁ……」
俺が低く唸ると、テンペストは白銀の鱗を朝日にきらつかせながら、いかにも楽しそうに空中で一回転した。
「そんな顔すんなよ。どうせ今日も“体調不良”で休みにしてある。昨日もサボってたからな。ちょうどいいだろ?」
「……体調不良?」
「おう。教師どもにはそう報告しといた。安心しろ、完璧にこなしてやったぞ」
さらっと言いやがるが、問題はそこではなかった。
いや、そこも十分問題である。俺の知らないところで出欠管理にまで介入している時点で、同居人というより社会生活への越権干渉だ。こいつが教師へどういうテンションで何を報告したのかも想像したくない。まさか俺の身体を使ってご丁寧に「気分が優れませんので本日は休みます」とでも言ったのか。そんな真面目な口調をテンペストが使った絵面を想像すると、それはそれで軽くホラーだった。
頭を抱えたくなる衝動をこらえ、俺は石柱から身を起こして、目の前をふわふわ浮く小竜へじりっと詰め寄った。
「……なぁ、まじで昨日何があったんだよ?!」
声が思ったより大きくなった。寮の壁面に響きが反射し、中庭の静けさの中で余計に間抜けに広がる。もっと抑えて聞き出すつもりだったのに、いざ口に出すと、胸の底に溜まっていた焦りと苛立ちがそのまま飛び出してしまう。こっちは起きた瞬間から記憶の穴と黒パンティーと謎の勝利報告を同時に処理させられているのだ。冷静でいろというほうが無茶だった。
テンペストはそんなこちらの事情を一顧だにせず、尾をひょいひょい揺らしながら悪戯が成功した子供みたいに笑う。
「ふん、頭では覚えてなくても、体では覚えてるだろう?」
「はぁ!?」
意味がわからない。意味がわからないうえに、言い方が最悪だった。
いや違う違う、落ち着け俺、そういう意味じゃない可能性だってある。……あるよな? あるって言えよ。なんで脳内会議の全員が満場一致でアウト判定出してんだよ。
「いずれにしても安心しろよ、スコール。オレがやることは常に完璧だ」
「安心できるかボケェ!!」
思わず叫んだ。鳥がいれば一斉に飛び立っていたと思う。幸い中庭に鳥はいなかったが、いたとしても逃げたくなるのはこちらのほうだった。
こっちはいま、胃に穴が開きそうなのである。穴が開く、というのは比喩で言うとき便利な表現だが、現状の俺に関しては、かなり現実に近い響きを持っていた。心配事というのは量が多ければいいわけではなく、質が悪いと人の内臓に直接来る。記憶喪失。決闘後の空白。高嶺の花との接触。竜。黒パン。これだけ役満寄りの不安要素を朝食前に叩き込まれれば、胃のひとつやふたつは普通に反乱を起こすだろう。
「……おい、マジで言えよ」
俺は深呼吸をひとつ挟み、どうにか声を低く整えた。
怒鳴っても笑って誤魔化されるだけだ。こいつ相手に必要なのは、たぶん感情ではなく粘りである。泥の中から釘を拾うみたいな気分になるが、こっちが折れた瞬間に情報は完全に霧散する。そんな予感があった。
「アイリス嬢と……何があったんだ」
テンペストは俺を見下ろし、にやりと口の端を上げた。古代竜の尊厳とかそういう大仰なものではなく、酒場でいちばん性格の悪い常連が、他人の色恋沙汰をつついて遊ぶときみたいな笑い方だった。
「さぁな。気になるなら、本人にでも聞いてみるんだな」
「ふざけんなよ……」
怒鳴り返そうとした、そのときだった。
耳元で小さな電子音が鳴った。
――ピピッ。
反射的に制服のポケットを探り、エーテル・リンクを取り出す。淡い青白い光が画面の縁を走り、新着メッセージの表示がふわりと浮かび上がった。
差出人の名前を見た瞬間、心臓がひとつ跳ねた。
画面の上段に表示された名前。
アイリス・ヴァレンタイン。
「……っ」
指が震えた。
喉が勝手に鳴って、口の中が妙に乾く。画面に視線を固定したまま、俺は何度か瞬きをした。寝起きで焦点が合っていないのかと思ったが、何度見ても文字は変わらない。連邦屈指の名門ヴァレンタイン家の令嬢にして、学園主席にして、俺がデートしたくて決闘を挑んだ相手にして、ついさっきまで「ひょっとして俺は取り返しのつかないことをしたのではないか」と胃を痛めていた当人の名前が、間違いなくそこにあった。
恐る恐るメッセージ本文を開く。
書かれていたのは、たった一行だった。
今日、夜会いましょう。
「…………」
その場で固まった。
喉が詰まり、呼吸を忘れる。さっき学んだばかりの高級機能が、ものの数分で再び停止した形だ。人間というものは重大情報に弱い。もっと正確に言えば、重大かつ意味深で、しかも相手が学園最上位カーストの貴族令嬢ともなれば、耐性など育つ余地がない。
今日、夜会いましょう。
たったそれだけの文なのに、情報量としては爆撃だった。場所がない。用件がない。語尾の温度も読みにくい。冷たいのか柔らかいのか、怒っているのか試しているのか、そのどれでもないのか。書き手がアイリス・ヴァレンタインであるという一点だけで、たった一行が国家機密レベルの重さを持ち始める。
肩に乗ったテンペストが、にやにやしながら俺の頬を小さな爪でつついた。
「ほらな? 言ったろ。楽しいのはこれからだぜ、相棒」
楽しい…だと?お前の楽しさはほぼ確実に俺の寿命を削る形で発生している。相手の高揚とこちらの絶望が綺麗に反比例する関係性というのは、同居人として最悪だった。
「……つーか、連絡先なんていつ交換したんだよ」
画面に浮かぶ名前を何度も見返しながら、俺は本気で呟いた。誰に聞かせるわけでもない独り言のつもりだったが、ここには独り言を拾って面白がる専門家が一匹いた。
“アイリス・ヴァレンタイン”
間違いなく、あの高嶺の花。
いや待て、一旦落ち着け俺。仮にこのメッセージの送り主が本当にアイリス嬢本人だとして、俺たちはいま一体どういう関係になっているんだ。決闘をした相手。そこまではわかる。勝ったらしい。そこも辛うじてわかる。問題はその先である。この数日で急に友好的な関係へ進展する理由が思い当たらないし、そもそも俺はその数日間をほぼ寝て過ごしていた側の人間なのだ。テンペストに社交的な一面があるとも思えない。むしろあるなら今すぐ封印してほしい。そんなやつが、どういう顔で連絡先交換なんて高度な人間関係の手続きをこなしたのか、本気で意味がわからなかった。
「……っはぁ……」
額を押さえ、その場にしゃがみ込む。
石畳が朝の冷気を残していて、膝越しにその温度が伝わった。冷たい。ありがたい。頭が少しだけ冴える気がする。いや、冴えたところで現実の意味不明さが薄まるわけではないのだが、少なくとも呼吸を再起動する時間くらいは稼げた。
とりあえず返信しなければならない。
そこまではいい。社会生活における最低限の礼儀として、連絡を受けたら返す。人として普通だ。俺だってそれくらいはわかる。
問題は、その“普通”がいま地平線の彼方にあることだった。
「了解しました」
駄目だ。硬すぎる。軍の報告書か何かか。これでは夜会いましょうに対して“作戦受領、これより行動します”と返しているようなもので、恋の予感も青春の匂いもまるでない。俺がもし女子の側だったら、こんな返信を寄越す男に会う前から肩が凝る。
「おっけー♡」
もっと駄目だ。軽すぎる。軽いというか処される。既読が付いた五秒後には、ヴァレンタイン家の従者が物陰から現れて俺の人生へ正式に終止符を打ってきても驚かないくらいの軽率さだった。
そもそも、「夜会いましょう」ってどこで、である。場所の指定がないのだ。夜。会う。そこまでは明確。そこから先が真っ白。待ち合わせするにしたって、こっちは学園都市内の恋愛イベント発生地点を網羅しているわけでもなければ、名門令嬢が好みそうな夜の呼び出しスポットに詳しいわけでもない。中庭か。図書館前か。時計塔か。いや時計塔ってなんだ、そんなベタな場所が本当にあるのかも知らないのに脳が勝手にラブコメ地図を描こうとするな。
「ククッ……」
頭を抱える俺の肩で、テンペストが小さな羽をぱたぱたさせながら笑っている。ちょっと愉快そうに、かなり人を馬鹿にした感じで。
「これで正式に童貞が卒業できるな」
「はああああ!?!?」
思わず声が裏返った。
寮の中庭に響き渡り、静まり返っていた建物が俺の声でびりっと震えた気がした。実際に震えたかどうかは知らない。ただ、俺の尊厳と理性が同時に激しく振動したのは確かだった。
「正式にってなんだよ、正式にって!! 俺がどんだけこの話題にナイーブか分かってんのかお前!!」
「いやいや、心配すんな相棒。オレが保証する。間違いなく“卒業”だ」
「誰がそんな保証してくれって言った!? そもそもお前に保証されるとか絶対に嫌だわ!!」
俺は両手でテンペストを鷲掴みにし、目の前へ持ち上げた。手の中でじたばたする小竜は、見た目だけなら本当にぬいぐるみみたいだ。これを見知らぬ第三者に見せたら「仲のいい変な趣味の学生」にしか見えないだろう。そんな穏当な誤解で済んでくれたらどれほどありがたいか。現実にはこいつは人格侵食系の厄災で、いまなお俺の人生の重大場面を煽り文句つきで実況している。
「……なぁ、正直に言えよ」
低い声で問いかける。
「まさかとは思うが……俺の体を使って、とんでもないことしてるわけじゃないよな……?」
心臓がばくばくと跳ねた。冷や汗が背中を伝う。いまさら考えたところで事実は変わらない。わかっている。わかっているのに、人はもっとも恐れている問いを口にせずにはいられないときがある。たとえ答えが欲しいというより、答えを否定してほしいだけなのだとしても。
テンペストは小首をかしげ、尾をぶんぶん振りながら、小悪魔という言葉を考案した人類の先見性に感謝したくなるような笑みを浮かべた。
「想像に任せるぜ、相棒」
「任せられるかあああああ!!!」
俺は叫び、そのまま床へ突っ伏した。
どうすりゃいい。
マジでどうすりゃいいんだ俺。
エーテル・リンクの画面はまだ光っている。今日、夜会いましょう。たったそれだけのメッセージが、いまや俺にとっては爆弾の起爆スイッチにしか見えなかった。押しても地獄、押さなくても地獄。恋愛イベントのはずなのに分岐先の全部が不穏というのは、設計思想に致命的な欠陥がある。
……落ち着け。まずは落ち着くんだ。
高鳴る心臓を鎮めようと、俺は中庭から寮の廊下へ戻り、そのままぐるぐると歩き回り始めた。いや、歩き回るってレベルではない。完全に不審者だった。何往復したか分からない廊下を、俺は額に汗をにじませながら、ぶつぶつと独り言をこぼしつつ往復していた。客観的に見れば寝起きの学生が通信端末片手に人生相談をしながら徘徊しているだけなのだが、内面の切迫度はもっと高い。ほとんど戦時だった。
「……で、服装は? なぁ、服装どうすりゃいいんだ? これって、やっぱ“デート”ってことになるのか……?」
学園の制服か。それとも私服か。貴族令嬢に会うための洒落た装い事情など、俺は一切知らない。ファッションとは戦う前から装備差が出る理不尽なジャンルである。
制服なら無難かもしれない。無難ではあるが、夜に会うのに制服は逆に堅すぎないか。私服なら自由度がある。自由度があるということは選択肢が増えるということだ。選択肢が増えるということは、失敗の可能性も比例して増える。
…クソッ!まじでわかんねー
「おいおい、デートでも処刑でも行くと決まったら腹くくれ。顔が死にすぎてんぞ」
「うるせぇ! 俺は真剣に考えてんだ!」
振り返りざまに怒鳴る。
「そもそも待ち合わせ場所、学園の校門前とかだったら絶対また襲撃されるパターンだろ!? アイリス嬢の取り巻きが背後からドカーンって来る未来しか見えねぇんだけど!?」
「ククッ……なんだ、ビビってんのか?」
「ビビるも何も、俺は絶賛困惑中なんだよ!!」
俺は壁に手を突きながら声を荒げた。頭の中はほとんど爆発寸前だった。校門前。人気のない回廊。夜の庭園。どこを想像しても、ロマンと同じくらい暗殺の気配が付いてくる。この学園、青春の舞台装置としては優秀なくせに、同時に軍事養成都市でもあるせいで、人目の少ない場所がそのまま襲撃ポイントへ変換されやすいのだ。設計者は恋愛ドラマと防諜教育を同じ街区に詰め込むべきではなかったと思う。
テンペストは空中でくるりと回り、しれっと言った。
「ま、少なくとも――あの小娘を屈服させたのは事実だ」
「……は?」
意味深にもほどがあるだろその言い方。
俺は足を止めた。廊下の窓から差し込む午前の光が床へ白く伸び、その真ん中で、俺だけが見えない地雷原に突っ立っている気分になる。屈服。人は重大な単語に弱い。とくに、その単語が決闘と恋愛と黒パンティーの間に投げ込まれた場合、理性はほぼ確実に誤作動を起こす。
「ちょっと待てよ。屈服って、なんだよ屈服って。普通に“勝った”とか“決闘で優勢だった”とか言えないのか!?」
「おいおい、相棒。オレに“普通”を求めるなよ」
悪びれた様子もなく、テンペストは牙を見せて笑う。
こいつはいつだってそうだ。核心に触れそうになると、わざと表現を濁す。しかも濁し方が最低なので、聞いている側の想像力が最悪の方向へ全力疾走する。情報を隠すだけならまだしも、誤解の余地を最大化したうえで面白がるというのは、もう性格の悪さが芸術の域だった。
「……なぁ」
俺の頭の中で、想像と妄想がごちゃ混ぜになり始めていた。屈服とはなんだ。決闘で負けて膝をついたのか。プライドを砕かれたのか。それとも俺の知らないとんでもない状況が発生していて、その余波としていまこのメッセージが届いているのか。
脳内で黒パンティー事件がフラッシュバックする。あの黒い布切れはいま机の引き出しの中で静かに眠っている。引き出しの中身としては破壊力が高すぎる。普通の男子学生の机にはもっとこう、課題のメモとか、読みかけの本とか、せいぜい見られるとちょっと恥ずかしい雑誌くらいが入っているべきなのに、俺の引き出しには現在、学園主席絡みの重大証拠物件が鎮座しているのだ。しかも出どころが本人不在のまま不明。不明というかまじでアレは…
「いやいやいや……落ち着け俺……」
必死に自分へ言い聞かせる。言い聞かせたところで落ち着く気配はない。
俺はこれからデートに行くのか。それとも処刑に行くのか。わからない。わからないが――行くしかない。そこだけは妙に明確だった。逃げるという選択肢はない。ここで逃げたら一生後悔する予感があるし、なによりアイリス本人から連絡が来ている時点で、事態はすでに俺個人の都合では止まらない段階へ入っている。
ならばせめて返信くらいは適切にこなしたい。
俺は深呼吸し、壁にもたれたまま画面を見下ろした。
今日、夜会いましょう。
文字列に罪はない。悪いのは受け取った側の心拍数である。いや、送った側が場所も用件も書かなかったことにも少しは責任がある気がするが、そこへ文句を言える立場かどうかはいま判断がつかない。
「……よし」
まずは無難に返す。感情を出しすぎず、硬すぎず、軽すぎず。社会性と好意と困惑の中間地点。そんな便利なものが本当に存在するのかは知らないが、あると信じるしかない。
――はい、わかりました。
消した。なんか幼い。先生への返事みたいだ。
――承知しました。今夜、お待ちしています。
何を待つんだ。お前が指定されてないだろ。しかも妙に偉そうだし、場慣れした社交人みたいな匂いがして気持ち悪い。
――ぜひ。
営業か。
――もちろんです。
もちろんってなんだ。もちろん夜会いましょうってどういう立ち位置だ。こっちは内心ほぼ非常事態宣言中なんだぞ。
入力しては消し、打っては消しを何度か繰り返した結果、俺は一周回って最初のほうがまだマシだったのではないかという哲学的な地点へ到達しつつあった。文章とは難しい。授業のレポートなら、専門用語を並べて論理を繋げばとりあえず形になる。恋愛寄りの連絡というのはその何十倍も曖昧で、そのくせ一文字の温度が人間関係を左右するから恐ろしい。
「ククッ、迷ってる顔が実に童貞だな」
「黙れ」
「そのまま“どこで?”って送ればいいだろ」
「それはそれで、なんか、こう……段取りの悪い男みたいじゃねぇか」
「実際悪いだろ」
「事実で殴るな!」
けれど、こいつの言葉にも一理あった。場所がわからないのは純然たる事実であり、聞かなければ待ち合わせ不能である。恋愛慣れしている風を装ったところで、現実に迷子になれば本末転倒だ。ならば素直に確認するしかない。問題は、その“素直”をどう書くかである。
俺は画面を見つめ、慎重に文字を打ち込んだ。
――わかりました。今夜、どちらに行けばいいですか。
打ち終えてから、しばらくその文面を眺める。
無難っちゃ無難だ。ちょっと事務的かもしれないが、少なくとも粛清対象にはならないはずだ。たぶんな。いや、名門貴族の価値観までは保証できないが、一般的な社会通念の範囲では礼儀を欠いていないと思いたい。
送信ボタンへ指を置く。
その直前でまた迷う。
待て。これでいいのか。絵文字も顔文字もない。そもそもアイリス嬢がそういう文化へどういう感想を持つか知らないので、なくていい気もする。むしろないほうが安全か。安全とは何だ。恋愛に安全を求めている時点でだいぶ負けている気もするが…
「早く送れよ。だらしねぇな」
「うるせぇ……」
言い返しながら、俺はついに送信を押した。
ぴ、と軽い音が鳴る。
送ってしまった。
取り消しは効かない。たぶん効く機能はあるのだろうが、いまの俺にそれを試す勇気はなかった。
返事はすぐには来なかった。
廊下の向こうでは誰かが急ぎ足で階段を下りていく音がした。どこかの部屋でドアが閉まる。遠くで誰かが笑っている。世界はいつも通り回っているのに、俺の周囲だけ時間の粘度が急に増して、空気がねっとりと重くなったように感じる。
もし既読無視されたらどうしよう。いや、その前に既読は付くのか。付いたとして、返事が遅いのは怒っているからか。それとも単に忙しいのか。連邦最高クラスの名門令嬢が、俺みたいな転校特待生ひとりへ即レスする義理は普通に考えてない。ないはずなのに、こっちは端末を握った手にじんわり汗がにじみ始めていて、我ながらみっともないくらい待っていた。
ピピッ。
来た。
肩が跳ねた。
画面を開く。文面は簡潔だった。
――十八時、学園の正門前へ。ひとりで来てください。
「学園の正門前……」
思わず、そのまま読み上げてしまった。
いや、場所としてはわかりやすすぎる。わかりやすすぎるんだけど、だからこそ逆に困る。正門前って、もっとこう、あるだろ。放課後の呼び出しって普通は中庭とか、人気のない回廊とか、せめて噴水広場の端とか、ちょっとは雰囲気というものを考慮した座標指定になるもんじゃないのか。なのに正門前である。逃げも隠れも待ち伏せもできない、学園という巨大な箱の“表玄関ど真ん中”である。告白の舞台としては潔すぎるし、口裏合わせの場としては開放的すぎるし、公開処刑の会場として考えると妙にしっくりくるのがいちばん嫌だった。
「ククッ……いいじゃねぇか。正門前とはな。実に堂々としてる」
「堂々としすぎて怖ぇんだよ……」
「人目のある場所を選ぶってことは、やましいことがないか、あるいは逆に見せつけたいかのどっちかだな」
「その二択、どっちに転んでも全然安心できねぇんだけど?」
正門前。十八時。ひとり。
行くしかない。それはもう決まっている。問題は、その“行くまでの時間”をどう乗り切るかだった。
服装。時間の潰し方。心の準備。万が一の誤解に対する弁明の文面。目撃者がいた場合の表情管理。頭の中に並び始めた項目を冷静に整理していくと、どう考えても恋愛イベントの準備ではなく、何かの作戦行動に出る前の確認事項みたいになってくる。俺の青春はどうしてこう、無駄に軍事訓練めいているんだろうな。もう少しこう胸が高鳴るとか、そわそわするとか、甘酸っぱい方面に寄せられないものか。
「……まず服だな」
ぼそっと呟く。
俺の私物は多くない。他に着る物ないのかっていうくらいの素朴なラインナップで、学園から支給された生活用品と制服、それから最低限の私服が数着あるだけだ。その最低限の私服というのがまた、実用性を第一に据えた“生活に困らないが色気も正解も特にない”服ばかりで、十八時の正門前で高嶺の花と向き合うための最適解が含まれている気配はまるでなかった。だからといって制服で行くのも違う気がする。いや、学園の正門前なんだから制服でも別におかしくはない。おかしくはないんだけど、それはそれとしてもう少しゆとりがあるというか、これからデートに行くっていう状況に応じた“柔軟性”をだな…。いや、それを自分に求めるのは少し難易度が高いか。恋愛に正解はないという人がいるが、あれはある程度イベントを経験した側の発言であって、こっちはスタート地点からしてすでに足元がぬかるんでいるのだ。
……いや待て。
そもそも、これは本当に恋愛イベントなのか?
そこがまだまるで確定していない。
決闘の件を改めて確認したいだけかもしれない。黒パンティーの件について、ようやく本人から正式な説明があるのかもしれない。あるいは俺の知らないところでさらに状況が悪化していて、その報告を本人直々にされるだけの可能性だって普通にある。むしろ俺の人生経験的には、甘い期待よりそっちを警戒しておくほうが自然ですらあった。何しろ、ここ最近の俺の周辺では“おいしい話に見えるものほど、中を開けると火薬が詰まっている”みたいな展開が妙に多い。
そこまで考えてから、俺はゆっくり壁へ額をつけた。
「……ああもう」
結局のところ、俺はいま浮かれているのか怯えているのか、自分でもよくわからない。高嶺の花から、本人名義で、時間と場所を指定して呼び出された。文章だけ切り取れば、男子学生としては一生に一度あるかないかの大事件である。しかも相手は、あのアイリス・ヴァレンタインだ。憧れとか、畏れとか、恋とか、挑戦とか、そういう名前のつく感情を勝手にいくつも積み上げてきた相手から、実際に連絡が届いている。普通の男子学生なら、ここでしばらく天井に向かってガッツポーズを決めても許される気がする。
現実の俺はというと、喜びの上に不安が何層にも重なっていて、感情の仕分け場が完全にパンクしていた。嬉しいは嬉しい。たぶん。いや、かなり嬉しい。そこは認める。でも同時に、黒い不安も濃い。濃すぎる。甘い可能性と物騒な可能性が同じテーブルで殴り合っていて、どっちが勝つのか当の本人にも見えていない、そんな感じだった。
テンペストが、珍しく少し静かな声で言った。
「行くんだろ?」
俺は壁へ額をつけたまま、目を閉じた。
倉庫。鎖。血の味。決闘。愕然としたアイリスの顔。黒い布。そして、十八時、正門前へ、ひとりで来てください、という簡潔すぎる一文。
頭の中で、ばらばらの断片がまだうまく噛み合わない。それでも、その中心に彼女がいることだけははっきりしていた。
「……行くさ」
小さく答える。
「わけわかんねぇけど、逃げる理由はない」
たぶん本音は、逃げる理由がないんじゃなくて。
逃げたくない、のほうが近かった。
どれだけ怖くても、どれだけ状況が読めなくても、ここで行かなかったら俺は一生、あのメッセージを見返すたびに後悔する。恋というのはつくづく理屈に向かない。合理性だけで考えれば、危険要素の多い夜の呼び出しに単身向かうなど、推奨される行動ではないはずだ。そこへ自分から歩いていこうとしている時点で、俺もだいぶ終わっている。
終わっているのは知っている。
それでも、行くしかないと思ってしまう。
アイリス・ヴァレンタイン。
学園主席の令嬢。未来予測の才女。高嶺の花。俺が決闘で挑み、勝ったらしい相手。
会えば何が起きるのか、まるでわからない。
デートかもしれない。糾弾かもしれない。誤解の清算かもしれない。もっと厄介な何かの始まりかもしれない。
わからないままでいい、とはさすがに言えない。
わからないからこそ、確かめに行くしかないのだ。
俺はようやく壁から額を離し、端末を握り直した。
十八時まで、あと半日近くある。
「……よし」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
「まずは服だ。話はそこからだ」
「おう。頑張れよ、童貞」
「お前は一回ほんとに黙れ」




