盗人宿
むかしむかしのこと。ある町の通りの並びに、『盗人宿』と呼ばれる小さな宿があった。そこに泊まった客は、夜明けまでに決まって持ち物を根こそぎ盗まれるという。ひどいときには、肌身一枚さえ残らなかったそうだ。
ある冬の晩、その噂を聞きつけた一人の男が白い息を弾ませながら宿の戸を開けた。
「よお、ここが噂の盗人宿だろ? 一晩、泊めてくれ」
男は玄関框にどかっと腰を下ろし、手をこすり合わせながら笑った。
「はあ、噂ですか? いやあ、私にはなんのことやら……」
宿屋の亭主は苦笑し、何度も小首を傾げた。
「とぼけるなよ。ここに泊まるために、野を越え、山を越えて来たんだぜ」
「はあ……まったく、どうしてそんな噂が広まってしまったんでございましょうかねえ」
亭主は額に手を当て、首を振った。
「でも事実なんだろ?」
「……ええ、残念ながら。噂どおりでございますよ」
「へへっ、よしよし。しかし、本当に客の持ち物が盗まれるなら、よく潰れもせんもんだな」
「ま、そんな目で私を見ないでくださいな」
「そんな目?」
「盗人を見るような目です。誓って、私どもが盗みを働いたことなどございません」
「ははは、わかってるよ。すまん、すまん。ただ不思議でな。役人は何も言ってこないのかい?」
「ええ、疑われましたとも。必死に事情を説明してもまるで信じてもらえず、結局、一晩お泊めすることになりましてね」
「なるほど、検証ってわけかい。で、どうなったんだ?」
「見事、盗まれましたよ。三人でお泊まりになり、交代で夜通し見張るはずが、いつの間にか全員ぐっすり。翌朝には身ぐるみを剥がされておりました」
「はははは! そいつはいい気味だ!」
「ちっともよくありません。そのせいで、さらに疑いが深まりました。二度目にお泊りのときは、我々宿の者は他所で軟禁されておりましたよ」
「ほほう、それでどうなったんだ?」
「ふんどしまで盗まれたそうです」
「はははは! いやあ、いい、いいねえ。しかしよく『こんな宿は潰せ!』って話にならなかったもんだな」
「ええ、なりましたとも。ですが、祟りがあるのではないかと恐れられましてね。誰も手を出せなかったのです。この災いが他の宿や奉行所に移ったらたまらない、と。まるで性質の悪い風邪のようにね。まったく、もう……」
「なるほどな。だが、それじゃ客足が遠のくんじゃないか?」
「ええ、そこで、ある住職様がこのお札を授けてくださいましてね。部屋の戸口に掛けておけば、盗まれずに済みます。それに……」
亭主は顔を寄せ、男の耳元でそっと囁いた。
「……盗まれて都合がいい方も、少なくないのですよ」
「へえ……たとえば?」
「預かった金を賭場で溶かした方や、出稼ぎ先で酒と女に溺れ、女房に顔向けできない旦那などです」
「なるほどなあ。格好の言い訳になるってことか。役所のお墨付きだしな」
「そういうことです。ところで、お客さんも?」
「へへ、まあな」
「やれやれ……。では、先払いでお願いいたしますよ」
「いいぜ。ツケにしといてくれ」
「はあ……まあ、今夜は他にお客も来そうにありませんし、いいでしょう。それで、お札はいらないんですね? 気をつけてくださいよ。必ず盗まれますから」
「あいよ。へへへ……」
部屋に入った男は、畳の上に布団を広げ、着ていた服を一枚残らず脱ぎ捨てた。それらを廊下の隅に乱雑に積み上げると、腰に手を当てて満足げに頷いた。
こうしてしまえば、盗まれるものなんて何もないだろう。今、自分が抱えているもの。借金以外は。
「頼むぞお、綺麗さっぱり盗んでくれ……!」
男は両手をパンパンと叩き、天井を仰いで祈るように言った。それから寒さにぶるりと震え、慌てて布団に潜り込んだ。最初は歯の根も合わぬほど冷え込んでいたが、次第に体温で布団が温まり、やがて穏やかな寝息を立て始めた。
心配事が解決するかもしれないという期待は、良い眠り薬になるらしい。
もっとも、男のこの閃きは、追い詰められた末の苦し紛れにすぎない。借金が消える保証など、どこにもなかった。もし亭主に話していたら、きっと呆れられていたことだろう。
しかし、翌朝――。
「お、おい、亭主。もう一回言ってくれ……今、なんて?」
男は廊下で、忙しそうに客の後片付けをしていた亭主を呼び止めた。亭主は怪訝そうに眉をひそめ、ため息まじりに答えた。
「ですから、あなたがおっしゃるお部屋にお客さまをお泊めしたのは確かですが、代金はすでに頂戴しておりますよ」
ツケも立派な借金の一つだ。それがどういうわけか、払ったことになっていた。いや、どういうわけもない――間違いない、すべての借金が消えたのだ!
男は小躍りしながら宿を飛び出した。落ち葉の塊を蹴り上げ、道を跳ねるように駆けていく。
町に着くと、道の真ん中を堂々と歩いた。あの八百屋も、金物屋も、茶屋も、そこで飯を食っている大工たちも、いつもなら「金を返せ!」と眉間に皺を寄せて詰め寄ってくるところだが、今日は誰一人として声をかけてこない。まるで最初から借金などなかったかのように、きれいさっぱり消えたようだ。
男は大笑いしながら長屋へ帰った。もちろん家賃を滞納していたが、それも帳消しになっているに違いない。胸を張って戸口に手をかけた。だが――。
「ん、おい、あんた何してんだい?」
外で箒を動かしていた大家が、怪訝そうな顔で声をかけてきた。
「ん? おお、大家さん。どうもどうも」
「その家の人のお客さんかい?」
「お客さん? ははは、なんだい、機嫌いいねえ、はははは!」
「はあ? 何をごまかしてんだ。あんた、やっぱり泥棒じゃ……」
「おいおい、泥棒って、それは冗談きついよ」
「じゃあ、どこの誰で、なんの用か言ってみなよ」
「どこの誰って……おれはここの借主じゃないか」
「何言ってんだい。そこの人なら今朝早く仕事に出たよ。滞納してた家賃もきっちり払ってさ。いやあ、心を入れ替えたんだなあ」
「え、は? は?」
「だからね、あんた。もし何か盗もうってんなら許さないよ。あんたの顔はしっかりと覚えたから……んん? なんか、覚えにくい顔だなあ。全然印象に残らないよ。というか、ぼやけて……」
男は、目を擦って不思議がる大家に背を向け、駆け出した。
顔は青ざめ、息は荒く、汗が寒気に変わっていく。いくつかの借金先を回ったが、彼のことを覚えている者は一人もいなかった。それどころか、別人扱いされてしまった。
「お、“おれ”ごと盗まれちまった……!」
男は道の真ん中で叫んだ。だが、行き交う人々は誰一人として見向きもしなかった。
男はしばらく呆然と立ち尽くしたのち、やがて肩を落とし、とぼとぼと歩き始めた。
向かうのは、あの宿。自分と同じように噂を聞きつけ、借金を盗まれにやってくる者が現れるのを、ひたすら待つために……。




