第三部 変化
梅雨の間のわずかな晴れ間、午後の柔らかい日差しの中で俺は午前中からずっと考えている。
朝霧さんと会った後に山中さんから言われ、教室に帰ってきたら相良に言われたこと。
俺が何かに気づいていないらしい…。
「ちくしょう、俺の頭では解決できないのか……相良が分かってるのに」
柳に言われるならまだしも、相良に言われるのが無性に悔しい。
…というか腹が立つ!
「うーーん……」
頭を抱えて再び考え込むのだが
「あー、分かんねぇ!」
「何が分からないんだ、八神?」
「あっ…」
思わず叫んでしまって気付く。
今はホームルーム中だ、一番前で話している担任の岡野を始め、クラス中の視線を俺が独占してしまった。
「何が分からないんだ?」
「いや、さっきの数学でですね…」
慌てて愛想笑いを顔に貼り付けて、適当な言い訳をしておく。
なんか今にもこっちに来そうだし。
「じゃあ、後で柳に聞け」
「先生のところに行けとは言わないんですね」
「柳の方が早いだろ、いいからもう座れ」
言われるままに座る。
とりあえず誤魔化せたけど、さっきの発言は教師としてどうなんだ?
「えー、これでホームルームは終了だ。掃除の人はしっかりやるように」
それだけ言い残して岡野は教室を出ていった。
「やーがみー、さっきのは何だ? まぁ、だいたい分かるけどさ」
「なら聞くな」
岡野が部屋を出ていくのと同時に、相良がこっちにニヤケ面を張りつけてやってきた。
あーもう、腹立つからその顔をこっちに向けんじゃねぇ!
ニヤニヤしながら近づいてくる相良を平手でグイグイと押しやる。
「いくら考えても今のお前じゃ分からないって」
「何だよそれ」
「相良、八神で遊ぶのもいいけど掃除の邪魔になるから出た方がいいよ」
「んじゃ、帰るか」
親友兼優等生の柳が俺たちのじゃれ合いを制した。
そして相良を先頭にして、ぞろぞろと教室から出る。
「おっ、噂をすればなんとやら……朝霧さーん!」
「あっ、バカ、相良!」
俺たちとほぼ同時で出てきた朝霧さんに相良が声を掛けやがった。
「あっ、八神さん!」
その声に反応して、朝霧さんがこちらに駆けてくる。
パタパタと小さな足取りで向かってくる姿が何故か危なっかしい…。
今朝も何もないところで転んでたし。
てか、呼んだのは俺じゃないんだけど…。
「や、やぁ…今から帰るところ?」
「いえ、私は委員会がありますので」
「そうか。じゃあ、また明日」
「はい」
顔を上げ、くりんとした大きな瞳の中に俺が映る。
満面の笑みを浮かべて深々と頭を下げてから、朝霧さんは委員会に向けて足を進めていった。
「ふぅー、こら相良」
「あはは、悪い悪い」
「ったく…」
「しっかし、あれはホンモノじゃないか、柳?」
「今のを見るかぎりだとそうなるね」
「ホンモノって、何が?」
「はぁ、当の本人がこれじゃあな…」
相良が呆れたように両手を広げて肩を竦めた。
「だから、なん――」
「ちょっと、真…」
俺がしゃべろうとすると、それを遮るように真っすぐな声が響いた。
「山中さん、もうその手は通用しな――」
どうせ山中さんが真似をしているのだろうと後ろを振り返ってみると、眉をひくつかせた鬼…もとい、麗奈の姿があった。
「…れ、麗奈……」
いつも鋭い眼光が今日は三割増しぐらいでさらに激しくなっており、それを見た俺は顔から冷や汗を流していた。
すぐ手の届く範囲に来ている麗奈に本能が警告を鳴らし、俺は無意識に後退りしている。
「へぇー、可愛い娘とお知り合いになったのね」
腕を組んで、迫力満点な仁王立ちを披露してくれる。
俺の眼に映るのは麗奈の笑顔だが、その後ろに鬼が見える…。
後ろでは山中さんが必死に笑うのを堪えているし…あっこら、相良、柳、さり気なくそっちに行くな!
「いや、あれはだな……」
「後でゆっっっっっくりと聞こうかしら」
全身から黒いオーラを立ち上らせて、離れていく俺に向かって一歩踏み出す。
その一歩は普通の歩幅なんだろうが、今の俺から見たらズシリと重い、大きな一歩に感じる。
「いや、それはちょっと遠慮したいかと…」
「さっ、早く帰るわよっ!!」
二、三歩分ぐらいは余裕があったのに、一瞬で間合いを詰められ、あまつさえ俺の後ろに回り込んでいた。
そして、無防備な襟首を鷲掴みにされて、そのままずるずると引きずられる。
「ぐっ…! れ、麗奈…さすがにこれはキツイって!」
「んー、何か言ったかしら?」
「…………いえ、なんでもないです」
反抗しようと麗奈に抗議したが、やさしい言葉は裏腹な有無を言わせぬ視線にあえなく撃沈された。
「八神、頑張れよー」
「レナッチ、ほどほどになー」
相良と山中さんが手を振っているが、そんなことよりこいつを止めてほしい。
柳は言葉に出していないが完全に楽しんでやがる…。
全く止める気配がない……いや、むしろこの状況を楽しんでいる奴らを見ながら廊下を引きずられ、そのまま自転車置き場まで連れて行かれた。
「それで? あの子とはいつ知り合ったの?」
「えーっと……」
帰り道、自転車の後ろにまたがった麗奈が俺を問い詰めてくる。
「とりあえず手の力を抜いてほしいかな」
俺の肩に置いてある手がメキメキと食い込んでくる。
しかも、段階的に力が上がっていくため、完全に拷問の域に達している。
「私の質問にちゃんと答えたらね」
「はい」
あくまで口調だけはやさしい麗奈。しかし、肉体的ダメージがどんどん増えている。
「で、彼女とはいつ知り合ったのかしら?」
「昨日です」
「昨日のいつ?」
「えっと、焔獣と戦った時に……」
「何ですって!?」
俺の言葉で麗奈の手の力が抜けた。
「いや、わざとじゃなくて、あれは完全な不可抗力で……」
「一般人を巻き込むなって言ったでしょうが!!」
「ぐ…ぐるじい……れ、麗奈…そこ首、首!!」
俺の首に麗奈の腕が回り込み、見事なヘッドロックをかまされる。
「お、落ちるって!」
「“もうしません”は!?」
「も…もうしません……」
「よし」
「すぅーー……はぁーー」
麗奈の手が離れたところで新鮮な空気を脳に供給する。
しかし、見事な絞め技だ、完全に頸動脈に入っていた。
あー、ちょっと視界がぼやけたぜ。
「それで?」
「ん…あぁ、まぁ恐怖でこっちに背中向けたまま腰抜かしてたから何も見てないと思う」
「まさか家まで送っていったとか…」
「そんなことはしてない」
「そう…分かったわ」
「だったら力を抜いてくれ」
会話が進むにつれて再び肩に置かれた麗奈の手に力が入っていく。
てか、お前握力どれだけあるんだよ!?
もう俺の肉体的ダメージが大変なことに…そろそろ限界を迎えそうだ。
「それとこれとは話が別よ。ここからはお仕置きなんだから」
「そ、そんな――」
「問答無用!」
「いだだだだだだ!」
麗奈の指がミシミシとめり込んできて、思わずハンドルを握る手を離しそうになる。
「麗奈、マジで――」
―キーン…―
「来た」
気配を感じた瞬間に肩から痛みが消えた。
た、助かった……ナイスタイミング、焔獣!
「来るわよ、どこか人気のない場所に」
「あぁ」
とりあえず麗奈の指示通り人気のない裏路地に出て、焔獣が姿を現すのを待つ。
「真、あんたはここで待ってなさい」
「えっ、でも…」
「待ってなさい」
「……はい」
俺も一緒に戦おうとしたが、麗奈がそれを許さなかった。
すぐに闘牙を解放して同期しているのはいいが、なんか全身から危ないオーラが立ち上っているような……。
『ぐおぉおおぉぉぉ!! 紅よ、我としょう……ぐわあぁぁ!』
「うわー、まだしゃべってたのに……」
焔獣が土埃を巻き上げて現れたのにも関わらず、麗奈はそこに突っ込んでいき、そいつを吹っ飛ばした。
ちなみに焔獣は俺が最初に見た蠍みたいな奴だ。
「悪いけど、あんたの話を聞いている暇はないわ」
そう言って、麗奈は吹っ飛ばした焔獣のところにゆっくりと近づいていく。
歩くたびに碧色の水がゆらゆらと立ち上る。
『い、いきなりとは卑怯な!』
「いきなり来てるのはそっちでしょうが!」
ダメージから復活した焔獣が麗奈に猛抗議するが、それを上回る迫力で潰されてしまった。
『そもそも我が狙っているのは蒼炎――』
「今は私と戦いなさい!」
麗奈は向こうの話を一切聞かないつもりのようだ。
とにかく焔獣に向かって突進して、刀を振り回している。
「んー? あれは斬ってるのか?」
『いや…麗奈殿の手元をよく見るのだ、真殿』
「……あいつ、峰を返してやがる」
蒼炎に言われて、麗奈の手元を目を凝らして見てみた。
焔獣に向かって、刀を振り下ろしているがいわゆる峰打ちになっている。
「……完全に八つ当りだな」
『そのようだ…我々はここで大人しくしていよう』
蒼炎の言うとおり、下手に手を出さないほうがいいみたいだ。
あんなのがこっちに向いたら、それこそ文字通り命がない。
「あ、こら! 逃げるな!!」
『逃げてなどいない!』
「なんだ? 鬼ごっこに変わったのか?」
いつのまにか麗奈の攻撃から焔獣が逃げ回っていて、それを麗奈が追い掛けている。
焔獣の体は所々へこんでいて麗奈の八つ当り加減がよく分かる。
「あー、だんだん焔獣が可哀想になってきた」
もはや格好の的になっている焔獣に同情の念さえ浮かんでくる。
「でも、今手を出したらなぁ…」
その後の自分の運命を思うと背筋が凍り付いてしまう。
「鬼ごっこは……おしまい…よっ!」
『ぎゃああぁぁぁ!』
「おっ、終わったか」
痺れを切らしたのか、ストレスを発散できたのか知らないが、麗奈は焔獣を真っ二つに斬っていた。
「さっ、帰るわよ」
そう言った麗奈の声は、怒っているものではなかったがいつも通りでもないような微妙なものだった。
「帰ったら修業するから、着替えていつものところに」
「分かった」
自転車の後ろに麗奈を乗せて、ペダルを漕ぐ足に力を入れる。
そのときには俺の肩に麗奈の指がめり込んでくることはなかったが、なんか逆にそれが怖かった。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま」
「ただいま帰りました」
家に入るとちょうど母さんが居た。
「今から修業?」
「はい」
「そう、夕飯までには戻ってきてね?」
「分かりました」
二人とも相変わらず仲がいいようで、ずっと笑顔で話していた。
俺の勘違いか…。
どうやらさっきの戦い…というか八つ当たりで麗奈の機嫌も直ったみたいだ。
「では、着替えてきます」
「頑張ってね」
麗奈は頭を少し下げると自室に向かっていった。
母さんはその背中をしばらく見守っていたが
「麗奈ちゃん、何かあった?」
首をこちらに向けて、そう言った。
その顔は俺が風邪を引いたときに見せるような、本当に心配そうなものだった。
「なんで?」
「何ていうか、怒っているような悩んでいるような声だったから」
指を顎に当てて考える母さん。
……この人は本当に人の心が読めるんじゃないだろうか…。
「実は――」
怒っていることには心当たりがある俺は今日のことをすべて話した。
「――というわけなんだ」
「ふーん、てっきり喧嘩したのかと思った」
「八つ当りはされた」
「そう」
俺の説明を聞いた母さんには、さっきまでの心配するような表情を浮かべていなかった。
それよりもこれまで散々俺と麗奈で遊んでいたときのようないたずらっ子の顔になっていく。
「麗奈ちゃんがねぇ?」
「よかったわね」
「何が?」
そんなに笑顔で言われても俺には分からない。
「それは真くんが自分で気付かなきゃ」
「ちぇっ、やっぱりか」
みんなして俺をからかっている感じがしないでもないが、分からないから反論のしようもない。
「はぁ…」
ヒントすらない問題に思わず深いため息を吐いてしまう。
「ふふっ、ゆっくりと考えればいいわ。今はとりあえず修業の準備をしなさい」
「…分かった」
自分の願いが叶ったような満足気な笑みを浮かべて、母さんは台所に戻っていった。
「今はとりあえず修業か」
悩むのはまた後にして、修業のために着替えていつもの場所に向かった。
「じゃあ、修業を始めるわよ」
「いつも通りだと思うんだけどなぁ」
「何か言った?」
「へ? あ…あぁいや、別に」
危うく聞こえてしまいそうだったが、腕を組んで仁王立ちしている麗奈は、俺から見たらいつも通りで、発せられる言葉にも違和感など感じられなかった。
「じゃあ、同期して。今日はスピード重視でやるから、それについてこれるようにしなさい」
「分かった」
お互いに刀を解放して、同期する。
「じゃあ、行くわよ!」
「おう!」
叫び声と同時に麗奈が足を踏み出し、俺もそれに向かう。
「くっ…」
ガキン!と刀がぶつかり合う独特の音が辺りにこだました。
「ここからスピードを上げるわよ!」
「うおっ!?」
その言葉を聞いた次の瞬間には、もう麗奈の姿が目の前から消えていた。
「どこだ!?」
「ここよ!」
いつかのように勢いよく後ろを振り向いたがそこに麗奈の姿はなく、思わぬところから声が聞こえた。
「うわっ!」
体を向けた瞬間には俺の視界にはに闘牙の刃しかなくて、どうすることもできなかった。
「ちゃんと気配を感じなさい」
「そんなこと言われても…」
まさか頭上からとは……。
自分の予想とは違う攻撃で対応できなかった。
「敵はどこから来るのか分からないのよ? 予想するのはやめることね」
「じゃあ、どうするんだよ」
「気配を感じるのよ、眼で見るだけじゃなくて相手の気を追うことができれば自然と対応できるようになるわ」
「すぐにできることじゃないな」
「もちろん修業をやっていく上でできるようになるものよ……………あと同期を解かないようにしなさい」
「あっ…」
いつのまにか俺を取り巻く炎がなくなっていた。
相変わらず同時に集中することができない。
「同期の安定も兼ねた修業だから、油断しないようにね」
それだけ言うと、麗奈は俺から少し距離を置いて構えた。
「じゃあ、もう一度やるわよ」
「分かった」
再び蒼炎と同期して構える。
「行くわよ!」
「おう!」
再び麗奈が地面を蹴り、俺もそれに向かっていく。
刀と刀がぶつかり合い、その独特な音が竹林を揺らしていた。