食レポ(鯛塩ラーメン)
塩ラーメンが静かに湯気を立てていた。
まるで誰にも見送られずに発つ終電のように悲しげに、そして静かに。
私はそれをじっと見つめることしかできなかった。手を出せば、たちまち崩れてしまいそうな、そんな繊細な何かが、そこにはあった。
透明なスープ。その底に沈む鯛の出汁。
ああ私はこういうものに弱い。誠実で地味で、けっして出しゃばらない。
それでいて、どうしようもなく美しい。
人はそれを「繊細な味」と呼ぶが私は違う。こういうのを“諦念”と呼びたい。希望を抱かぬ者だけが、たどり着ける味があるのだ。
そのとき不意に思い出した。
インスタントの塩ラーメン。確かに、うまかった。泣くほどに、うまかった。けれど、どこか人間くさかった。
いわば、失恋後の慰めのような、あたたかいけれど、痛ましい味だった。
だが、「みきゃん」の鯛塩ラーメンは違った。
これは…もう、郷愁などというレベルではない。
ひと口すすると潮の香りが鼻を抜けた。波の音が聞こえた。
私が行ったこともない、けれど確かに帰るべきだった愛媛の海。
そうだ私はきっと前世で愛媛の片隅に住んでいたのだ。みかんの香りに包まれて、誰にも見つからず誰も探してこない場所で。
その記憶がこのラーメンの中に封じられていた。
もう岡山では生きられない。
私はそう思った。ラーメン一杯で人生の方向が変わる。
人に話せば笑われるが私は本気で思ったのだ。
次に絶望したら愛媛に行こう、と。