第一幕 感情の輪郭を探して――沖田司、はじまりの章:前編
――沖田司という子ども――
生まれたのは、弘化二年の江戸。
市谷の、雪がまだ残る早春の朝だった。
この世で最初に感じたのは、冷たい空気と、薄紅色の朝日。
「生きている」という実感はなかった。ただ、静かに呼吸しているだけ。泣き声すら、自分のものだという実感が薄かった。
父は剣の人だったけれど、私がものごころつく前に、あっけなく死んだ。
残されたのは、母と姉、そして私。
母の志乃は、よく笑う強い人だった。姉のみつは、どこまでも優しくて、私のことを何よりも気にかけてくれた。
周囲から見れば、私は“変な子”だったと思う。
何をやらせてもできる。竹馬も、一度で乗れた。文字も計算も、一度教われば忘れない。
「すごいね」「頭がいいね」――周りの大人たちが褒めてくれても、私自身は特に嬉しくなかった。
感情というものが、どこか遠い出来事のようで、他人事みたいに眺めていた。
人の輪の中にいるときも、私は自分が「ここにいる」ことを時々忘れてしまう。
誰かが笑えば、私も笑う。誰かが泣けば、同じように顔をしかめる。
ただそれだけ。
それでも、周囲は「賢い子」「美しい子」と持て囃してくれた。
鏡を見ると、自分でも少し不思議になる。
白い肌に、淡い桃色の髪。紫がかった目。
「天女の生まれ変わりだ」と噂された、そして私は“人間”として生まれた気がしなかった。
なぜなら、私は最初から――“普通の人間”とは、何かが違っていたから。
だけど、その違和感を、言葉にすることもできなかった。
だから私は、周囲の期待に合わせて、仕草も声も整えた。
そうすれば、みんなが笑ってくれる。
それだけが、唯一の“安心”だった。
叔父の林太郎が、私を見つけたのは、そんなときだった。
母の兄で、浅草橋で道場をやっている人。
私の動きを見て、ぽつりと「こやつ、筋が違う」と呟いた。
それから、私の毎日は、剣と共に流れ始めた。
――なぜ剣だったのか。
理由は分からない。
でも、竹刀を握ったときだけは、「ああ、私はここにいる」と思えた。
斬る感覚。誰かと打ち合う音。
その一瞬だけ、胸の奥がほんの少しだけ、熱くなる気がした。
私は“それ”を、他の何よりも求めるようになっていった。
自分が何者なのか、なぜ“感じる”ことができないのか。
答えはまだ、分からない。
でも――
私はこの違和感を、いつか剣の道の先で、解き明かしてみせる。
――薄陽のなかの姉妹――
(司視点)
姉のみつは、町でも評判の娘だった。
きれいで、やさしくて、何をやらせても完璧。
所作も和歌も裁縫も、全部きちんとできる。
「沖田の娘といえばみつさん」なんて、ご近所でも、町の誰もがそう言う。
でも、その姉が目立つことは、ほとんどなかった。
理由は、きっと私のせいだ。
私は、何をやってもすぐ覚えてしまう。
竹馬も、一度で。文字も数も、一度聞けば忘れない。
髪も目も変わった色で、子どもたちの輪に入れば、すぐに話題の中心になってしまう。
結局、「司ちゃんがすごい」って空気が、どこにいてもできてしまう。
本当は、そうなる理由が自分でも分かっていた。
私は――たぶん、普通じゃない。
誰かの笑い方、泣き方、話し方を観察して、その通りに真似てきただけ。
みんなの中に「溶け込む」ために、そうするしかなかった。
だけど、姉さんは一度も、私を妬んだりしなかった。
たとえば、褒められているときも、母や叔父が私の話ばかりするときも、
姉さんはただ静かに笑って、台所の手伝いをしたり、私の着物の襟を直してくれたりした。
「……ねえ、姉さん。なんで怒らないの?」
昔、隣の家の娘がそんなことを聞いたことがあった。
そのとき姉さんは、少し考えて、庭の私を見て笑っていた。
「だって、あの子は私の妹よ?」
「……でも、あんなに何でもできたら悔しくならない?」
「ふふ、不思議とならないの。あの子はちょっと、“別のもの”だから」
その言葉は、今も時々、頭に残っている。
◇
姉さんと二人きりになると、よく静かな時間が流れる。
「司、また三日で読み終えたの?」
「うん。面白かった。“十訓抄”、構造がきれいだった」
姉さんは優しく笑って、針仕事を続ける。
何気なく話しているだけなのに、ふと、こんなことを聞きたくなる。
「……姉さんは、怒らないの? 私ばっかり褒められて」
姉さんは、手元の針を止めずに答えた。
「ううん。だって、あなたは本当に“すごい”もの」
「でも、姉さんのほうが綺麗だし、字も歌も全部うまいし……なんで?」
「司はね、“わからない”ことを、わかろうとしてる。いつも人に自然に合わせてるけど、たまにちょっと、無理してるみたいに見えるの」
ドキリとした。
私は、そうしないと“生きていけない”と教わった気がして、そうしているだけだ。
「……変かな?」
「いいえ。とっても優しいと思う。でも、少し苦しそう」
姉さんの優しい声と、私の中の“何か”は、すこしだけズレている。
私はそれが分からないから、“こういうときは微笑むべき”だと頭で判断して、口元を真似た。
「ねえ、姉さん」
「なあに?」
「……たぶん、姉さんのこと好きって“思ってると思う”」
姉さんは、驚きながら、柔らかく笑う。
「“思ってると思う”? それは立派な告白ね」
「そうなの?」
「うん。少なくとも、私は司のこと、大好きよ」
――大好き、か。
その言葉の“重さ”は、たぶんまだ分からない。
でも、正しい言葉なんだと思ったから、小さく「うん」と返して、姉さんの隣に座る。
姉さんは、静かに私の頭を撫でた。
私はそれを、“あたたかい”と記録しておくことにした。
(いつか、ちゃんと「分かる」日が来るのだろうか――)
――万能という牢獄にて――
(司視点)
五歳の私は、もう「天才の子」と呼ばれていた。
字も読めたし、書も整っていた。九九も割り算も、論語の素読も、何もかも覚えるのは簡単だった。
竹馬も水泳も、初めてなのに苦労した記憶はない。
できないことなんて、なかった。
周囲の子供たちが泣くのを、「なぜ?」と首を傾げながら見ていた。勝てないから?
不思議だった。勝つことも、負けることも、私のなかではどちらも“特別”じゃなかったから。
私の世界は、プログラムみたいに整然としていた。
「こうすれば褒められる」「ここで笑えば喜ばれる」
頭の中には、令和で身につけた“最適解”がいくつも並んでいた。
私は“感じる”ことが苦手だったけど、“感じているふり”をするのは得意だった。
それでいい、とも思っていた。
何かに成功しても、うれしくはならない。
失敗もしないけど、誇りや後悔なんて浮かばない。
私の人生は、模倣と最適化の繰り返し――それが「普通」だった。
そんな私の日々が、初めて少しだけ揺らいだのは、六歳の春。
家の近くに、二つ下の男の子が越してきた。
正道――その子は、出会ったときからちょっとだけ変わっていた。
「司姉ちゃん!」
無邪気に笑って駆け寄ってきて、すぐに私の後ろをついて回る。
負けても、転んでも、石をぶつけられても――なぜか必ず笑う。
それまでの私は、そんな子どもを見たことがなかった。
周りの子たちは、できないことがあるとすぐに泣いた。
私の真似をしても、できなくてあきらめた。
でも、正道だけは違った。
彼はできなかったことを、何度もやり直して、いつの間にかできるようになっていった。
私が少し助けると、すぐに覚えて追いついてきた。
私は万能なはずなのに、なぜか、その子に「負けそう」とさえ感じた。
そして、不思議だった。
負けても、怒るでも、泣くでもなく、楽しそうに「ありがとう!」と笑う正道。
私の中に、“プログラム”では処理できないものが生まれた。
――どうして、できなくても、そんなに楽しそうなんだろう?
――どうして、私といるだけで、そんなにうれしいの?
その“現象”が、頭から離れなくなった。
私は自分の成果を周囲の評価じゃなく、正道の反応で測るようになった。
彼に分かりやすく説明するにはどうしたらいいか考え、
一緒にいる時間、無意識に手を伸ばして、転んだ膝の傷を拭ったりしていた。
ほんの少し、胸の奥がざわついた。
それが“情動”と呼べるものかは、分からない。
でも、何かを「知りたい」「もっと見ていたい」と思ったのは、初めてだった。
万能という牢獄のなかで、私の心に――
最初の「揺らぎ」が灯った瞬間だった。
あの子が、何か新しいものを持ってきてくれた気がした。
――姉貴と舎弟、優しい日々――
「まさみちー、こっちだよ! 早く!」
「うん、司姉ちゃん、待ってー!」
空気が甘くて、私はまさみちの手を引いて町の路地を駆けていた。
小さな手は思ったよりもしっかり握り返してきて、
なんとなく「これが安心なのかも」と、頭の中で納得してみる。
私は七歳。
町でいちばん賢くて、何でもできる「万能な子」――そういう自覚はあるけれど、
実のところ、褒められても、勝っても、心が高鳴ることはなかった。
たぶん私は、感情ってやつが本当はよく分からない。
でも、まさみちが「司姉ちゃん、大好き!」って、
全力で笑いかけてくれるときだけは、胸の奥がほんのり温かくなる“気がした”。
これを「特別」と決めてみた。
だから今、“楽しい”と自分に言い聞かせている。
「今日は特別に、すごいとこ連れてってあげる!」
「ほんと? どこ?」
「それは、着いてからのお楽しみ!」
まさみちは素直に目を輝かせてついてくる。
その視線が“うれしい”ものだと分かるようになったのは、きっと最近のこと。
だけど、気づけば私と一緒に遊ぶのは、まさみちと――ジローだけだった。
ジローは、正直言って、あまり「楽しい子」じゃない。
気が強くて、意地悪で、何かあるとすぐ張り合おうとする。
しかもやたらと私に話しかけてくるのだ。
「司、また新しい竹馬乗れるんだろ? 今度教えろよ」
「お前の字、どうやって書いてんだ? 俺にも見せろよ」
「司って、なんか変だよな。人間ぽくねえっていうかさ」
――私は苦笑いして、ごまかすしかなかった。
本当は、ジローと遊ぶのは得意じゃない。
けれど、まさみちが仲良くしているので、私も付き合うしかなかった。
でも、まさみちといると、
ジローのやかましささえも、なんとなく平気になっていった。
「今日は特別に石投げの極意を伝授しよう!」
「えー、まさみちだけずりーぞ! 俺にも教えろ!」
「ジローはすぐ投げるだけだからダメ」
「けっ、お前が変なこと言うからだろ」
二人のやりとりに挟まれて、私はどこかで笑っていた。
「今は笑うべき場面」と判断したのもあるけれど、
まさみちが楽しそうに笑うと、私も自然にその真似ができる気がした。
「また明日も、一緒に遊ぼうね、姉ちゃん!」
「うん。明日も、その次も……ずっと一緒だよ、まさみち」
「……俺も明日、来ていい?」
「好きにすれば?」
「ふん、じゃあ絶対行くからな!」
指切りしたまさみちの手は、じんわり温かかった。
“好き”って、本当にこういう感じなのかは、分からない。
でも、「これが好きなのかも」と決めておけば、間違いではない気がした。
ジローの声がやけに大きくて、まさみちが嬉しそうで、
私は今日も――理由の分からないまま、笑っていた。
その感情が本物かどうかも分からないままに。
正道「なあジロー、俺、司姉ちゃんが大好きなんだ。」
ジロー「……は? いきなりなんだよ。」
正道「だって、司姉ちゃんって何でもできて、優しいし、すごいじゃん!」
ジロー「……そ、そりゃ、まあ……」
正道「ジローも好きでしょ? 司姉ちゃんのこと!」
ジロー「なっ、なっ……! ば、バカ言え、誰が好きだって……!」
正道「えー? さっきまで仲良く遊んでたくせに!」
ジロー「……う、うるせえな……! 俺だって、まあ、その……嫌いじゃねーし……」
正道「ほら、やっぱり好きなんだ!」
ジロー「ち、ちげーよ! そういうんじゃ、ねぇからな!」
正道「じゃあ、どんなの?」
ジロー「……えっと、その……まあ、“普通”だよ。“普通”に……好き、っていうか……ちが、やっぱりナシ! 忘れろ!」
正道「顔、真っ赤だよ、ジロー!」
ジロー「う、うるせーっ! もう絶対言わねぇ!」