第零幕 剣は快楽、愛は殺意:後編
――笑顔の仮面――
(司視点)
ねえ、生まれ変わりって、信じる?
わたしには、前世があった。そう確信している。
でも、今この時代に生きている“わたし”は、生まれたときからずっと、不思議で仕方がなかった。
人はどうして、笑うんだろう。
どうして、泣くんだろう。
なんで怒ったり、傷ついたりするんだろう――
わたしには、何も感じられなかった。ただ、すべてが謎だった。
それでも、人はそんなわたしを見て「気味が悪い」と言った。
なら、身に着けるしかない。
どんなとき、人はどう思うものか。
ひとりひとりの仕草や、言葉や、表情を、何度も観察して、真似をした。
それが、わたしにとって“生きていくための手段”になっていた。
前世で気づいたときも、今またこの幕末の世に生まれなおしても、結局それは変わらなかった。
人は不思議だ。
でも、うらやましい。
本当は――みんなと同じになりたかった。
あの、心から笑ったり泣いたりできる人間になりたかった。
ただ、それだけなのに。
◇
目の前にいるのは、樹。
親友であり、剣仲間であり、そして――今や、わたしの前に立ちはだかる敵。
「それなら――あたしは先生を守るだけ。司、あんたでも、斬るしかなくなるよ」
その声は静かだった。少しも揺れていなかった。
まるで冗談を言うみたいな顔のままで、本気の殺意を隠そうともしない。
「なんで斬るの?先生は、あんたのことをあんなに大事にしてたじゃない。あたしが嫉妬してしまうほどに」
樹の言葉は、たしかに、わたしの心の奥まで届いた。
けれど、もう遅い。止まる気なんて、とうに捨てた。
わたしも、笑顔のまま刀を抜く。
笑顔は、たぶんもう癖みたいなものだ。
誰に何を思われようと、どんなときでも、わたしは笑うことにしている。
仮面は、簡単に剥がれるものじゃない。
でも、皮肉なことに。今だけは、ほんの少しだけ。
楽しかった頃の記憶が、鮮やかに蘇っていた。
樹と剣を交えたあの日々。笑い合って、切磋琢磨して、互いを高め合った日々。
本当は、ずっとああしていられたら良かった。
でも、もう戻れない。わたしは、そう選んでしまったから。
「……だからこそ、だよ。樹。わたしは、きっとこのままじゃ進めない」
◇
――私は“人間”でいたかった――
息をしている。血も流れている。体温だって、ある。
だったら、私は人間のはずだよね?
なのに、なんで――
こんなにも、何も感じないの?
誰かが笑っていても、泣いていても。
抱かれても、撫でられても。
胸の中は、ずっと、空っぽのまま。
でも、斬ったときだけは違った。
刃が骨を断つ、あの一瞬。
熱が走る。脳が痺れる。足が浮くような感覚。
「ああ、私はいま、生きてる」って、はっきりわかるの。
斬れば、感じられる。
つまり――斬ってるときだけ、私は“人間”になれる。
◇
「何の理由もなく人を斬るのは……そう、“悪”ってやつじゃないの?」
樹の声が、静かに夜を割った。
笑っている。でも、その目の奥は、剣よりも冷たい。
「ましてや――味方であるはずの筆頭局長を斬ろうなんて」
「人を殺すのが悪? そんなの、知ってるよ」
「でも今、私は浪士組。斬るのが仕事。任務なら、何だって許されるんでしょう?」
樹の手が、柄を握りしめたのがわかった。
「……自分が何を言ってるかわかってる?」
私ははっきり頷いた。
「わたし、斬ってないと、人間じゃなくなるの」
「誰といても、何をしてても、空っぽなの」
「でも斬ったらわかる。生きてるって。ああ、私はここに“いる”って」
言葉が止まらなかった。
溢れるように、零れていく。
「だから、斬るしかないじゃない……!」
◇
怖くなかった。
刀の冷たさも、樹の気配も、心に引っかからない。
ただ――斬りたい。それだけ。
血が欲しいわけじゃない。殺したいわけでもない。
あの瞬間にだけ、私は“感じられる”から。
それだけが、私の“人間らしさ”だった。
でも、本当は気づいてた。
そんなふうに人を斬る私が、人間なわけがない。
ずっと、分かってた。
でも見ないふりをしてた。
「任務だから」「命令だから」「仕方ないから」
……全部、嘘だった。
私が斬ってたのは、私のため。感じたいから。確かめたいから。
「だから私は……人間じゃないんだ」
「私は、そういう“物”なんだよ」
◇
それでも――嫌だった。
「私は、人間だ!」
「ちゃんと心を持って、痛みを知って、誰かを好きになれる、“人間”なんだ!!」
ずっと、そうなりたかった。
斬ることで、生きてるって確かめたかった。
愛せるって、信じたかった。
「だから――芹沢先生は、私が斬る」
私を肯定してくれた。
このおかしな私を、“それでいい”って言ってくれた人を。
私が、ちゃんと斬る。
「そうすれば、私はきっと“人間”だって証明できる!」
だから――
「樹、あなたは邪魔なんだよ」
守る? 違う。
「樹だって自分の居場所を守りたいだけじゃないの?」
「……いくらあんただって、立ちふさがるなら、斬る!!」
◇
血が、沸騰する。
心臓が喉元まで上がってくるのに、息は乱れない。
頭の中は澄み渡り、ただ一つの思いだけが残った。
――殺したい。斬りたい。
視界が、遅れてついてくる。
すべてが止まって見えるのに、私の身体だけが加速していく。
熱も、冷たさも、もうどうでもいい。
私は今、確かに“生きてる”。
◇
「……あなたの目、赤いわ」
樹が笑った。
「まるで鬼、そう――剣の鬼ね」
「人を斬るたびに、あなたは“人”じゃなくなっていく。……それが、あなたの本当の顔?」
「……それでいいよ」
私は瞬きもせずに言った。
「鬼でも、なんでも。今の私には、それしか残ってないから」
吐く息が白い。
こんなにも熱いのに、内側は凍るように冷たい。
「剣の鬼ね……」
樹が呟く。
「私は、先生の剣。
先生の女。
先生が守り、愛し、選んだもの」
「だから――余分なあなたを、斬る」
迷いのない声だった。
なのに、ほんの一瞬、胸が痛んだ。
違う。これはただの、鼓動の音。
血が踊ってるだけ。
この“斬り合い”が、嬉しいだけ。
「来なよ、樹」
私は静かに言った。
「きっと私たちは、ここでしか、通じ合えないから」
その刹那、風が吹いた。
誰の声も届かない、静寂の只中で――何かが、始まった。
何かが閃光のように脳裏に走った。
――わたしの、はじまり。
小さな手、土と泣き声と、笑っているふりをした顔。
あれから、私は何を失って、何を知ったのか。
「……あの頃は、もっと、うまく生きていた。」
前世――その言葉を、今のわたしは時々、心の奥で転がす。
あの世界では、泣きたいときに泣けたし、笑いたいときは、自然に声が出た。
空っぽでも苦にはならなかったし、「どうして?」と悩むこともなかった。
誰かに理解されたいと思うこともなく、誰かを理解しようとも思わなかった。
ただ、与えられた日々の中で、ごく当たり前に息をして、眠り、朝を迎えるだけで、それなりに幸せだった。
でも――
今は違う。
この幕末の世で、剣の才に目覚め、鬼になりながら、
それでも「人間になりたい」ともがいている自分がいる。
苦しい。
苦しいけど、生きている。
苦もなく生きていた頃の自分を、ふと思い出すたび、
「どうして今は、こんなに必死なんだろう」と、不思議にすら思う。
でも――
(それでも、わたしは、この世界で“人間”になりたいんだ)
かつての自分では想像もできなかった渇望と、
今、ここで生きている証の重さを、
夜ごと静かに抱きしめながら――