第十四幕 静かなる生存者
樹「司、なに真面目な顔してノート書きよると?」
司「死亡フラグの確認よ。全員の生存率、今日も99.7%。」
樹「……自分だけ100%なんやろ?」
司「当たり前じゃない。私は死なない、絶対に。」
樹「はは、なんかもう、鬼ばいね……」
司「褒め言葉として受け取っておくわ。」
樹「ほんで、旅立ちの朝やけど、ドキドキしとる?」
司「してない。みんな浮かれすぎよ。春は浮かれウイルスでも撒かれるのかしら。」
樹「あんたも、ちょっとくらい期待したらどうね?」
司「期待はしない。ただ――生きて帰る。それだけ。」
樹「……ま、司らしかね。だけん、ちゃんと帰ってこいよ。」
司「もちろんよ。樹も、変なところで死なないでね。」
樹「お互い様やろが……ま、そげん鬼みたいな顔してるなら大丈夫たい。」
司「鬼もたまには春に浮かれてみたいわね。」
樹「それ、もし司が浮かれたら歴史が変わるかもな。」
司「その時はきっと、未来も、少しは面白くなるかもしれない。」
――文久三年の試衛館――
(司視点)
朝が来れば、私はまた「鬼」と呼ばれる役割を演じなければならない。
試衛館の門をくぐると、道場の空気は緊張で張りつめている。私が竹刀を握るだけで、門下生たちの背筋が伸びる。……本当は、もう少し和やかな稽古でもいいのだけれど。私の立場も、名前も、今はそれを許さない。
「もっと腰を落として。はい、そう。そこ、気を抜かない!」
鬼のようだと評されるのももう慣れたものだ。
竹刀が畳を叩く音、息を呑む気配、少年たちの目に浮かぶ怯えと憧れの混じった光。
私は今日も「正しい指導」を演じている。
それが、皆を守るために必要だと――知っているから。
「塾頭、一本お願いします!」
元気よく名乗り出てきたのは、まだ年端もいかない門下の少年だった。彼の額には汗が滲み、拳はわずかに震えている。
私は竹刀を軽く構えた。
「いい覚悟ね。でも、まだ稽古の半分も終わってないわよ?」
私の声色に彼は一瞬身を竦ませたが、目だけは逸らさなかった。
その純粋さが、ほんの少し眩しい。
「……おい、司。また朝からぶっ飛ばしてるな」
稽古がひと段落したころ、不意に背後から声がかかった。
「え~と? 早いのね、今日は」
ぶっきらぼうな口調の男――名前は忘れた。試衛館の門下生というより、ほとんど居候に近い存在。金も家も人望もたくさん持っているくせに、なぜか道場に居座っている。
「朝稽古ぐらい、ちゃんとやるさ。……塾頭の教えだろ」
口を尖らせて、私を睨む。
「門下生たち、みんな怯えてるぞ」
「怯えるくらいじゃ、これからの時代は生き抜けないわよ」
「……はあ。そういうとこだぞ、お前」
こういう愚痴を聞くのも、ずいぶん慣れてしまった。
彼は、私のことをいつも見ている。どんなに塩対応しても、全然めげない。きっと私が彼の名前を覚えていないことも、薄々気づいているんだろうけど――それでも、食らいついてくる。
「……今日の朝飯、俺の分、残ってるか?」
「味噌汁はあるけど、おかずは残ってるかしらね?」
「ったく……。まあいいや、後で食う」
彼は竹刀を手に、道場の隅で黙々と素振りを始めた。その横顔を、私はふと見つめてしまう。
どうして、こんなに真っ直ぐなんだろう。私は、誰かに真っ直ぐぶつかってこられることに、いつも戸惑ってしまう。
昼過ぎ、近所の道場から、ちょっとした騒動が飛び込んできた。
「塾頭! 近くの道場で乱闘騒ぎだってさ」
「また? 本当にあそこの子たちは……」
私は門下生たちを宥めつつ、騒ぎの現場へと向かった。
現場には、顔に見覚えのない青年が立っていた。年は私と同じか、少し下かもしれない。鋭い目をして、淡々と血のついた木刀を拭っている。
「誰がやった!? おい、お前、名を名乗れ!」
怒号が飛び交う中、その青年は淡々とこう告げた。
「……山口一だ」
静かな声。それだけで、あたりの空気が一変した。
私は、その姿に見覚えがある。……けれど、どこかで見た、という程度だ。
「山口一、ね。随分と落ち着いたものじゃない」
「……そうか?」
山口は私を一瞥するだけで、すぐに視線を逸らした。
まるで、私の存在なんてどうでもいい、というふうに。
だけど、その気配――剣気だけは、確かに「本物」だった。
「あなた、剣を嗜むの?」
「……まあな」
私が笑いかけても、彼は微動だにしない。
無関心というより、他人に興味を持たないのかもしれない。
けれど――その目は、一瞬だけ、近藤勇のほうを見た。
「ここの主は、あんたか?」
「ええ、そうよ。試衛館の塾頭、沖田司」
「……ふうん」
どうにも、取りつく島がない。
私は諦めて、近藤さんのほうに向き直った。
「近藤さん、彼は?」
「おう、山口一くんだ。さっきの騒ぎの仲裁に入ってもらってな。いやあ、強いな、彼は」
近藤さんの口ぶりには、どこか楽しげな響きが混じっている。
私は少し拗ねてしまう。「私も、相手してみたかったわ」
「あはは、司は負けず嫌いだなあ。でも山口くん、強いぞ」
「そうね、きっと、私の剣でも――届かないかもしれない」
冗談めかして言ったけれど、胸の奥がじんと熱くなる。
この男の剣には――本能的に、斬り結びたい衝動を覚えてしまう。
「山口くん、うちで飯でも食べていかないか」
近藤さんがそう誘うと、山口はふっと微笑んだ。
「……お言葉に甘えて、少し世話になるかもしれません」
その一言で、空気が和らぐ。
その日の夜、道場の片隅で、私は一人、竹刀を握っていた。
――私は、何のために生きているのだろう。
未来を知っていても、誰にも教えられない。
誰かを守る力があっても、運命を変えてはいけない。
剣を振るい続けても、何も変わらない。
それでも――
「司、もう稽古終わりか?」
彼の声がした。私は、ゆっくりと竹刀を下ろした。
「今日は、もうおしまいよ。明日も早いから」
「……また、ひとりで考え込んでたんだろ」
「ふふ、そんなに分かりやすいかしら?」
「分かるさ。お前、そういう顔してる時は決まって独り言が多い」
私は苦笑した。
「ありがと。あなたが声かけてくれると、少しだけ、気が楽になるのよ」
彼はそっぽを向いた。
「……別に。暇なだけだ」
剣士としての高揚感――その正体が「生きている実感」だと、今になってようやく気づく。
――親友との時間――
私が唯一、“素”になれる時間は、親友の樹と過ごす夜だけだった。
春の風が少し冷たい夜、私は樹と並んで居酒屋「鴨」の一角に腰かけている。卓には酒と肴、それから互いに持ち寄った菓子。
樹は相変わらず口数が多くて、少し酔えば熊本訛りが強くなる。私はその癖の強い話しぶりが好きだった。
「司、もう一杯いく?」
「うん、そろそろ酔ってきたけど、もう一杯くらいなら」
私は盃を差し出す。樹がそれを満たしてくれる手つきは、どこか男勝りで、それでも妙に器用だった。
「うちの先生、また平山兄ちゃんとケンカしとったけんね。どっちも譲らんから困るとよ」
「仲がいい証拠でしょう? 仲間うちでケンカできるなんて、幸せなことよ」
「ほんとにそう思っとっと?」
樹はにやりと笑う。
「そうね、私はきっと、家族のケンカってやつに憧れてるんだと思う」
樹のいる家は、いわば“寄り合い所帯”だ。芹沢鴨という、まっすぐなようで不器用な親分肌。平間重助も、野口健司も、新見錦も、血の繋がらない家族として樹の傍にいる。
どこか、試衛館とは違う温もりがそこにはあった。
「司もこっちで暮らせばよかたい」
樹がぽつりと言う。
「ありがとう。でも……私は今の場所で、もう少し頑張らなくちゃ」
私は“家族”というものの中に自分の身を置く資格が、まだ無いような気がしていた。
本音を言えば、ただ羨ましかったのかもしれない。
酔いがまわった頃、私たちは小庭に出て、竹刀を持ち合った。
「手合わせ、したかろ?」
「ええ、樹の剣、久しぶりに見せてちょうだい」
夜の空気は澄んで、吐く息が白くなる。
樹は地に根を張るような構え、私は呼吸を整えて間合いを測る。
打ち合えば、すぐにどちらかが勝つわけじゃない。互いの呼吸を読み合い、動きを止める。一太刀の鋭さと、受け流す柔らかさ。
剣が交わるたびに、私は“生きている”実感を得る。
「強いね、やっぱり樹は」
「司の方が一枚上手ばい」
笑い合いながら、私はふと思う。
この人といる時だけ、私は「剣士」でも「塾頭」でもなく、ただの“司”でいられるのかもしれない、と。
翌朝。
私は試衛館の廊下を歩きながら、しばし立ち止まる。障子の向こうからは、賑やかな笑い声と赤ん坊の泣き声が混ざって聞こえてくる。
(ああ、近藤さんはもう“父親”なんだ)
思えば、あれほど道場一筋だった近藤さんが、家族を持ち、以前よりも柔らかな笑顔を見せるようになった。
土方さんは、いつもの調子で樹を口説いては玉砕している。
「おい樹、今日は花でも見に行こうか」「あんた、朝っぱらから気色悪か」
そのやりとりを聞きながら、私は苦笑をこぼす。
左之助は相変わらず、私に「好きだ」と言い続けている。
けれど、その言葉は私に届く前にどこかで滑って落ちてしまう。
(左之助の“好き”は、私にはプログラム外の現象。未だにバグとしか思えない)
平助は、いまや試衛館の食客になっている。
もともと明るくて人懐っこい子で、私のことを「司姉ちゃん」と呼んで慕ってくれる。
「もっと一緒に稽古がしたい」と、無邪気に何度も言ってきた。
私は、そんな平助を「将来有望だ」と思った。
小柄だけど、芯が強く、頭の回転も速い。
剣の腕もなかなかで、何よりまっすぐな目が印象的だった。
だからある日、私は伊東先生に頼んでみた。
「平助をしばらく、こちらで預かれませんか?」
伊東先生は少し驚いた顔をしたものの、すぐに頷いてくれた。
「珍しいね、君が誰かを頼るなんて」
「そうですか?」
「うん、でも……私は嬉しいよ。君が自分から人を引き入れたいと思ってくれたことが」
伊東先生は穏やかにそう言った。
私はその理由を、自分の中で反芻してみる。
なぜ、あの時あんな風に頼んだのか。
平助が死ぬ運命を知っていた。
この道を選ばせることが、彼を「死に近づける」可能性が高いことも理解している。
だけど――
それでも、私は何も感じない。
「平助の笑顔が気に入ったから」だなんて、そんな情緒的なものではない。
彼が有望だから。
それだけのこと。
彼がここで稽古を重ねて、どこまで強くなれるのか見てみたかった。
純粋に、それだけだった。
私には、他人の未来や命の重さに、特別な感情を抱くことができない。
情がないとか、冷たいと言われることもある。
でも自分が「感じない」だけなのだ。
平助がどんな未来を選ぶのも、私がどんな未来を知っているのも――
ただ、目の前にいる相手をどうするか、選ぶだけだ。
食客になった平助は、ますます元気で、稽古のたびに全力でぶつかってくる。
「司姉ちゃん、次は絶対勝つから!」
「はいはい。あと十年早いわよ」
つい冗談で返すと、平助は嬉しそうに笑った。
私の心の中には、特別な波も、痛みも起こらない。
ただ静かに、
(強くなれ、平助)
そう思いながら竹刀を交えている。
伊東先生が、時折うれしそうに二人の様子を眺めている。
「司が人を選ぶなんて珍しい。やっぱり、あの子はすごいな」
先生のそんな独り言も、どこか遠くに聞こえた。
夜、私はみつ姉の部屋を訪れた。
みつ姉は、岡田さん――以蔵さんとの仲が順調だと言っている。
土佐と江戸を何度も行ったり来たりしながら、二人はまるで鴎のように遠距離の恋を続けていた。
「早く結婚したいのになかなかできないの」と、みつ姉は最近よく溜め息をつく。
岡田さんのほうは、「まだやりたいことがあるから、もう少し待ってくれ」と言ったらしい。
みつ姉は「わがままね」と口では言いながらも、岡田さんのやりたいことがどれだけ大切かも理解しているようだった。
最近は特に、岡田さんは京都にいて忙しくしている。
「なかなか会えないの。会えたとしても、すごく疲れてて……この前なんて、ずっと黙り込んだまま落ち込んでいたの」
みつ姉は悲しそうな顔で私に打ち明けてくれる。
私はみつ姉に寄り添いながら、優しくうなずく。
でも、私は知っている。
岡田さんが今どこで何をしているのか――
京都で、「天誅」と称して武市さんの命令で要人暗殺を続けていることを。
みつ姉が不安そうにしているときも、岡田さんはその夜、冷たい刃を手にして暗闇を駆けている。
本当は、それが彼のやりたいことだなんて、私にも信じたくはない。
でも、武士としての彼には、それしか道が残されていないのかもしれない。
「司ちゃん、私、寂しいのよ」
みつ姉は、私の肩に頭を乗せてぽつりと呟く。
「岡田さんのために何かできることはないかしら」
私は一瞬考えたけれど、
「……会えたときに、思い切り笑ってあげたらいいんじゃない?」
そんなふうにしか言えなかった。
みつ姉は「それが一番難しいのよ」と苦笑いして、
それでも「ありがとうね、司ちゃん」と小さな声で言った。
私は、みつ姉の手をそっと握る。
本当はすぐ近くにいるはずの人なのに、
心だけは遠くへ行ってしまうこともある。
みつ姉の恋は、きっとそんな風にして続いていくのだろう。
私は、岡田さんのことも、みつ姉のことも、
どうしたらいいのかわからない。
誰かの気持ちを守ることも、痛みを癒やすことも、
まだ私には難しすぎる。
夜更け、再び居酒屋「鴨」の灯の下に戻ると、樹が先に盃を傾けていた。
「司、おそかね。なんば考えとったと?」
「……少し、色々と。ねえ、樹。あなたは、これからもずっと、みんなと一緒にいられると思う?」
樹は、首を傾げて、茶目っ気たっぷりに笑う。
「そりゃあ、うちの家族は最強ばい。先生も平間兄ちゃんも、野口兄ちゃんも、新見のおっちゃんも、みんなおるけん」
「羨ましいなあ……」
思わず、そんな本音がこぼれる。
「司、寂しかったら、いつでもうちに来んね」
「ふふ、ありがとう。でも、私は――」
私は、“司”としての自分を、誰かに預けることがまだできない。
みんなを見守る立場でいることが、今の私にできる唯一のことだから。
(だけど……こうして、あなたと過ごせる時間だけは、確かに“好き”だと思える)
それが、私の小さな救いだった。
――政治サロンと化した試衛館――
山南さんが「勉強会」と称したこの集いも、もはや試衛館の名物だ。
今夜も火鉢を囲んで、山南さん、清河さん、山岡さん――それから、時折立ち寄る桂さんや坂本さんまでもが輪に加わる。
私は黙ってその場にいることが多いが、皆の議論を聞くのは決して嫌いじゃなかった。
「司君は、どう思います?」
いつものように山南さんが私に水を向ける。
「そうですね……“幕府”というシステムは、このままいけば間違いなく崩壊します。外圧の前に、中央集権化できなかった時点で、構造的に詰みですもの」
「ははは。君はいつも極端だなあ」
清河さんが笑う。けれど、その目は真剣だった。
山岡さんが扇子を手に、「じゃあ、どこがいちばんの問題かね」と問いかけてくる。
「……システム全体が古い。意思決定の遅さと、地方分権の弊害。それに、既得権益層のしがらみ。抜本的に変えない限り、攘夷だろうが開国だろうが、同じことの繰り返しです」
静かに、けれどはっきりとそう言った。
彼らにはたぶん、私の言葉が少しだけ“未来”に聞こえているのだろう。実際、山南さんや清河さんの眉が少しだけ動くのが分かる。
「司君は、女剣士としてだけじゃなくて、学者としてもなかなか手ごわいな」
山南さんが冗談めかして言う。
「そう褒められても困ります。私はただ、現実的なだけですから」
私は、自分の中の“冷たさ”を時々持て余す。
皆の熱っぽい議論を眺めていると、ときどき自分が“外部装置”みたいに思えてしまう。
火鉢の脇で、清河さんが新しい紙束を机に置いた。
ふと、その表紙に目が留まる――
「浪士組建白書」と、墨で太く記されていた。
私は、その時が来たことを静かに確信した。
「清河さん、それ……」
「おっと、気づいたかい、司君」
清河さんが得意げに笑う。
「いよいよ、ご公儀のために“動く”時が来るのさ。江戸で浪士を募り、京の都へ――」
その言葉に、近藤さんと土方さんが目を輝かせているのが分かる。
「ご公儀のため――か」
私は、その響きが嫌いじゃなかった。
皆が一つの夢に向かって、真っ直ぐ突き進む様子は、どこか眩しい。
土方さんが、珍しく私に声をかけてきた。
「司、お前も行くだろう?」
「当然よ。私はどこまでもついていくつもり」
「ふん、頼りにしてるぜ。俺たちは、必ず立派な武士になってみせる」
近藤さんも、静かに頷いた。
「司、俺は――この時をずっと待ってた気がする。誰でも、努力次第で“志”を果たせる世の中。そんな時代をつくるために、剣をとってきたんだ」
その目には、決意と希望と、ほんの少しの不安が混ざっている。
(ああ、やっぱりこの人たちは、未来を信じているんだ)
私は、自然と自分もその流れに組み込まれていると、どこかで当たり前のように思っていた。
夜も更け、皆が帰ったあとの道場は、しんと静まり返る。
私は、一人で机に向かう。
目の前には、清河さんの置き忘れていった「浪士組建白書」。
ぱらぱらとページを捲ると、そこには新しい時代への「熱」が確かに書き込まれている。
けれど、私の心は不思議と静かだった。
どんなに大きなうねりがあっても、私はただ“状況”を観察し、分析しているだけ。
桂さんや龍馬さんとの文通も、日々続いている。
「君の考えは、ときどき突拍子もなさすぎて、面白い」と桂さんに笑われ、
龍馬さんには「司ちゃんみたいな女がいてくれりゃ、日本も安泰じゃ」と冗談めかして褒められた。
でも、私自身には何の野心もない。
皆が熱を帯びて未来を語るそのすぐ隣で、私は一歩引いた場所から全体を見ている。
“渦の中心”にいながら、自分だけが流されていない。
(もしかしたら、私はただの記録装置なのかもしれない)
翌朝の試衛館。
近藤さんは、すでに朝稽古を始めていた。
子どもたちの木刀の音が響く道場を見下ろしながら、私は思う。
(これが「変化」の音――)
皆は、希望に満ちている。
近藤さんも、土方さんも、永倉さんも、左之助も――誰もが「京」という新しい舞台に胸を躍らせている。
その中に、私も混じっている。
――傍観者のようでいて、本当は誰よりも“内側”にいるのかもしれない。
夜、再び山南さんと勉強会の残り物で杯を交わした。
「司君は、不思議な人だね」
「そうですか?」
「……皆が熱に浮かされて、騒いでいる時、君だけは、ずっと冷静でいる。君が“未来”を見ているような気がする」
「そんな大層なものじゃありません。私は、流れを壊さず、ただ見守るのが役割ですから」
山南さんは、ふっと笑う。
「それでも、私は君がいてくれて良かったと思う。君の一言が、みんなの“熱”を、ほんの少し冷ましてくれる気がするんだ」
「……ありがたいです。でも、私自身は、誰かの“熱”に触れるたびに、どこかでバグが起きている気もします」
杯を傾けながら、私は遠くの未来を想像する。
この流れの先に何が待っているのか。
私には、知っていることもあれば、全く見当がつかないこともある。
――傍観者として――
火鉢の残り香が部屋の隅に残っている。
外は、すでに春の兆しを含んだ夜風が、静かに窓を叩いている。
私は、座卓に頬杖をついたまま、行灯の明かりの中で「これから」を考えていた。
みんな、熱い。
近藤さんは夢に目を輝かせ、土方さんは手紙を書き、左之助は妙に浮かれてはしゃぎ、山南さんは議論に明け暮れている。
道場の外では、清河さんや山岡さんが時代の「うねり」を語り合い、坂本さんや桂さんは文に己の志を綴る。
誰もが「未来」を信じている。
誰もが「変革」を望んでいる。
――けれど、私の心は、奇妙なほど静かだった。
彼らの熱に触れても、私の中には何も芽生えない。
あたかも、冷たい水に指先だけを浸しているような――他人の情熱が、どうしても自分には“遠い”ままなのだ。
「死んだら、意味がない」
私にとって、それが唯一の絶対的な価値観だった。
どれほど正義を掲げ、どれほど立派な志を語ったところで――死んでしまえばすべて終わり。
だから私は、誰の運命にも干渉しない。ただ、黙って見守ると決めた。
「人は変えられない。ましてや、歴史なんてものはなおさらだもの」
冷たい自覚。でも、今の私にはそれがいちばん“正しい”。
「司、今度の旅路の準備はできてるか?」
夜遅く、土方さんが廊下から声をかけてきた。
「ええ、必要最低限は。余計なものは全部置いていくつもり」
「らしいな。……みんなお前のことを頼りにしてる。まあ、俺もだが」
「そう? 私は自分のこと以外、あまり得意じゃないのよ」
土方さんは皮肉っぽく笑う。「嘘つけ」
土方さんも、左之助も、みんな私が何を考えているのか、本当のところは分かっていない。
私は彼らの“仲間”でありながら、誰よりも遠く、孤独な場所にいる。
「私は――誰かを救いたいわけじゃない。ただ、自分が生き残ること。それが最優先」
この期に及んでも、私は「死なない」ことだけを目標にしていた。
仲間たちはできれば連れて帰りたい。けれど、それはあくまで「ついで」だ。
「生きて帰らないと、意味がないわ」
夜が明けるころ、私は一人で道場の庭を歩いた。
梅が咲き始め、地面の霜も、もう消えかけている。
春が来る――旅立ちの季節。
みんなは胸を高鳴らせている。けれど、私はその隅で、ひたすら計算を繰り返している。
どこで誰が死ぬか。
誰がどうすれば生き残れるか。
私は、全員分の「生存確率」をひたすら脳内でシミュレートし続けていた。
たとえば、京の町での立ち回り。
どこまで目立っていいのか。誰に、どんな情報を与えていいのか。
隊士の誰をどこで「守る」べきか。
どの瞬間に「手を引く」べきか。
私は、何度も頭の中で「死亡フラグ」のチェックリストを作った。
自分自身の病――肺の鈍い痛みが、時々リアルに襲ってくるように感じる。
予防にも気を付けないと。
(わたしは――死なない)
それが、すべての命題。
あらゆる人間関係も、戦いも、すべて「生存」のためのタスクでしかなかった。
(みんな、無事に帰って来られれば……それはそれで、いい“ご褒美”だとは思う)
日差しの下、近藤さんは道場で子どもと笑い、土方さんは書状を書き、左之助は槍を振るいながら空回りしている。
樹は遠くで、家族たちと笑っている。
私は、静かに彼らの姿を見つめる。
この人たちが、どんなに“今”を楽しんでいようと――私はその向こうにある結末まで知っている。
でも、教えない。
どんなに大切でも、誰かの運命を変える権利なんて、私にはない。
私は「傍観者」として、この歴史の舞台を歩く。
けれど、決して流されない。
どれほど大きな渦に巻き込まれても――
私は、「生きて帰る」。
何としてでも。
夜の帳が下り、道場に再び静けさが戻る。
私は書きかけの手紙を前に、筆を止めた。
(この気持ちを、誰かに伝えることはできない)
窓の外には、梅の香がほのかに漂っている。
「春だな」と、誰かが呟いた声が、遠くで聞こえた気がした。
私は、机の上に積み上げた「生存戦略ノート」をそっと閉じる。
明日からは、また“鬼”の顔で道場に立つ。
でも、その奥底には、どこまでも静かな「欲望」が燃えている。
(わたしは、死なない。生きて、未来を――)
その決意だけが、私をこの季節の渦の中に立たせてくれる。
定次郎「……なあ、土方さん。」
土方「ん、なんだ。花見の誘いなら断るぞ。忙しいんだ。」
定次郎「いや、違いますよ。……司さん、やっぱり格好いいですよね。」
土方「ああ? お前もまだそんなこと言ってんのか。」
定次郎「だって、あの人のこと思うだけで、夜も眠れないくらいで。」
土方「……はは、好きにすりゃいいさ。俺は樹のほうが気になるがな。」
定次郎「樹さん? ……ああ、まあ、わかる気もしますよ。けど俺は司さん一択です。」
土方「勝手にしろ。……お互い、報われねぇもんだな。」
定次郎「あきらめたら終わりですよ。いつか、振り向いてもらいますから。」
土方「俺だってな、諦める気はねえ。ただ、アイツは俺のことを“隊の女房”ぐらいにしか思ってねぇみたいだが。」
定次郎「司さんだって、俺の名前すら覚えてない時期が長かったですよ……」
土方「どっちが先に落とせるか、勝負だな。」
定次郎「……負けませんよ。」
土方「ま、互いに頑張ろうや。――ったく、苦労するな、お前も。」
定次郎「お互い様ですよ、土方さん。」