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断章:桜田門外の変

――雪夜の来訪者――


(芹沢視点)


 雪が降る朝だった。

 江戸の町はしんと静まり返り、軒先に積もる白が、去年よりもずっと分厚い。俺はいつものように、朝の仕込みに手を動かしていた。味噌の香りと、だしの湯気。それだけが、居酒屋「鴨」に流れる静けさを、少しだけあたためている。


 「先生、味噌もう少し足したほうがいいか?」

 振り返ると平山が土鍋をのぞきこんでいる。

 あいつの手は大きくて、どこか不器用だがうまいこと俺の味に近づけようと必死だ。

 「平山、お前は味見が雑だ」

 「はいはい、先生の舌は繊細だからな」

 

 憎まれ口を叩きながらも、こいつはちゃんと“ここ”に根付いてくれた。俺と一緒に、江戸の外れのこの店で、穏やかな日々を過ごしている。野口は帳場で、ぼそぼそと小言を言いながら仕込みを手伝っている。新見はいつものように、「嗣」と俺を呼んで、朝から一升瓶を抱えている。

 

 「もう少し静かにできねえのか、嗣」

 「朝から飲むやつに言われたかねえな」

 「酒がなきゃ、嗣のお守りなんざやってられねえよ」

 新見の言葉は、悪態と優しさが同居している。こんなふうにからかわれるのも、ここ数年で馴れたことだ。


 樹は今、いない。

 正確には司のところに泊まりに行っているだけだ。

妙に気になるのは、きっと俺が歳を取った証拠だろう。あいつは俺にとって、娘であり、女だった。血は繋がらなくても、俺の手で育ててきた。けれど夜が深くなれば、娘を抱くように、女を抱いた。

 ……それでも、あいつが「先生」と俺を呼ぶたび、俺は父親でいられる気がする。


 そんな日々が、もう少し続けばいい――そう、願っていた。



 昼が近づいたころ、店の扉が小さく叩かれた。

 「開いてるぞ」と声をかけると、見慣れない影がひとつ、雪の中から現れた。裃を着込んだ、どこか懐かしい面構え。金子孫二郎――水戸時代の同志だ。

 「久しいな、芹沢……いや、下村嗣次どの」

 「金子。ずいぶん遠くから、わざわざ何の用だ」

 言葉は静かだったが、その目には妙な熱が宿っていた。俺の中の“何か”が、古傷を疼かせる。


 新見がすっと立ち上がる。「……嗣、裏で話せ。客は野口が見る」

 俺は金子を連れて、奥の座敷へと向かった。



 「下村、お前に頼みたいことがある」

 いきなり核心に入るのが、金子の癖だ。

 「……井伊大老を討つ。義挙だ」

 静かに、しかし確かに、あの日の匂いが戻ってきた。水戸で血を流し、尊王攘夷に燃えた若い俺の記憶が、雪の匂いとともに蘇る。

 「時代を、変える。俺たちの志を、もう一度――」

 金子は俺の手を取ろうとするが、俺はわずかにその手を避けた。

 「……俺には、もう守るべきものがある」

 そう口にすると、思った以上に胸が痛んだ。


 「守るべきもの? それは“あの娘”か?」

 「娘だ。俺の、家族みたいなもんだ」

 「家族……お前がそんな言葉を口にする日が来るとはな」

 金子の顔には、少し哀れみと、少し侮蔑の入り混じった笑みが浮かんだ。

 「下村、お前は俺たちの仲間だったろう」

 「過去の話だ。今の俺は、もう剣を振るうだけの器じゃねえ」

 「そうやって、江戸の隅で細々と酒を売るのが、お前の“義”か?」

 金子の声は、雪よりも冷たかった。


 しばし沈黙が降りた。

 俺の頭の中で、昔の記憶がぐるぐると回る。仲間を、夢を、捨ててきたつもりだった。でも、目の前の金子が“あの時代”を再び呼び覚ましてくる。



 金子が帰ったあと、新見が座敷に入ってきた。あいつは、何も言わずに俺の隣に腰を下ろす。

 「……どうするつもりだ、嗣」

 「わからねえ。けど、俺が行けば、樹まで巻き込むことになる」

 新見はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で呟いた。

 「嗣、お前はもう一人じゃねえ」

 「ああ、知ってるさ」

 「家族を捨てるような真似、俺は許さねえぞ」

 「お前は、俺の母親か何かかよ」

 「バカ言え。俺は、お前の唯一の“友達”だ」

 新見はふっと笑った。俺もつられて、肩を震わせた。


 「……先生、金子って奴、何しに来たんです?」

 野口が、気配を殺して廊下に立っていた。平山も厨房から顔を出してくる。

 「大したことはねえよ。ただの昔話だ」

 「先生、俺らを置いてどこにも行くなよ」

 「そうだぞ、先生」

 こいつらは、俺を“先生”と呼び続ける。それが照れ臭くもあり、どこか救いにもなる。


 外は、ますます雪が強くなってきた。

 白い闇の向こうに、まだ見えない明日がある。その明日を、俺は誰と迎えるべきか。

 かつての「義」か、今の「義」か――。



――迷いと、一条の光――



 雪がまだ路地に残るころ、暖簾を上げて間もない「鴨」に、近藤勇が現れた。

 新婚のせいか、以前よりどこか眩しさが増している。道場着の胸元を堂々と開け、白い息を吐きながら、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。


 「芹沢先生、ご無沙汰しております」

 「近藤君、こんな朝っぱらからどうした。珍しく浮かれてるじゃねえか」

 「いや、今日は……どうしても先生の顔を見たくて」

 冗談めかして言うが、勇の眼差しは一分の曇りもない。


 新見や平山たちが気を利かせて席を外し、俺はカウンター越しに酒を注いだ。

 「何か悩んでるみたいですね」

 勇が、こちらを覗き込む。

 「俺はな、近藤君。ずっと剣しか信じてこなかった。世のため、人のためって抜かして血を流して……それで何も変わらなかった気がする」

 そう吐き出すと、思いがけず楽になった。


 近藤君は一度だけうなずくと、まっすぐ言った。

 「自分にできることをやればいいんです。俺は、目の前の人を守ることしかできない。でも、それでいいと思っています」


 その言葉に、胸がじんわり熱くなる。

 この男は、過去の俺が絶対に持てなかったもの――「光」だ。まぶしすぎて、思わず目を逸らしたくなるほどの、真っ直ぐな道。

 俺はもう、その道には戻れねえ。勇さんのような奴が表に立ち、俺のような古い人間は脇に退くときが来たのだろう。



 仲間たちと囲む晩飯は、いつもより静かだった。

 新見がぽつりと言う。「嗣、お前はどうしたいんだ?」

 「俺には……血を流すことしか出来ねえのかもしれねえ。いや、そう思い込んでるだけかもしれねえが」

 平山が俯いたまま、飯をかきこむ。

 野口も、黙って湯気を見つめている。

 誰も言葉にしない。だが、その沈黙の奥に、俺を信じてくれているのが伝わってくる。あいつらは、俺が何を選んでも――ついてきてくれる家族だ。


 そして樹の顔が脳裏に浮かぶ。

 あいつの寝顔、ふてぶてしいくせに、たまに子どもみたいに甘える声。

 「俺はもう、あいつを二度と泣かせたくねぇんだ」

 その一言だけが、本音だった。



 夜、金子が再び店にやってきた。

 俺は静かに、こう告げる。

 「悪いが、俺は義挙には加われねえ。だが――最後の義理だ、場所は貸す。好きに使え」

 金子は何も言わず、深く頭を下げた。

 それだけで充分だった。

 俺は、もう過去の志士じゃない。今ここにある家族と、守るべきもののために――この店で生きていくと決めた。





――決行の朝と、孤独な雄叫び――



 三月三日、決行の朝。

 薄明かりの店の裏口から、水戸の連中がぞろぞろと出ていくのを、俺は黙って見送った。

 金子、武田、安島……皆、昔の顔ばかりだ。雪は夜半にまた積もり、あたり一面が白く染まっている。


 「嗣、やっぱり行かねえのか」

 新見がぽつりと言う。

 「当たり前だ。樹を巻き込むわけにはいかねえ」

 言いながら、喉の奥が焼けるように苦しい。

 見送りながら、俺はただ、誰にも聞こえないように祈った。

 ――どうか、無事で帰ってこい、と。




 昼過ぎ、桜田門外の大老暗殺は江戸中に広がった。

 店は大騒ぎだった。

 客は興奮し、不安を隠すために酒を煽り、誰もが「歴史が動いた」と叫ぶ。


 俺はただ、黙々と酒を注ぎ続けた。

 肌で、歴史が鳴動する音を感じていた。

 何十年と信じてきた「義」の名のもと、血を流すしかなかった俺。

 それでも、今は、こうしてここで酒を注ぎ、客の笑い声を聞いている。


 けれど、心のどこかで――何かが足りなかった。




 気がつくと、俺の足は、無意識に桜田門へ向かっていた。


 雪はすでに、赤く染まっていた。

 浪士たちの亡骸、うち捨てられた刀、血に濡れた衣……

 群衆の向こう、近藤と山南の姿が見えた。あいつらは俺を見て、小さく頭を下げた。


 俺は、心臓が潰れそうなほど悔しかった。

 何もできず、ここまで来て――ただ立ち尽くすしかなかった。


 だが、俺の魂はまだ――消えちゃいなかった。


 役人たちの前で、俺は腹の底から叫んだ。


 「尽忠報国の士、天晴れ!!」


 誰もが振り返る。

 浪士たちの死が、歴史の礎になるなら――

 せめて、ここに俺の声だけでも刻んでおきたかった。


 それが、戦えなかった男の、俺なりの義だった。



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